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refrain  作者: 水幸
第十六章 消えてゆく
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第68話

「……おいおいおいおいどうしたよ、それ」


 目の前に現れた男の姿に、思わず黒塚は腰を浮かせた。床に激しく滴る血と、この部屋の主たる男――その左腕の吹き飛んだ半身に交互に視線を移していると、


「やられた」


 ライックが低い声で応じた。


「やられた、って……こりゃまた随分派手に……」


 意識を失っていてもまったくおかしくない状態だが、ライックは顔色こそ悪いものの、ひどい苦痛に耐えかねているような様子はなかった。痛覚を操作し、うまく誤魔化しているのかもしれない。

 何にせよ死なないでいてくれるなら問題ないが、しかしまあ、見栄えがあまり良いと言えないのも確かだ。


「……治せねえの?」


 椅子代わりにしていたベッドに再び腰を下ろしながら問う。


「いいよ、このままで」


「なんで」


「なんでもいいだろ」


 おっと、これ以上突っ込むのはやばそうだ。


「ま、あんたがいいなら別にいいさ」


 不機嫌な主を前にして、黒塚は早々に白旗を挙げる。ここはさっさと退散するか、などと考えていると、


「君は、俺をなんだと思う?」


「は? 神様だろ?」


 何を分かりきったことを。突然の問いに呆れを隠し忘れたまま答えると、ライックの表情が暗くなった。


「神って何だい?」


「何って……んないきなり漠然と聞かれても」


 この大陸にはかつて女神がいた。そう信じる者は多いが、いやそうではない、もっと別の神がいたと言う人間もいるし、それとも違う別の神が今もどこかで我々を見ている、なんて唱える者もいる。要は曖昧なのだ。この世界には神の存在や奇跡の痕跡があまりに少なすぎるし、わずかに残っているのはどれも退屈なおとぎ話ばかりだ。


「とにかく、俺にとっては神なんて呼べるのはあんたしかいないんだ。俺を救ってくれるんだろ? じゃあ、あんたは神。そうでないなら違う。それじゃご不満か?」


 黒塚に答えられるのは、ただその事実だけだった。

 ライックはしばらく蒼白な顔でこちらを見据えていたが、やがて小さな溜め息と共に視線を落とした。


「……俺にはよく分からないよ」


 自嘲するような笑みを浮かべると、切り替えるように顔を上げ、そのままベッドに倒れ込む。


「っと、いてーな」


 投げ出された足が黒塚の背中を勢いよく蹴飛ばして、立ち上がるより仕方なかった。

 文句を言いつつ振り返ると、案の定白いシーツがみるみる赤く染まっている。仰向けで目を閉じたライックは、一見とても生者に見えなかった。


「おい、今死なないでくれよ」


「死なないよ」


 再び唇の端で笑って、ライックは続けた。


「だけど、もうそろそろ終わりにしよう」


 まあ、そんな頃だとは思っていた。

 黒塚は「分かった」とだけ頷いた。




 ライックの部屋を後にしたものの、そのまま自室に戻る気分でもなかった。


 黒塚は廊下の奥の一室に向かった。

 ノックもせずに扉を開けると、簡素な部屋の窓際に少女が立っているのが見えた。ライックよりややまとも程度の青白い顔を、黒で塗りつぶしたような夜空に向けている。


「よぉ、お疲れさん。随分頑張っただろ。横になってなくていいのか?」


 少女はのろのろと黒塚に向き直り、「はい」と細い声で答えた。


「問題ありません」


「問題だらけだよ、ここにいる連中は」


 無表情なまま、少女が軽く首を傾げる。何でもないと笑って、黒塚は少女に歩み寄った。


「戻ってきたばっかのとこ悪いが、仕事の話だ。あいつがちょっと昼寝中でな。……だけどその前に、聞きたいことが一つある。これは仕事とは無関係の質問だ」


「はい」


「あんたは神って何だと思う?」


 ライックに投げられたのと同じ質問を少女に向ける。その行動に深い理由はなかった。ただの気まぐれ。それだけだ。

 それに、どうせこの少女のことだ。大した返事は期待していなかった。分かりません。いないと思います。質問の意味が掴めません。などなど。


「悪意だと思います」


「悪意?」


 黒塚は瞬き、少女を見下ろした。少女は黒塚を見上げると、続けて言った。


「……もしくは、あの地下室の女性」


「あれが?」


 はい、と彼女は頷く。

 闇のような瞳のまま、


「私にとっての神ではありませんが、随分大事に取ってあるように見えたので」


「……ああ、そうだな」


 取ってある、という雑な響きに黒塚はわずかに苦笑した。だが、間違いではない。むしろ相応しい響きだ。


「案外、そういうものかもしれないな」


 けれど悲しいかな、本人がそれと自覚することはないだろう。教えてやる気も黒塚にはない。教えたところで、あの男は救われないだろうから。


「それで……この問答に何か意味はありますか?」


 少女の素っ気ない言葉に、黒塚は今度こそ笑い声を上げた。


「いいや、一つも」


 そろそろ仕事の話に移るとしよう。


 ***


 城内には不穏なざわめきと意味深な沈黙がそこかしこに落ちていた。大広間へ続く長い廊下の端に身を寄せて、忙しなく行き交う人々に目を向けながら、どれくらい経っただろう。


「……おい」


 ディオンの声に、ククは顔を上げた


「どうしたの?」


「いや、どうしたっつーか……大丈夫か?」


「……わたしは大丈夫だよ」


 そう、クク自身に問題はない。

 しかし現実は問題だらけで、だからこそ苦しかった。


 リスティアーナが死んだ――否、殺された。


 ククたちが得ている情報はそれだけだった。

 あの丘陵での作戦の後に別れて以来、アルスともまだ合流出来ていない。彼の命を受けて迎えにきた魔術師たちによって、ククとディオンだけ先行して王都へ戻ったからだ。


 ただ、情報がなくても状況を察することは難しくなかった。

 リスティアーナは恐らくライックに殺されたのだろう。彼女を害することが出来る存在など、他に思い当たらない。


(ライック……)


