第72話
ディオンの体は光の中にあった。
長い時を経て取り戻した肉体に不思議と違和感はなかった。翼の動かし方も、人間の肉体よりずっと大きな躯を操る術も、もうとっくに忘れたものだと思ったのに。
体を包む光が薄れると、眼下の景色が顕わになった。ところどころ裸になった山肌が果てしなく隆起しているように見えるが、目をこらせば小さな小川や身を寄せ合うような木立が確認出来る。ヒトの手がほとんど入っていない荒々しい大地はひりつくように寂しく見えた。
羽ばたくと、体の下で景色が流れていく。
次々目の前には迫る薄い雲は、しかし視界を阻むことはない。一瞬感じる冷たさもすぐに乾いて消えていく。
心地よかった。耳元でごうごう唸る風の音も、翼に感じる抵抗も、こうして自由に飛ぶことも。そのすべてが。
戯れに高度を下げながら飛んでいくと、その内下界に巨大な亀裂が現れた。渓谷だ。
ディオンはその地を知っていた。かつて病魔の風が吹き、無数の同胞が死んだ土地。ディオンの故郷だった場所。
だが、今のディオンにはもう関係がないものだ。
失ったものを悼むために必要な思い出たちなど、もうとっくに薄れて見えなくなってしまった。
今はただ、この心地よさに体を任せて、どこまでも遠くへ羽ばたいていきたかった。誰もいない世界、ディオン自身の輪郭さえ見えなくなるような遠い世界へ。
それを実行に移そうと、ディオンは翼を膨らませた。
もう一度羽ばたけば、きっとこの景色も遠くへ消えるだろう。
しかし、その瞬間、声が聞こえた。
か細くて今にも消えそうな――けれどそれは確かにディオンのよく知る声だった。
声の主を探して眼下の谷底に目をこらしたディオンは、すぐに導のようにきらめく青い翼を発見した。
ここからでは距離が遠すぎて、彼女の表情や様子を確かめることは叶わない。だが何故か、ディオンは彼女が悲しんでいるように感じられて仕方なかった。理由は分からない。彼女の過去に触れ、暗い顔の印象が強くなってしまったからだろうか。
(いや、違う)
見えなくても、そう感じる理由が分からなくても、今、彼女は泣いている。
確信すると同時にディオンは叫んだ。
――クク!
喉を通る声はヒトの言葉にはならなかったが、強い思いに重なるように一陣の風が吹き抜けた。
青い光が星のように瞬いて、こちらを見上げる少女の表情が、その時確かにはっきり見えた。
風が二人の間を吹き渡る。
幻が払われて、ディオンは瞼を開いた。
少女の姿も故郷の風景も消え、目の前に待っていたのは歪んだ塔と魔法陣だった。
***
塔の内部は気温が低かった。見上げる天井は高かったが塔の頂までには至っていない。壁沿いの階段も塔の半ばほどで天井に呑み込まれ、その先はまったく見えなかった。
しかし、道はそれしかなく、ククは階段をひたすら上部に向かっていた。
波打つ奇妙な床や壁には魔術式が無数に刻まれ、淡く光を放っている。他には灯り一つないが、おかげで塔の内部は明るかった。周囲に異様なほど魔力が満ちているのも、恐らくこの紋様のような文字列のせいだろう。
(この魔法、壊せるかな)
階段を上がりながら、壁に手を触れる。
刻み込まれた術式の内容はククにはほとんど理解出来なかったが、本来の魔法の上から外敵の攻撃を防ぐ保護術も張られているようだ。単純に破壊することは難しいだろうし、何より式が理解出来ない以上、下手に手を出してこの塔そのものに影響が出るのも困る。
(仕方ない、か)
放っておくしかないと判断して、ククは先を急いだ。
階段の先、塔の上階へ辿り着くと、そこもまたほとんど何もない、ただただ広い空間だった。中央には唯一の調度である机と椅子が置かれていて、奥には上部へ続く階段が確認出来る。
