第71話
かすかな物音に、ライックは手にした紙片から視線を外した。
部屋の奥の薄暗がりで床に転がしておいた影がもぞもぞと動いている。
どうやら目を醒ましかけているようだ。
椅子から腰を上げる前に、傍らの机の引き出しを開く。中には既にぼろぼろのノートが一冊入っているが、その上に持っていた手紙を置いた。
封筒に書かれた丁寧な文字が目に入る。
何度か読んだその内容は、もうすっかり暗記していた。
ぐしゃぐしゃに丸まった便せんを初めて広げた時、その半分は予想通りのものだったが、もう半分は想像の範囲外にあるものだった。
手紙の中で彼女は自らの親友に救済と許しを求めていた。予想通りだったのは救済の方で、そうでなかったのは許しの方だ。生活に追われ、病に足を取られ、手紙を書けなかったこと。でも本当はただ意地を張っていただけなのかもしれなかったこと。頼ってしまうのが怖かったこと。結局頼ろうとしていること。彼女はそれらを一つずつ謝っていた。
けれどそれらの言葉も、結局は本来受け取るべきものでない相手に渡ったまま、こうして放置されている。
(……本当に愚かだな)
浮かべようとした笑みは形になる前に消えた。代わりに、引き出しを閉ざして立ち上がる。
「おはよう」
声をかけると、暗がりの中で光る二つの瞳がライックを射た。寝起きで混乱しているはずなのに、妙に真っ直ぐで、妙に強いまなざし。
やっぱり俺には似てないな。
「いい加減すべてを思い出したかい?」
問うと、桃は立ち上がり、こちらに歩いてきた。光の届く場所まで来たところで足を止め、
「あなたは……わたしの、お父さん、ですか」
「まあ生物学的にはそうなるね」
ライックは慎重な問いかけに頷いた。
「ただ、君も薄々思っているかもしれないけど、そんな繋がりに意味はないんだ。親子も兄妹も結局単なる血の繋がりに過ぎないし、縁が離れてしまえば何の意味もない。まして俺たちは元々遠く隔たった存在だ」
きっと、この少女を娘だと思える日は来ないだろう。
桃は混乱したように黙っているが、それでもまだその瞳にはかすかな光が残っていた。
ライックは少女から視線を外し、外に繋がる扉に目を向けた。
「さあ、行こうか」
もう時間はあまりない。
「俺とこの世界の終わりを見よう」
***
目の前に現れた光景は、一見普通の家庭の居間に見えた。壁紙や床、調度、何もかもが普通で、普通の人間が穏やかに暮らしていそうな、そんな室内。
部屋の南に設けられた窓からは、明け方の空と下方に広がる山裾、更にそこから続く窪地とその先にある異様な建造物――歪んだ塔が小さく見えた。
目覚めたばかりの滲むような陽の光が、窓ガラスをうっすら明るく染めている。
室内は耳鳴りがするほど静かだったが、ディオンの他にもう一人分の気配があった。
「桃はどこだ」
ディオンの立つ壁際の対面、古そうな飴色のチェストに黒塚が軽く寄りかかっている。問いに軽く眉を上げ、
「ああ、あのガキなら、こっちじゃなくて親元だよ。ちなみにあそこだ」
そう言って、窓の外を指さす。黒塚が何を示しているのかは見なくても分かった。
「もしかして俺が素直にお前を運んでやると思ってたのか? おめでたいな、相変わらず」
「ふざけるな! 今すぐあの場所に……」
連れて行け。そう言うより早く「まあまあまあ」と黒塚が両手を振る。あくまでも気安く、気怠げに。
「そう怒るなよ。最後くらい落ち着いて話をしようぜ」
「お前と話すことはない」
「なあ、こんなおとぎ話を知ってるか?」
こちらに構わず、ぶつけられた言葉。
遮る間もなく、黒塚が勝手に話しだす。
「昔、はるか遠くの神々の国で、一人の女神が誕生した。けれど彼女は他の神とは違い、全能の存在ではなかった。つまり、出来損ないの神だった。
