第7話
物心つく頃にはもう、杏里は自分が生まれてはいけなかった存在だということに気が付いていた。
生家である屋敷の外には滅多に出してもらえなかったし、たまに外出が許された時も他人と会話することはおろか、傍に近付いてくる者もなく、ただ大人たちが遠巻きにひそひそと囁き合うのを目にするばかり。
屋敷の中でさえ、当時はまだ大勢いた使用人の誰もが自分を避けていることははっきりと感じたし、たまに自ら話しかけてくる人間は往々にして杏里に対する悪意と嫌悪を隠さなかった。
元は腕利きの薬師でこの家には婿養子として入ったという杏里の父が、娘が生まれた数日後に里から出て行ったと教えてくれたのも、そうした者の一人だった。
そんな環境で、どうして自分が望まれて生まれてきた普通の子供だと思うことが出来ようか。あたしは生まれるべきではなかった。そう理解することは、自分が存在する理由や価値を見出すことよりずっと容易かった。
ただ、そんな世界に二人だけ、杏里に優しい人間がいた。
一人は、母であり里長でもある白馬。もう一人のその人は、よく杏里を膝に乗せ、歌うように囁いた。
「可愛い杏里。ばばさまも、生きていたらお前を抱きしめて離さなかっただろうよ」
それは杏里の祖父、保だった。
早くに妻を亡くした彼は、娘の白馬を常に気にかけ、孫娘である杏里のことも周囲の白い目になど構わず可愛がってくれた。
杏里が大人の意地悪な言葉に傷付いて泣いていれば、余所の町から取り寄せた絵本を何冊も読んでくれた。白馬にも内緒でお菓子をくれた。庭で一緒に遊んだり、絵を描くことや沢山の歌を教えてくれた。
普通ではないはずの杏里に対して、祖父は当たり前のように優しく傍にいてくれた。杏里も日に焼けた保の優しい顔を前にすると、まるで普通の孫娘のように彼に甘えられた。その愚かな夢から醒めるまでは。
保には、何よりも大切にしている宝物があった。それは綺麗な硝子の玉が下がった首飾りで、彼の妻、恩が存命だった頃に彼女から贈られたものだという。
――ばば様は夕焼け空が大好きだったから、私の瞳も気に入ってたんだ。
茜色の硝子玉と、同じ色をした自身の瞳を指差して、祖父は杏里にそう教えてくれた。
保は一時の病が元で家督を早々に白馬に譲っていたものの、元里長として周囲からの信頼は厚く、人々から敬愛される存在だった。
しかし、そんな彼の立場も杏里が生まれてからは徐々に揺らぎつつあった。
それは、杏里が十を迎える誕生日の、数日前のことだった。
これまで毎年、保は杏里の誕生日には贈り物を与えてくれた。
ある年は珍しい花から作った甘いお茶だった。別のある年は綺麗な花柄の帯紐だった。
それらは全部、桜花の里のものではない。
折角のお祝いなのだからと、保は毎年わざわざ山を越えた先にある祈紋の村まで出かけていって贈り物を買ってきてくれるのが常だった。
その年も、保はまだ日も昇りきらない内から外出の準備を整えていた。
「杏里ももうお姉さんだから、今年はいつもより大人っぽいものがいいかね」
そう言って玄関先で微笑む祖父を、杏里は嬉しさと、それ以上の不安を抱えながら見上げた。
「おじいさま、ありがとう。でも……どうかお気をつけて」
本当は贈り物など要らなかった。大事なおじいさまが近くにいてくれることの方がよほど嬉しかったし、危ない道を通らなければ着けない隣村になど行ってほしくなんてなかった。
けれど、そう正直に言ってしまえば、保を落胆させ、悲しませてしまうような気もしていたから、本音を伝えることは出来なかった。
「父さま、あまり無理はなさらずに……」
心配する白馬の声に、保は仕方なさそうに苦笑した。
