第65話
部屋を出たククとディオンがアルスに案内されたのは、魔術師塔の最上階、広々としたロビーのような空間だった。
周囲の壁面は床から天井まですべてガラスになっていて、そこから暗い夜の景色が見えた。休憩所として使っているのかあちこちに小さなソファセットが置かれているが、今はククたちの他に誰もいない。
アルスが壁際のソファに座ったので、テーブル越しに向かい合う形でククとディオンも腰を下ろした。
まず、ククはもっとも気になっていることを尋ねた。
「兄さん、その血は? 大丈夫なの?」
兄は見慣れない銀の甲冑を着ていたが、その前面は赤黒い血で汚れていた。髪や顔も、土埃と血の飛沫で乱れている。
アルスは「ああ」と軽い声を上げた。
「負傷した兵士を運ぶのを手伝ったんだ。とりあえず僕たち術士はまだ前線には出てないよ」
まだ。その一言から、逆にその時がいつ来てもおかしくないのだと悟ったが、しかしとにかく状況が分からない。
「戦が始まったって、どういうことなの?」
「君が倒れてからすぐ、西方からやってきた反乱軍が王都に攻撃を始めたんだ。敵は人間と魔獣の連合軍で、これまでまったく把握していなかった勢力だ」
「人間と魔獣の連合軍って、誰かが魔獣を従えてるってこと?」
本能に従う魔獣が組織だって戦うことは考えづらいが、獣を統制出来る力を持つ者がいるのなら話は別だ。
「恐らくね」
「黒塚か?」
首肯したアルスに、今度はディオンが問う。これには「不明だ」とアルスは答えた。
「とりあえず今の状況を説明するよ。これを」
アルスが手を振ると、正面の白いテーブルの上に図形が投影された。
地図だ、とすぐに分かった。
ディオンの前に王都があり、そこから平原と森を挟んだ西方、ククの目の前にある町と、それよりやや北に位置する町が朱色に色分けされていた。
「こちらも掃討にあたっているけど徐々に押されていて、昨日そこの二つの町が占拠された」
「……王都に近くないか?」
「近いよ。正直よろしくない状況だね」
まだまったく実感は伴っていなかったが、ククは徐々に息苦しさを感じ始めていた。
「この件に、ライックが関わっているかどうかは分かってる?」
感情を殺して問うと、ディオンがこちらを見るのが分かった。アルスも一瞬顔を強張らせたが、すぐに元の表情に戻って、
「その可能性は限りなく高いだろうけど、はっきりした情報は今のところ上がってないよ。斥候は悉く敵方に回ったし、なかなか探りも入れられなくてね」
更に混乱が深まることを言った。
「どういうこと?」
「ここが頭の痛いところで、反乱軍の人間はその何割かが洗脳状態にあるようなんだ。つまり彼ら自身の意思ではなく誰かに操られた上でこちらに攻め込んできてる。しかもその数はどんどん増加中だ。占拠した場所で新たな人材を回収してるからね」
「戦う意思のない人間が戦わされてるっつーことか。胸くそ悪いな」
ディオンが吐き捨てるように言う。
「反乱軍を押し返せないのはこういうわけだ。敵とは言え自分の意思で戦っているのかそうでないのか判断がつきにくいから、彼らを傷付けることを躊躇せざるを得ない。実際敵軍に身内を見つけて戦えない兵士も少なくないよ」
「どうにか出来ないのか?」
「それは……」
「おはよう、二人とも」
突然響いた涼やかな声に振り向くと、靴音を高らかに響かせながらリスティアーナがこちらに歩いてくるのが見えた。戦装束のアルスと違って普通のワンピース姿だが、その顔はわずかに緊張しているようだった。
「起き抜けで悪いのだけど、あなたたちの力を貸してほしいの」
「リティア……」
「どういうことだ?」
アルスとティオンの声が重なる。
リスティアーナは一切表情を変えずに、
「状況は聞いたわね?」
ククとディオンに向かって訊いた。
「はい。大体は……」
「戦争が起きててこっちは防衛一方。操られている人間がいるから手出し出来ない。そうだよな?」
そうね、と頷くリスティアーナに、ディオンが更に言った。
「あんたがどうにか出来ないのか?」
「出来るわ」
これもまたあっさりとした返答だった。
「私なら遠隔で向こうの洗脳を解くことも可能よ。ただし、流石に一気に対処することは難しいから、ある程度範囲を限定して対応していかなければならない。だけど、このように……」
ほっそりした指がテーブルの上の地図を示した。
