第70話
潮風に巻き上げられた砂塵が、顔や腕を撫でていく。
空は眩しいほど青く、しかしそこにかつての光景はない。
瓦礫やあらゆる残骸が散らばる巨大な廃都を前に、ククは立ち竦んでいた。
少し離れたところでは、共に近くの町からこの地まで戻ってきたアストリアやミソラ、他の兵士たちも呆然と目の前の光景を眺めている。
しかし、悠長にしている余裕はなかった。
王都を破壊するという役目を果たしたからだろう、上空の魔法陣は消滅していたが、いつまた何時攻撃があるとも限らない。
ククが王城跡地へ向かって歩きだすと、アストリアたちもすぐに追いかけてきた。
足場がめちゃくちゃになっているせいで、都から王城まで辿り着くのには、普段の何倍もの時間がかかった。
城下と城内を隔てる壁は破壊され、地面もあちこちえぐれていたが、城の三分の一程度と、塔のいくつかはなんとか原形を留めていた。それでも残骸であることに違いはないが、少なくとも何もかも失われたわけではない。
「皆、集まってくれ」
アストリアが大声で呼びかける。すぐに彼の指揮の下、武器や物資の回収作業が始められた。
ククは数人の兵士と共に王城内の武器庫に向かった。
周囲の部屋が崩壊している中、武器庫はほとんど無事だった。中の物資をありったけ抱え、王城前の比較的破壊の爪痕が薄い広場に運び、また城内に戻る作業を繰り返す。
周囲には兵や騎士をはじめ城の人間が散見された。その数はけして多くなかったが、それぞれ転送先から自分の意思で戻ってきた彼らは皆、鬼気迫る表情でひたすら作業を進めていた。火事場を狙う人間がいても不思議ではないが、少なくとも目立った混乱やトラブルはない。悲惨な光景とは裏腹に、一帯には奇妙な連帯感が横たわっていた。
そんな空気の中、ほとんど思考することもなく、ただ淡々と手足を動かしていると、足元に落ちる影がどんどん長く伸びていった。
視界の端に移る空が色濃い赤から藍に沈み、風が冷え始めた頃、再びアストリアの号令が発せられた。
広場に戻ると、いつのまにか兵士の数も増え、のみならず、どうにか道を探してきたらしい荷馬車の姿もあった。武器の回収はほとんど完了し、現在は王都からの搬出作業に移行しつつあった。離れた場所で、ザングが部下の兵士たちに指示を与えている。
(わたしも手伝わないと……)
しかし彼らに加わる前に、真っ赤な目をした少年がククの前に現れた。
来てください、と少年は短く言った。
薄々察していたことではあったが、やはり魔術師塔の被害は甚大だった。その壁面は押し潰されたように崩れ、まったく元の形を留めていない。辺りには怒号が飛び交い、生き残った術士たちがあちこちで魔法による瓦礫の撤去を行っている。
少年に案内されたのは、真っ赤に染まった布包みが並ぶ一角だった。
「先ほど発見しました」
目の前にはククの体よりずっと小さな一塊。掛けられた布からはみ出た腕には見覚えがあった。
「探してくれてありがとう」
紋様の刻まれた左腕から視線を上げ、礼を言う。
逆に、少年は苦しげに俯いた。
「見つけたのは僕じゃないです。それに……どうして、あなたは……」
再びこちらを向いた少年は、ククを見て言葉を呑み込んだ。
「なんでもないです。すみません……」
そう言うなり、そのままどこかへ走り去っていく。
ククはその場に膝を折った。投げされた腕に触れると、作り物のように固くて冷たかった。動かない指を握っても、体温を分けることは叶わない。
「兄さん……」
震える息を吐き出す。涙は零れない。零すわけにはいかなかった。一度感情を解放してしまえば、もう二度と立ち上がれないような気がしていたから。
そうして、しばらくの間ククは動けずにいた。
出来ればこのままずっとこうしていたかった。心を閉ざし、現実から目を逸らし、すべてから逃げていたかった。
しかし――傍らに現れた気配に、ククは静かに立ち上がった。
「やあ、無事に生きてたね。と言っても、彼はそうじゃないみたいだけど。……それしかパーツがないんじゃ、流石に復元は難しいかなあ」
「ライック……」
自分の声が、自分のものでないように遠く響く。
目の前の男には片腕がなかったが、彼はそれに頓着する様子もなく、緑色の瞳を細めて微笑んだ。
「兄さん、とはもう呼んでくれないのかい? たとえ容れ物が変わっても、君はカノンなんだろう?」
この男がかつての兄だと、勿論理解はしている。けれどククの――いや、カノンの記憶の中に残る兄と、今目の前に立つこの男が同じ存在であるとは受け入れ難かった。
