表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
refrain  作者: 水幸
第十五章 カノン
64/75

第64話

 ディオンは一人、研究所の廊下に立っていた。

 気付いたらそこにいて、ただただ苦痛と後悔の残滓を感じながら、立っていた。


 抱えた痛みは、ディオン自身のものではなかった。

 それは彼女の痛みだった。

 けれど共有した記憶と感情は、ディオンの内側にも爪痕を残していた。ここから歩きだすことを躊躇するほどには深く。もう何もかもうち捨てて諦めてしまいたいほどには強く。


 しかし――。


(クク)


 思い浮かぶのは、やはり彼女のことだった。

 カノンという名を過去の記憶と共に封じ込め、ククとして生きることを選んだ少女。けれどその偽りからとうとう投げ出されてしまった少女。

 彼女はどこにいるのだろう。


「クク!」


 その名を呼ぶのが正しいかどうか分からないまま、声を張り上げた。

 周囲に人の姿はない。物音すら聞こえない。

 頭上には電灯が灯り、清潔な長い廊下を照らしていた。あちこちに置かれた機材は完全に沈黙している。


「クク!」


 名を呼び、踏み出した瞬間、その景色が散開した。


「――ッ!」


 一体何だと思う間もなく、ディオンは再び目の前に構築された世界に息を呑む。

 変容した光景には見覚えがあった――というより、現在進行形で馴染みのあるものだった。

 目の前の巨大な水槽は上部が開かれ、中身は空だ。ディオンの記憶では大量の機材が溢れていた室内は、今は小綺麗に片付けられ、床にはシンプルな朱色の敷物が広げられている。


 その朱色の中央に、探し人たるククが座り込んでいた。だが、その姿はディオンの知る彼女と違い、病的に痩せ細り、空色の瞳は霞がかったように虚ろだった。


「お兄ちゃん」


 少女は呟く。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」


 ただ繰り返し、何度も呼び続ける。その声は不安定に揺れ、かと思えば、かすれた悲鳴のような響きに変わる。

 そちらに近付こうとしても、ディオンの足は床の一部と化したように動かなかった。声さえ出せず、呆然とククを見つめていることしか出来ない。


 しかし、やがてディオンの隣に一つの影が現れた。


 これも見覚えのある面影だが、その姿は今より――いや、ディオンが彼と出会った七年前と比べても、更に幼いものだった。

 冷たい目をした少年は、それでもどこか憂うような表情を浮かべていた。兄を呼び続ける少女を見下ろし、彼が言う。


「君の探してる人間は、ここにいるよ」


「え……?」


 少女が顔を上げ、


「おにい、ちゃん?」


 かすれた声で囁くと、再び世界が白く滲んだ。


 ディオンが次に目にしたのは、一人アストリアの王城を歩くククだった。その景色が消えると、今度は夜の邸が現れた。彼女は一人自室で本を読んでいた。


 更に景色が移り変わると、そこには再びアルスがいた。その姿は七年前の彼に多少近付いていたが、それでもまだ少し幼く見えた。偽りの兄妹は言葉を交わすことはなく、目の前から去っていく兄の背中をククはただ見送るだけだった。


 ディオンの目の前に広がる世界は、目まぐるしく移り変わり続けた。その度にククの姿はそこにあった。ディオンの目の前、手を伸ばせば触れられそうな距離に。

 けれど、少女に触れることは叶わなかった。

 あらゆる光景でディオンはただ傍観者でいることしか出来なかった。ディオンの手の届かない世界に生きるククは、既にカノンの記憶を持たないはずなのに、常にどこか暗い瞳をしていた。まるで捨て去った過去の幻影に未だ追いかけられているように。



