第74話
そろそろ終わりが近付いているようだ。
この世界に対してそう感じているわけじゃない。俺が感じているのは、俺自身の終わりだ。
自分が壊れていることを自覚したのはいつからだったろう。とにかく最近では頭から零れる欠片の方が多すぎて、記憶を保持するための記録にもいい加減疲れてきた。
なので、そろそろこの文章も終わろうか。
最後に、もしこれを読む人間がいるのなら一つ忠告しよう。
そもそも何故、あの研究所は神を作ろうとしたんだろうか。
そう考えたことはあるだろうか?
あの研究所だけじゃない。どうやら長い歴史の中で同じようなことが場所や人を変えて繰り返されている。それが、何故か。誰が何のためにこの世界に神を作ろうとしているのか。
俺は思うんだ。
それは神本人の意志なんじゃないかって。
もしそうだとすれば、こんなに馬鹿げたこともない。
仮に俺が死んだところで、この神の悪意、呪いはいくらでも繰り返すだけだろう。また同じような人間が未来にいくらでも出てきて、同じようなことを繰り返すに違いない。
自分こそが呪いの終焉だと願いながら、幾度も。
やっぱりこの文章を残しておくのはやめにしよう。
多分、こんなものを残したところで、もう誰も俺を理解出来ないと思うから。
でも、別に構わない。
この世界に、本当のことなど一つもないのだから。
***
狼のように巨大な野犬がこちらに駆けてくる。きっと、ここは彼の縄張りだったんだろう。頭でそう理解しつつ、逃げようという気持ちは起こらなかった。ひどく疲れていたし、すべてがどうでもよかったから。
だから体から力を抜いて「その時」を待ったが、しかし突然目の前で野犬の足がぴたりと止まった。
そのまま、踵を返して去っていく。
一体どういうことだろうと思っていると、背後からぬっと黒い影が差した。
「自殺志願者だったらすまんな。好機を無駄にしてしまったか」
男だ。顔に傷跡がたくさん付いているが、金色の目がきらきらしている。頑丈そうな体格で、肩に白銀の剣を担いでいた。
「どうも俺は獣に怯えられるのだ。おかげで狩りもままならん。まあ、俺とて流石に野犬は食わんが」
目の前に立ち、聞いてもいないことを話し始める男を、少女はぼうっと見つめていた。
「それにしても、こんなところで何をしている? 随分薄汚い格好だが、逃げ出した罪人か?」
突然回答を求められたが、答えられることは多くなかった。
「思い出せないんです。何も」
語れるのは、それだけだったから。
「ふむ、記憶喪失というやつか?」
多分、と頷く。
気付いたら森の中に転がっていて、行くところがないから彷徨い続けていた。それも昨日今日始まった話ではないが、時間感覚があまりないので自分が一体いつからここにいるのかももうよく分からない。
「しかし、記憶がなくてもとりあえず人里を目指せばいいだろうに」
心底分からない、という顔で男が言う。
そうしよう、という気持ちがなかったわけではないが、少女には人目を避ける理由があった。
「痣が、あるんです」
「痣?」
「はい、全身に」
初めて気付いたのは川で水浴びをしようとした時だ。
水面に映っていたのは自分の体と、その肌を覆う不気味な黒い痣だった。
森で意識を取り戻してから人間と会ったことはないが、普通の人にそんなものなどないことは知識として知っていた。
だから、誰にも会わない。会ってはいけない。そう思って、この森で過ごしていたのだ。
「その痣とやらを見せてみろ」
興味本位というやつだろうか。少女は服の袖口をめくり上げた。手首から肩にかけて、複雑で不穏な痣が顔を覗かせる。
「ああ、本当だな。……で、だからどうしたと言うんだ?」
「え?」
自分で頼んだくせに、なんだその反応は。
少女が思わず顔を上げると、
「ほら、俺はこの顔だ。それに脱いだらもっと凄いぞ。この脇腹の辺りから左胸にまで傷が入っていてな、おかげでち……いや、若い女にする話でもないか」
また、わけの分からないことを言い出した。
「あの……」
「まあ、死にたいなら勝手にしろ。俺に止める権限はない」