「なに、そんなに心配しなくて大丈夫だ。いつも通り一晩向こうに泊まって、明日の昼には戻ってくるよ」
「分かりました……。行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃいませ、おじいさま」
屋敷を出ていく保の背中を、杏里は母の着物の袖を引きながら見送った。きっとすぐに帰ってくる。そう信じて。
だが、翌日の朝になり、昼を迎え、夕方が訪れても、祖父の姿は戻らなかった。夜が少しずつ深くなり、屋敷の人間たちが騒ぎ出しても帰ってくる様子がない。
捜索に飛び出した白馬が再び屋敷に戻ってきたのは、深夜遅くになってからだった。
白馬は、負傷し、ぼろぼろになった祖父を抱えて帰ってきた。
「おじいさま!」
杏里は屋敷の奥に運び込まれた保を追って、彼が横たわる布団の傍らに膝をついた。固く握られた手に触れれば、その肌は氷のように冷たかった。大事に着ていた着物も破れ、腕や足のあちこちに打ち身や擦り傷が出来ている。いつもきちんと整えている銀色の髪にも、乾いた血がこびりついていた。
「おじいさま、しっかりして!」
傷だらけの顔で目を閉じていた祖父が、声に反応してわずかに瞼を開き、目の前の杏里を認識した。
その一瞬。いつもと何か異なる色が、彼の目の奥に浮かんだ気がした。
「…………」
天井を仰いだまま、保が固く閉じていた掌を開く。
布団の上に散らばったのは、細工の砕けた首飾りだった。
「杏里は部屋に戻ってなさい」
「でも……」
「いいから。お願いよ、杏里」
白馬に請われ、杏里はなかば追い出されるようにして部屋を出たが、そのまま自室に戻ることはしなかった。
隣室に忍び込み、不安で震えながら耳を澄ませていると、白馬の弱々しい声が聞こえてきた。
「今医者を呼びに行かせています。……父さま、先ほど仰っていたことは本当に……?」
「ああ、若い連中だろうな」
保の苦しげな声が、それに答える。
「顔はよく見えなかったが、五人くらいはいたようだ。……私の注意不足だったよ」
「そんな……あんなところから突き落とすなんて、よくもそんなひどい……恐ろしい真似を……」
「ひどいのは、私も同じだ」
長い、長い間があった。
ちゃり、と小さくかぼそい音がした。
祖父が首飾りに触れたのだと、杏里には分かった。
「思ってしまったんだよ。あの子でなく、恩がまだ生きていたらと……。あの子さえいなければ、こんなことにはならなかったのかと……」
「父さま……」
「私はあの子を愛してきたつもりだった。恩があの子に向けたであろう愛情……いや、恩に向けたかった私の愛情を、向けてきたつもりだった。けれど、本当は……」
「父さま、やめて……! そんなこと聞きたくない!」
白馬の悲鳴のような声を聞きながら、杏里は後ずさった。
体の中心がずきずきした。震えが止まらない。固く目を閉じると、先ほどの祖父の表情が蘇って――心の底が冷たくなった。
(ああ、あれは……あの目は……)
(あたしを、拒絶してたんだ)
祖父が亡くなったのは、それからひと月も経たない内だった。
***
暗い。
何も見えない。
あたしはまだ意識を失ったまま、過去に囚われているのだろうか?
そう思って身じろぐと、全身に鈍い痛みが襲い掛かった。
「……う……」
自身の呻き声が耳に届いて、杏里はこれが現実であることを認識した。しばらくじっとしていると目も少しずつ慣れてきて、そこがさほど広くない、だが奇妙な空間であることが分かった。
床と壁に継ぎ目はないようだ。恐る恐る起き上がり、中腰の状態で上方に手を伸ばしてみると、ざらっとした固い感触が指先に触れた。立ち上がれば間違いなく頭を打つだろう。
ここは、どこ?