 そうしてたくさんの光景を通り過ぎた後、またしても世界が変容した――が、今度のそれはディオンにとって殊更に感情を揺さぶられるものだった。


 目の前には変わらずククがいた。そして、彼女の前にはディオン自身がいた。

 賑やかな町の喧噪に遮られ、二人が交わす言葉は聞こえない。だが、やがてククは顔を上げ、人混みの中を近付いてくるアルスや杏里、それにライックに向かって手を振った。


 それは、かつての旅の景色だった。それがいつだったかディオンには思い出せない。でも確かにあったことなのだろう。

 賑わう町を歩きながら、ククは笑っていた。その顔にはもう先ほどまでの暗く追い詰められた雰囲気はない。

 旅の中で、ククはようやく望む自分になれたのかもしれない。そう思った。

 けれど、それが物語の終わりでないことは、ディオンもよく知っていた。




 光が散って、周囲が闇に包まれた。待てども景色は変わらない。

 ただ暗く、冷たい世界にディオンは投げ込まれていた。


 前も後ろも、上下感覚もなく、どこまでも闇が続いている。ディオンが死してから復活するまでの一時訪れる世界とよく似た空間だったが、ここはきっとククが自らの内に抱えている世界の一つなのだろうと、理屈ではない予感があった。


 闇に呑まれた世界でも恐ろしさや混乱はなかった。ただ寂しかった。その寂しさはディオンにも馴染みがあった。世界からはじき出された孤独感、自分に対する失望感。でも今感じているそれは、ディオン自身の感情ではないだろう。


 ディオンは考える。

 七年前、何故彼女は一度手放した記憶を取り戻したのだろうか。

 旅をしていた頃のククのままでいたかったなら、記憶を取り戻さなければよかったはずだし、彼女の力をもってすれば、それも不可能ではなかっただろう。


 けれど、ククは記憶を取り戻した。カノンとしての過去ではなく、アルスの妹としての後付けの記憶のみではあるが、それでも彼女は旅を終え、自分が目を覚ました王都に帰ったのだ。そこに明確な意思があったわけではないとしても、無意識下できっと何か意味や理由があるに違いない。

 ……とは言え、今ここで考えていても結局答えは分からないだろう。答えは彼女の中にしかないのだ。

 そして、だからこそ知りたいとディオンは思った。

 この真っ暗闇の孤独から救うために、彼女のことが知りたかった。


 その時、不意に闇の中にごく小さい青い光が滲んだ。


 ゆらゆらと漂う光に手を伸ばす自分をイメージした瞬間、ディオンは再び自身の形を取り戻し、新たな景色に立っていた。


 そこは先ほどまでいた暗い世界と対照的な、真っ白な場所だった。空間は見渡す限り白く続き、天井と床の境目もない。

 目の前には、両開きの扉が一つ。

 装飾はないが、光の粒子を刷いたような美しい扉だった。表面はつるりとしていて、掴めそうなところはない。

 扉の周囲には青い蝶たちが優雅に飛び回っていた。蝶に誘われるように扉にそっと手を触れると、ディオンの頭の中で声がした。


――お前の感覚からすると久しぶりって言っとくべきか?


――すごく久しぶりだよ。七年経つんだから。


――寝てたから実感ねえな。お前も大して変わってねえし。


――そうかな。


 聞こえてくる会話には覚えがある。


――そういう話だったろ。


――……約束、覚えててくれたの?


――あー……覚えてたっつうか、十秒くらい前に思い出した。……言っとくが、忘れてたのは本当だからな。約束を後生大事に抱え込んで、お前の元に現れたわけじゃない。


 この会話にも。


 けれど何故だ? 何故今これが蘇る? どれもこれも、何気ない会話だ。それなのに。

 いつの間にか、周囲を舞う蝶が青い輝きを増していた。触れた白い扉から、ほのかな熱が伝わってくる。まるで先ほどの言葉たちがひどく大切なものであるかのように、蝶が、扉が、胎動していた。


 そして、再び声が聞こえてきた。


――不安でも希望でもなんでもいいから、ちゃんと俺に伝えてくれ。俺にはお前みたいな力はねえんだよ。


 これははっきり覚えている。ククが町で倒れた後に伝えた言葉だ。

 あの時、倒れたククが心配だった。倒れるまで黙っていたことがもどかしかった。だからそう言った。

 だが、ふと不安になる。

 伝えたいことを伝えて、ディオンはすっかり和解したつもりでいたが、ククはそうではなかったのだろうか。


 声は、あの日の記憶を辿っていく。


――……ディオ、ありがとう。


――さっきも聞いたな。


――あの、ディオ。……わたしが今何考えているか分かる?