 胸が軋む。あらゆる感情が交ざって、考えがまとまらない。

 苦しかった。それに、後悔もあった。


(あの時、わたしがもう少しあの場所に残ってたら……)


 そんなことを思ってもどうしようもないのは分かっていた。ましてディオンの前でその思いを口にすることなど出来ない。その言葉はディオンを助けに行かなければよかったと言うのと同義だし、それでいてまったくそういうことではないからだ。

 それでも、ククがあの時、個人的な感情を優先してディオンを助けに向かったことには変わらない。もっと何か出来たのではないか。そう考えると、どうしようもなく胸がざわついた。兄のことも心配だった。


(……でも)


 ここで我を失い、取り乱すわけにはいかない。表面上だけでも冷静でいなければ、これからのことに対応出来なくなる。


「……あの、ディオ」


「何だ?」


「ディオはよかったら先に家に戻ってて。……付き合わせちゃって、ごめんね」


「いや、だけど……」


「多分、これから面倒なことになるよ」


 状況が状況だ。王や皆からの追求は免れないだろう。そこにディオンを巻き込みたくなかった。


「それに、桃ちゃんも心配だから……」


 それも本音だ。桃はミナベルと共に邸にいるはずだ。危険はないだろうが、不安だった。


「……分かった。二人の様子を見てくる。……だが」


 ディオンは軽く身を屈め、ククの顔を覗きこんだ。


「……本当に大丈夫なんだな?」


「うん、大丈夫」


 強がりがないわけでもなかったけれど、今優先するべきなのはククの感情ではない。それだけは確かだ。

 ディオンはそれでもまだ何か躊躇うような顔をしていたが、


「……じゃあ先に戻ってるな」


 そう言って、一人廊下を去っていった。




 アルスの姿が現れたのは、それから一時間ほどが経ってからだった。


「……アッ君」


 廊下をこちらに歩いてくるアルスに、ククはかすれた声を上げた。雲を踏むように力の入らない足で兄に近付くと、アルスの着流しは黒ずんだ血でべったりと汚れていた。それに、顔の痣も広がっている。


