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refrain  作者: 水幸
第十五章 カノン
63/75

第63話

 今日も焼却炉からは人の肉が焼ける匂いがする。

 またたくさんの失敗作が投げ込まれているのだろう。


 焼却炉にほど近いこの部屋は暑くて臭い。ここに来たばかりの頃、部屋を替えてほしいと兄さんが何度か訴えたけれど、匂いも室温もその内慣れるだろうと言われて、それでおしまい。そもそもわたしたちの願いが聞き入れられることなど滅多にないのだ。兄さんもすぐに諦めて、この部屋の環境について口にすることはなくなった。


 夕方、掃除のおじさんたちの片付けがすべて終わると焼却炉も閉じられる。

 部屋はまだ暑いままだけど、食事の時間がやってくる。

 わたしや兄さんは「優秀な素材」だから、食堂に移動してご飯を食べることが出来る。

 廊下から、先生が部屋の鍵を開ける音がして、いつも通り扉が開いた。


「行こうか、カノン」


 わたしは頷いて、兄さんの大きな手を取った。




 廊下の奥にある食堂に入ると、先に来ている人はほとんどいなかった。

 元々食堂を使える人は少ないし、席にはいつも余裕があるけれど、それにしたって今日は特別静かな気がした。


 首を傾げていると、おおい、と隅の方から声がした。


「ソラ、コトリ」


 並べられた細長いテーブルの列の端。ソラとコトリがわたしたちを手招きしていた。

 部屋の前方にある配膳台からシチューとパンを載せたトレイをもらって、わたしと兄さんは二人の正面に座った。


「今日は人が少ないね」


 わたしの言葉に、ソラがつやつやした唇を尖らせた。


「十人くらい死んじゃったらしいよ。いつも来る子たちもその中に混ざってたみたい」


「えっ、本当に?」


 うん、とコトリが頷く。


「次はあたしたちかもね」


 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 それは、わたしたちには分からないことだった。


 わたしたちはここで色々な実験を受けている。

 実験の途中で死ぬ人もいるし、死なない人もいる。死ななければ、生きていける。そういう仕組みの場所なのだ。

 そして今のところ、ここにいる四人の誰もが死んでいない。

 確かなことは、それだけだった。


「カノンは大丈夫よ。優秀も優秀だもん」


 突然、コトリがいつにも増して小さな声でそう言った。


「そうかな」


 そうだよ、と頷いたのは兄さんだ。


「カノンは小さいのに、すごくしっかりしてるしさ」


 わたしは自分の体を見下ろす。

 確かにわたしは、兄さんは勿論、ソラやコトリよりもずっと貧相で小さい、子供の体をしている。そういえば歳はいくつだったろう。十歳、それとも十一歳? 自分のことなのに、もう思い出せない。この研究所に連れてこられる前、過去のことも、もうとっくに忘れてしまった。


「だけどソラもコトリも、きっと大丈夫だよ」


 兄さんがそう言うと、二人は顔を見合わせて少し寂しそうに笑った。


「そうだね」


 二人の声が綺麗に揃っていて、双子みたい、といつものようにわたしは思った。

 けれど実際は、ソラとコトリは双子でも兄妹でもなかった。それどころかわたしも兄さんも、そして二人自身も、ソラとコトリの本当の名前を知らない。捨て子だから名前がないと言った二人に、君は空の色みたいな目をしているから「ソラ」、君は小鳥みたいに茶色くて柔らかい髪をしているから「コトリ」。そう名付けたのは兄さんだ。


 名前を持たない子は他にも大勢いたけれど、兄さんが名付けたのはソラとコトリの二人だけだ。他の子とはほとんど交流がないし、会話する機会があったとしても、すぐにいなくなってしまうのが当たり前だ。だから、ソラとコトリ以外、わたしたちに知り合いと呼べるような人はいなかった。


 食事の時間はあっという間に終わり、部屋の入り口で監視員のおじさんが怒鳴り始めた。

 あのおじさんは怖いので、さっさと出ていかないと撲たれてしまう。皆、早足で食堂を後にする。

 廊下に出たわたしたちは「おやすみ」と手を振り合った。

 同じ部屋で過ごすソラとコトリは、やっぱり双子のように二人同時に手を振った。


 部屋に戻ったわたしは、今日も兄さんと手を繋いで眠る。

 大きな木箱に薄い毛布を敷いただけの寝床はひどく冷たくて固いけど、兄さんの優しい目を見て、穏やかな話し声を聞いていると安心した。

 暗闇の中、わたしはいつも通り目を閉じる。


 こんな夜がいつまで続くは分からない。けれど、わたしには、兄さんがいればそれでいい。兄さんがいれば、どんな場所でも生きていける。そう思いながら、今日も眠りに落ちていく。