かの女神は、他の神たちの嘲弄の果てに、神々の国の下層、このちっぽけで取るに足らない世界に堕とされた。女神は絶望と憎しみを抱え、己の中に宿る死と滅びの概念をこの世界に分け与えた。自分と同じ苦しみを得るように。自分を慰める存在であるように。
そうして女神は生まれては死んでいく人間という弱き生き物を愛し、己の力の影響をさほど受けなかった生き物にはその寵愛を与えなかった。元々この世界に溢れていたエルフや竜は奇病や災害でその姿を消していき、やがてこの世界には人間ばかりが増えていった。
人々はその内戦争を始め、女神は彼らの争いを収めようとしたが、気付けば人間は女神の寝所にも炎を放った。力を失いかけていた女神はあっさり焼け死に、この神に引っかき回された箱庭だけが後に残った。それでおしまい。めでたしめでたしってな」
ディオンの知らない物語を語り終えた黒塚は、小さく溜め息を吐いた。
「そう、どいつもこいつも神を作るだなんだ言ってるが、はなから正解なんてどこにないんだよ。女神は万能でも創造神でもない。ただのくそったれの世界に堕とされたくそったれの欠陥品だ。それなのにこの世界のくそったれどもは、わざわざそんな出来損ないの神を模倣しようと足掻いてんだ。笑えるだろ?」
「どうしてお前がそんなことを……」
「おとぎ話を見つけちまった女がいたんだよ。抱えきれなかったそれを、あの女は俺に押しつけてきた。お前に話しときゃいいのによ」
「……ロザリアか」
吊り上げられた唇が肯定の証だった。
ロザリア。かつてあらゆるものを滅ぼし、ディオンと黒塚を永遠の中に閉じ込めたその存在。神に及ばなかった少女。彼女もまた、愚かな人間たちの犠牲者だった。
「あいつは度し難いクソ女だったが、自らに起きた現象はよく見えていた。あの猫の神様よりよっぽどな」
黒塚がロザリアに対して憎悪以外の感情を見せるのは珍しかった。だが、感傷的な表情はあっという間に消え失せる。
「始まったみたいだな」
黒塚の視線は窓の方を向いている。
つられて振り返ったディオンはすぐに絶句した。
彼方の塔の上に巨大な魔法陣が展開されていた。王都の上に出現していたものよりも更に巨大なもので、ここからでもその形がひどく複雑なのが見て取れる。見目の異様さ以上に、何か歪んだ禍々しさ、生理的な嫌悪感を覚えずにいられなかった。
「あれは世界を都合良く書き換える大魔法。言い換えれば、すべてを無理やりねじ曲げ、あらゆる理を破壊する呪いの力だ。発動すれば最後、時間も命も何もかも呑み込まれて消えるか、運が良ければ歪に合成されて蘇るか……いずれにせよこの世界のルールは崩壊するだろう」
馬鹿げていると思ったが、彼方の陣は今も刻々とその大きさを増しつつあった。胸の内にある嫌な感覚も、一秒毎に膨らんでいく。
「あいつは何故こんなことを……」
本人がこの場所にいない以上、疑問をぶつける相手は黒塚しかいなかった。
「自分が神であることの証明になるからじゃないか? つっても術が暴走すればあいつも死ぬし、その可能性は極めて高いがな。自分以外の何もかもを壊して神になるか、自らもこの世界と共に壊れるか、どちらでもあいつにとって大した違いはないってことさ」
「……狂ってる」
「ああ、狂ってるんだよ。初めっから」
言って、黒塚は目を伏せた。
そこには同情的な色が浮かんでいた。
「この世界にあいつの居場所はない。あいつはただ道のない場所を歩き回って、とうとう崖っぷちに出ただけだ」
「だから破滅の道を選ぶのか? そんなの馬鹿げてるだろ!」
「そうか?」
しんとした声だった。
「永遠の命を得て、永遠の呪いに縛り付けられて……そんな俺たちに何が選べた? 少なくとも俺は選べなかった。俺の道はずっと墓穴の底のように暗いままだったし、そこから這い出ることも出来なかった。だから、俺にはあいつの気持ちがうんとよく分かる。どこにも進めず、何も選べない空しさがな」
ごくありふれた部屋の光景。そこに佇む闇色の黒塚は、まるで影絵のようだった。
