第69話
俺は自分のしてきたことを後悔していない。
というか、後悔するほど強い思いを抱いてここまで至ったわけではないから、後悔しようもないと言うべきだろうか。
人生を捧げるほどの祈りも希望も絶望も、俺にはない。大切なものも、許せないものも。
だけど、自分でもよく分からない、説明がつかない行動や感情がないことはない。
今まさに目の前に存在しているそれも、その一つだ。
その存在についてわざわざ記録しようとしていることすら、不可解の一つではあるけれど……まあいいか。
ある女について、書いておこう。
彼女に接触した目的。それは、ただの興味だった。
六年越しの目覚めからしばらくした頃、かつて俺に傷付けられ、それでも生き残った人間がどういう風に生きているのか、ちょっとした好奇心が湧いたんだ。
興味を持った時点で直接会いに行ってもよかったのだけど、ここでちょっとした懸念事項があった。
以前とは違い、俺の顔には巨大な傷が走っている。別にそれで何か支障があるわけではないものの、「変わり果てている」と言ってもいい程度にはもう昔の俺の見目ではない。こんな俺を目にして、彼女は――杏里は何を考えるだろう? ふとそう思ったのだ。
と言っても、別に好感を抱かれたいと思ったわけじゃない。問題は、彼女が俺を哀れむことで、かつて彼女に与えた苦痛が癒えてしまうようなことになるのではないか、という点だった。
そうなったら面白くない。俺が見たいのは、そんなものではないのだから。
だからひとまず直接の接触は避けることにした。
黒塚に状況を調べさせると、彼女は他の仲間たちとは別れ、あちこちの町を点々とする生活を送っているのが分かった。
それも一人ではなく、桃という名の娘と一緒に。
正直、娘のことなどどうでもよかった。俺の血を引いているらしいとはすぐに知れたが、それでどうというわけでもない。どうでもいい存在。どうでもいい命だった。
けれど母親である杏里にとって、桃は取るに足らない存在ではないらしかった。娘の姿を見れば、誰が父親であるかは明らかなのに、それでも厭う素振りがないという。
真っ先に感じた意外な気持ちが薄れると、次第にそんな価値のないものを大切にしている杏里のことを馬鹿馬鹿しいと思うようになった。
愚かな彼女の目の前で娘を取り上げて、戯れに殺してみたらと想像してみたこともある。きっと彼女は苦しむだろう。俺を改めて憎悪するに違いない。そう思ったが、しかしすぐにそんなことをする意味も必要もないことに気が付いた。
杏里の体は、壊れかけていた。
その原因がかつて俺が彼女にしたことにあるのは間違いなかった。ただ、それでも娘さえ生まれていなければ、損なった生命力を娘に分け与えずに済んだなら、彼女が十分年老いて死ぬことは可能だったろう。となると娘のせいだということになるが、その娘が俺の子供でもあることを考えると、いずれにしてもすべての原因が俺にあることに変わりはない。
少しずつ杏里の体は壊れていく。
俺が傷付け、手を下す必要などなく、彼女は死ぬ。
であれば、姿を隠す必要ももうないだろう。
そう判断した結果、俺は彼女に接触することにした。
もっとも、初めから俺自身が彼女の前に姿を現したわけではなかった。
杏里への伝言を頼むと黒塚は妙な顔をしていたけれど、退屈しのぎになると思ったのだろう、特に文句を言うでもなく彼女の元へ向かっていった。
「俺なら君を助けられる。だからこちらに来る気はないか」
黒塚に頼んだ伝言はそれだけだ。
後から聞いた話によると、突然現れた黒塚と、黒塚が告げた俺が生きているという事実に対して、彼女はひどく動揺している様子だったそうだ。予想通り、当然の反応だ。
そして、伝言に対する彼女の答えは「否」だった。拒絶と呼んでも差し障りはないだろう、と黒塚は言った。混乱しながらも迷うことなく、彼女は黒塚を――そして俺を拒絶した、と。
勿論、素直に分かったと言うわけがないとは思っていたけれど、それにしたって彼女は自分の状況を分かっているのだろうか? いくら鈍い人間だったとして、自らに迫る死の足音が聞こえていないとは思えなかった。その状況を打破出来る存在をそう迷いもなく拒めるのだろうか?