額を押さえ、記憶を辿る。屋敷に乗り込んできた里の連中。母様を怒鳴りつける声。それから――蜘蛛が、現れた。
「あの蜘蛛は……」
「杏里ちゃん?」
突然の声に、杏里は飛び上がりそうになるのを何とか堪えた。
振り返ると近くに人型の影が横たわっている。
目を凝らせば、どうやら屋敷で出会った少女のようだ。
「あんた……」
「あ、やっぱり杏里ちゃんだ! 暗くてよく見えなくて。大丈夫? 怪我はしてない?」
「あっ、待って……」
立ち上がらない方がいい。そう警告を発する前に、ごん、と鈍い音が響いた。勢いよく立ち上がった少女が、よろよろとその場に崩れ落ちる。
「い、いたたたた……」
「……何やってるのよ」
「うう……狭いね、ここ……」
ぶつけた頭を押さえながら、小柄な少女は這うようにして杏里に近付いてきた。きょろきょろと周囲を見回して、不思議そうではあるものの、微妙に緊張感の薄い顔で杏里を見上げる。
「あと、なんだか変な音がしない? 人の声、みたいな」
ああ、やはり空耳ではなかったのか。
杏里は先ほどから抱きつつある予感を確信へと置き変えた。
「ここ、どこだろうね」
「あいつに取り込まれたんだと思うわ」
「あいつって、さっきの蜘蛛のこと?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
「杏里ちゃん、あの蜘蛛が何なのか知ってるの?」
杏里は頷いた。
「あたしはあいつを知ってる」
そしておそらく、相手もあたしを知っている。
私と一緒に東の塚に行きましょう。
杏里が白馬からそう告げられたのは、十五を迎える誕生日の半月ほど前だった。その言葉の意味は分かっていたけれど、特に動揺はしなかった。いつかこんな日がくることも、自分に拒否権などないことも、とっくの昔に分かっていたから。
保が亡くなった後も白馬は変わらず杏里に優しかったが、そんな里長を見限る者たちは多かった。使用人のほとんどが屋敷を出ていき、代わりに外から石が投げ込まれることさえあった。
白馬の桜花での立場そのものが厳しくなっていることは、杏里の胸を強く苦しめていた。
あたしは元々望まれなかった命だ。生まれてくるべきではなかったものだ。だから、その誤りを里長であり母親である白馬が清算するのは至極まっとうなこと。
何も間違ってなどいない。正しいことだ。
そう思っていたからこそ、連れられた塚の最奥で山と積まれた食料を前に「ひと月我慢して」と白馬が言い出した時、杏里は自分が何を言われているのか理解することが出来なかった。
「母様?」
杏里の声に滲んだ混乱を不安と受け止めたのか、しゃがみこんだ白馬が杏里の両肩を抱いた。
「本当にごめんなさい。だけど少しの辛抱だから……。ひと月したら必ず迎えにくるわ。そうしたら一緒にここを出て、これまで通り屋敷で二人で生きていくのよ」
「これまで通り? あたしはここで死ななくてはいけないんじゃないの?」
「そんなことさせないわ!」
礫を投げるような声が、杏里を打った。
「そんなこと、誰にもさせない……! だけど、このままでは皆が納得しない。だから……」
「だから、あたしを死んだことにするの?」
返ってくる言葉はなかったが、白馬の目に灯った頑な光を見れば答えは明白だった。
でも、と杏里は思う。
あたしは死ななくてはならないのに。生きていてはいけないのに。どうして? どうして――どうして、あたしはまだ生きていなくてはならないの?
だが、結局その問いを投げかけることは出来なかった。
白馬が立ち去った後の塚で、無数の棺たちに囲まれながら、杏里はじっと、ただただ時が過ぎるのを待った。
明かりは魔力灯が投げる弱々しい光のみ。昼夜の区別がつかない空間では、時間や日付の概念はすぐに跡形もなくなった。
空腹を感じれば食料に手をつけ、喉が渇けば塚の奥に流れる湧き水に口を付ける。眠気を覚えれば、横になって目を閉じた。生きるための行為には常に拭いようもない違和感がつき纏っていたが、何もかも放棄して死を選ぶことも出来なかった。
それは白馬を裏切ることだから。