「……だからあいつに協力したのか?」
問うと、影はゆっくりと首を振った。
「……いいや」
いつもの皮肉げなものではない、諦めたような微笑。
「俺は俺の願いを叶えてほしかっただけだ」
「黒塚……」
「さあ、行こうぜ。ディオン、お前に見せたいものがあるんだ」
再び手を差し伸べてくることはなく、黒塚はディオンに背を向けた。そのまま扉の方へ歩いていく。
引き止めるべきかどうか。一瞬迷いはしたものの、結局直感に従うことにした。
ディオンもまた、夜明けの部屋を後にした。
***
ここ数日ろくに眠っていなかったが、意識はかつてないほど透き通り、体もほとんど疲れを感じていなかった。
アストリアは顔を上げ、朝日の下集まった数百人の兵士たちを見渡した。
その中には崩壊してしまった騎士団の生き残りや、魔術師塔の者たちも混じっている。
皆も自分のように気力を保ち……というのは、流石に無理だった。
目の前に並ぶのは、帰る場所をなくした者たちだ。絶望で動けなくなっていてもおかしくない彼らがここに集まってくれたことだけでも感謝すべきだろう。
息を吸うと、足元でみしりと木の土台が軋んだ。急造の台座は馬鹿馬鹿しくなるほど惨めなもので、私に相応しいな、と内心自嘲する。だが、今その感情を覗かせるわけにはいかないし、ここには哀れな王を嗤う者もいなかった。ならば自身と同じ名の国を背負う者らしく、アストリアは声を発した。
「知っての通り、君たちも私もあまりに多くのものを失った。だが、それは永遠の喪失ではない」
白々しい言葉であることは分かっている。事態に振り回されている男が何を言ったところで、彼らの心に響くわけがないことも。
それでも、声を止めるわけにはいかなかった。
「故郷は未だ彼の地にある。我らの命がある限り、未来はいくらでも再生可能である。だが、そのためにもまずは目の前の脅威を、未来を剥奪しようとしている敵を取り除かなければならない。その敵は今、あの塔の中だ」
振り返りはしなかったが、何らかの奇跡が起きていない限り背後にはあの歪な塔が未だ存在しているはずだ。
一晩掛けて近くまでやってきたはいいが、その頭上には今、奇妙な魔法陣が出現していた。正体は分からない。直視もしたくない。皆も同じ気持ちなのか、塔を仰いでいる者は少なかった。
それでもあの塔にいるという敵を倒さねば、この世界に平和は訪れないという。頭が痛くなりそうだが、流石に世界を滅ぼされるわけにはいかなかった。
「この国で生きる皆の未来を護るため、私と共に戦ってほしい」
結局、そんな言葉しか掲げられなかった。
それが伝えたいことのすべてではあったが、案の定兵たちの反応は芳しくなかった。ここにいる以上協力の意思は持っていてくれているはずだが、それぞれの顔には迷いと不安が現れている。
もっと、王らしく彼らを導かなければ――。
「おうとも!」
アストリアの思いを遮って、突然馬鹿でかい声がした。その主を探すより早く、再び同じ声が言う。
「我らから故郷を取り上げた敵の顔を拝みに行くぞ!」
その声量に押されるようにして、他の兵士たちも頷き合う。そうだそうだ、と誰かが同意して、戦意の輪が広がっていく。
「アストリアの王よ、我らに開戦を告げよ!」
またあのでかい声だ。どこの誰かは分からないが、随分偉そうなことだ。私も負けてはいられない。
「我らの未来は我らで勝ち得るしかない。何より、大切な我が家を潰されて泣き寝入りする理由がどこにある。これより、敵地へ侵攻する!」
腹の底から宣言すると、振り上げられた無数の腕がそれに応えた。
ここにはもう玉座はない。城もない。臣下も多くが去っていった。
しかし、それでもまだ私はこの国の王だ。過去の英雄が築いた平和を維持するため、死んでいった者たちのため、この世界を守る義務がある。
もう迷いはなかった。