 焼却炉は毎日動き続けた。

 わたしたちも毎日のように色んな実験を受けさせられた。

 時々「先生」と呼ばれる偉い人たちが部屋を訪ねてくることもあったけれど、日々の体調のことについて簡単な受け答えをするくらいで、誰も長居はしなかった。

 過ぎていく時間には何の意味もなかった。


 ある時、たくさんいる先生の中でも一際歳を取った眼鏡の先生が部屋に入ってきて、「君はもう食堂に行かなくてもいい」と、わたしに言った。どういうことですかと尋ねても答えてくれない。代わりにその日から、毎日食事時になるとパンやスープ、それにいくつかの錠剤が部屋に運ばれてくるようになった。

 これが食事だと言われたので、わたしはそうなんだ、と思って食べた。パンもスープもほとんど味がしなくて、食堂のものよりずっと不味かったけれど、残すことは許されなかった。与えられた錠剤は、鉄の味がする水で流し込んだ。


 そんな食事が何回も、何十回も続いた。


 特におかしいとは思わなかった。わたしがここにいる意味だとか昔のこととか、そんなことはどうでもよかった。難しいことを考えようとすると頭の奥がぼんやりするから、考えごとも出来なくなった。

 だから、いつの間にか隣にいたはずの兄さんがいなくなっていたことさえ、わたしはすぐには気付かなかった。


 兄さんがいない。


 その事実に気付いたきっかけが何だったのかは思い出せない。いつ兄さんがいなくなったのかも。

 けれど、気付けば兄さんはわたしの前からいなくなり、狭い部屋にはわたし一人が残されていた。

 その事実はわたしをパニックに陥らせたけれど、すぐに事態に気付いた先生がやってきて、兄さんは別の部屋に移ったのだとわたしに告げた。

 あなたの兄さんは順調よ。だから別のエリアで新しい作業をしてもらうことにしたの。

 優しげな顔をした女の先生は、動揺するわたしにそう根気強く説明した。手渡された薬を飲むと、激しく動いていた心臓が少しずつ落ち着きを取り戻すのが分かった。

 それでも不安は残っていたけれど、先生は兄さんにまたすぐ会えるだろうとも言った。

 それなら、その時を信じて待つしかないだろう。

 



 それからまたしばらく時が経った後、突然再び食堂で食事を摂るよう言われた。理由は分からない。前のように、優等生だから、優秀な素材だからと言われることもなかった。ただ、今日から食堂を使いなさい、と言われただけ。

 久しぶりに部屋の外で食事出来るのは嬉しかったけれど、そんな喜びは束の間のものだった。


 食堂にはソラもコトリもいなかった。

 部屋の真ん中の方には何度か廊下ですれ違ったことのある男の子たちが三人固まって座っていたけれど、荒んで冷たい目つきをしている彼らにはあまり近寄りたくなかった。

 仕方なく一人で食事をしようとお盆を受け取り、どこに座ろうか考えていると、一番奥、一番端の席で女の子が食事をしていることに気が付いた。


 初めて見る子だけど、なんだか優しそうな雰囲気だ。

 わたしはお盆を持って、彼女に近付いた。


「初めまして。最近来た人?」


 声をかけると、顔を上げた女の子は少し戸惑いながら頷いた。


「……うん。あなたは?」


「わたしは結構長くいるよ。でも、食堂に来るのは久しぶり」


「そうなんだ」


 女の子は微笑んだ。のんびりした感じの可愛い子だな、とわたしは思った。と言っても、歳はわたしより少し上に見える。茶色い柔らかそうな髪と、明るい空色の目をしていた。

 女の子の名前を聞こうとすると、いきなり後ろで激しい物音がした。


「ゴチャゴチャうるせえんだよ」


 中央に座っていた男の子たちだった。立ち上がり、今にも噛みつきそうな顔でこっちを見ている。彼らが蹴飛ばしたのであろう椅子が、机から離れた壁際にぽつんと寂しく転がっていた。