――いや、だから分かんねえって。


――そうだよね。


 確かこの後、ククは。


――すごく、嬉しいの。


 ディオンは目を見開いた。

 それは記憶とは異なる言葉だった。

 だがその響きから、それが彼女の本心であることはすぐに分かった。


 同時に、ようやく気が付いた。

 聞こえてくる言葉たちの意味に。この空間の正体に。


「……馬鹿だろ」


 こんなものを大事に抱えていたって、何にもならないのに。

 なんて単純なのか。なんて子供なのか。

 本当に、馬鹿だ。しかも厄介で面倒臭くて重たくて。それこそ手を差し伸べる方が馬鹿を見るような、そんなどうしようもない存在で。


 それなのに、ククを放っておけなかった。

 理由は分からない。分からないままでいい。

 とにかく――絶対連れ戻す。


 ディオンは目の前の扉を押し開いた。




 そこは、夜の庭だった。風はない。音もない。耳が痛いほどの静寂が辺りに満ちている。

 ディオンは背後を振り返る。本来であればアルスとククが暮らし、ディオンが宿としているあの邸が見えるはずだったが、今そこにあるのは巨大な黒い塊だった。その向こうには、物理法則を無視してねじ曲がったアストリアの城と尖塔が見える。


 ディオンは黒い塊に歩み寄った。それは邸と同じくらいの大きさで、形は全的には長方形のようだったが、その表面はでこぼこと不格好に波打っていた。

 石のような質感を想像しつつ軽く手を触れると、ぐ、と沈みこむ感触があった。同時に怖気がディオンを襲う。拒絶されている、と感じると同時に、自身にも強い拒否感が生じていた。

 しかし、その感覚とは別に確信もあった。

 ククはこの中にいる。

 ならば、躊躇う理由はなかった。


 ディオンは塊に手を突っ込む。次いで足を。自らの全身を。顔をつけると目の前が暗くなり、息が出来なくなった。恐怖に足が怯むが、それでも無理やり体を前に――先に押し進めると、不意に全身にかかる抵抗が消え失せた。


 暗い。

 思ったのはまずそれだ。これまでも散々明るかったり暗かったりする場所に投げ込まれ、もうすっかり疲れていたが、文句はひとまず呑み込んでおく。

 離れた場所に、ぼうっと白い影のようなものが浮かび上がっているのが見えた。近付くと、それが寄り添い合って座る人間の集団であることに気付く。三十人以上はいるだろうか。ほとんどは少年少女だが、皆虚ろな目で表情どころか生気すらなく、人形のようにただそこに存在しているだけだった。


 その座り込む彼らの中心に、ククはいた。

 こちらに背を向け、頭を抱えてしゃがみこんでいる。小さな背中と肩が、ぶるぶると震えていた。


「――クク」


 呼んでも反応はない。

 ディオンは少女に手を伸ばす。無意識に震えていた指は、けれど確かに彼女の肩に届いた。指先に返ってきたのはか細く弱々しい感触だったが、確かにそれはククだった。


「クク、迎えにきたぞ」


 告げると、ククは振り向かないまま首を振った。


「……わたしは、ククじゃない」


 疲れきって、かすれた声で、そう答える。


「だったらカノンと呼べばいいのか?」


 違和感はあったが、それでも彼女がそう望むなら……。


「違う……違うの……」


 しかし、ククは再び首を振った。


「わたしは、自分が誰なのか分からない。自分が何なのかさえ、もう分からないの」


 ディオンを顧みないまま、ククはわずかに俯いた。


「どうしてわたしは生き残ってしまったんだろう」


「あれは……あの研究所での出来事は、お前のせいじゃない」


「ディオも見たでしょ?」


 茶色い頭が揺れる。振り返ったククは、吹けば消えそうな苦い微笑みを浮かべていた。


「たくさんの人を器にして……たくさんの人の生を上書きして、わたしという人間は出来てるの。たくさんの人間の死の上に、わたしの命は成り立ってるの。彼らの肉体に、カノンの記憶を流し込んで、塗り替えて、彼らからすべてを奪って、わたしはここに存在してる。それもすべては、わたしがそういう力を持つ存在として成り立ってしまったから。神様を作ろうとした愚かな人たちの歪んだ願いを、わたしが昇華させてしまったから。わたしは生きているべきじゃなかった。生き抜くべきじゃなかったんだよ」