「敵は北西に広がってかなり分散した形で侵攻してきてるわ。これでは一部の洗脳を解いても、他のところにあたっている間に再度術をかけ直される可能性がある。こっちと違って向こうはあらかじめ綿密な手順を踏んでるはずだから術の再展開も容易いだろうし、そうなればイタチごっこになるだけよ」
「つまり……どういうことだ?」
「術者を止めなければ意味がないってこと」
「だが、その術者もまだ把握出来てねえんだよな?」
「少女、だと思う」
アルスが言った。
「君たちにも話したけれど、前に王都の外で洗脳術を使う人間に襲われたんだ。彼女の可能性はある」
「でも確定ではないわね。そもそもその女にしたって結局居場所は特定出来ていないし……まあ、誰にせよ術者は恐らく洗脳した人間に紛れていると思うわ。だけど向こうの術を破壊すれば操られている人間から発せられる魔力も薄まるし、そこで再び洗脳魔法のような強い力を使えば完全に隠れることは不可能……つまり、術者の特定が可能になるわ。そこであなたの力を借りたいの」
「……わたし?」
真っ直ぐに指さされてククは面食らった。
向けられた冷静な視線に思わず目を逸らしそうになるが、なんとか耐える。
「あなたの力があれば戦場の状況を掌握出来る。術者の反応を拾うことも出来るはずよ」
「それって、あなたが魔法を解く傍らでわたしが術者を探すってこと?」
「ええ、その通り」
あまり認めたくはないが、なるほど、と思った。
恐らくこの力なら戦場を俯瞰することも可能だろう。やってみたことはないし負荷の予想もつかないが、出来る、という謎の核心はあった。
しかし、たとえそれが可能だったとしてまだ問題はある。
「術者を補足するのはいいけど、見つけた後はどうするの? こっちの軍を動かすつもり?」
「それが第二の問題ね。特定出来てもその間に逃げられては元も子もないわ。そこで術者を見つけ次第、アルスの転移魔法で足止め出来る人間を派遣したいの」
嫌な予感がした。
「……俺か」
「ええ」
相変わらず、腹立たしいほどあっさりした返答だった。
「あなたは死なないんでしょう? だから、どうにか本隊到着まで……」
「待ってよ! そんなの認められない」
ククは勢いよく立ち上がった。やっぱり、と言いたげな冷えた視線が向けられたが、もう怖がっている場合でもないし冗談でもない。
「わたしがこの作戦に参加することは構わないよ。でも、ディオのことまで巻き込めない! そんな危険なことを……」
「で、あなたはどうなの?」
ククの言葉を遮って、リスティアーナがディオンに問うた。
「それが最善策なんだな?」
「分からないわ。もっとまともな打開策もあるかもしれないけど、残念ながらそれを探している時間はないの。そうね、現時点で考え得る及第点の策、くらいの言い方であれば間違いはないかしら」
「回りくどい女だな。だが、まあ分かった」
「駄目だよ! そんなの……」
ディオンが危険に晒されるような作戦など認められるわけがなかった。
「あのな、クク」
穏やかに呼ばれ、ククはディオンを振り返る。
「言っとくが、お前はもうとっくに俺を巻き込みまくってるぞ」
「そ、そうだけど……でも、これは……」
「何をして何をしないかは俺が決める。で、今回はもう決めた。俺はこのクソみたいな作戦に関わる。体も鈍ってるからちょうどいい。お互い散々寝た分、多少働かなきゃいけねえだろ」
食い下がっても無駄だということはすぐに分かった。それでもまだ反論したい気持ちを抑えて、ククはもう一つの思いを口にした。
「……ディオのことは、わたしが絶対守るから」
「そりゃ心強いな」
「僕たちも最大限支援するよ」
これまで黙っていたアルスがいつになく真剣な表情と声音で言う。
「それじゃあ決まりね」
ただ魔女だけが、どこまでも平然としていた。
作戦実行は次に敵の動きがあった時。恐らく二日、三日後くらいだろう。
兄は――アルスはそう言った。
その後、ククとディオンは医療塔でアルス同席の元、簡単な検診を受けることになった。
一時間ほど診てもらったが、幸い二人ともお互い健康には問題なしという結果だった。むしろ長い間寝ていたにしては問題なさすぎると医師は唸っていたが、いずれにせよ良いことには違いない。
ディオンに何もなくてよかった。そう猛烈にほっとしつつ医療塔を出ると、頭上には静かな夜空が広がっていた。