「静かにしろよ、ガキと新入り!」


 一人が叫ぶなり、お皿を放り投げた。

 勢いよく飛んできたそれが、わたしの目の前で突然消える。


 一拍遅れて、からんと乾いた音がした。

 足元を見れば、真っ二つに割れたお皿が転がっている。


 再び顔を上げると、さっきまで隣で座っていた女の子が、いつの間にかわたしの目の前に立っていた。わたしの顔を庇うように右腕を掲げ、白い手のひらを広げている。


 一瞬、食堂全体が息を殺したように静まりかえった。

 次の瞬間、お椀を投げた男の子が大きな唸り声を上げてこちらに突進してきた。

 けれど、その体がわたしたちに迫る前に、男の子はまるで見えない巨大な手に薙ぎ払われたかのように勢いよく後方に吹き飛んだ。壁にぶつかって、そのまま落下する。


 女の子は構えていた手をゆっくり下ろして、何故か悲しそうな顔をした。


「わたしと喧嘩するのは、やめておいた方がいいと思うよ」


 説得力のある言葉に、もう誰も何も言わなかった。

 先生が二人、部屋に飛び込んできて、わたしたちの方へ駆けてくる。お説教部屋かも、とわたしは彼女に囁いた。


「ごめんね、わたしのせいで」


 謝ると、彼女は首を振った。


「別にいいよ。あなたのせいじゃない」


「あなた、とっても強いんだね」


 そういう風にされたから、と女の子はまたどこか寂しげな顔で微笑んだ。

 先生が「来なさい」と言って、わたしたちの手を取った。やっぱりお説教だ。強い力に引っ張られて歩き始めながらも、わたしはまだ女の子に聞きたいことがあった。


「ねえ、あなたの名前は? わたしはカノンって言うんだけど」


「ないの」


「え」


「名前は、ない」


 ソラやコトリと一緒だ。

 女の子は上目遣いで、何か言いたげにこちらを見ている。とうとう廊下まで連れ出されながら、わたしは思い切って言った。


「じゃあ、レインは?」


 途端、先生が怖い顔でこっちを見たけど、わざと気付かないふりをした。女の子の耳元に口を近付けて、


「わたしたちがなる神様の名前、の一部」


 そう説明する。神様は正確にはリフレインと言うのだけど、流石にそれをそのまま付けたら先生に何を言われるか分からない。でもほんの一部くらいだったら、使わせてもらったって許されるだろう。いつかわたしたちが辿り着くべき存在から前借りするだけだもの。

 女の子はしばらく目をぱちぱちさせてから、突然ふわっと微笑んだ。


「うん、じゃあ、わたしはレイン」


 それが、彼女――レインとの出会いだった。


 ***


 幻影に包まれていた意識が何の前触れもなく浮上して、己の輪郭が蘇る。

 目を開いたディオンは、しかしすぐに息を呑んだ。


 四方に広がっているのは広い部屋だった。あちこちに棚や机が置かれ、雑然とした雰囲気だが、ディオンの立っている場所付近は円形に開けていて、周囲の床から一段高くなっていた。奇妙な舞台のようなその場所には、ディオンだけでなく小柄な影がもう一つ。それは先ほどディオンを呑み込んだ、あの獣人の少女――カノンだったが、彼女の姿は一変していた。


 元々華奢な印象だった少女は、今やすっかり痩せこけて、手足が棒のようになっていた。栄養が不足した皮膚は老婆のようにがさがさに萎み、乾いた髪が枯れ枝のように広がっている。


 カノンは明らかに健康な状態ではなかったが、本人はそれを自覚していないのか、妙に平然とした顔で部屋の奥を見つめていた。

 その視線の先では、壁際に数人の男女が固まっていた。彼らはこちらを見つつ、言葉を交わし合っている。


「成功ですね」


「でも、拡張出来たのはほんの一部です。これ以上の発達は望めません」


「それなら他の優秀な被検体と掛け合わせればいいわ。新しい資料には目を通したでしょう?」


「はあ……ですが、あれは……」


「失敗を恐れていては何も出来ないよ。それに素材はまだまだ残ってる」


 何を話かは分からない。だが、妙に不吉な予感がした。

 ディオンは思わず隣のカノンを窺ったが、その横顔は彼らを見てこそいるものの、表情は一切なく、まるで何も感じていないようだった。


 その姿に一層不安が強まった、その時。

 再び視界がどろりと溶けた。


 ***


 食堂で騒ぎを起こしたことで、食堂の使用許可はあっさり取り消されてしまった。従ってレインと話す機会もなくなってしまったけれど、実験のため研究室に向かう時など、廊下でたまに顔を合わせることはあった。