杏里は待った。自分が本当に心から母親の迎えを待っているのか分からないまま、ただ、待った。
そうして時間をやり過ごす内、杏里はそれに気が付いた。
最初は空耳だと思った。次には、塚の外で里の人間が何かしているんだろうとも考えた。けれど、その音は虚の内部で次第に大きくなっていき、やがて杏里はそれが人間の囁き声であることを理解した。
聞こえてくる人の声は、一人だけのものではなかった。何人。いや、何十人。男のものもあれば、女のものも聴こえてくる。潜めた声で囁き合い、不意に途絶え、また不意に再開し、その繰り返しの中で、少しずつ存在感を強めていく。
声は「何故」と杏里に問うていた。
何故。何故、お前は死なないのだ。そう繰り返す。
何故お前だけが。何故、生きている。何故。何故。時に女の声で、時に男の声で。起きている間も、眠っている間も。耳を塞いでも、ずっと、繰り返す。
だから問われる度に杏里もまた繰り返した。
そんなの、あたしにだって分からない。でも母様を待っているから。待たなければいけないから。だから、死なない。死ねない。放っておいて。構わないで。
だが、いくら答えても非難の囁きは消えなかった。
次第に杏里の体は弱っていった。
食べても眠っても、体が重く、怠かった。濡らした布で体を拭いても、いくら拭いても、腐臭が落ちない。怨嗟の声に囲まれ、内側から腐っていく自分を認識するのは、ただ死ぬことよりずっと恐ろしかった。
それから、どのくらい時を経たのかは分からない。あれほど大量に用意されていた食料もほとんど尽きかけた頃、塚に人影が現れた。
「杏里……! ごめんなさい!」
杏里は駆けてきた白馬に強く抱き締められた。汚れているからと体を離そうとしても、腕の力は緩まない。
抱擁が解かれるまでには、随分長い間があった。
「さあ、行きましょう」
泣き腫らした目の白馬に手を引かれ、杏里は歩き出す。
その時、再び声が聞こえた。
――何故、お前ばかりが。
杏里は思わず立ち止まり、振り返った。だが、辺りには物言わぬ棺が並ぶばかりだ。
何もいない。そう安堵しかけて、杏里は息を呑んだ。
塚の石壁に、巨大な異形の影が映っていたから。
「母様は気付いてなかったみたいだけど、あの時見た影は確かに蜘蛛の形だったわ」
杏里はそう少女――そういえば、確かククとか名乗っていただろうか――に説明した。
先ほど襲い掛かってきた蜘蛛は、恐らく杏里が塚で見た影と同じものだろう。いや、あの影の実体とでも呼ぶべきだろうか。
何より、声がするのだ。
今はささめきのようで、はっきり言葉は聞き取れないが、それでもそれがあの塚の中で聞いた声と同じものだという確信が杏里にはあった。
ククは、小首を傾げて杏里を見た。
「……えーと、つまり、あの蜘蛛は塚の主ってところかな?」
「多分ね」
確たる証拠はない。だが、恐らくあれの存在には、あの場所で殺された者たちの恨みや憎しみが大いに関わっているはずだ。
それだけは、理屈を超えて断言することが出来る。
「とにかく、ここを出なきゃね」
そう言ってから、ククは困った顔をした。
「杏里ちゃん、何か武器になるものって持ってない?」
「持ってないわ」
白馬を守るために持ち出した長刀は意識を失う前に手放してしまったし、他に持っているものなど何もない。
それに。
「ここを出る、か……」
ここから出て、それで、どうする?
目の前の少女はともかく、あたしの存在はこの桜花の里に望まれていない。望まれているのは、死、のみだ。
「……杏里ちゃん、ここから出たくないの?」
ククの空の色をした瞳が、案じるように揺れている。
そうだ、この子は無関係だ。思い返せば、屋敷に蜘蛛が現れた直後、この子はこちらに駆け寄ってこようとしていた気がする。そのせいでここまで巻き込んでしまったのだろう。
何はともあれ、ククだけは外に出してやらなければ。
(でも……)
頭がぼんやりして、固めたばかりの意志がくしゃくしゃと小さく縮んでゆく。あたしはここから出られなくていい。出る必要がない。そう思うと何もかもが面倒で、体も心も、どんどん重くなっていく。
「杏里ちゃん! しっかりして!」
「っ」