「……クク」


「アッ君、あの、わたし……」


「大丈夫だよ」


 薄く微笑んだアルスが腕を上げ、掌をククの頭に乗せる。


「こうなったのは君のせいじゃない」


 力ない指先は、すぐに髪の間から滑り落ちるようにして離された。その顔にもう笑顔はない。

 青い双眸はククを通り越してどこか別の場所を見ていた。


「こうなったのは彼女の選択だし、彼女の選択を止められなかったのは……いや、そもそも作戦の失敗に気付けなかったのは僕の責任だ」


 その言葉もまたククに向けられたものというよりは、自分の内側に落としているかのようだった。

 それでもアルスは一度目を閉じると、


「……さて、部屋の中はさぞ紛糾してるんだろうな」


 いくらか普段の調子を取り戻した声で言って、廊下の奥へと歩いていく。

 ククも彼の後に従った。


「それで、陛下は君に何か言ってた?」


「ごめんなさい。先に話をしようと思ったんだけど、アッ君が戻らないと話にならないって追い出されちゃって……」


 城に戻ってきた直後、大広間での出来事を思い出しながら伝えると、


「君が必要な時は関係者だから責任がある、邪魔な時は部外者だから出ていけ、か。……ひどいもんだね」


 アルスは溜め息を吐いているが、それでも王城の人間がそういう対応を選ぶのは、ククの中途半端な立場が原因のことでもある。

 もっと自らの立ち位置をはっきりさせていれば。自分の役目を負い、地位を得ていれば。こんな風にアルスばかりに色々押しつけたり、彼の足を引っ張ることもなかっただろう。


「……わたし、五勇になってた方がよかったのかな」


「ならなくていいよ。そんなもの」


 アルスはひどく驚いたような顔でククを振り返った。

 その反応にむしろククの方が驚いていると、優しげな顔が苦笑した。


「……僕はただ、君に自由に生きてほしいんだ」


 答える言葉を見つける前に、アルスの足が止まった。


 二人の目の前、広間に続く扉は大きく開け放たれていた。室内には人が溢れており、早くもこちらに気付いた者たちが次々声を上げ始めていた。


「陛下、戻りました」


 入り口から正面、人垣を割った通路の先。玉座に座るアストリアはどこか冷ややかな視線をククたちに向けていた。その傍らには、五勇であるミソラとザングも控えている。


「リスティアーナはどうなった?」


 アルスが進み出ると、アストリアは短く問うた。表情は先ほどと変わらない。


「殉死しました。……連れて帰るのは不可能だと判断したので、死体はこちらで処理しました」


「そうか」


 臣下の死に対しても、アストリアは感情らしい感情を見せなかった。それどころか、


「リスティアーナの死を確実に確認出来るものは? 彼女には造反の嫌疑がかけられている」


「……は?」


 淡々と告げられた内容にアルスが瞠目した。


「いいから死体を出せ!」


 人垣から誰かの声が上がった。すぐにあちこちで追従の言葉が発せられる。


「魔女が騎士団を壊滅させたんだろう!」


「お前たちは裏切り者だ!」


「早くそいつらを投獄しろ!」


 ククは呆然と周囲を見回した。叱責は覚悟していたが、裏切り者とまで罵られるこの状況は一体どういうことなのか。


「陛下、先ほどの言葉は本気ですか?」


 周囲の罵声を咎めるでもなく、ただ冷えた目をしている主君にアルスが問う。途端、アストリアの赤い双眸が、いかにも鬱陶しそうに細められた。


「分かるだろう? 皆の意見がこの場の……」


「僕はあんたの意見を聞いてるんだ」


 敬意をかなぐり捨てたアルスの言葉に、周囲の罵倒が大きくなった。同時に、アストリアの顔に嘲るような笑みが浮かぶ。


「君と彼女が提案した作戦は実に素晴らしかったよ。おかげで我が国の騎士団は壊滅的な状態だ」


「それで裏切りだと? 彼女自身も死んだのに?」


「後処理したのは君だろう? あらゆる偽装も可能じゃないか」


「陛下……」


 ククは呻いた。

 アストリアの言っていることはめちゃくちゃだった。到底理にかなわない。


「……撤回しろ」


 広間に響いた低い声。

 それが目の前のアルスから発せられたものだと遅れて認識した直後。


「彼女への侮辱を今すぐ取り消せ! 彼女の心をあんたが否定することだけは絶対に許さない!」


 初めて聞く兄の激しい声に、ククは思わず息を呑んだ。

 広間全体も、一瞬水を打ったように静まりかえる。


「……あんな女、ただの薄気味悪いお飾りだっただろ」


 しんとした空間で、誰かがぼそりと呟いた。


 まずい、と思うも遅かった。風が広間を駆け抜けて、天井付近から放たれた何かが人垣に勢いよく突き刺さった。悲鳴と怒号が交錯し、周囲の人々が一斉に距離を取る。

 空白地帯となった床上に、男が一人、呆然と座り込んでいた。彼の右足の甲には短剣のような氷の塊が刺さっている。


「ッ、うあああ……!」


 事態を把握した男が悲鳴を上げて体を丸めた。

 兵士たちが救護に駆け寄る中、氷塊を放ったアルスは男に目もくれず、真っ直ぐ玉座へ向かって歩きだす。その横顔に、激しい怒りと敵意を剥き出しにして。


「兄さん!」


 制止しようと追いかけるククの前でアルスが腕を振った。

 放たれたのは魔法ではなく、腰に佩いた刀の一閃だった。


「……お前は自分が何をしているか分かっているのか?」


 低い声はザングのものだ。王の前に立つ彼が構えた剣先が、アルスの刃を押し止めていた。


「……喉元に刃物が迫れば、どんなぼんくらでも目が覚めると思っただけだ」


「馬鹿が! いよいよ造反を認めるつもりか!」


「二人とも、待って!」


 ククは二人に並んだ。


「アッ君、落ち着いて。ザングも……剣を下げてください」


「クク殿、身内を庇う気か?」


「当たり前です!」


 考えるより先に口が動いた。アルスが躊躇するようにククを見る。だが、刃は下げない。ザングも退かない。


「……陛下」


 ククはアストリアに視線を向けた。

 臣下に庇われた王は軽く眉をひそめている。混乱と猜疑を滲ませたその顔に、ククは必死で取り縋った。


「陛下は本当にわたしたちが自分を裏切ったとお思いですか? 兄やリスティアーナがこの国とあなたの傍にあった時間、その記憶、それらすべてを忘れてしまったと言うんですか?」


「それは……」


 言い淀むアストリアの心には迷いがあった。けれど、疑念の強さは変わらない。


(この人は、まるで……)


 周囲のすべてを疑い遠ざけることで、この現実から逃がれようとしているようだ。

 そう気付いた瞬間、ククの中にも怒りが湧いた。


「いい加減目を覚まして! あなたはこの国の王でしょう!」


「お前、陛下に何を……!」


 ザングの殺気がククに移動する。同時に周囲から再び罵声が浴びせられた。


「そいつを殺せ、ザング!」


「その女も同罪だ! 不気味な首を落とせ!」


「……っ」


 不自然なほど野卑な声を聞きながら、不意にククは違和感を覚えた。反射的に、背後を振り返る。

 室内にいる数多の人々の奥に魔力反応がある。

 その源を探すと、視界が人々の姿を透かして一人の少女の存在を捉えた。


「っ、侵入者です!」


 叫びながら指さすと、驚いた人々に押し出されるようにして少女が通路に転び出た。まったく見覚えのない顔だ。少なくとも城内のこの場所にいるような人物ではない。


 不自然な少女は、しかしまったく動じた様子を見せなかった。


「少しやりすぎましたね、失敗しました」


 そう、まるで他人事のように淡々と呟いている。


「あなたは……」


 ククが声をかけようとした、その時――激しい衝撃が城全体を揺さぶった。


「……ッ!」


 立っていられないほどの揺れに、ククはその場に崩れ落ちる。他の者たちも同様だ。柱や壁が崩れる轟音の隙間から、無数の悲鳴が聞こえてくる。


 大きな振動はややあって収まった。

 だが、それでもまだ地鳴りや城が軋む音は続いていた。


「これは、一体……」


「陛下、大変です!」


 混乱に包まれる広間に、兵士たちが流れ込んでくる。

 何が起きたと問うまでもなく、蒼白な顔の衛兵が叫んだ。


「じょ、上空で大規模な魔法の術式を複数確認……攻撃かと思われます!」


「何だって?」


 また別の兵士が駆け込んできた。


「陛下、王都の周囲に無数の魔獣が出現しています!」


「……!」


 ククは大広間を突っ切り、窓辺へ駆け寄った。

 普段であればそこからは高台の下の王都が一望出来るはずである。

 現に、窓に手をつき見下ろせば、町は今も確かにそこに存在していた。

 ただし、異様なものを伴って。


「あれは……」


 兵士の報告通り、上空には光を湛える巨大な魔法陣がいくつも浮かんでいた。それは王都のみならず、この王城の周囲にも――そして恐らくこの城の真上にも――展開されている。

 今は沈黙しているが、それぞれの陣は刻々と輝きを強めていた。

 魔法陣と地上の間には、うっすら黄金色を帯びた防壁が王都と城を守る半球体の形で展開されている。だが、ククの目には、壁面を構成する魔力がひどく不安定なものに見えた。恐らく、先ほどの第一撃を受けて既に崩壊しかかっているのだろう。