***
塔に続く平原は本来遮るもののほとんどない大地だと思われたが、しかし今、その彼方には黒々とした巨大な影が蠢いていた。
魔獣の群れだ。
大きさも形も様々な獣たちが、地上と上空を埋め尽くしている。その数はこうしている間にも刻々と増え続け、今にもこちらへ動きだそうとしているように見えた。
「数が多いな」
ククに向かって、傍らに立つ王が呆れたようにそう漏らした。
背後では状況を目視した兵士たちがざわめいている。幸いまだ戦意を喪失したり混乱が生じる様子はなかったが、このままではそうなるのも時間の問題だろう。
「こちらは兵を分けるほどの余裕もない。このまま突っ込むしかないか」
ヤケクソなのか腹を括ったのか分からない主君の言葉に、しかしククは首を振り、言った。
「わたしが先行して敵の数を減らします。陛下や皆さんはその後に続いてください」
吹き抜ける強い風がククの髪をかき混ぜる。
対して、隣に並ぶ王の燃えるような緋色の髪も、本物の炎のように揺れていた。
「勝算があると思っていいんだね?」
静かな声には、静かな首肯で返した。
「はい。そのためにわたしがいます」
また風が強くなった。重苦しい南風。塔の聳える方向に顔を向けると、影が動きだしているのが分かった。
魔物がこちらに向かってくる。
「行きます」
宣言し、ククもまた魔物に向かって歩きだした。自分も敵も徒だが、当然獣の足の方が早い。みるみる距離が詰められていく。
巨大な波のような黒い塊が個々の魔獣として判別出来るようになったところで、ククは目を閉じ、両手を広げた。
瞼の裏に広がるのは、力と混沌が支配する極彩色の空間だった。凄まじい質量と殺気が接近してくるのを感じつつ、力を使う、ということだけを意識し、集中する。
本音を言うと怖かった。これからやろうとしていることが、何なのか、その方法がこれで正しいのか、確実なことは何も分からない。
だが、それでもやるしかない。だから、ひたすら祈り、命じた。この身に与えられた力、忌むべき力に向かって。
(わたしは、お前に制圧されない)
体の内側で何かがざわめく。けして自分で望んだわけじゃない、恐ろしくて、悲しいわたしの一部。
でも、それでも今は構わない。
わたしのために、わたしはこの呪いを利用する。
「……っ、消えて!」
その言葉に応じるように、ククと獣たちの間に突如巨大な穴が穿たれた。
景色をそのまま切り取ったか塗り潰したかしたような虚は、一瞬の沈黙の後、意識あるもののように律動した。どろりとした質感で闇が大地から隆起する。
次の瞬間、それが獣の群れに向かって音もなく雪崩れ落ちた。混乱し、逃げ惑う獣たちを黒い津波が呑み込んでいく。形を崩す闇から無数の黒い手が伸びて、上空の魔物たちを引きずり込んだ。
そして、蹂躙は始まった時と同じく唐突に終わった。
地上に流れた闇が跡形もなく消失すると、そこに呑み込まれた獣たちも消えていた。完全に消滅したわけではなかったが、魔獣の群れは先ほどの十分の一ほどの数に減じている。
ククは背後を振り返った。王の姿は見えなかったが、大勢の兵士が声を上げながら、こちらへ向かってくるのが見える。彼らの姿から感じ取れるのは、強い戦意だ。
(とりあえず大丈夫、かな?)
不安は残るが、ここで立ち止まっている余裕はない。
視線を前方に戻し、ククは走りだした。腰に佩いた剣を抜き、襲いかかってくる獣の残党を斬り伏せる。その間も足を止めず、ひたすら塔に向かっていると、不意に背後から迫る影があった。
「クク様っ」
呼びかけに応じて、地面を蹴る。高く浮いた体の下に潜り込むようにして、白い毛並みがククを受け止めた。
狼の姿のミナベルは、それでも彼女らしく甘い香りがした。
躍動する背中にしがみついていると、視界の端にまた新たな影が複数横切った。それらも皆、白い狼だ。数は二十以上は優にいる。
(あれは……ミナベル、じゃないよね?)