階段へ向かったククは、ふと机の前で足を止めた。
「これは……」
飴色の天板の上に古びた木箱が置いてある。そこまで異質な存在ではなかったが、何故か妙に気になった。
少し迷って、警戒しながら蓋に触れたが何も起きない。安全そうだと判断し思い切って開いてみる。
「紙?」
いや、手紙だろうか。すべて裏返されているが、黒鉛で汚れた紙片が箱に詰め込まれている。その数、数十枚はありそうだ。
これは、あの男の私物なのだろうか。
躊躇いつつも手を伸ばす。
しかし、指先が紙片に触れた瞬間、
「っ!」
それが、壊れた。無数の紙片はほろほろと形を崩し、金色の光を散らしながら散っていく。輝きの残滓もまた、宙に上り、すぐに霧散した。
そうして一瞬の後にすべてが空気に融けてしまうと、箱の中にはもう何も残っていなかった。
「……今のは、何?」
わけが分からない。だが、胸がいやに苦しかった。自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、そんな気持ちになる。
しかし、その感情に長くかかずらっている余裕はなかった。
もう、気配は近い。
顔を上げ、目の前の階段を上る。
今度のそれはすぐに終わった。目の前の扉を開くと、ごう、と風が顔に吹き付ける。
目の前に現れた景色、天に向かって開かれた空間はかつてクレストやライック本人と戦ったリバリティ城の広間に少しだけ似ていた。
「やあ、つまらない道のりを歩かせて悪かったね」
いやに明るい声が空に抜ける。
正面、十五メートルほど先に、ライックが立っていた。塔の頂には柵や手すりなどはなく、彼の背後には空と背後の山々が鮮やかに迫っている。
「ライック……それに、桃ちゃんも……」
「ククさん……」
ライックの足元にある魔法陣の上で、桃が膝をついていた。拘束され、動けないようだ。幼い顔が苦しげに歪んでいる。
「……彼女を解放して」
「すっかり正義の味方になったね、カノン。……いや、今はククだっけ?」
ライックは笑っていたが、その顔はひどく青ざめ、やつれていた。耳と尾の黒い毛並みもすっかり乱れ、褪せている。
ただその眼光だけが異様な光を湛え、輝いていた。
「カノンだろうがククだろうが、とにかく君は俺の敵だ。俺の世界に、君は要らない」
「ライック……」
ククの胸に湧き上がったのは怒りでも憎しみでもなかった。悲しみや情とも少し違う。それは、恐らく憐れみだった。
「……どうして、あなたはそこまでしてこの世界に敵対するの? あなたは一体何がしたいの?」
一瞬瞠目した瞳は、しかしすぐに再び細められた。
「もしかして、君は俺に何か遠大な目的があると思ってるのかい?」
ライックは乾いた笑いを放った。
「……ないよ、そんなもの。あるわけないだろ? ああ、そういえば少し前に、君は『俺の望む未来は受け入れられない』と言ったね。……でも、そもそも俺は未来なんか望んじゃないんだ。目的も手段も結果も結局のところどうでもいい。だって俺は過去の残骸そのものなのだから」
「過去の、残骸……」
「そうだ。そして、それは君もだよ」
自身に残った片腕を上げ、ライックがこちらを真っ直ぐ指さす。その顔はもう笑っていなかった。
「で、君はどうするんだい? 君もこの世界においては異物だ。そう分かっていて、君は何を選ぶんだい?」
そんなの、決まっている。
「……わたしは、この世界を守る」
「どうして? この世界は君にそんなに優しかったかい?」
心底不思議だと言うように、ライックが首を傾げる。こちらに問いかけているようで、きっと答えを返しても言葉は届かないだろう。それでもククは彼に答えた。
「優しかったのは世界じゃない。ここ世界に生きる人たちだよ」