 異常はそれだけではなかった。

 それは王都も障壁も越えた遥か彼方、遠い大地に存在していた。物体、と単純に呼ぶには巨大すぎる、地に生えた角のような異様な存在。

 この王城を囲むそれよりなお巨大な――。


「塔……」


「……まるでエネルギーの塊だな。巨大な魔蔵体そのものだ」


 隣に並んだアルスが、落とすように呟いた。

 気付けば、王とミソラ、ザングも窓辺に立ち、ククと同じように外の光景を見つめていた。


「陛下、どうやら非常事態のようです」


 アルスがアストリアに向き直り、先ほどと同じ声音で告げた。


「じきに上空から追撃が来るでしょう。どうか冷静に対応を」


 アストリアは一瞬アルスを見た後、再び窓の外に視線を戻した。その横顔は先ほどのように冷ややかなものではなかったが、隠しきれない緊張でひどく強張って見えた。


「……障壁の状態は?」


「これから修復に向かいますが、先ほどと同程度の攻撃を受け続ければ維持は困難です。いずれ瓦解するでしょう」


 障壁が壊れると言うことは、あの魔法陣に無防備な王都を晒すことに他ならない。

 ククはアルスに詰め寄った。


「だったら、魔方陣を壊さないと……」


「無理だろうね」


 アルスは冷静に首を振った。


「上空の魔法陣のエネルギー源は、あのわけの分からない塔だ。あれを破壊しない限りはどうしようもない上に、ここからあの場所までこちらの攻撃を届けるのは難しいだろう。……恐らくこれまでのことはあの塔を用意する時間稼ぎだったんだろうね。まったく、随分意地の悪いやり方だよ」


「そんな……」


「とにかく、今は皆を王都の外に避難させなければ……」


 アストリアが窓辺を離れ、混沌とした広間に向き直る。

 しかし、その背をアルスの声が引き止めた。


「待ってください、陛下。町の外ではなく、今からお伝えする場所に人を集めてください。これから各所の転送装置を起動します」


「……ああ、アレか」


「転送装置?」


 王は何かを察したようだが、ククには意味が分からない。

 アルスの顔を見上げて「どういうこと?」と説明を求めた。


「実は城下の数カ所とこの城内に転移装置の試作機があるんだ。転送先は既に王都の外に設定してあるから、後はすべてを最大出力で起動させればみんなを確実に避難させられる」


「だが、あくまで試作機だろう?」


 口を挟んだザングに、アルスは再び首を振った。


「装置自体はほぼ完成しています。これまで実用化されていなかったのは、起動段階で術士の微調整を挟まなければ安定した運用に不安があったのと、必要なエネルギーの確保が課題だったからですが、それは今、どちらも僕の手で解消することが出来る。実使用に問題はありません」


 兄の言葉は真っ直ぐで、確かにそこに不安は感じられなかった。

 だが、それでもククは心がざわめくのを感じた。


「アッ君、それって……」


「迷ってる時間はない」


 断言し、アルスは一同を振り返った。


「陛下、今一度僕に信を預けてください。必ずそれに応えます」


「……それで、この王都はどうなる」


「民の命と引き換えに、捨てていただくことになります」


「そんな……!」


 ミソラとザングの顔色が変わる。

 しかし彼らの言葉より早く、アストリアが沈黙を破った。


「それしかないならそうしよう。……私はお前を信じる」


「……ありがとうございます」


「ミソラ、ザング、避難誘導を指揮してくれ。私も兵を集めて対応する」


「承知しました」


 王の言葉にミソラとザングも頷いた。

 それをどこかほっとしたような顔で見守った後、アルスが再びククを見て言った。


「クク、君には城下での人々の誘導を頼みたい。君なら周囲の状況が掴みやすいと思うから」


 こちらに向けられた優しげな表情にまた少し不安が膨らむのを感じたが、ククがそれを言葉にする前に、


「後で連絡するよ」


 そう言ってアルスは廊下の方へ歩いていく。

 錯綜する人々の姿によって、見慣れた後ろ姿はすぐに見えなくなってしまった。


 周囲は未だ混乱に包まれているが、アストリアと五勇の二人も既に動きだしている。

 ふと、ディオンや桃のことが頭を過ったが。


(……わたしも、自分に出来ることをしなくちゃ)


 ククもまたそう決意し、喧噪に向かって走り出した。


 ***


 人混みを抜けてなんとか魔術師塔の中に入ると、そこもまた常と異なる緊張感に包まれているものの、外のようなどうにもならない混乱状態に比べれば随分理性的な空間を維持していた。


 塔の上部、丸々一階層を使った開発室に入ると、戸口近くに立っていた男が振り向いた。

 室内にいる他の魔術師たちも、アルスに気付いて動きを止める。


「ああ、帰ってきましたね」


「南、他のみんなも。外の状況は把握出来てるかい?」


「また随分大変なことになっちまったなって感じですね」


 南はあまり切迫した様子もなく頭を掻いている。


「それにあの遠くに建ってる変な塔。ありゃあ、こっちのやつを真似して失敗したって感じで……羨ましかったんですかね?」


 そうかもしれないと一瞬思ったが、軽口に応えている場合でもなかったので、アルスは一息に言った。


「これから城下と城の転送装置を起動する」


「よっしゃあ!」


「うわ、外れた……」


 何故かあちこちから歓声と嘆息が起こった。悲喜こもごもの魔術師たちにこれはどういうことかと問おうとすると、南がこちらを見て言った。


「いや何、賭けてたんですよ。この有事にうちのリーダーはどう対処するって言い出すか。ちなみに俺は勝ちですわ」


「こんな時に一体何を……」


「まあまあ。ついでに、こっちで勝手に編成しときましたよ。残る顔、残らねえ顔、もう話はついてます。この部屋にいるのが残る連中なんで」


 アルスは言葉を失って南を見つめた。

 常に快活な男は、今も普段と変わらないからりとした顔をしている。

 室内の他の魔術師たちも、皆いつものようにそれぞれ好き勝手な場所で待機していた。


「……意味が分かってるのかい?」


「おっと、馬鹿にしてないでもらいたいね」


 南はにやりと笑みを浮かべた。


「装置動かすにしたって準備やら何やらで時間稼ぎは要る。あんた一人で外の防壁直して装置動かすわけにもいかんでしょ。文句があるなら、俺たちの覚悟が固まる前に来るべきだったな」