その本人は今まさにククを背負って駆けている。他の狼たちはどれも彼女に劣らぬ純白の美しい毛並みを靡かせながら、次々と魔獣に襲いかかっていた。
「彼らはわたくし……クロムツェルの血族ですわ」
体の下から声がした。
「……随分親戚が多いんだね」
「ええ、引っ張りだすのに少々苦労しました」
それ以上ミナベルは説明しなかったし、ククも深く訊こうとは思わなかった。
「……ミナベルが生きてくれててよかった」
「それはわたくしの台詞ですわ。先ほどのあれを見て、お元気そうで安心しましたけれど」
「あれ?」
「あの黒いのがドーンってやつですわ」
「ああ……」
あれで元気そうだと判断してくれるのがミナベルらしい。
「でも、あれは一回きりかな」
先ほどからずっと、ククは違和感を抱えていた。自分の内側に、自分とは異なる無数の存在を感じるのだ。
それは奥深くに閉じ込められているものの、今も激しく暴れ回っている。今再びあの力を使えば、ククの内に封じたその存在――魔獣たちが解き放たれる恐れがあった。
だからもう、あれに全面的に頼るのは難しい。
力に頼らず、それでもやらなければいけないことはある。
「あの人はわたしが殺さないと」
「……それがクク様の決意ですか」
「決意じゃなくて、決定だよ」
ククは答えた。
「必ず終わらせる。わたしが終わらせなくちゃいけない。今のこの状況を」
「貧乏くじですね」
駆け続けたまま、ミナベルが言った。そうだねとククが同意して、沈黙が訪れる。
風が耳元で唸っていた。背後には兵士たちが獣と戦う気配がある。塔が、少しずつ目の前に迫ってくる。
「……あの、クク様。ディオン様は……」
少し苦しげな声にククは首を振った。しかしすぐに、そうしても彼女には見えないのだと気付く。
「分からない……でも、きっと大丈夫だと思う」
「ディオン様はお強いですからね」
「……うん」
そう、ディオンは強い。強いだけではなくて優しいし、だからこそ弱いところもある。でもそれも含めて、彼なら大丈夫だと信じていた。それが純粋な信頼なのか、そうでないのかは分からない。
それでもククはディオンを信じていた。
荒れ地を越えると、塔の入り口はもうすぐそこまで迫っていた。後続はまだ当分追いついてこないだろうが、ここから探る限り、目立った混乱はなさそうだ。
塔の入り口に扉はなく、壁の切れ目から中の空間が確認出来た。どうやら内部はほとんど空洞のようで、奥の壁に沿って上に続く階段が見える。意外と単純な構造のようだ。
塔の上には、あの巨大な魔法陣が展開され続けていた。
ククがミナベルの背を降りると、彼女もすぐに人型に戻った。同行してくれるつもりだとは分かったが、ククはその場に立ち止まり、首を振った。
「ごめん、ミナベル。送ってくれたのに悪いんだけど、少し別の用事を頼めるかな」
「……嫌です、と言ったらどうします?」
「それは困るなあ」
本音だった。これが単純にククの気持ちや意地だけの問題であれば話は別だが、そういうわけでもなかったからだ。
「もしかしたらなんだけど、この近くに助けを待っている人がいるかもしれないの」
確信はなかった。力を使ったばかりのせいか、それとも別の要因があるのか、うまく世界を読み取ることは出来ず、ただ、心の底に引っかかるような感覚があるだけだ。
「クク様、それは……」
「何もはっきりしたことが分からなくてごめん。でも、一応周辺に異常がないか見てほしいんだ」
確信がないだけに期待を口にすることは避けたかったが、もし予感が本物であるのなら放置することなど到底出来ない。
今この状況で、頼れるのは目の前の彼女だけだった。
「お願い、ミナベル」
「……仕方ありませんわね」
本当に仕方なさそうにミナベルは肩を落とした。直後、不意に両手を差し伸べて、ククの右手を握りしめる。