そこまで考えて、すぐにその相手が俺だからかもしれない、ということに思い至った。彼女は俺のしたことを許していない。俺を許していない。だから、救いを拒むのだ。
そうと分かって、俺は安堵した。
何故そんな気持ちになるのかは、よく分からなかったけれど。
それからも俺は何度も杏里の元に黒塚を差し向けた。
毎回同じ伝言を託しても、彼女の答えは変わらなかった。
ただ、不思議なことに、彼女は黒塚と俺の存在をかつての仲間に報告していないようだった。魔法使いとその妹がいる王都にも探りは入れていたけれど、目立った動きやこちらを捕捉するような気配は見られない。杏里が彼らに俺の存在を伝えていれば二人も動きだすだろうに、その様子はまるでなかった。彼らが動いたところで驚異になる恐れはなかったものの、杏里が選ぶ沈黙は俺には意外なものだった。
そんなある日、いつものように彼女に接触した黒塚が、俺の部屋に来るなり口火を切った。
「あんた、知ってて俺に黙ってたのか? 黙ってるなんて人が悪いぜ」
意味が分からず黙っていると、黒塚は面食らった顔をした。
「もしかして知らなかったのか? あんたの娘だよ。随分面白い素材じゃねえか」
詳しく聞けば、黒塚がいつも通り杏里と会話をしているところに、初めて彼女の娘、桃が割り込んできたという。少女から強い魔力を感じたと黒塚は言った。
桃の持つ力のことなど、俺はまったく知らなかった。そもそも、そこまで興味関心を持って彼女を見ていなかったからだ。
どうせ役に立たない、使えない子供だと思っていたけれど、力を持っているとなれば話は別だ。母親と一緒にこちらに引き込めば、何かに利用出来るかもしれない。
しかし、そんな俺の思惑に水をかけるように黒塚がにやにや笑いながら付け足した。
「ところで杏里はいよいよお友達に助けを求めに行ったぞ。どうやら今のあんたの顔を予知したらしい」
彼女と直接話をしよう。
そう決めた俺が向かったのは、寂れた小さな村だった。
彼女は王都に向かう旅の途中で力尽き、宿の一室からもうほとんど動けないようだったけれど、それでも目が醒めて傍らに俺がいることに気付いた瞬間、その顔に激しい驚愕が弾けた。
夕日の差し込む静かな部屋には彼女一人だけだった。娘の姿はなかったけれど、隣の部屋に隔離されているのは知っていた。
彼女は痩せ細っていた。かつての健康的な面影などどこにもなく、桃色だった髪は色褪せ、乾いた皮膚は老人のようだった。
ぎこちなく上体を起こし、震えながら彼女は言った。
「どうしてあんたが生きているの」
弱った体に溢れる恐怖を必死に押し殺しているのが伝わってきて、俺は改めて彼女が憐れになった。
「それなりに色々あってね。俺からも一つ聞きたいんだけど、どうして今になって彼らのところに行こうとしてるんだい?」
どうせ動くなら、もっと早くに動くべきだった。行動が遅すぎたことは、彼女自身が身に沁みて感じていることだろう。
彼女は俺の質問に答えず、牽制するような、険のあるまなざしをこちらに向けるばかりだった。
そんなことをしても何の意味はないのに。彼女一人ではこの現実も、もうすぐ訪れるであろう未来も、何も変わらないのに。
だから、俺は提案した。
「俺なら君を助けてあげられるよ」
君を殺すことが容易いように。君を生かすことだって簡単だ。
だから――。
「一緒に来る気はない? 杏里ちゃん」
偽りのおれが呼んでいた呼び方で彼女を呼ぶと、妙に懐かしい気持ちになった。
けれどそんな感覚を払うように、
「お断りよ」
おれを拒絶する彼女の言葉が、暗くなりつつある部屋に響いて、消えた。
「このままだと君は死ぬよ? それでもいいの?」
誰が見たって、彼女の生命力がいよいよ限界を迎えつつあることは明らかだった。長い間無理やり誤魔化していたものがとうとう抑えきれなくなって、彼女の命を浸食していた。
もう時間はない。
「後悔することなんて、いくらでもありそうなのに」
おれがそう言うと、彼女は眉を寄せた。そこに滲むのは嫌悪と疑念だ。
「……七年前、あんたはあたしを殺すつもりだったはずよ」
「ああ、そうだったね」
確かにそうだ。あのリバリティの城で、おれは杏里ちゃんを利用した。殺すつもりだった。死ねばいいと思った。
「あんたは何を企んでるの? 今更あたしを何に利用するつもりなの?」
そう問われて、おれは少し逡巡する。