「そうですよ。主任、足遅いんだから」


 誰かが横から口を挟んで、笑い声が上がる。

 何も言えないでいるアルスの肩を南が軽く小突いた。


「俺らはあんたの部下である前に、この国のエリートだ。だからこれはあんたのためじゃない。それだけは分かれよ?」


 本音を言えば、分かりたくなかった。彼らがアルスのために生きていたわけではないように、アルスも彼らの死を受け入れるためにここにいるわけではなかったから。

 しかし――。


「……分かった」


 結局それだけしか言えない自分が嫌になる。

 僕は、何も出来なかった。

 膝をつきたくなる気持ちをどうにかやり過ごそうとした時、部屋の外から怒鳴り声が聞こえてきた。


「ああそうだ、まだ分からず屋がいたんだった」


 ひどく怒っているがどこか青さの残る怒声に、南が眉間にしわを寄せる。


「てことで、俺らは準備しとくんで、ちょっくら一仕事してきてもらえますかね。あいつは俺の言うことなんか聞きやしねえ」


 分かった、と頷いてアルスは部屋の外に出た。

 案の定、声を上げていたのはエリオットだった。仲間に抱きかかえられながら、足をバタバタさせている。


「アルス様! こんなの納得出来ません!」


「あ、アルス様どうも。ってか、エリ坊よー。くじ引きで決めただろ? お前は城下担当だって」


 少年を抱える男が溜め息を吐くが、エリオットの大暴れは止まらない。


「あんなのインチキだ! あいつらグルになって僕を外しただろ! 自分たちだけ勝手に死のうとして……!」


「いや、そんなことは……」


 男が言い淀みつつ、こちらを見る。その気まずそうな目でエリオットの言う通りなのだとは分かった。


「アルス様、僕もここに残ります!」


「それは困る」


 アルスは即答した。


「でも……!」


「個人的な感情を除いても、今君がここで死ぬのは合理的ではないからね」


 合理的な死とはなんだろう。

 そう頭の隅に浮かぶ声を払い落としてアルスは続ける。


「君は城下の人にも広く顔を知られてるし、彼らを安心させてあげるんだ。それにエリダのこともね。これからのこの国を支えてもらうために、君にはここから出ていってもらわないと困るんだ」


 エリオットの幼さの残る顔が今にも泣きそうに歪んでいる。


「……この判断が最善だったと、君にもその内分かる日が来る」


「あんたは僕に、勝手に責任を押しつけるんですね」


 怒りと苦痛の混じった声に、迷わず頷いた。


「ああ、その通りだ」


 エリオットは震える息を吐き出し、言った。


「僕は、一生あなたを許しませんから」




 室内に戻ると、機材のいくつかが運転を始めていた。

 中央にある巨大な緑色の球体――この塔の最大のエネルギー源たる魔蔵体に近付くと、横から南が顔を出した。


「主任、鼻血」


「若者は力加減を知らなくて困るよ」


「上司の顔をグーで殴るかね、普通」


 南は笑いつつ、部屋の隅を指さした。


「で、あのガキは? 情婦にしては若いけどよ」


 そういえば、すっかり忘れていた。


「敵だよ」


「ああ、そうですかい」


 勝手に納得している南は放っておいて、アルスは機材の傍らに転がる少女に近付いた。手足の拘束魔法を解いても、少女は横たわったまま動かない。仕方なく、汚れた鳶色の髪を掴んで引き上げる。


「端的に言おう。僕らに協力すれば助ける。そうでないなら、今すぐ殺す」


 反応はない。少女の大きな瞳は真っ暗な穴のようだった。


「生憎、僕は人の恨みを買いすぎててね。悪いけど、お前が誰だか分からないし興味もない」


 正確に言えば、少し前に任務に赴いた町で彼女に襲われたことは覚えている。恐らく先の作戦時も、この女が裏で関わっていたのだろう。だが、もうどうでもいい。敵対行為の動機がライックの命令だろうが私怨だろうが知ったことか。


 この女は敵。ただそれだけだ。


「私、別にあなたのことを恨んでいません」


 突然、水の流れるような声で少女が答えた。


「ただ、考えていました。私とあなたの運命が異なる理由は何なのか。どうして、あなたはこんな場所にいて、どうして私はどこにも行けなかったのか」


 そう言って、少女は唇の端をつり上げた。

 それは笑顔だったのだろうが、二つの瞳は深い虚のままだった。


「でも、同じだったんですね。結局あなたも私も大して変わらない。どんなに明るい場所にいても、どんな立派な自分を手に入れても、結局心は虚しいまま、暗闇はけして晴れない。……だから、協力します」


「は?」


 アルスは声音と返答の齟齬に混乱する。

 思わず手を離すと、少女はその場に両手をついた。

 また無表情に戻った顔がアルスを仰ぐ。


「協力します。でも、助けないでください。私はここで死にますから」


 まるで意味が分からないが、何か策謀しているようにも見えなかった。それに、深く追求している時間もない。


「これから転送装置で王城と王都の人間を避難させる。君がするのはその補助だ」


 次々に稼働し始める機材を前にそう告げると、少女はあっさり頷いた。


 ***


「非常事態です。全住民、兵士に従い移動してください。王都の外に出るのは危険です。兵士の指示に従い所定の場所に……」


 先ほどから、何度も同じ声が聞こえてくる。城から誰かが魔法で呼びかけているのだろう。指示する声は一定方向ではなくあちこちから聞こえていた。


(でも……)