もう随分夜も遅い。
だが、ククにはまだ大事な用事が残っていた。
「あの、兄さ……アッ君。わたしたちのこと、陛下に報告にしなくていいの?」
先に邸に戻るというディオンと別れ、ククはアルスと医療塔前の階段に並んで腰掛けていた。
城内の人々の間で「地獄段」と呼ばれる階段は恐ろしく長く、見下ろす地面は遠かった。夜風が吹き抜けると、投げ出した足元が少しひやりとする。
「陛下は昨日今日と終日騎士団の様子を見に行ってるよ。数日前の襲撃で騎士にいくらか被害が出ていてね。だから今はそれどころではない……と言ったら君に申し訳ないけど、しばらくは立て込んでるだろうから、後で僕から報告するよ」
「そっか」
「うん、だから君は何も心配しなくていい」
アルスの顔を見上げると、その肩越しにぽかんと丸い月が見えた。逆光で兄の表情はよく分からなかったが、気配はいつも通り穏やかだった。
「それより体は本当に平気かい? 今度改めてちゃんとした検査を……」
「わたしなら大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん、だからアッ君も心配しなくていいよ」
「そういうわけにはいかないよ」
苦笑の後に少しの沈黙。だが、それも長くはなかった。
「君が戻ってきてくれて本当によかった。……色々、説明しないといけないね」
「それも大丈夫。もう、ちゃんと分かってるから」
ククは言葉を切った。
「分かるのがあまりに遅すぎて、ごめんなさい」
「そんなことはないよ」
「……わたし、ずっとあなたのことを利用してた。都合良く利用して、ずっと迷惑掛けてた」
なるべく冷静に伝えなければと思っていたのに、声は震えた。
アルスのことを勝手に兄だと思い込んで、今までずっと彼に甘えていた。振り回し、八つ当たりし、迷惑を掛け続けていた。それはどんなに後悔しても謝っても、もう取り返しがつくことではない。
「利用とは違うよ」
アルスは静かに首を振る。
「そもそも僕が最初に君を騙したんだ。君が苦しんだり謝ったりすることじゃない。……むしろ謝るべきなのは僕の方だ」
「違うよ! ……わたしが自分の身勝手で、あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまった」
ククは立ち上がり、頭を下げた。
「ごめんなさい。ずっと、ずっと……」
「クク、顔を上げてくれ。お願いだから」
懇願するような声に視線を上げると、アルスは苦しげな表情が浮かべていた。
「本当に、何もかも君が謝ることじゃない」
「ううん、それは……」
差し伸べられた両手が、ククの手を取った。兄の手は冷たく乾いていて、少し震えていた。
「それに、僕にこんなことを言う資格はないけど……それでも、君が無事に戻ってきてくれたんなら、他のことは全部どうでもいいんだ」
「どうでもいい……」
なんだかとても懐かしい響きに思わず復唱すると、
「……ああ、なんか随分久しぶりに言った気がするよ」
アルスもまた自分に驚いたように言う。
「……うん、久しぶりに聞いた」
「……アッ君」
目を伏せて、考える。
これ以上謝罪の言葉を重ねても、きっと受け取ってはもらえないだろう。それなら、今、言わなければいけないことは――。
「……わたしを、助けてくれてありがとう。わたしの兄さんでいてくれて……本当に、本当にありがとう……」
それも間違いなく本当の気持ちだった。
「……僕こそ、ありがとう」
「どうしてアッ君がお礼を言うの?」
「どうしても言いたいからだよ」
ふと和らいだ空気の中、お互いそっと微笑み合う。
もう、元には戻れない。それがお互いに分かっているからこそ、交わす笑みにはわずかな寂しさも横たわっていた。
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
両手を離し、アルスは言った。
「今更訊くのもなんだけど、僕への罪悪感や義務感で今度の作戦を引き受けたわけではないよね?」
「そういうわけじゃないよ」
すぐに否定したものの、正直、アルスの言う感情がゼロでないかと言われればそうではない。しかし、他の理由があるのもまた事実だった。