……分からない。今更この弱りきった女の存在に価値などはない。利用するつもりも何も、利用しようがないのだ。
何故、と訊かれれば――。
「確かにおれは君を殺すつもりだった。でも、こうやって弱られて死ぬのは面白くないね」
そうとしか言えなかった。
自分でもいまいち釈然としないけれど、それ以外の理由はどこにも見当たらない。
おれが黙り、彼女も黙ると、長い沈黙が訪れた。
窓の外、遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる。
表には何も知らない人たちがごく普通に歩いている。この部屋から隔離された遠い世界。当たり前の日常。
そこに、戻りたいとは思わないのだろうか。
「……あたしのことは放っておいて」
予想はしていた返答だ。
とは言え、意のままにならないものに対して落胆は抑えきれず、自然、おれは長々とした溜め息を吐いていた。
「別にいいけどさ。あの子のことだって心配じゃないのかい?」
何気なく取り出した話題だったけれど、途端、彼女の顔色が変わった。
「あの子は関係ない!」
激しい声が室内の空気を震わせて、おれは思わず眉を上げる。まだこんな体力が残っているとは思わなかった。
彼女は肩で息をしながら、眼帯に覆われていない左目でおれを忌々しげに睨んでいた。
「……さっきの質問に答えるわ。どうしてククやアルスを頼らなかったのか……あんたは、そう訊いたわね?」
赤々と染まっていた部屋が徐々に暗く沈んでいく。もうすぐ夜がやってくる。
深く息を吸い、彼女は続けた。
「そんなの決まってる。……あの子たちに迷惑を掛けたくなかったからよ。……あの黒塚という男を拒絶し続ければ、あんたがこうして現れるんじゃないかと……そうすればあんたと話して、あんたが馬鹿げたことを考えてるなら説得して止めようと……そう、思ってた」
「それは……随分甘い考えだね」
そうね、と彼女が初めておれに同意する。
「それでも、あたしは自分だけでなんとかしたいと……あたしがあんたを止めたいと……そう願ってた。……だけど」
一瞬伏せられた瞳が、再びこちらに向けられる。
「――あんたが桃を傷付けるつもりなら、あたしはあんたを許さない。あんたを止めるのにどんな手段も選ばない。……たとえそのために大切な人を巻き込んでしまうとしても」
ああ、なんて下らない。
心からそう思った。
彼女が命を削って掲げようとするものが、親子の愛情などという陳腐でありふれたものなんて。こんな下らないもの、あんな取るに足らない存在を大切にするなんて。
なんて――なんて愚かなのだろう。
それだけじゃない。
「彼らに助けを求めようが求めまいが、結局君は桃を置いて逝く。それも分からなかったのかい?」
大切なものを守るには、あまりに彼女は弱すぎる。自分の運命を無視して、このまま生きていけるとでも思っていたのだろうか。
「……それは……」
一瞬、彼女は心から悔しそうな表情を浮かべた。けれどそれはすぐに掻き消え、起こしていた体がおれの目の前でゆっくり崩れ落ちていく。
もう、死は彼女の足元までやって来ているのだ。
「奇跡を願うなら、君はおれの手を取るべきだった」
別れ際に告げたその言葉が、彼女に届いたかどうかは分からなかった。
次に俺が村を訪れたのは、彼女の葬儀が行われた日の夜だった。黒塚を伴って目的を果たし、早々に拠点に戻ろうかという頃、ふと俺の耳が小さな足音を捉えた。
そのまま耳を澄ませていると、俺たちのいる場所――墓からは随分離れたところから、男の怒鳴り声と共に聞き覚えのある少女のか細い声が聞こえた。
「どこ行くんだい。こんなところを一人で歩いて、危ないじゃないか」
「一人じゃないです。お母さんと一緒に……」
母親に死なれたはずの子供が、そんなことを言っている。でも、そのお母さんとやらの声は聞こえない。
「お母さん! ……離して!」
再び子供の叫び声。次いで駆けだす足音。どうやら男を振り切って、夜の森を進んでいるようだ。
あの子供――桃は、頭でもおかしくなったんだろうか?
一瞬どうでもいいかと投げ出しそうになったものの、俺はふと母子がアストリアの王都を目指していたことを思い出した。母親が死んだ今、その目的も自然に消失したものだと思っていたが……桃は、一人で王都へ向かおうとしているのだろうか?