 この状況はまずい。


 ククは細い路地から外壁の方向を見やった。

 閉ざされた門の周辺には今や大勢の人が溢れていた。凄まじい殺気が渦巻き、人々が互いを押しのけ合っている。門を開けろ、という怒声が先ほどから頻繁に響いていた。

 王都の外に逃げようとする彼らに城からの指示は聞こえていない。上空の魔法陣に怯え、王都の外に避難しようと必死なのだ。


 しかし、外には魔獣がいる。ククが気配を捉えられる限りでも、その数は二百を超えていた。その状況で開門することなど不可能だったが、壁の上にいる兵士たちの制止も恐怖に支配された人々には届かない。


(とにかくみんなを落ち着かせないと)


 防壁の方に近付くと、人垣から少し離れたところに老人がしゃがみこんでいるのが見えた。痛そうに足を押さえている。


「大丈夫ですか?」


 声をかけても返事はない。だが、こうしている間に後ろからどんどん人が押し寄せてくる。とにかくもう少しここから離れないと。そう思って腕を取ると、老人が「やめてくれ!」と大声を上げた。


「門が開くまで待ってるんだ、放っておいてくれ!」


「でも……」


「あんた、もしかして城の人間か? だったら早くあの門を開けろと仲間に言え!」


 城の人間と聞いて、周囲の人々もククを振り返る。


「何してるの! 早く私たちを避難させなさいよ!」


「あの門を開けさせろ!」


 そんなことを言われても開けられるわけがない。彼らを助けるのは門の外ではなく、町の中の転送装置なのだ。

 なんとかそれを説明しようと口を開くと、突然人々の声が止まった。


(あれ……?)


