第8話
桜花の里はアストリア大陸の西方に位置する小さな集落であり、かつて周辺で頻発していた戦の炎から運良く逃れ、未だ独自の文化や風習を守り続けている、大陸においては希有な地だ。
住人の気風は大人しく、里の景観もそれに見合った穏やかなものである――とは言われているものの、青空の下、今その地はいつにない騒々しさに包まれていた。
「……ってわけで、壊れたところは大体直したから、あとは東の塚をどうするかだね。ま、今は封鎖してあるし、うちの連中を見張りに立たせてるから心配ないよ。これからどうするか、ゆっくり考えて決めたらいいさ」
和室に響いた明るい声に、向かい合って座る白馬は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「本当にありがとうございます、シキ様。何とお礼を言ったらいいか……」
「気にしない気にしない。ご近所のよしみだよ」
からからと笑う老女は、山を一つ越えた先にある祈紋の村の長だった。半月ほど前に起きた蜘蛛騒ぎを聞きつけて、桜花まで様子を見にやってきたのだ。
一連の騒動の後、桜花の里が大きな混乱に包まれることなく今に至っているのは、シキが自分の村の人員を割いて諸々の後始末や対応に奔走した影響が大きかった。
白馬は、なおも恐縮して頭を下げた。
「シキ様がいらっしゃらなかったら、私も今ここでこうしていることなど出来ませんでした。気にするなという方が無理でございます」
「ああ、里の連中のことかい? やつらもやつらで混乱してるんだよ。あんたが悪いわけじゃないってそのうち分かるだろうからさ、辛いだろうけど今は言わせておきな」
それより、とシキは付け足した。
「……すまなかったね」
「え……?」
「こんなに近くにいながら今まで何もしてやれなくてさ。……実は、あんたのとこの先代から何度か杏里の話は聞いてたんだ。だけど、その時はこっちもこっちで面倒事が起きててね……。結局、こんな騒ぎになるまで何の力にもなってやれなかった。亡くなった先代にも申し訳ないよ」
「いえ、そんな……」
言葉を詰まらせた白馬に膝を寄せ、シキは若い里長の両手を励ますように握り締めた。
「これからは祈紋の村とその長があんたの味方になるよ。なに、私も古い風習には懐疑的でね。あんたがこの地を変えたいのなら手伝うし、ここまで一人で頑張ってきたあんたを勝手に引き摺り下ろさせるつもりもないよ。だから、安心なさい」
「……っ、はい……」
泣き出す白馬の肩を撫でながら、シキが部屋の片隅を横目で見遣った。
「さて、そんなわけだから、ここも当分騒がしくなる予定だよ。うちの連中も我が強いからねえ。余所の騎士様を引き入れるのはおすすめしないけど、どうなんだい? アルス様」
水を向けられたアルスは目を伏せた。
どの道、界隈では有名な祈紋の主が現れた時点で、交渉の勝算はドブに沈んだも同じだ。これだから早々に桜花を掌握しておきたかったのだ、と悔やんだところで後の祭りだし、そもそもアルス自身、この地に対して悔やむほどの執着心を持ち合わせてもいなかった。
だから、答える。
「この件は一旦持ち帰るよう言われた。もうどうでもいい」
どうでもいい。
それは、何よりの本心だった。
アルス個人の目的は、もっと別の場所にあるのだから。
***
柔らかな日差しの中、縁側に座るククの鼻先を薄桃色の花弁がはらはらと掠めていく。
それは桜、と呼ぶ春の花だと、数日前に白馬から教わった。淡い色彩が雨のように降る様はとても綺麗だったが、こうも潔く散っていってしまうのは、少し寂しいような気もした。
「クク様」
呼ぶ声に座ったまま振り返ると、廊下の奥から白馬がこちらへ歩いてくるのが見えた。腫れた赤い目をしているが、表情はすっきりしていて、陰りがない。
「みんなの話し合い、終わった?」
「ええ」
邪魔だから半日くらい適当にしといて。そんなあんまりな言葉でアルスに客間から追い出されたのが数時間前。少し心配していたものの、白馬の顔を見れば全くの杞憂だったようだ。
シキの優しいまなざしを思い出し、ククはほっとした。
「ずっと思っていたのです」