「……考えてたの。王都への侵攻を指揮しているのがライックだったとして、あの人がこんなことをする原因はわたしにも関係あるんじゃないかって」
「……それは、君があの男の妹だから?」
「……うん」
遠い昔、あの研究所で、あの人――ライックがもうカノンを認識してくれないことを知り、だからククは絶望した。すべてがどうでもよくなった。
でも、今はそうではない。
あの時、ククの姿は既に元のカノンとかけ離れたものだった。だから兄に気付いてもらえなかったのは仕方ない。そう冷静に考えることも出来る。……けれど。
「わたしには、あの人が何を考えてるかは分からない。元の、あの人なのかも」
ライックを兄と呼ぶことは躊躇われた。恨みや憎しみの感情はないが、彼を肉親と思うには長い時が経ちすぎていた。
「だけど、わたしはあの人を止めなければならない」
結論はただそれだけだった。
「君に責任があるわけじゃないよ」
「ううん、わたしがやらなくちゃ。……それに、わたしには守りたいものがあるの」
ずっと嘘を許してくれていた目の前のアルス。手を差し伸べてくれたディオン。そして、今いるこの場所。
この世界に居場所なんてないと思っていた。今も、そう思う気持ちは心のどこかに残っている。だけど――守りたかった。守らなければいけないと思った。
それがわたしの果たすべき役目だと。
「……そっか。うん、分かった」
アルスは静かに頷き、そのまま立ち上がった。
「……寝起きで色々あって疲れただろ? 今日はそろそろ休んだ方がいい」
「うん。に……アッ君は?」
「僕はもう少し用事があるから」
それでは今日は邸には戻らないということか。まだ色々話したいことはあったけれど、もう偽物の妹としてわがままを言ったり迷惑を掛けることはしたくなかった。
「……分かった。それじゃあ先に戻るね」
ククは兄を残し、長い階段を下り始めた。
我が家に戻ると、キッチンの方から何やらゴトゴトと音がしてきた。
開いた扉から中を覗きこんだククは、戸棚の前で腕組みしているディオンを発見した。と、ディオンもこちらに気付いて、
「おう、戻ったか」
まるで家主のような顔で言う。
「ここに帰ってくるのも久しぶりだね」
「あんまりそんな気はしないがな。ところでこれは盗みを働いてたわけじゃないぞ。酒を探してたんだ」
「お酒?」
「なんか落ち着かなくてな。しかし何もねえ……まあ、お前ら普段飲まないもんな」
「あるよ。こっちに」
ククはキッチン奥にひっそり設けられた扉を開いた。暗い階段を下りるとすぐに地下の貯蔵庫で、広い空間の奥には開封していないお酒がごろごろと転がっていた。その光景を見たディオンが「うおっ」と声を上げる。
「酒場かここは」
「昔、うちで魔術師塔の人たちが飲み会したことがあってね。これはその悲劇の名残なの」
「悲劇?」
「わたしは参加してないからよく知らないけど、兄さん曰く『魔法使いが酔っ払うと怪我人が大量に出るのが分かった』って」
「その話は詳しく聞きたくねえな。罪のない酒がまずくなる」
二人で酒瓶を持って貯蔵庫を出た。
向かったのは、庭を見渡せる板張りの広い縁側だった。邸の中でも特に桜花文化が色濃く出た場所だが、家主であるアルスがそこで寛いでいる姿を見た記憶はないし、クク自身もろくに足を止めたことはない、半ば放置されていた場所だ。
そこに座って、ディオンは早速酒を飲み始めた。
「あの、一応聞くけど……体は大丈夫?」
「ああ、大して酔わないから問題ない」
そういう問題なんだろうか。でも妙に頼もしい返事なので、なんとなく納得してしまう。
「お前も飲むか」
ディオンが透明な液体に満たされた杯をこちらに向けた。
「わたしはお酒飲むと目の前がへにょへにょになるけど……」
「へにょへにょになられるのは困る。それならやめとけ」
「うん。……だけど、隣にいてもいいかな」
「どうぞ」
ディオンの隣に腰を下ろして、足を縁側から外に投げ出す。
静かな庭の上に明るい月が浮いていて、注がれる光が草木の陰影を際立たせていた。暗くも明るくもあるその景色を、綺麗だな、と単純に思った。
「……助けてくれてありがとう」
一番言いたかったことを、ククは言った。
「まだちゃんと、言えてなかったから」
「ん」
反応は素っ気なかったけれど、薄闇に灯った炎のような瞳は優しかった。あの時、ククを迎えにきてくれた時のように。いつも、そうであったように。