とは言え、子供の足で王都に到着するとは思えなかったし、万が一それが叶ったとして後の状況を危惧する程のことでもない。つまり構わないと言えば構わなかったが……気付いた以上、一応阻んでおくのが筋だろう。
黒塚に抱えた荷物を預けて、俺は森の中へ入った。
桃はすぐに見付かった。
切り立った崖際の細い道を恐る恐る歩いている後ろ姿に、俺は溜め息を吐く。
やはりこんな子供が王都に向かうことなど無謀だろう。そうしみじみ思いながら「やあ」と声を掛けると、桃色の髪が流れる小さな背中が蛙のように飛び跳ねた。怯えた顔で振り返った桃が、闇夜に紛れる俺に首を傾げる。
「あの……」
「こんな夜中に何をしてるのかな」
あえて大声で問いかけると、桃はまたびくりと震えた。
「そ、その……アストリアのお城へ行くんです」
「へえ。誰かと一緒なのかい?」
片手で握り潰せそうな頭がこくりと頷く。
「はい……お母さんと……。だけど今、はぐれてしまって……」
「お母さんを探してるの?」
「……はい」
ああ、やっぱりおかしくなっているのか。
呑気に母親の幻覚を見ている姿が無性に腹立たしくて、俺は大股で桃に歩み寄り、迷わず足を振り抜いた。爪先が柔らかい横腹に食い込んで、ちっぽけな体が鞠のように吹き飛ぶ。
斜面を転げ落ちずに済んだのは、運が良かったとしか言いようがなかった。
「っ、う……ううっ……」
地べたに転がった桃は、呻き声を上げている。
弱い生き物だ。
何の役にも立たない生き物だ。
それなのに、こいつは彼女に肯定された。
うずくまる桃に歩み寄り、髪を掴んで無理やり引き起こす。涙の浮かんだ色違いの両目が俺を見上げたかと思うと、そこに先までとは明らかに別種の驚きが滲んだ。俺の容姿――黒い耳と尾を見て、何かを察したようだった。
それには構わず俺は言った。
「君は王都に行く必要なんてないよ」
「っ、な……」
真っ赤な頬を涙が伝う。
「君が王都に行っても、何も変わらないよ。君のお母さんは救われない。だって……」
「わたし、行かなきゃいけないんです」
俺の言葉を遮って、震える唇が言葉を吐き出した。
「だって……そう、お母さんと約束したから」
「……はあ」
親子揃って強情なことだ。溜め息を吐きつつ、髪から手を離す。代わりに喉を掴んでも大して抵抗はされなかった。何をされているのか、よく分からなかったんだろう。
「あ……っ、く……」
薄い皮膚に食い込んだ指に力を込めれば、華奢な首は容易く軋む。こちらを見上げる泣き顔も、みるみるうちに赤紫に染まっていった。
もう少し力を加えてみようかと思ったその時、風が吹き抜け、すぐ近くからかさりと乾いた音がした。
見れば、地面に真っ白い封筒がぼうっと浮かび上がるように落ちていた。
少し迷ったものの、結局俺は桃から手を離し、それを拾い上げた。封筒の表面には「ククとアルスへ」と書かれているだけだったが、その中身は大体想像がつく。友人に助けを求める彼女の手紙だ。
「だめ……っ」
激しい咳の合間から、苦しげな声が俺に訴えた。
俺は視線を戻して、うずくまる桃に手紙を掲げる。
「これ、大事なものなのかい?」
桃は答えない。答えられない。苦しげに喘ぎながら、しかしその両目は俺を真っ直ぐ見ていた。苦痛と恐怖に押されながら、それでも確かな怒りの混じった瞳。表情。
それは、彼女にそっくりだった。
俺は手紙を握り潰し、立ち上がった。
目の前の桃を傷付け、殺すことは容易い。無理やり連れて帰ることも。
……けれど、それをしたところで何になる?
そう、意味はない。
桃の存在そのものだってそうだ。この子供には力があると黒塚は言ったが、実際本人に接してみても、とてもそんな風には見えなかった。ただの無力な子供だと、価値のない無意味な存在だとしか思えなかった。
視線を傍らに移すと、細い道を外れた斜面は真っ黒い穴のように見えた。下までどれくらいあるだろう。そう考えながら、また桃を見る。
「……!」
俺が何を考えているのか分かったのだろう、桃の体が震えだした。
「やめ……」
抵抗は許さない。再び頭を掴むと、甲高い悲鳴が放たれた。耳障りな響きが俺の神経をざわつかせ、無闇に暴れる手足が俺の体にちっぽけな衝撃を連続させる。
「離して……! お母さん! お母さんっ、助けて!」
惨めな哀願が響く。
「そんなに現実を受け入れ難いなら……そんなに俺の存在が恐ろしいなら、忘れさせてあげるよ」
俺の力が、頭を押さえる手のひらを通して桃の内側に流れ込む。……少女の記憶をねじ曲げるために。
けれど、これは俺からの祝福だった。
すべて忘れてしまえばいい。辛いこと。大切なこと。俺のこと。すべて忘れて、無意味な夢の中で踊ればいい。
――それを救いと呼ばずに何と言う?
恐怖に染まっていた桃の顔が、引き波のように感情を失っていく。
力を失い、人形のようにぐったりした少女の体を突き飛ばすと、悲鳴一つ上げないまま、桃は暗闇に呑まれていった。
木の葉が潰れ、枝が折れる嵐のような音も、すぐに聞こえなくなる。
しばらくその場で待ってみたものの、眼下から少女の声は聞こえなかった。死んだか生きているか探ることは容易だったが確かめるのはやめておいた。
死んでいればそれでいい。
生きていたとしても、少女の頭の中にはでたらめな記憶しか残っていないだろう。
桃という存在に、何一つ意味などない。
それが俺の下した結論だった。