叫び声で杏里は我に返った。いつの間にかククの小さな掌が、杏里の右の手首を引き留めるように掴んでいた。
(あたし、この場所に呑まれかけてるんだ……)
けれど、そう理解したところでどうすることも出来ない。
「……あたしは……ここから、出てはいけない……」
まとまった思考が霧散して、まとわりつくようなさざめきが耳の奥で大きくなる。この声を受け入れれば楽になる、そんな予感があった。
「あたしは、生きていたらいけない」
それはずっと前から、生まれた時から決まっていたことだ。今更覆すことなど出来ない。誰も杏里の存在を望んでいない。
(おじいさまだって……)
保が亡くなった原因は怪我ではない。白馬は頑なに教えてくれなかったけれど、その命を奪った――いや、彼自ら手放させた本当の理由を、杏里は知っている。
何もかも、あたしのせいだ。
母様も、本当はずっと辛かったはずだ。迷惑していたはずだ。
だから。
「あたしは、このまま消えるのが一番いい」
「そんなことない!」
叱りつけるような声と共に、強く肩を揺さぶられる。
放っておいて。そう小さく呟けば、少女は首を振って拒んだ。
「放ってなんかおけないよ。だって、杏里ちゃんはそれでいいの? 本当に消えたって……死んだっていいと思ってるの?」
「……仕方ないじゃない。あたしは望まれてないんだから」
「違うよ。ねえ、杏里ちゃん自身はどうしたいの?」
「あたし?」
「消えた方がいいとか、終わらなければいけないとか、それは杏里ちゃんの気持ちじゃないよ。そうしなきゃいけないって、思ってるだけだよね? 杏里ちゃんがどうしたいのかを、わたし、まだ聞いてないよ」
「あたし、は」
どうしたいんだろう。どうしたかったんだろう。
考えようとすると、また先ほどのように、頭に、胸に、穏やかな闇が広がっていく。考える必要などない。もう諦めて、眠ればいい。終わりの歌声が優しく響く。
……それなのに。
闇底の柔らかな抱擁から引き離すように、掌を握られる感触があった。見下ろしたククの手は小さくて、ふわふわとなんだか頼りなくて、ちっとも安心なんて出来なくて。だけど、違う、だから、だろうか。そうやって掴まれていると妙に胸が騒いで泣きたくなった。
「……あたしは、外の世界に出たかった」
喉を塞いでいた飴玉が、ぽろりと零れ落ちた。
存在すら忘れていたそれは、甘い夢の味がした。
「よく、おじいさまが教えてくれた。この里の外には沢山の町や素晴らしい景色があるんだって。色んな人がいて、色んな考え方があるって。あたしはそれを見たかった……」
「だったら……」
「でも、駄目なの。無理だったのよ」
杏里は首を振った。
まだ保が生きていた頃に、ある夜、家族三人で里を出ようとしたことがある。それがただの外出のつもりだったのか、もっと違う意味を持っていたのかは分からない。どちらにせよ外に出ていくらも歩かない内に杏里は意識を失い、再び目を覚ました時には屋敷の布団の上に寝かされていた。
室内には白馬と保の姿はなく、高熱に朦朧としていると廊下から使用人たちの声が聞こえた。
――奥様も浅はかね。呪い子は里を出られないって話じゃない。
――どうしても出してやりたかったんじゃない? うまく連れ出して、あの子が外で死んでくれたらよかったのに。
それで、理解した。
「あたしは……鬼の目は外に出られない」
動けないほどの高熱は二月ほど続いた。保と白馬にとってもあれは一度限りの賭けだったのだろう。二人はそれきり杏里を外の世界に連れ出そうとはしなかったし、杏里も出ようと思わなかった。同じ結果に終わるのが分かりきっていたからだ。
「だから、どちらにせよ、あたしの願いは叶わない」
ククは眉を寄せて杏里の言葉を聞いていたが、やがて言った。
「ううん、きっと何か方法があるよ」
何の根拠もないことを能天気な顔で言ってくる。そのあまりに気楽な顔を見ていると、腹立たしさを通り越して、いっそ本当に大丈夫なんじゃないかと錯覚してしまいそうだった。
「諦めずに探したら、きっと何か方法があるよ。わたしも一緒に探すから」
「一緒に?」