続きがあることを察してか、ディオンは黙っている。慎重に言葉を取り出しながら、ククは言った。
「わたしはどうしようもなく嘘つきで、たくさん他人に迷惑掛けて……取り返しがつかないこと、いっぱいあるけど……それでも、生きていかなきゃいけないとは思ってたの。自分の罪をきちんと精算するために」
「……そりゃ、随分暗い生き方だな」
「そうかも。だけど本当はそれすら放棄して、あの場所に引きこもっていようって思った。でも……ディオが来てくれたから」
わたしを助けてくれたから。
「やるべきことをやらなきゃって思ったの。カノンではなく、わたしとして」
ククという存在が虚構であることは、もう自分自身気付いている。けれど、今更カノンにも戻れない。
何者にもなれないのであれば、せめてククという嘘に対しての責任を取ろう、成すべきことをしようと思った。
「今改めて感じるこの気持ちは、罪を償う気持ちとは少し違うのかもしれない。でも、自分がどんなにいびつで愚かでも、それとは無関係に、守りたいの。アッ君や、桃ちゃんやミナベル……それにディオのことも。守りたい。ううん、必ず守らなくちゃいけないって、そう思うんだ」
「正直そこまで気負わんでもとは思うが……。ま、お前がそうしたいって思ってるなら、それでいいんじゃねえか」
「うん」
頷いたものの、なんだか急激に恥ずかしくなってきた。
「ごめんね、結局何が言いたいかよく分からなくなってきちゃった。とにかくディオにお礼が言いたくて……。本当に、ありがとう」
「おう。まあ言いたいことがあればなんでも言っとけ」
ククは杯を傾ける横顔を見つめた。
「……言ったら、ディオが困るようなことでもいい?」
「ああ」
「わたし、ディオのことが好きだよ」
一瞬ディオンの動きが止まった。しかし、すぐに何事もなかったかのように酒を飲み干して、
「それは俺がお前を助けたからか?」
冷静な声がククに尋ねた。
「そうじゃないって言ったら嘘になるかもしれないけど……、それだけじゃないって言ったら、信じてくれる?」
少し戸惑ったような、躊躇うような表情が向けられる。
ククは慌てて手を振った。
「あ、でもそれでどうとか、ディオのこと困らせようとか、そういうつもりはないの! ただ、言いたかったから……ディオといるとほっとして、特別……だって……」
わたしは何を言っているのか。
これではますますディオンを困らせてしまう。無意味にぐるぐる走り回ってちっとも働いてくれない頭と心を持て余しながら、なんとか言い訳を探していると――目の前が急に暗くなった。自分のものではない体温とほんのり甘い酒の匂いに、心臓が耳元に移動したような音がする。
撫でるというよりは軽く叩くように、頭にディオンの手が触れた。
「……そういやお前、あの翼みてえなのは消えてるが、力っつーのはどうなんだ?」
そのまま質問されて、ククは少し考えてから答えた。
「そういえば、目が覚めてからはなんとなく落ち着いてるかも。今は何にも聞こえないよ」
嘘ではなかった。今ククの頭には何も聞こえない。でも、そうしようと思えばまた力を使える確信はあった。本当の記憶を取り戻したことで、能力の制御がいくらか容易になったのかもしれない。
「……そうか」
ほっとしたような、けれどどこか惜しむような、そんな声が返ってきた。抱きしめられ、表情は見えない。伝わってくるのは穏やかで、静かな温度ばかりだ。
(でも、やっぱりディオのことはなんとなく分かるよ)
向けられた優しさに少し泣きたくなる。でもそれがわがままな感情であることは知っていたから、言葉にはしなかった。
***
階段を上がると心地よい風と甘い匂いが体を包む。いつもと変わらない環境にほっとして、アルスは屋上庭園の奥へと足を進める。
リスティアーナは手入れされた花壇の傍ら、木製のベンチに座っていた。
アルスが近付くと長い睫が持ち上がって、澄んだ瞳が瞬いた。
「……桃なら下で眠ってるわよ」
「……そう」
先回りされて思わず苦笑する。
「淹れたばかりだけど、飲む?」
リスティアーナが傍らに置いたティーポットを指し示す。かと思えば、こちらの返事を待たずして、空のカップを手に取り、ポットの中身を注いで突きつけてきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