 私語は許されていないので、言葉を交わすことは出来ない。それでもレインはわたしと目が合うと、いつも優しく、そして少し悲しそうに微笑んだ。


 彼女はいつも穏やかな雰囲気を纏っていて、わたしはそれが好きだった。なんとなく、兄さんを思い出すからかもしれない。


 わたしは、レインと仲良くなりたかった。




 ある日、わたしは少し前に新しく作られたばかりだという部屋に連れていかれた。

 分厚い金属扉の先の小部屋にはたくさんの機械が置かれていて、それらに囲まれた中央に、大きくて奇妙な椅子があった。黒い皮の肘掛けや背もたれから様々な色の導線が飛び出して、床に置かれた四角い装置に繋がっている。装置は低い音を立てていた。


 先生に椅子に座るよう言われたのでそうすると、ごそごそと後ろで音がして、頭の上に何か重いものが乗せられた。体を捻っても正体は見えないけれど、多分、帽子のようなものだろう。

 それ以上何か考える暇もなく、先生が今度は透明でふっくらした、何かの蓋のようなものを持って目の前に立った。蓋には太いケーブルがくっついていて、それもまた床の機材に繋がっていた。先生の手が顔に近付いてきたところで、ああこれはマスクなのかな、とわたしは考えた。


 予想通り透明な素材が口元にあてがわれた瞬間、繋がったケーブルの奥からぶわりと風が送り込まれた。苦い、と感じた直後、舌の先が痺れていく。体に力を入れようとしてもうまくいかなくて、投げ出された手足がわたしの意思を無視して震えだした。


 頭の奥底、真っ暗闇からたくさんの手が伸びてきて、引っ張り込まれるみたいに意識が解けていくのを感じた。怖い。でも、抵抗出来ない。

 ぶつん、と頭の奥で音がした。



 わたしは、灰色の部屋にいた。

 さっきまでいた椅子のある部屋ではない。いや、そもそもわたしはいつからここにいるのだろう? ……思い出せない。


 わたしの体はどうやらベッドの上に寝かされているようだった。頭はなんとか動かせるけど、体の内側に泥を流し込んだみたいにものすごく怠くて、全身を動かすことは出来なかった。手足には細い管が繋がれていて、中に青い透明な液体が流れているのが見えた。


「あ……」


 固く強張った喉から声を絞り出すと、足を向けている方から物音がした。そちらから眼鏡の先生が駆け寄ってきて、枕元でわたしを見下ろす。


「カノン、気分はどうだい?」


「わたし……どうしたんですか……?」


 今度は、わあっと歓声が上がった。それもまた足の方だから状況がよく分からない。何人かが興奮した口調で何かを話しているけれど、そこに不穏な気配はなく、誰もが喜んでいるようだった。視線を戻すと、先生もすごく嬉しそうな笑顔を浮かべている。


「ああ、成功だ」


 しわだらけの乾いた手がわたしの頭を撫でた。

 何がなんだか、まるで状況が分からなかった。混乱と共に視線を彷徨わせると、視界の端に見慣れないものが映った。わたしが頭を動かすと、それも動く。

 髪の毛だ、と遅れて理解した。

 淡い金色をしたその髪は、不思議なことにわたしの頭から垂れ下がっているらしかった。どうしても触ってみたくて、わたしは腕に力を込める。びっくりするほど重い手がようやく頭に辿り着き、柔らかい髪に触れた。わたしの髪の感触ではない。それに頭の上をまさぐってみても、いつもならそこにある黒い耳に指が触れることもなかった。


 先生が横からわたしの手を取った。


「心配しないでいい。君は女神に近付いただけだ」


「女神……?」


 女神。わたしたちが辿り着くべきもの。それに、近付いた? 

 ……わたしは成功したんだろうか?