 自虐的な笑みはすぐに消える。

 生きているべきではなかったと言いながら、今ククはここにいる。それは本人の意思でもあるだろう。だがきっとそれ以上に、ククは死ねないのだ。

 自分の生が無数の命の上にあると知ればこそ、彼女は自分を手放せない。後悔を抱えて、命を抱えて、苦しみ続けるより他にない。


「クク……」


「それにね、ディオ」


 かける言葉を見失ったまま、それでもディオンは口を開いたが、続く言葉を拒むように少女が再び言葉を紡いだ。


「本当は自分を責めるのと同じくらい、わたしは他人を恨んでるの。自分を嫌いなのと同じくらい、この世界にうんざりしてるんだよ。だから記憶を書き換えて、兄さん……アッ君や周りの人に迷惑を掛けても、ちっとも平気だった。今だってそう、嘘がバレたからこんなところに逃げ込んだんだよ」


「それだけがお前の本心じゃないだろ」


「本心? 本心なんかどこにもないよ」


 ククは顔を上げ、苦しげな表情でディオンを見上げた。


「もし分かるなら教えてよ、ディオ。わたしは何なの?」


 詰るような救いを求めるような声が、暗い世界に冷たく響く。周囲に座る人形のような者たちのまなざしが、無機質にククを見つめていた。


「かつてカノンであったわたしはどこにいるの? わたしの心は確かにカノンの記憶を持っているけど、この体もこの脳だって、元々はカノン(わたし)のものじゃない。わたしは、もう誰でもない。自分が正しく生き物なのかどうかさえ分からない。だから……」


「お前はククだろ」


 彼女の言葉を遮って、ディオンは言った。

 ただ一言。しかし、それがディオンの知る事実だった。

 ククが再び否定する前に、言葉を続ける。


「俺はお前が誰だか教えてやることなんざ出来ねえよ。だけど、お前には今も動いてる心臓があって、怖かったり苦しかったりしたらきっと泣くんだろ? それなら、少なくともお前は生き物だ。後は神だろうが人間だろうが大した違いなんかねえし、俺が知ったこっちゃない」


 過去がどうであれ、関係ない。


「俺はお前(クク)を迎えに来たんだ」


 今、目の前にはディオンの知るククがいる。それだけだ。

 手を伸ばし、細い肩を引き寄せる。突然のことに驚いたのか、小さな体は容易くディオンの胸に倒れ込んだ。

 柔らかな髪が首筋を撫で、ククが戸惑ったように身を捩る。


「クク、俺と一緒に帰るぞ」


「……帰れないよ。帰る体も心も、わたしにはない」


「あるだろ、ここに」


「わたしには、あの場所に戻る資格なんてない」


 往生際が悪いやつだ。

 だからディオンは言ってやる。


「それでもあの場所に戻りたいから、助けてほしいから、俺を受け入れたんだろ」


 ククが本当に拒む気であれば、ここまで辿り着くことなど不可能だったはずだ。


「わたしは……」


 ククの目が揺れ、顔が歪む。まるで自らの罪を突き付けられたように、苦しげに。


「いいんだよ、それで」


 ククの震える指先を握りしめて、ディオンはなるべくそっと言葉を落とした。彼女に伝えたいのは、罪の在り処ではなかった。


「自分に嘘吐いたって、他人に迷惑掛けたって、それは取り返しのつかない罪じゃない」


 すべて正直に、自分一人の力で生きていけるなら、それは理想的な生き方だろう。

 でも、そんな人間などほとんどいないことをディオンは知っている。

 この世界には嘘を吐いたり打算を抱えて、それでも生きていく小狡い人間だらけだ。けれど、そういう人間が必ずしも悪ではないことを、そういう人間だからこそ誰かを救える時もあると、それもまた知っている。そんな人間たちを心から羨んで、愛しているからだ。