なのに、ライックは嬉々とした様子で近付いてくると、ククの右手を握りしめた。
「カノン、君が生きててくれて嬉しいよ。ちゃんとした挨拶が遅れてごめん。それにこの地も。君なら生き残ってくれるはずだと信じてたけど、手荒な真似をしたことは謝るよ」
口早に告げられる言葉はいかにも優しげで、瞳も柔らかい。でも、そこに温もりはなかった。ライックの笑顔は、ただ表面を親愛という色柄で綺麗に見せかけただけの空洞だった。
「離して!」
ククはライックの手を振り払った。
「どうしたんだい、カノン」
それでもライックは微笑んでいる。
「俺は君が生きていてくれて本当に嬉しいんだ。それだけは信じてくれるよね?」
それはきっと真実なのだろう。ライックの嬉しそうな表情に嘘はない。しかし、もし仮にククがこの王都で死んでいたとしても、それでもやっぱり彼は笑うのだろう。仕方ないの一言で、後は綺麗さっぱり後悔しないでいられるだろう。
「……あなたは、どうしてこんなことをしたの?」
「どうして? ああ、カノンには説明してなかったね。俺はこの世界を大きく変革するつもりなんだ。これから展開する魔法のことを考えると、この王都の存在はちょっと邪魔だったからね。干渉を避けるためには壊すしかなかったし、ついでに君もこの地に囚われてるみたいだったから……。うん、そうだ、これは君の解放でもあったんだよ」
「……その結果わたしが死んでも生きてても、あなたには関係ないんでしょ?」
わたしが生きようが死のうが、この男はそれがわたしのためだったと言って、わたしを救えたと言って笑うのだろう。
「あなたは、おかしいよ」
一瞬、ライックの顔から表情が消えた。
けれどそれも束の間。
「まあとにかくさ、もう王都も滅んでしまったし、俺と一緒に来ないかい? 折角兄妹が無事に再会出来たんだから」
笑顔に戻って告げられた言葉。その返事は当然決まっていた。
「わたしはあなたには従わない」
「どうして?」
「あなたの望む未来には、たくさんの人々の悲しみや苦しみが前提にあるから。罪のない人々を傷付けて得るあなたの理想に興味なんかない」
「……そうかい。でも君は王様の家来だから、これまでそれなりにいい暮らしが出来てたんだろう? 世の中には今まさに苦しんでいる人間がたくさんいるんだ。俺の作る未来はそんな彼らを救うかもしれない」
手を広げるライックの目が輝く。彼の言葉が彼自身の内側で力を持ち、希望になる。この男はそうやって自らを導き、欺き続けて生きるのだろう。
わたしのように。
「あなたに世界は託せない」
その答えを予想していたようにライックは微笑んだ。
「そうか。残念だよ。……やっぱり君はもうカノンじゃないんだね。肉体が変わって魂も損なわれてしまった。かつてカノンだったかもしれないけれど、もう違う」
「そうかもしれないね。……少なくとも、あなたが取り戻したい妹はもうどこにもいないから」
告げた直後、ククは立ち上がり、腕を振った。放たれたナイフは、しかし宙を裂き、地面に落ちただけだった。
そこにもうライックの姿はない。
ただ、声だけが響いた。
「それなら、もう要らないや。君の肉体から魂を解放して、俺は今度こそカノンを取り戻す」
(……ああ)
もう会話する意味も、必要もない。
この男は、わたしの敵だ。
ただそれだけが分かった。
アストリアの王は王都近くの平野に仮の避難地を設け、ククとミソラ、ザングほか城の人間もそこに集まっていた。
そこここに城から持ち出した物資で作った幕営が並び、ククたちとは別の場所に転移した城下の者たちも噂を聞きつけて少しずつ集まりだしていた。
だが、混乱は未だ続いている。それも当然だ。皆わけも分からないまま王都を――帰る場所を失ったのだから。
王城跡地では見られなかった衝突や小競り合いがあちこちで起きている中、ククはもっとも不穏な空気を放つ本陣の方へと向かっていた。
篝火も魔力による灯もなく、屋外の景色は暗い。
これまでのことはあまり考えないようにしていたし、実際それも半分程は成功していたが、それでも過る不安はあった。
ディオンと桃、それにミナベル。
彼らの姿が見付からない。反応を探っても捕捉することが出来ないから、ククたちとは離れた場所に転移したのだろう。
彼らのことが心配だった。いっそ何もかもなげうって仲間を探しに行きたいと、先ほどから何度も心が訴えている。
しかし、それは今ククが何を差し置いてもやるべきことではなかった。