ククに嘘を許した兄や、アストリアの王。助けてくれたディオン。杏里。ミナベル。これまで出会った人たち。
「たとえ世界がどれだけ馬鹿げていても悪意だらけでも、この世界で生きる人たちが好きだから、あなたに壊されるわけにはいかないの」
「へえ。随分つまらない、優等生的な答えだね。まるで神様みたいだけど、それにしては少し遊び心が足りないんじゃないかな? 善意ばかり振りかざす神なんて息が詰まるよ」
「かみ、さま」
呆然と呟く声は、ライックの隣から発せられたものだった。
桃がのろのろと顔を上げてライックを見る。その横顔は何かを思い出したように、ひどく動揺したものだった。
「……いいって……」
「……何?」
「……神様なんかにならなくていいって……言ってたのに」
「は?」
途端、ライックの顔色が変わった。
「誰がそう言ってたんだよ」
「わたしのお父さんは神様にならなきゃいけなかったから、ここにはいないって……。でも、神様なんかにならなくてよかったのにって……」
「……っ、はは……!」
不意に、ライックは天を仰いで哄笑した。怯えた桃が言葉を切っても、笑い声はまだ続いていた。
散々笑った後で、ライックは桃を見下ろした。
「神様にならなくていい? なら何になれば良かったんだ? ただの人間のふりをしてればよかったのかい? こんなに……こんなものを抱えて、そんなことが出来るわけがないだろう?今更自分のすべてを手放して、何も知らなかったふりなんて出来るわけがない!」
怒声が反響する。
「お前に何が分かる? 下らない、愚かな子供のお前に!」
「分かります!」
激しい声に、激しい声が答えた。
桃の瞳は、ライックを真っ直ぐ貫いていた。
「子供でも分かります! あなたが悪い人だってことは! すごく間違ってるってことは! ……あなたは、わたしのお父さんなんかじゃない……!」
叫ぶような声と同時に、桃の下に広がる魔法陣が崩壊した。空中にいくつもの火球が生まれ、ライックに向かって殺到する。
だがそれは相手の腕の一振りによって呆気なく掻き消えた。
ライックの手が、体勢を崩した桃の手首を捕まえる。
「ああ、やっと力を使ったね。やっぱり黒塚の言ってたことは本当だったんだ」
「やめなさい!」
ククはライックに向かって駆けだした。
が、すぐに正面から放たれた突風によって弾き飛ばされる。
上空の魔法陣がますます不気味な輝きを強めていた。
「君程度の力でもそれなりの供物にはなるだろう。桃、君に魔法の扉を開かせてあげるよ。嬉しいだろう?」
「っ、く……」
ライックの腕から桃の腕を伝って、黒い魔法式が全身に浮かび上がる。桃の顔から血の気が引き、その表情がどんどん苦しげなものへ変わっていく。
立ち上がろうとしたククは、しかしすぐに不可視の力に足を取られて転がった。体を起こそうとすると、ライックの笑みが目に入る。
「カノン、もう遅いよ。たとえ今から俺を殺しても上のあれは消えないよ。扉はもう完成したから、後は鍵を開くだけなんだ」
「その子を離して!」
立ち上がり、走り出そうとした瞬間、ライックではなく桃と視線がぶつかった。ライックに片手を掴まれ、呻き声を上げながら、もう一方の手が着物の袖口から滑り落ちた何かを掴んでいる。
それは、かつて杏里が着けていた髪飾り――簪だった。まだライックは気付いていないが、桃の表情を見たククはすぐに彼女の意図を悟った。
彼女が傷付けようとしているのは父親ではない。
自分自身だ。
「だめ……!」
それだけはさせてはいけない。
間に合わないと悟りつつ、腕を伸ばした瞬間、すべてを薙ぎ払うような風が起こった。
重々しい轟音が天から注いで大地に落ちる。
夜が現れたかのように、一気に視界が暗くなる。