アルスはリスティアーナの手からティーカップを受け取ると、彼女の隣に腰を下ろした。夜空の下、温かくシンプルな味の紅茶を飲んでいると、体から余計な力が抜けていくのが分かった。疲れで濁った頭もわずかに見通しが良くなった気がする。
「……今夜はこないかと思った」
ティーカップから唇を離したリスティアーナが、不意にそんな言葉を漏らした。
「どうして」
別に、とリスティアーナは短く答えたが、ややあって、
「一つは、ここが正念場だから。あえて私のところに来る理由もないと思って。……もう一つは、色々あなたの意に背くことをしたからよ。今回の作戦のことも、あなたはずっと反対してたじゃない。それに二月前、ディオンちゃんに力を貸したこともそう」
のろのろと、随分普段の彼女らしくない声で続けた。
遠回しな表現であるが、要は怒っていると思った、ということか。やはりリスティアーナらしくない気遣いではあったが、それだけ今度の作戦は――そしてククについての問題は、彼女にも色々迷うところがあったのだろう。
「君の考えが最善であることは理解出来てるよ」
ククとディオンを争いに巻き込みたくはなかったが、状況はそこまで甘くない。事態を好転させるには二人の力が必要であり、巻き込まざるを得ないことは分かっていた。それに。
「そもそもディオンを手助けした件は二ヶ月前に十分喧嘩しただろ?」
「そうね。でもあなたはしつこいから、また蒸し返してくるかと思ったのよ」
「まさか」
そう否定しつつ、二月前のあの日……本当の記憶に呑まれたククの姿が頭を過る。
あの日、あの瞬間、いつか訪れると覚悟していた破綻が目の前で展開され、アルスは何も出来なかった。ククを守ることも、救うことも。ああなることは、かつてククの手を取った日からずっと分かっていたことだったのに。
「結局僕は、何も出来なかった」
すべては今更だ。アルスが何も出来ないまま、ククは帰ってきた。彼女を救ったのはアルスではなくディオンで、リスティアーナがいたからこそ、それが可能だった。
「僕はただ、自分のエゴでククを夢の中に留めたまま、その状況に甘えてたんだ」
「そうね、あなたは中途半端で最低だわ」
リスティアーナはあっさり頷いた。
「だけど、今はそれよりもこれからのことを考えないと。折角彼女が戻ってきてもこの国が滅んだら世話ないわ」
「……そうだね」
それはそうだ。ククだけではない。ここには桃や、他にも守るべき人がたくさんいる。静かに追い詰められていくようなこの状況をどうにかして打破する必要があった。
「もしかして不安なの? 今度の作戦のこと」
尋ねられて、アルスは頷いた。
「不安だよ。桃も、またここに残していかなきゃいけないし」
今度の作戦はアストリアの裁可さえ得ているが、他の重鎮たちはほとんど無視した形で進めている。しかし、そんなことはこの際どうでもよかった。失敗すれば多方面に被害が出る。それだけのシンプルなことで、そのシンプルなことが重かった。
「でも、とにかく成功させるよ。これ以上この地に敵を近付けるわけにはいかない」
「ええ、その通りだわ」
言葉が途切れ、沈黙が生まれる。
空を仰ぐと明るい月が間近に見えた。一旦傍らに退けていたはずの感情が再び胸を塞いで、少しだけ苦しくなる。
思わず視線を逸らすと、リスティアーナがこちらをじっと見つめていた。
「リティア」
「……あなたは私に慰めてほしくてここにきたの? 私にどうしてほしくてここにいるの?」
「分からない」
咄嗟にその言葉を選んだものの、少し違った。
「……いや、君は何もしなくていいんだ。ただ、僕がここにいることを許してもらえれば。君がここにいてくれれば、それで」
「……それは、家族を失って寂しいからでしょうね」
遠慮のない言葉だったが、その響きには何かを確かめるような慎重さがあった。
だから、アルスは答える。
「多分ね。だけど、それだけじゃない。……君は長い間僕の共犯者だったから」
真実と、少し外れたその言葉を選ぶ。
「勝手に共犯にしないでくれる?」
文句を言いつつ、リスティアーナは微笑んでいた。困ったような、呆れたような、ほっとしたような。そんな顔を見てアルスもそっと安堵する。
一定に保たれた距離感の先には、確かに繋がっている一線がある。
潮風が二人の上を流れていく。