「…………」
薄闇の中、ククは右手を掲げる。掌にべったりと付いた、黒く乾いた血。指先を強く握りこむと爪が肌に食い込み、拳が震えた。肉体的な痛みで心を誤魔化しつつ、けれど自分のやるべきことだけは見失わないように、ゆっくりと前を向く。
王の天幕に入ると、それなりに広い内部は無数のざわめきと殺気に近しい剣呑な空気で満たされていた。先へ進めば進むほど、人々の困惑した声、怒号が大きくなる。
やがて陣幕の壁際で、アストリアが側近や大臣たちに囲まれているのが見えてきた。ミソラとザングが主君に詰め寄る者たちを大声で制止しているが、あまり効果はなさそうだ。
「……陛下」
声をかけると、その場にいた全員の視線が突き刺さった。
空気が一層冷えていき、攻撃的なものへと変わる。実際何人かは今にもこちらに飛びかかってきそうな顔色をしていた。
動じるな、と言い聞かせ、ククは主の顔だけを見た。
「あの塔を一刻も早く壊さなくてはなりません」
この野営地からその存在を目視することは出来ない。だが、あの歪んだ塔は未だ存在しているはずだ。
そして、そこにはライックがいる。その確信があった。
「あの塔にいる男を止めなければ、この世界は滅びます」
「……この世界の敵が誰であるか、君は知っているのかい?」
「はい。彼はわたしのもう一人の兄です」
「何を馬鹿なことを……!」
「きちんと説明しろ!」
誰かの声に追従していくつもの激しい声が重なり合う。
しかし、その直後。
「黙れ!」
ザングの雷のような一喝に皆が思わず息を呑む。巌のように頑なな、けれど冷静な瞳がククに向けられた。
「……説明を」
「……限られた時間で詳しくお話することは難しいです。ただ、敵はあの歪な塔でこの世界のすべてを滅ぼそうとしている。それを止めない限り、未来はありません」
「お前はこの事態にどこまで関与している? ……お前はこの国の……陛下の敵でないと誓えるのか?」
当然の疑念だ。だから傷付きはしない。
「もしわたしがもっと正しい道を歩めていたら、何かが少しでも違ったら、こんな事態にはならなかったのかもしれません。だけど、これだけは信じてください。わたしはこの国を護りたい。この国を失うわけにはいかない」
その思いには一片の嘘もない。
アルスが残したこの国を守りたかった。あの王都で生きてきた事実を失くしたくなかった。あの場所は――この世界は、確かにククの居場所だった。だから、失えない。失うわけにはいかなかった。
「実際どうするつもりだい?」
問うてきたのはアストリアだった。
「敵に攻め込むとしても我々はこの状態だ。まともに戦うことなど出来ないだろう」
悲観的な言葉だが、不思議とその顔はそこまで沈んでいなかった。
「それでも可能な限り兵を集めて、あの塔……敵地へ向かうべきだと思います。敵との兵力差についてはわたしが対処します」
「出来るのかい?」
どうするのかではなく、可能かどうかを王が訊く。
それならば、こちらの返答にも迷いはなかった。
「はい」
少し長い沈黙を挟んで、王が溜め息を吐いた。
「ここでこうしていても埒が明かないしね。君に従おう」
「陛下、しかし……!」
「不満がある者はここに残っていればいい。いや、別にここを去っても構わない」
アストリアは苦い微笑みを浮かべていた。
「ここには玉座も城もない。君たちと同じように、すべてを失った男がいるだけだ。そんな者に仕えるのが嫌だというのなら、私に止める権利はない。……ただ、たとえ形あるものを失っても、この国を守るのが私の責務だ」
馬鹿馬鹿しい、と誰かが呟いた。すぐに半数以上の者たちが去っていったため、天幕の中は一気に静かになった。
「陛下、私もお供もします」
「もはや二勇ですが、いないよりはマシでしょう」
ミソラの言葉に続いたザングが、ククを振り返った。
「私はお前に同情しない。共感もしない。私の目的はただ陛下をお守りすることだ」
「そのためにも、わたしに力を貸してください」
「……承知した」
その顔には勿論親しみなどなかったが、それでも構わなかった。
ククはほっとしながら、一同に頭を下げた。
天幕の外に出ると、まだあちこちから喧噪が聞こえてきた。
これからやらなければいけないことを整理しつつ、ククは暗い夜空を仰いだ。
頭上の月は城で見るよりも大きく見えたが、薄い雲に覆われ光は弱い。天気はしばらく保ちそうだが、どのみちいつまでもこの地にいられるわけではなかった。
決着をつけなければならない。