「この世界はお前の処刑場じゃない。お前が罪を感じようが感じまいが、きっと世界は大して変わらない。だから、お前はそんなに自分を呪わなくていいんだ。誰もお前を責めたりしない」


 その言葉を否定するように、許さない、と声が上がった。ディオンとククを囲んで座り込む人々がこちらを見上げ、口々に言葉を発していた。

 許さない。許さない。ただ繰り返されるその言葉が、本当は誰の心にあるものなのかは明らかだった。

 ククの怯えた顔を見下ろして、ディオンは宣言した。


「だったら俺が許すだけだ。お前の悲しみも苦しみも憎しみもすべて。お前の腹がどんなに黒かろうが、世界を呪おうが、泣こうが喚こうが、自分を責めようが」


「ディオ……」


「それからまだ言いたいことはあるぞ」


 この際、全部ぶちまけることにした。

 肩を掴んで、ククの顔を覗き込む。


「お前、いつか雪山に俺を迎えに来たよな? 頼んでもねえのに来るし、帰れっつったのに帰らねえし……。いいか? これはその仕返しだ。お前がいくら拒もうとも、無理やりこっから引きずり出すまで帰るつもりはねえからな」


 これは恫喝なんだろうか、と頭をかすめたが、もう知るか。


「こっちは不老不死なんだ。百年だろうが二百年だろうが、お前がここから出ると言うまで猛烈な気の長さで説得し続けるからな。それが分かったなら、とっと観念して現実に戻れ」