 周囲に溢れていた人々が、その場を離れ、ふらふらとどこかへ歩いていく。夢を見るような彼らの顔に意識を集中させて、操られているのだと気が付いた。

 不安を覚えたのは一瞬。皆、転送装置のある町の中心部へ向かっていることに気付いて、ククはこの状況が忌避すべきものではないと判断した。


 きっと兄が何か手を打ってくれたに違いない。

 だが何故か、かすかな不安は消えなかった。


 ***


「わたくしも残りますわ」


 部屋の隅で繰り広げられている修羅場を、南は見ていないふりをしつつ眺めていた。

 モテる男は大変だな、などと軽口を叩きたくなるが、そんな雰囲気でもないのでやめておく。


「ミーナ、君は……」


「魔法でお役に立つことは難しいかもしれませんけど、出来ることがあれば何でもします。ですから……」


 魔術師ではない白い女は、南の上司に必死に取り縋っていた。確か前に秘書だとかなんとか言ってたか。と言いつつどうせ恋人の一人なんだろうな、と思っていると、


「ありがとう、ミーナ」


 上司のはっきりした声がその秘書だかなんだかよく分からない女に告げていた。


「でも、君には 生きていてもらわないと困るんだ」


「……イヤです」


「ミーナ」


「だって、そんなの卑怯ですわ」


 あーあーあ、と南は頭を掻く。

 俺も美人にあれくらい言われてみたいような、言われたくないような……いや、やっぱりこういう状況でガチャガチャ言われたくないな、うん。

 家族は死に、現在進行形の恋人もいない自分の身の上にほっとしつつ、少し作業がややこしくなってきたので聞き耳を閉じて手元の機械に意識を集中させる。

 アルスは、それからほどなくして戻ってきた。


「大丈夫ですかい?」


「……まあね」


 しんどそうな顔なので、それ以上訊くのはやめておく。

 代わりに別の話題があった。


「こっちは駄目ですわ。王都全域の装置を一気に動かすと、どうしても安定しなくなる。要するにエネルギー不足です」


 予想していたのだろう。アルスは特に驚かない。


「んで、魔蔵体もフルに稼働させてますが、やっぱ魔力が足りません。ここの術士を集めても無理かなと」


 それ以前に、塔に残った数十人の魔術師は皆、障壁の修復と転送装置の調整で手一杯だ。それぞれ魔力を投じている彼らに余力はない。


「それなら僕が魔蔵体と同化してエネルギー源になるよ。生命維持に回してる魔力を全部動力にして肉体的なリミッターも外せば、どうにか足りるはずだ」


 そんなことを言う気はしてたし、実際そう言ってもらうより仕方なかったのだが、それでもやはり気持ちは沈んだ。


「……今ならまだ取り消せますよ」


「取り消さないよ。どっちみちこれしかないと分かってたし。ただ、術の制御は君たちに完全に任せることになる。……結局君たちを犠牲にすることに変わりはないんだ」


「この後に及んで気を遣ってもらう必要はねえよ」


「それもそうか」


「おい」


 アルスは笑いながら、腕を振った。

 その足元に魔法陣が展開され、南との間に障壁が生まれる。


「もういくのか?」


「最後に少しね」


 ああ、そういえばこの男には妹もいたのだった。血は繋がっていないらしいが、それでも家族は家族だろう。

 今度こそ、盗み聞きはやめておく。


 ***


 状況がまるで呑み込めなかった。


 突然の地響きと振動に邸から飛び出したはいいものの、住宅街には同じように混乱した人々が溢れているばかりだった。

 傍らで桃が不安げにこちらを見上げているのは分かっていたが、彼女を安心させる言葉をディオンは持っていなかった。

 こんな時に頼りになりそうなミナベルも、少し前に王城に様子を見に行くと言ってここにはいない。


 とにかく俺たちも一度王城へ向かうべきだろうか。

 そう思案した直後、


「よっ」


 背後から届いた声にディオンは頭を抱えたくなった。なんだってこんな時に……いや、こんな時だからこそ、わざわざ現れたのだろう。


 苛立ちながら振り返り、目の前の男――黒塚のにやついた顔を睨み付けて宣言した。


「失せろ。今お前に構ってる時間はない」


「そう言うと思ったぜ」


 黒塚の笑みは消えない。


「だけどこっちの苦労も察してくれよ。ったく、要らないっつったり、やっぱ要るっつったり……うちの神様は気まぐれすぎなんだよ。走り回る俺の身にもなれっつーの」


「何の話だ」


「そのおちびちゃんの話だよ」

 黒塚はあっさり答えた。

「さて、そういうわけでこっちはいよいよ最終局面だ。勇者になる準備は済んだか? それとも今度も諦めるのか?」


 ディオンは答えず、震える桃を背中に庇い、剣を構えた。

 黒塚が腕を掲げると、彼の手の中にもまた黒い剣が現れる。かつて彼が手にしていた剣によく似ているが、本物ではない。本物は未だクレストが持っているはずだ。


 即席の武器を振って、黒塚が珍しく正面から突っ込んできた。

 打ち合う剣の音に気付いた人々が悲鳴を上げて逃げていく。


 攻勢はしばし続いたが、やがて。


「他人を庇うのは不慣れだろ?」


 嘲るような声に気を取られた瞬間、ディオンの横合いから黒く細長い影が放たれ、そのまま腕に絡みついた。すぐに足首にも同じ――蔦のような影が巻き付く。

 ディオンの動きが止まったその隙に、黒塚が桃に歩み寄った。


「やめろ、その子に触るな!」


「触らねーよ。ガキ嫌いだし、んな必要もねえし。……なあ、お子様。お前は知ってるか?」


「何を、ですか……?」


「何ってそりゃあ、大変な事実だよ」


「黙れ黒塚!」


 にやつく黒塚の意図に気付いて止めようとしたが、遅かった。


「お前の面倒を見てた優しい魔女様は死んじまったよ。可哀想に、随分ぐちゃぐちゃになったみたいだな」


 桃の目が少しずつ見開かれていく。


「……うそ」


「嘘なものか! それもこれも君の父上のせい。ひいては君の責任なんだぜ」


「こいつの言ってることはでたらめだ!」


 叫んだが桃は反応しなかった。ただ呆然と立ち尽くしている。


「嘘だと思うなら本人に会って確かめればいい。イカれたパパを止められるのは君だけだ」


 黒塚が桃に手を差し伸べる。その指先には黒い炎が音もなく揺らめいていた。

 立ち竦んでいた桃が、黒塚を見上げて瞬いた。


「やめろ桃、行くな!」


 桃は一瞬だけディオンを見たが、その決意を止めることは出来なかった。少女の右手が持ち上がった瞬間、黒塚の手が蛇のように素早くその腕を捕らえた。


 桃の全身が黒い炎に包まれ――消失する。


 後に残った黒塚は、ディオンに向かって肩を竦めた。


「手を取ってエスコートしてやるほど紳士じゃないんでな」


「あいつをどこへやった……!」


「知りたきゃお前も来ればいい」


 黒塚はあっさり言って、ディオンの目の前にしゃがみこむ。


「運が良きゃ神様を止められるかもしれないぞ。なんたってアレはもう……いや、ずっと前からまともじゃない。案外さらっと降参するかもしれないぜ?」


「……お前の目的は何だ」


 もう何度目か分からない言葉を繰り返す。


「それもきっと分かるさ」


 こちらに伸びてくる手を拒絶しようと思えば出来たかもしれない。

 だが、ディオン一人が残ったところで桃はどこかへ消えてしまった。なんとしても彼女を取り戻さなければならない。


 それに――ライックの元へ行けるなら。

 あの男がこれ以上好き勝手する前に、この手でとどめを刺すことが出来るなら……これ以上彼女を苦しめなくて済むかもしれない。


「どうやら決意したみたいだな」


 黒塚の手がディオンの手を掴むと、無意味な握手のような形になった。一瞬で転移するかと思いきや、そのまま黒塚はなかなか動かない。

 払い落としたい気持ちを抑えて目の前の顔を睨むと、黒塚は存外真面目な表情を浮かべていた。


「おい……」


 一体何のつもりだ。

 そう問いかけようとした時。


「お前には、分かってほしかった」


 どこか寂しげな言葉と同時に、視界が暗転した。


 ***


 城内に戻ると、混乱はいくらか収まっているようだった。それもそのはずで、城内の人々も、やはり町の住人同様そのほとんどがどこかぼんやりした面持ちで広間に集まっている。


 広間の中央には、魔術師たちが運んできた巨大な機材が置かれていた。

 円柱型の機械は今は沈黙している。


「クク、外の状況は?」


 問われて振り向くと、アストリアだった。正気を失っている様子はなく、顔色も先ほど別れた時よりは良い。


「混乱は収まり、皆転送装置付近に移動しています。……ですが、これで本当に大丈夫なのでしょうか?」


「ああ、アルスの話では装置は町のほぼ全域に力を及ぼせるらしい。恐らく大丈夫だろう」


「はい……」


 町の全域に作用する強力な魔法。それが前々から用意されていたなんて、まるでいつかこういう時が来ることを予想していたようだ。


「アルスは用心深いからね」


 ククの思考をくみ取ったように、アストリアが言った。


「有事の際に必要になる、と言われて随分前に開発を許可したんだ。と言っても、本来は各地の非常事態に王都の兵を派遣するためのものだったんだが……」


「……クク」


 アストリアの言葉に被さるように、かすかな声が耳元を掠めた。


「アッ君!」


 周囲を見回してもその姿は見付からない。


「ごめん、塔から呼びかけてるんだ。ああ、陛下もいましたか」


 聞こえてくる声が少し大きくなった。


「そちらは問題ないか?」


 アストリアの声に「はい」と短い返答があった。

 そこからわずかに沈黙を挟んで、


「クク、君に頼みたいことがある」


 常のように穏やかな兄の声がそう言った。


「これからいよいよ転送を始めるけど、この地への攻撃が終わったら君はなるべくすぐ王都に戻ってほしいんだ。城の設備は障壁で一応守られるはずだから、武器や資源の回収は急いだ方がいい。これで敵の気が済むとは思えないからね」