白馬はククの隣に立って、明るい春空を見上げた。
「この里は、長く内に籠もりすぎたと。古い慣習に捕らわれ、身内の中に敵を作り、疎外して……後ろ暗い思いで繋がり合っていると」
「……うん」
「誰かが犠牲になることを仕方のないことだと思っていた、その歴史と考え方を、私は変えたいのです。誰に何を言われても、間違っていることは間違っていると訴えたい。そうでなければ、きっとまたあの蜘蛛のような生き物が生まれてしまうから」
あの巨大な蜘蛛は、杏里の「決意」を受けて絶命した。
死骸は砂になって消えていったが、そもそもあれは魔獣の類ではなく、この里に蓄積した呪いが顕現したようなものだ、とアルスは言った。かつて理不尽な風習によって殺され、置き去りにされてきた数多の命たち。その無念や憎しみが塚を荒らされたことで噴き出し、杏里という同胞に引き寄せられて力と実体を得たのだろうと。
だからこそ蜘蛛は杏里のすべてを欲しがり、彼女がそれを拒んだ結果、存在を保てなくなったのだ――とも説明されたが、正直ククは、一連の事情の半分も自分が理解できている気がしなかった。
「……ところで、クク様」
「なあに?」
白馬は、案じるような表情を浮かべていた。
「アルス様は、もう行かれると仰っていましたけど……」
「へっ?」
「お聞きになっていませんか?」
勿論、全然聞いてない。
「大変、追いかけなきゃ!」
ククは慌てて立ち上がってから、ふと思い出して振り返った。
「あの、白馬さん。本当にいいの?」
白馬は躊躇を見せずに頷いた。
「ええ、話し合って決めたことですから。クク様もいつかまた……今度は、遊びに来てくださいませ」
これから変わっていく、この地に。
そう結んだ白馬に大きく頷いて、ククは駆け出した。
「アッ君、ひどいよ!」
里の出入口に繋がる大通り。その半ばで追いついた細い背に、ククは早速訴えた。放置に次ぐ放置、そして置き去りなんてあんまりだ。
だが、相手は涼しい顔で黙っている。食い下がっても相手にされないのは、もはや分かりきっていた。
「もー」
色々言いたいことはあったが、仕方なく、ククも並んで歩き出した。
大通りを抜け、里と外界の境界へ辿り着く。と、街道に立つ木の影から桃色の髪が覗いているのが見えた。
ククは走って、彼女の前に飛び出した。
「やっぱり、先にここにいたんだね」
「……なによ、悪い?」
拗ねたような口調に「全然」と笑ったものの、ククには少し不安があった。
「杏里ちゃん、具合は大丈夫? 無理してない?」
彼女の右の瞳は今、大きな眼帯に痛々しく覆われていた。
それは、あの蜘蛛から――いや、この里から解き放たれるために、彼女が払った代償だった。
「大丈夫。もう熱も引いたし、元気元気」
「……杏里ちゃん、ほんとに無茶するんだもん」
「だって、あの時はこうするしか思いつかなかったのよ。他に何か方法はあったかもしれない。だけど、あたしに出来たのはこの選択だけだった。そのことに後悔はないわ」
「杏里ちゃん……」
「これで良かったのよ」
そっと眼帯に手を触れて、杏里が呟く。
その体のどこにも、もう糸は繋がっていなかった。
「だけど、本当にいいの? わたしたちと一緒に来て」
ククは、白馬にもした質問を杏里に向ける。
「いいの」
杏里は頷いた。
「母様のことは心配だけど、あたしがこのままこの地にいても手伝えることはないだろうし……。シキ様も、まあ、悪い人間ではなさそうだから」
そう言ってから、杏里はちらっと不安そうな顔になった。それを誤魔化すように軽く咳をして、続ける。
「とにかく、あたしはあんたについていくって決めたの。……大体、あたしを外に連れてくって言い出したのは、あんたの方なんだからね。今更文句は受け付けないわよ」
「文句なんてないよ」
ククは笑った。
「一緒に行こう、杏里ちゃん」
風が舞う度、ククの頭に、肩に、薄桃色の花びらが降る。少し高いところにある杏里の頬が、それよりももっと鮮やかな色に染まった。葡萄茶色の左目が、星を散らしたように輝き始める。
どちらからともなく差し出す手を取り合って、二人の少女は歩き出した。