「お役目を果たしたら駆けつけますわ。ですので、すぐまたお会いしましょう、クク様」
「ミナベル……」
背の高い彼女の顔を見上げて、両の目が真っ赤になっていることに初めて気付いた。けれど、その顔はいつも通りの穏やかで優しい笑みを浮かべている。
「うん。……また後で」
ククももう一方の手を添えて、ミナベルの掌を握り返した。
ゆっくりと手を離し、二人は別れて歩きだした。
***
ありふれた家屋の奥にあったのは、地下へ続く恐ろしく長い階段とその先に伸びる恐ろしく長い通路だった。
土壁が剥き出しの階段と、その先の一人が通れるほどの幅しかない通路はどう考えても普通の家屋の地下空間ではなかったが、その思いは道の果て、金属製の扉を開いた瞬間ますます強まった。
そこは巨大な空間だった。
天井はない。四方は灰色の壁で囲まれているが、頭上には空が広がっていた。一方、足元は壁と同じ素材の床だ。先を行く黒塚のブーツの足音が反響している。
「ここは……」
「リバリティの地下と一緒だよ。ああいう下らない場所はどこにでもあるってことだな」
ということは、研究施設ということか。周囲を見回しても、それらしい設備は見当たらなかった。そもそも物がまったく何もない。
(いや……)
一つだけ妙なものがあった。部屋の中央に、胸くらいまでの高さの台座がある。台の部分と土台の二カ所に、魔法の術式らしきものが輝いていた。
黒塚は、真っ直ぐそちらに向かって歩いていく。
「しかしあの男もよくもまあこういう場所を見つけるよ。痕跡もねえから教えられるまでまったく気付かなかったんだよな」
いつも通り軽薄な口調でこちらに話しているのだか独り言だか判別のつかない言葉を吐きながら、黒塚が台座に手を触れ、そこから何かを取り上げた。
それは一見、ただの黒い石に見えた。
ディオンが問い質すより早く、黒塚が自ら口を開く。
「これはあのイカれた神もどき作、あの塔の上で展開する魔法と同じ原理で作られた代物だ。いや、あれの成功版って言った方が正確かもな。こっちの力は小規模だが、その分完成度は高い。まあつまり、これはあらゆる理を書き換える力の結晶だ」
「……お前はその力を自分に使うつもりなんだな」
「ああ、正解だ。珍しく当てたな」
本当は少し前から薄々気付いていた。そしてディオンが気付いていることを、黒塚も察していただろう。
「お前はそれを使って死にたいのか?」
「ああ、そうだ……と言いたいところだが、正確には少し違うな。そもそも俺たちはあの女によって命の在りようを書き換えられた、この世界の理から外れた存在だ。だがこいつの力を使えば、その歪んだ過去を破壊して精算することが出来る。それは死ぬと言うより、元に戻ると言うべきじゃないか? ……ま、結果死ぬことには間違いないがな」
どこまで本気か分からない言葉を操って黒塚はへらへら笑っていたが、その笑みが不意に薄れて消えた。
「で、俺がここまでお前を連れてきたのはただ一つ。お前と心中するためだよ」
来る――そう感じた瞬間、ディオンは反射的に剣を取った。
黒塚は武器を持たず、そのまま突っ込んでくる。指先で弾かれた何かを、ディオンは刃で叩き落とした。
固く冷たい響きと共に、二つに割れた黒い結晶が床を滑っていく。
黒塚はこちらにあっさり背を向けると、黒衣の肩を揺らしながら、その片割れを拾い上げた。
「別に爆発するもんでもないし、そんなビビんなよ。すげー顔してたぜ、今」
「一体何のつもりだ」
「半分こってやつだよ。別にあんな大きくなくても良かったからな。……あ、もしかして本当に心中すると思ったか? んなわけねえだろ」
その口ぶりはどこまでも飄々としているが、小さくなった結晶を見つめる目は妙に静かだった。
「確かに俺は今もお前を許せないし、お前が苦しむ様を見てると楽しい。お前を憎み、お前に執着してるって自覚はあるぜ。……だけどよ、なんつーか、もう疲れたんだよ」