「杏里ちゃんの願いを叶える方法を一緒に探すよ。わたしが必ず杏里ちゃんを外の世界に連れてくから、一緒に頑張ろうよ。大丈夫、ここから出る方法がきっとあるように、杏里ちゃんが里から出られる方法だって必ず見つかるよ。ね?」
「……なんで、そこまでしてくれるの」
望まれないあたしに。生きていてはいけないあたしに。
どうして、この子は手を差し伸べようとするのだろう。
ククは空色の瞳を瞬かせて、だって、と微笑んだ。
「杏里ちゃん、泣きそうだったから。初めて会った時からずっと心細そうだったから。困ってる女の子を放っておけないよ」
「女の子、って……」
自分だって、というか、自分の方がよっぽど女の子じみた顔をしているくせに。
しかし、杏里が文句を言う前にククが付け加えた。
「それに、杏里ちゃんは自分が望まれてないって言ったけど、わたし、出来たら杏里ちゃんと友達になりたいな。それじゃ、望まれてることにはならない? わたしじゃ足りないかな?」
「……馬鹿、なんじゃないの」
ぼやける視界で呆れた瞬間、頭を過ぎったものがあった。
「……あるかもしれない」
「え?」
「武器になるものが、あるかもしれない」
着物の袂を探ると、指先に固い感触が触れた。
取り出した銀のかんざしを、杏里は手のひらに握りしめた。
「杏里ちゃん、それは……」
「いいから。下がってて」
祖父の最後の贈り物を両手で振りかざし、杏里は目を閉じた。手の内にあるのは保が亡くなる直前、それを手渡してくれた時とまったく変わらない、銀の冷たい感触だ。
保は何も言わなかった。
杏里も何も言えなかった。
(優しくて温かったあの人を、あたしが傷付け、苦しめた)
だから、本当は愛されていなかったのだとしても、憎まれていたのだとしても仕方ない。そう思う。どれだけ謝ったって足りはしない。もう届かない。
けれど。
(あなたがあたしを憎んでも、あたしはあなたを愛してた)
だから、どうか。
(おじいさま、ごめんなさい)
そこに少しは愛があったのだと、どうしても縋りついて信じてしまうあたしを赦して。
目を瞑ったまま、杏里は腕を振り下ろす。
かんざしの切っ先が床に突き刺さり、ばりん、と何かが割れるような音が、体と闇に響き渡った。
「……っ」
恐る恐る目を開くと、床に拳ほどの穴が開いていて外から風が吹き込んでいた。しかし、良かったと思う間もなく、穴は傷口を埋めるようにどんどん小さくなっていく。
先端の欠けたかんざしが、杏里の手の中から転がり落ちた。
(やっぱり、ダメだ……)
そう諦めかけた時、横から手が伸びた。
「杏里ちゃん!」
塞がっていこうとする穴の縁を掴んで、ククが叫ぶ。
「お願い、手伝って!」
声に突き動かされるまま、杏里も手を伸ばし、裂けた地面の端を掴んだ。力を込めると、空間を満たしていた囁き声がざわめく声へと変化する。
更に強く腕を引くと、ざわめきは断末魔の悲鳴となった。
少しずつ、出口が広がってゆく。
(あたしは、ここから出る……!)
差し込む光と風が、杏里を包んだ。
***
「う……いたたたた」
突然勢いよく地面に投げ出されたククは、よろめきながら立ち上がった。
茜色の陽射しで目が眩む。頬を少し冷えた風が撫でている。
外に出られたらしいと分かったが、その喜びを噛みしめる前に頭上から甲高い悲鳴のような声がした。
ククの真上に、あの巨大な蜘蛛がいた。
腹のあたりが大きく裂けているが、開いた傷口から見える体内には血も内臓も存在していないようで、ただ黒い虚が広がっていた。あの中に閉じ込められていたということだろうか。
「っ……う……」
背後から小さく呻く声が上がった。
「杏里ちゃん!」
よろよろと体を起こす杏里に、ククは慌てて駆け寄った。彼女も体を打ったようだが、他に外傷はなさそうだ。意識もはっきりしている。
ククはほっとして、杏里に手を差し伸べた。
「平気? 立てる?」
「……あんた、無事だったのね」
良かった、と小さく呟いた杏里は、ククの手を取って立ち上がった。
「っていうか、ここは……?」
「えーと……」
周囲を見回したククは、自分たちと蜘蛛を囲むように人々が集まっていることに気が付いた。