今度は突き放すようにそんなことを言う。
混乱しながら、少女は地面を見下ろした。
「……分からないんです」
そう、私は何も分からない。でも。
「分からないんですけど、死んではいけない気もして……」
何故そう思うのかは分からない。
でも、死んでもいいと思う度、奇妙な罪悪感が胸に宿るのだ。このまま死んだら、私は何かとてつもない罪を精算せずに逃げることになるのではないか、と。
「ならお前は死ぬべきではないんだろうな」
再び男の声が降ってきた。
風に煽られて、男の羽織る長い外套がバタバタと音を立てている。外側は黒いのに内側が妙に明るいオレンジの外套で、なんとなく奇妙な翼のようだった。
立て、と言われたので、少女は逆らわず立ち上がった。
「その辺まで送ってやろう。それで後は好きにするがいい」
男は歩き出す。遠ざかる背中を眺めていると、来い、と呼ばれたので、ついていくことにした。
「ちなみに俺も記憶をなくした経験があるが、いざ思い出すとそこそこ爽快感があるぞ。おすすめだ」
また何か喋っている。それにしても随分声のでかい男だ。
「……訊いても、いいですか?」
ひどく久しぶりに、少女は他人に問いかけた。
「ああ、訊け。答えない可能性もあるが」
「あなたの名前は?」
男は金色の双眸を細めて、妙に得意げな顔をした。
「俺の名はクレスト。高貴な者に見えるだろうが、普通の男だ」
***
「結局普通じゃなくなっちゃったな、あたしの人生」
瓦礫に座り込んで愚痴を零すと、隣から「まだそんなこと言ってんの?」と呆れた声が返ってきた。
「そりゃそうよ」
エリダは顔を上げ、傍らに立つエリオットに下唇を突き出した。
「だってお城のエリートから大転落じゃん。あたしもあんたも」
目の前には崩れた魔術師塔の残骸が転がっている。城や他のいくつかの塔は比較的修繕が進んでいるが、この辺りは被害が激しいのと、王の居城や王都に比べて優先度があまり高くないせいでまだまだ復旧にはほど遠かった。
げんなりしていると、エリオットも隣に腰を下ろした。
どうやら、一緒にサボってくれるらしい。
「エリートはエリートだよ。ただ、職場環境が悪化しただけだ」
「ついでに住環境もね」
「そもそも普通の人生を歩みたいんなら、城勤めするのがおかしくない? 結局あんたは普通になりたいのか出世したいのかよく分かんないんだけど」
年下のくせに容赦がないことだ。腹立たしいが、今はその天使のように整った顔と喧嘩する気力はなかった。
それもそうだねと適当に返したが、エリオットはまだ不満げな顔をしている。
「で、あんたは後悔してるの? ここでのこと」
ああ、引っかかったのはそこなんだ。
「そんなことあるわけないし。そりゃあ今は面倒だけどさ、これまで色々楽しかったのは確かだよ」
「……この惨状を前にして、よくそんなことが言えるね」
エリオットの顔が暗くなる。
生意気だけど、やっぱり年下だ。
エリダは軽く苦笑した。
「だって、楽しい思い出は楽しい思い出じゃん? つらかったことで上書きしたりすんのとか冗談じゃなくない? それとも何? あんたは楽しくなかったの?」
「少なくとも今は全然楽しくないよ」
エリオットは眉を吊り上げた。
「どいつもこいつもホイホイ死んでってさ。結局こうなって苦労するのは僕たち若者じゃないか」
「うん、それは同意」
「……僕ら、これからちゃんとやってけるのかな」
「さあね。でも、一応やるしかないっしょ」
だって、生き残ってしまったのだから。
と、瓦礫の山の向こうに燃えるような赤色が見えた。この辺りでその色を持つ存在はそう多くない。
「おーい、陛下!」
「あ、バカエリ!」
こちらに気付いた王様が大きく手を振り、歩いてくる。今日もお供一人付けていない、と思ったら、随分後ろの方で五勇のザングがこそこそしていた。きっと心配して後をついてきたのだろう。
エリダが立ち上がると、エリオットも後に続いた。
何やら複雑そうな顔で振り返ってくる。
「やっぱ僕らに穏やかな人生は無理だよ、エリ」
「それもそうかもね」