「分かった」


 一度頷いた後、ククはとうとう不安を口にした。


「アッ君は? アッ君も転移するんだよね?」


 返事までは、しばらく間があった。


「……君にしか頼めない。君の大切な人を守ってほしい」


 ああ、とククは理解する。

 兄さんはまた、黙ったまま何かとんでもないことをしようとしている。


「アッ君、そこで待ってて、今からそっちに……」


「クク」


 歩きだそうとすると、鋭い声が耳を打った。

 ややあって、幾分やわらいだ声が言う。


「分かるだろ? 今君がどうするべきかって」


「分からないよ」


 分かりたくもなかった。

 絶対に、何か他に方法があるはずだ。

 広間を飛び出し、魔術師塔へ向かって駆け出す。


「クク、駄目だ」


 まるで幻聴のような声に頭を振る。

 聞きたくない、こんな声。

 話すなら顔を見て話す。それで、アルスの目を覚まさせるのだ。


「君は、僕に罪悪感を抱いているだろ?」


「……っ」


「僕に報いたいと願うなら、従ってくれ、クク」


「そんなの……卑怯だよ!」


 天井に向かって叫ぶ。もう辺りを歩いている人もいない。ククの声ばかりが響き、消える。


「そう、卑怯なんだ。……だからこのタイミングで君に話しかけた」


 笑みを含んだ声と共に、どこかから低い音がする。先ほどの地鳴りと似ているが、違う。もっと一定のリズムの、何か巨大な機械が駆動するような音。


 なんて――なんて卑怯なんだろう。


「アッ君、駄目だよ。お願いだから……」


「ごめん、クク」


 いつもの声。優しい声。でも、姿が見えない。顔を見て、話したい。もっと、ずっと、そういう風にしたかった。


「君に何もしてやれなくて、本当にごめん」


「違う、そうじゃない!」


「勝手に後を託して、ごめん」


「違うの……違うから!」


 そうじゃない。そういう話をしたいんじゃない。

 わたしは、ただ、あなたと――。


「君には勝手なことばかりしてきたけど、だけど君の幸せを願ってる。今も、これからも」


「待って、お兄ちゃん! っ、お兄ちゃん!」


 後ろから光が迫ってくる。そこに足を取られたくなくて、ただ駆ける。

 兄のところへ、早く。


 早く。


 ***


 リティアはどうしただろう。

 そんなことを思った瞬間、体の内側に痛みが走った。心を駆け抜けたそれは全身に毒のように回る。


 痛い、と思った。

 死にたくない、と思った。


 体を起こすと、何故か周囲を障壁に囲まれている。座り込んだ床には魔法陣。自分が作ったものか? でも何故?

 とりあえず、ここはあまりに寒い。陣を壊して外に――


「土壇場で腑抜けるのはなしだよ、あっちゃん」


 顔を上げると、明るい金髪が反射して目の前が眩しくなった。


「……シトラス」


 何、と笑う曖昧な輪郭は、今にも消えてしまいそうに儚い。


「僕はあなたが好きだった」


 アルスは長い間抱え続けていた思いを口にした。


 僕はあなたに傍にいてほしかった。

 あなたのすべてが欲しかった。


「そんなのずっと前から知ってるよ」


 シトラスは笑った。


「で、君はちゃんと誰かを愛することも出来たかい?」


 ああ、と胸が軋んだ。

 いつからか向き合うことをやめた思いが突然息を吹き返し、優しくて不器用な魔女の姿が脳裏に浮かぶ。

 彼女は、アルスのことなど顧みずに逝ってしまった。手に入らなかったのに、手に入らなかったけれど、それでもよかった。彼女から何かが欲しかったわけじゃない。ただ大切だった。


 顔を上げると、もうシトラスの姿はそこになかった。

 ふと、倒れた機材の銀色の壁面に自分の顔が映っているのが見えた。ぼろぼろで、大層惨めで、それでも生きている、普通の人間が映っていた。


 頭上から激しい音がしたかと思うと、天井の一部が崩落した。どうやら防壁が完全に壊れたらしい。

 周囲には魔術師たちが倒れていた。一番近くには南もいるが、彼ももう動かない。転送装置を起動させ、そのまま力尽きたのか。こちらを向いた顔は血で汚れているが、表情は笑顔だった。


 また天井が崩れ落ちた。

 頭上の大穴を仰ぐと、青い空の手前に巨大な魔法陣が見えた。そこに光が満ちていく。


 ふと近くで物音がして、アルスは視線を床に戻した。

 南よりも更に近く、アルスのすぐ傍に少女が倒れていた。その指先がわずかに動いて、床を撫でている。


 アルスは左腕を魔法陣から出した。

 鋭い痛みと共に、陣の外に出た皮膚が黒く焦げていったが、それでもなんとか指先が少女に届いた。


「……僕と君には、決定的な違いがあるよ」


 少女の服はあちこち破れ、手足を覆う黒い紋様のような痣が露わになっている。その右手を掴み、アルスは告げた。


「たとえ虚しいままでも……澱みを捨てられなくても……、僕はこの世界に光が存在することを知っている。……だからこそ、それがどれだけ虚しくても、希望を抱えずにはいられないんだ」


 答えはない。

 視界が徐々に暗くなり、体が崩れる。感覚が消えていく。


――君も、光に焦がれて死ねますように。


 その呪いが成功したかは分からない。



 暗い闇の中を落ちていく。

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