 そう、帰るつもりはない。

 ククを連れ戻すまで。

 二人で帰るまで。


「ディオ、わたし……」


 ククが震える唇を開く。


「わたし、は……」


「うん」


 続く言葉はなかなか出てこない。手も、指も、瞳も、ディオンの支えるすべてが震えている。宥めるように、背中に一方の手を添えると、ククが目を瞑った。

 大粒の涙が頬を零れ落ちる。


「こんな風になってしまったのに……こんなにも、罪深いのに……それでも、生きていたいの」


 溺れるように震える胸が、息と、言葉を吐き出す。


「しあわせに、なりたかったの」


 ああ、本当に馬鹿だなと思った。


「そんなの――普通の願いだろ」


「だけど……」


 また堂々巡りに陥りそうな少女に向かって、ディオンは強引に言葉を被せた。


「それに、それはお前の中にあるいくつもの思いの総意なんじゃないか? お前は色んな人間を抱えて生きている。だからお前が幸せにならないと誰も彼も救われない」


「そんなの、わたしに都合のいい詭弁だよ」


 咄嗟に構築した理屈は見事一蹴された。

 それでも諦めない。泣き顔に向かってディオンは言った。


「じゃあ詭弁でいい。都合のいいごまかしでも嘘でもいい。それでもお前は生きて、幸せになるんだ。……絶対に」


 ばりん、と頭上で音がした。視界が明るく染まり始める。

 もう怨嗟の声は聞こえない。

 ディオンの胸から離れ、一人立ち上がったククが、どこか寂しげに天を仰いだ。


「……やっぱりわたしは、罪深いよ」


「クク」


「……だけど本当は分かってたの」


 弱々しい笑みを浮かべて、ククはディオンを見下ろした。


「あの世界には、きっとまだわたしのやるべきことがある」


 白く、白く世界が染まっていく。そこに夜明けのような美しさはない。明確な救いも優しい感傷もない。

 それでも殻は破られた。


 ***


 目覚めたディオンは、体を起こすなり思わずぎょっとした。

 あの水槽が思いっきり目の前にあったからだ。


 水槽の前に置かれた簡易ベッドに、ディオンは寝かされていた。ものすごく雑な対応だったが、しかしすぐにそんなことはどうでもよくなった。

 水槽の中のククに、もうあの青い翼はなかった。

 睫が震え、瞼がゆっくりと開いていく。


「……っ!」


 こうしてはいられない。慌てて扉を開こうと近くの装置に駆け寄るが、当然操作方法が分からない。しかも部屋に他の人間の姿もなかった。


「何で誰もいないんだよ……!」


 焦りつつ、とにかく人を呼ぼうと顔を上げると、ぷしゅ、と間抜けな音がした。振り返れば、ククが開いた水槽の上部から這い上がっている。


「……手、貸すか?」


「……大丈夫」


 答えて、少女が軽やかに床に降り立つ。

 ディオンはククに歩み寄った。

 当然のことながら、全身ずぶ濡れだ。指で軽く頬を拭ってやるが、あまり効果はなかった。少女の瞳からは、涙が次々溢れて止まらない。


「帰ってきたな」


「迷惑掛けてごめんなさい」


 結局そんな言葉か、とは正直少し思う。彼女から後悔は消えていないのだろう。悲しみや苦痛、罪悪感も。

 それでも、ククはここにいることを選択した。

 今はそれで十分だった。


「……さて、と」


 ディオンは改めて部屋を見回した。


室内は一言で表現すると「血塗れ」だった。壁や床は勿論、ディオンの寝ていた寝台が特に酷い。というか、ディオン自身が酷かった。着ていた服は何故かボロボロだし、皮膚には乾いた血がこびりついている。よく分からないが、察するに。


「これ、何度か死んでたな」


 襲撃があったのかとも思ったのだが、それにしてはククは無事だし、部屋も汚れてはいるもののそこまで混乱に満ちてはいない。

 多分、ククの力がディオンに影響しただけだろう。

 その当人は、血の気が引いた顔をディオンに向けていた。


「ご、ごめんなさい。それ、わたしが……」


「お前も無意識だろ? いいっつの」

 ディオンは手を振った。

「ただ、これほど自分が人間でなくて良かったと思うこともなかなかないだろうな。俺の否人間性にお前も感謝しろよ」


「……する」


 そう素直に頷かれるのも微妙な気持ちになる。

 と思ったら、ククはまた半泣き顔になっていた。


「おい、大丈夫か? いい加減泣くなよ」


 言ってから、違うな、と思った。


「ああ、いや、やっぱ泣いてもいい。お前はお前の好きにしろ」


「……ありがとう」


 やっと少し前向きな言葉が聞けたが、喜ぶ暇もなく、部屋の扉が乱暴な音を立てて開いた。


「おお、悪いな兄ちゃん。ちょっと長目の便所休憩してたら部屋の反応に気付くのが遅れてな」


 どかどか入ってきたのは小柄だががっしりした体格の男だった。なんとなく見覚えがある顔だ。


「ここの魔術師か?」


「おうよ。うちの主任からあんたの世話を頼まれててな。まあまあ快適なお昼寝だったろ?」


「一体どれくらい経ってる?」


「二ヶ月だよ」


「は?」


 思わず間抜けな声が出た。確かに多少時間は経過しているだろうと思っていたが――二ヶ月?

 しかし、相手に冗談を言っているような様子はなかった。


「あの……兄さんは……?」


 ディオンの隣でククが男に問いかけた。

 男は「ああ」と声を上げ、


「主任ならさっき知らせを飛ばしたから、もうすぐ来るだろうよ。王城の外なんでちっと時間はかかるかもしれんがな」


 妙にざっくりした説明だ。

 それにしても、こんな時にアルスは一体どこへ行っているのだろう。ディオンはともかく、ククのことが心配ではないのだろうか。納得のいかない思いでそんなことを考えていると、部屋の隅で光が踊った。


「なんだ?」


 光の柱が天井から床までを貫き、そこから人影が出現する。

 こちらに歩いてくるアルスの背後で、光は集束するように消失した。


「あーあ、また気軽に転移して。早死にしても知りませんよ」


「クク、ディオン、よく戻ったね」


 男の言葉を無視してアルスが言った。その顔には安堵が浮かんでいるが、一抹の険しさは拭えていない。アルスが安心しきれない要因が他にあるのは明らかだった。


「ああ、それで……何が起きてる?」


 銀の鎧を赤く濡らしたアルスに問いかけると、答えはすぐに返ってきた。


「……戦が始まったんだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