普通じゃないこの景色と、普通なようで普通でない王様を前にしたら、エリオットの言うことはもっともだ。
残念だけど、仕方ない。
失った景色を取り戻すため、再び働くことにした。
***
目を閉じて、深く、静かに集中する。
体の奥が温かくなったのを確かめてから瞼を開くと、胸の前で握っていた両手が淡く輝いているのが見えた。
そのままそっと指を解き、目の前で瞠目する女性の腕に、桃は自らの両手を差し伸べた。
掌から溢れた光が女性の腕に零れると、その肌に深々と刻まれた赤黒い傷口が見る見る内に消えていく。
治療はすぐに終わったが、女性はまだ呆然と椅子に座ったままだった。光の失せた桃の手を、じっと見つめて固まっている。
怖がらせてしまったのだろうか。
不安に思い、口を開きかけようとした桃の手を、突然女性の両手が握りしめた。
「あなたは、聖女様ですか……?」
「いえ、わたしは人間です」
びっくりして思わず曖昧なことを言ってしまった。
だから、すぐに付け足す。
「その、半分は獣人なんですけど……」
「ありがとう……!」
涙交じりの声で告げられて、桃はそっと目を伏せた。
「いえ……」
償いをしたいだけだ、とは言えなかった。
いつも通り午後の患者の出入りが落ち着いた頃を見計らって、桃は診療所の奥にある一室へ向かった。
扉を開くと、これもまたいつも通り、ベッドの上で眠る母の姿が視界に入る。窓からの日差しで、綺麗な桃色の髪がきらきらしていた。
「……お母さん」
桃が傍らに立っても目覚める様子はない。本当にただ眠っているだけのように見えるけれど、その心はきっとまだ遠く、深い場所にあるのだろう。
桃は母の体に触れ、目を閉じた。
自らの内側に灯った温かい力が、母へ流れ込むのを感じる。だが、それでもその目は開かない。まだ、桃の力は届かない。
何度も試してみた後で、桃はそっと手を離した。
これもまた、いつも通り。苦しかったがこれで諦めるつもりはなかった。
「桃様、大丈夫ですか?」
桃が顔を上げるのを待っていたかのように、戸口から声がかかった。白い髪を高く結わいたミナベルが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「はい、大丈夫です」
それならよかったです、とミナベルは微笑んだ。
優しい笑顔に、桃も急にほっとする。
「それにしても、先ほど腕を治癒された方、本当に嬉しそうでしたね。また、お母様へお聞かせする武勇伝が増えましたわ」
「武勇伝?」
「かっこいい話、ということです」
褒められるのは苦手だけど、そういう言い方をされるとちょっと嬉しいような気もする。
でも、あまり喜んではいられなかった。
「わたしはわたしに出来ることをしたいので」
「頑張りすぎなくてもいいと思いますよ」
ミナベルは優しいからそう言ってくれる。だけど、桃は頑張らなくてはいけなかった。
(だって、わたしのせいで……)
唇を噛みしめる。大切な人たちを思い出しても、もう泣くことはしなかった。
わたしは、強くならなくてはいけないから。
「桃様!」
急に大声で呼びかけられて、心臓が止まりそうになった。
顔を上げると、ミナベルの明るい顔が待っていた。
「もう少しここが落ち着いたら、わたくしと一緒に王都の外に出てみませんか?」
「でも、お母さんが……」
「もちろん、遠くにはお連れいたしません。ですが、クク様捜しをお手伝いしていただきたくて」
桃は瞬いた。
ミナベルはどこか寂しそうに笑っている。
お母さんから離れるのは不安だった。……でも、あの人を探し出せば、ミナベルも、そしてお母さんもきっと喜んでくれるだろう。
「はい、手伝います」
「ああ、よかった」
ミナベルは嬉しそうに微笑んで、桃に手を差し伸べた。
「ということで、とりあえず晩ご飯にいたしましょう。今日はいただいたお肉があるので豪勢ですよ」
手を引かれ、桃は歩き出す。
部屋を出る前、背後をそっと振り返ったが、やはりお母さんは眠ったままだった。
でも、この手が届く日はきっと来るはずだ。
いつも通り、ゆっくりと扉を閉ざした。