空を仰いだククの瞳に、竜が映った。
暗い色の鱗が陽光を弾いて、紫色の輝きを散らす。上空の魔法陣の更に上、はるか高みで朝焼けのような光を纏ったその竜は、一度大きく旋回すると巨大な翼を広げて滑空した。
張り詰めた美しい体躯が流星のように魔法陣にぶつかって、展開された式にヒビが奔った。
「ァアアアアッ!」
竜が天に向かって咆哮すると、空中に巨大な火球がいくつも生まれ、竜の傍らに降り注いだ。式が裂け、魔法陣の形が歪む。大きく広がったヒビに食らいついて、竜が強く翼を振った。
「そいつを今すぐ引きずり落とせ!」
桃の手を離し、ライックが叫んだ。空中に無数の魔物が出現し、竜へ襲いかかる。同時に氷塊が竜に向かって殺到した。
しかし、食らいつかれ、礫に打たれてなお、竜は魔法陣への攻撃を止めない。
クク、と声が聞こえた気がした。
「……っ!」
ククはライックに向かって走った。
こちらに気付いたライックが腕を掲げ、転がっていた巨大な礫がククに飛来する。
しかし、それが不意に弾かれ、消えた。
「そこまでだ」
ククの背後から、無数の鞭がライックに迫った。そのすべてが、激しく燃え盛っている。鞭はライックの展開した障壁で阻まれたが、同時に意思持つ風の本流がライックの傍らから桃を抱きかかえ、ククの傍らへと運んだ。
振り返ると、燃え盛る剣を持った緋色の男と、黒い魔剣を構えた鉱石のような男が立っていた。
「これ以上私の国を荒らすのはやめてもらおう。やめる気がないのなら、統治者の権限を持ってお前を全力で排除する」
「お前に対して多少責任を感じないでもないが、しかしそれとこれとはまったくの別問題だ。お前が神ならこちらは王だ。跪くなら今の内だぞ」
「陛下、クレスト……」
「クク、これを使え」
クレストが自身の剣を放り投げる。その黒い柄を握って、ククは再び駆けだした。
ライックが何かを叫び、腕を振る。しかし攻撃が放たれる前に、ククの背後から風と炎が彼を打つ。突風と炎と光でめちゃくちゃになった空間の中を疾駆し、ククは剣を突き出した。
「……っ」
剣を胸に呑み込んでも、ライックの笑みは消えなかった。
まだ終わりではない、と瞳が語っていた。
もうすべてが終わりであると、ククだけは知っていた。
手の中の剣に集中する。
かつて女神になり損ねた女性が生んだ剣。それに力を注ぎ込むと、剣先に赤い光が宿った。内側から塗り替えるように、刀身が緋色の輝きに満ちていく。
それはもう、七年前に彼を貫いた剣ではない。
「っ……」
ライックの顔が歪む。
交わる視線から伝わってきたのは、苦痛と混乱と、何より強い諦めだった。
(きっと、こうなることは分かってたんだ)
わたしも。そして、あなたも。
***
どこからか、誰かの声が聞こえてくる。
「ねえ、兄さん」
「なんだい、カノン」
「わたしたち、これからどうなるんだろう。先生たちが言ってたみたいに、本当に神様になれるのかな?」
「どうだろう。カノンは神様になりたいの?」
「分からない。でも神様になるっていいことなんでしょう?」
「……ああ、多分ね」
「それなら神様になりたいな。兄さんと一緒に神様になったら、きっと楽しいと思うもの」
「そうだね。二人で一緒に神様になって、楽しい世界を作っていこう」
「ほんと? 約束してくれる?」
「約束するよ。カノン」
瞼を開くと、泣きだしそうな少女が見えた。
見知らぬ顔なのに、その姿はどこか懐かしかった。
遠い昔に会ったような。
遠い昔に愛したような。
それでも彼女が誰なのか、とうとう思い出せなかった。
***
魔法陣を破壊して、竜が地上に墜ちていく。
血に染まった剣を引き抜き、ククは男の首を落とした。