「黒塚……」
「めんどくせえんだよ。この馬鹿げた世界も、下らねえことでピーピー騒いで苦しむ人間も、それを観測するだけの俺の存在も。だから、もう知るか。世界も人も神も滅びたければ勝手に滅びればいいし、生き残るならそれでいい。だけど俺はここから降りさせてもらう」
黒塚の指先に挟まれた欠片が、ぼんやりと発光を始めていた。黒衣の体が、曖昧な光に包まれていく。
「俺とお前は似たような存在だが、腐りかけで死に損なった俺に比べりゃお前の方がいくらかマシだろ? だから、石の力を解放しても多分お前はすぐに死なない。……多分な」
ディオンの足元には、割れた結晶のもう一欠片が転がっていた。黒塚の手にしたものとは違い、沈黙している。
理を書き換える力。
それが歪んだ理を元に戻せるというのなら――。
「おい、勘違いするなよ」
今や結晶と共に自らも輝きを放ちながら、黒塚はディオンに苦笑を向けていた。
「あくまで多分だからな。それに俺はお前に世界を救わせたいわけじゃない、結局どっちでもいいだけだ。言ったろ? 疲れたんだって。……じゃ、そういうことで一足先に寝かせてもらうぜ」
それは別れの挨拶にしては、あまりに呆気ないものだった。
黒塚の姿が光に溶かされるように、ぼろぼろと崩れていく。
目の前の男が永遠にこの世界からいなくなろうとしている事実を、ディオンはようやく正しく理解した。
「っ……イダ!」
駆け寄り、手を伸ばす。
だが、その指先が届く前に黒塚の体が崩壊した。柔らかな輝きは失せ、歪な砂の像が崩れるように、輪郭も形も、何一つ痕跡を残さず散っていく。
「……すまなかった」
「おせーよ」
笑い声が返ってくる。だが、その姿はもうどこにもない。中空に浮かんでいた灰色の石が崩れながら落ちて、消えた。
「イダ……」
呼びかけに答える声はない。
黒塚との別れはこれが初めてではない。だから、最後だとも思えなかった。その実感がまるでない。
だが――それでも今回は本当に最後なのだろう。
ディオンは足元に視線を落とした。そこにはまだ、黒い結晶の片割れが転がっている。屈んで拾い上げると、氷のように冷たい感触がした。
(俺は……)
一体どうしたらいい。
答えが得られないまま顔を上げると、正面の壁に錆びた梯子が掛かっていることに気が付いた。その先は壁の縁、空との境目まで続いている。
どちらにしても、いつまでもここにいるわけにはいかない。
外に出る近道であることを祈りつつ鉄臭い梯子を登り切ると、広い空に投げ出されるような感覚に迎えられた。
大分地下深くに潜ったような気がしていたが、そこはまだ山の中腹で、眼下には山裾が広がっている。
やや右手、南方にはあの異様な塔が先ほど屋内で目にした時よりはいくらか近くに見えた。その上には、未だ巨大な魔法陣が浮かんでいる。
塔の近くの大地には、黒い影が動いていた。魔獣だろうか。風に乗って人々の声も聞こえてくる。戦闘になっているのかもしれない。
ククはどうしただろう。
あの塔を目指しているのだろうか。
たとえ今彼女が安全な場所にいたとしても、けして安心は出来なかった。
上空の未完成の魔法。あれが発動すれば、きっとこの世界は崩壊する。黒塚ではなく、ライックの心中に巻き込まれてククも死ぬ。
「……」
自然、長い溜め息が漏れていた。
黒塚はああ言ったが、結局ディオンが取れる道はそう多くはなかった。
掌を開くと黒い石が転がった。
二つに裂けた切り口はあまり綺麗ではなかったし、見る限りただの石にしか見えない。何もかもが不確定で、もしかしたらこれを使ってもディオン一人が消えてそれで終わりなのかもしれない。
(……その時は恨むなよ)
内心零しつつ、ディオンは彼方に目を向けた。
もう決意は固まっていた。