皆それなりに距離を取り、怯えた顔をしているが、不思議と逃げ出そうとする者はいない。視界を遮る蜘蛛の足に目を向けて、ククはその理由を察した。
ククと杏里を囲む無数の細い足は、まるで地面に縫い付けるかのように氷で出来た槍状の物質によって貫かれていた。そのせいで身動きが取れない蜘蛛は、ただただ人ならぬ叫びを上げている。
「アッ君」
里の人々より手前、蜘蛛のほんの鼻先に、夕焼けに照らされたアルスが静かに立っていた。常と変わらぬ無表情だが、足元がうっすらと青く輝いている。蜘蛛の動きを止めたのは彼の魔法のようだった。
とりあえず、蜘蛛の腹下から離れなければ。
ククは杏里の手を引き、歩き出そうとしたが、彼女の体はその場から動こうとはしなかった。
「……杏里ちゃん?」
振り返ったククは、息を呑む。
杏里の足首に、細く黒い糸が幾本も絡みついていた。
「あああっ!」
降り注ぐ蜘蛛の叫びに、杏里の悲鳴が重なった。
ククの手を振りほどき、崩れるように蹲る。
「杏里ちゃん、しっかりして!」
ククも彼女の傍らにしゃがみ込んだ。杏里の伏せた顔は土気色で、呼吸が乱れ、水を被ったように汗が流れ落ちている。
苦しんでいる。だけど、どうしたらいいのか分からない。
「……クク」
「アッ君……!」
ククは半ば縋るようにアルスに顔を向けたが、すぐに彼を取り巻く空気が変わっていることに気が付いた。魔法を使う気なんだ。そう直感する。
「これを処分する。そこにいたら巻き込むけど」
アルスはこともなげに言う。
「待って! 杏里ちゃんの様子がおかしいの! 蜘蛛に手を出しちゃだめ!」
それもまた直感だった。杏里を捉える黒い糸は蜘蛛の腹から覗く暗い闇へと続いている。この状態で蜘蛛に危害を与えれば、杏里にも何か影響があるかもしれない。そう思ったのだ。
アルスは怪訝そうな顔をしながらも、こちらへと近付いてきた。ククの傍らで杏里を見下ろすと、ああ、と納得したような声を出す。
「アッ君、まずはこの糸を何とかしないと……」
「無理だろうね」
「無理って……」
にべもない言葉に戸惑いながら、ククは黒い糸を掴んだ。軽く引っ張ってみるが、容易に引き千切れそうもないし、そもそも千切ってしまっていいものなのかも分からない。
その間も杏里の苦しそうな呻きは続いていた。
堪らず再びアルスを仰ぐと、冷ややかな眼差しが返ってきた。
「君の力でどうにか出来るものじゃない。これは、この女に与えられた呪いのようなものだから」
ククから視線を外し、アルスは杏里を見下ろした。
「あんたが忌み子である限り、それはあんたを離さない」
殺せ、という怒声が聞こえて、ククは顔を上げた。
声を放ったのは周囲を囲む人々だった。
殺せ。殺してしまえ。次第に高まっていく輪唱は、蜘蛛の悲鳴さえをも掻き消して、あたりに不快な音を広げていく。
「うるさい」
吐き捨てるように呟いたアルスが振り返りざまに片手を薙ぐ。途端、ばきりと乾いた音がして、地面にいくつもの氷の刃が突き刺さった。悲鳴が方々で上がり、逃げ出す足音が交錯する。
「アッ君!」
「攻撃はしてない。威嚇しただけだ」
「そういう問題じゃないよ!」
とは言え、アルスに脅された人々は大半がどこかへ去っていき、残った者たちもぴたりと口を噤んでいた。
今はとにかく杏里を助けなければ。
ククが再び黒い糸の束を掴んだ時、顔を上げた杏里が真っ直ぐな視線をアルスに向けた。
「あんた……」
「何?」
「あんた、さっきあたしが忌み子だから助からないって……そう言った?」
絞り出すような声に、アルスはあっさり首を振った。
「少し違う。あんたが忌み子である限り、それはあんたを離さない。そう言った」
返答を受け、杏里は唇を引き結んだ。
「分かった。そういうことね」
「杏里ちゃん?」
「……いいわ」
止めようと伸ばしたククの手を優しく遠ざけて、杏里は傍らに落ちていたそれを拾い上げた。
絡みつく何かを吹っ切るように、彼女はククに微笑んだ。
「いいわよ、あたしは受け入れる。……それで生まれ変われるというのなら」
歪に欠けたかんざしを、杏里は自らに突き立てた。