 混乱するわたしの目を見つめながら、先生は笑みを深くした。


「君はこれからいくつもの変化を感じるだろう。だが、それは素晴らしいことなんだ。落ち着いて受け入れることが出来るね?」


 やっぱりよく分からない。だけど先生がそう言うのなら、きっとこの状況は問題のないことで、何も間違ってはいないのだろう。だから、わたしは頷いた。



 それから、わたしは目を覚ましたこの灰色の部屋で過ごすことになった。


 部屋には扉が二つあり、右の扉は広くて真っ白い試験場と呼ばれる部屋に繋がっていて、ほとんど毎日のようにそこに移動して色々なことをした。

 左の扉はあの不思議な椅子の置いてある小部屋に繋がっていて、時折また椅子に座るよう命じられた。


 椅子に座ると、いつもすぐに意識がなくなってしまう。

 そうしてまた隣の部屋のベッドで目覚める度に、わたしの体は変化していた。髪や肌の色、質感、爪の長さ、手の形、すべてが意識を失う前とは異なるものになっているのだ。

 三つ繋がって部屋のどこにも鏡がないから、自分がどんな顔をしているかまでは分からない。けれど触ってみる限り、目の大きさや鼻の高さも変わっているようだった。


 変化は見た目だけではなかった。男の人のような低い声しか出せなくなったり、それとは真逆の高い声に変わったり。体に力が溢れている時もあれば、起き上がれないほど具合が悪くなることもあった。


 様子を見に来る先生に不調を訴えると、またあの椅子に座るよう促される。そこでまた意識を手放すと、再び体の様子が変わっていて、元気になっていることが多かった。稀にもっと具合が悪くなると、元気になるまで椅子に座っては目覚めての繰り返しだ。これまで何度椅子に座ったか、二十回目くらいまでは覚えていたけれど、それよりずっとずっと多くなって、わたしは数えるのをやめてしまった。


 その内、試験場で先生から命じられる内容も、少しずつ変わっていった。

 最初の頃の課題は、水の入ったコップに手をつけて水温を上げたり、真っ黒い箱の中身を当てたり、ゲームみたいなものだった。いつの間にか自分が不思議な力を使えるようになっていたのには驚いたけれど、先生が研究の成果だと言うから、そういうものかと納得した。

 やがて課題を難なくこなせるようになると、部屋には犬やネズミ、子馬などの動物が放り込まれるようになった。


 こいつらを消せ。方法は君のやりやすいようでいい。

 先生たちは、いつも決まってそう命令した。


 この研究所に連れてこられて以来久しぶりに目にする動物はどの子も可愛くて出来れば傷付けたくなんてなかったけれど、やるまで部屋から出してもらえないし、あまりぐずぐずしていると先生に後でひどく折檻された。

 だから、仕方なかった。


 毎日毎日、何匹、何十匹もいきものを始末すると、突然先生がもう十分データが取れたからこの実験はこれでおしまいだと宣言したので、ほっとした。




 ある日、またわたしは椅子の上で意識を失い、寝台の置かれた部屋で目を覚ました。

 なんだか妙だった。

 いつもより感覚がはっきりしていて、色んな音がよく聞こえる気がした。

 電灯で明るく照らされた部屋には、わたし以外誰もいない。けれど、起き上がると壁の向こうから何かが聞こえてきた。


「……そろそろ彼女への引き継ぎを始めてもいい頃だな」


「では、早速次回にも……」


 先生たちの話し声だと分かったけれど、わたしは思わず戸惑った。こんな風に部屋の外から声が聞こえることなんて、これまで一度もなかったからだ。

 それに先生たちの声もおかしかった。いや、普段とそう違うわけではない。でも、なんだか冷たくて、恐ろしくて……この感覚が一体何なのか、分からない。分からないまま、わたしは自分が何かこれまでとは違う生き物に変わってしまったように感じた。


 ベッドから離れ、部屋を見回す。

 空気がざわついて肌に鳥肌を立てた。部屋の左手にある扉が、いやに気になる。誘われるように分厚い扉に手を触れると、鍵は掛かっていなかった。重たい扉を、体全部で押し開ける。


 部屋の中央には、いつも通りあの椅子があった。

 唯一違うのは、その上にわたし以外の姿が座っていることだ。

 椅子にぐったりと腰掛けているのは、ソラだった。見開いた薄青の両目と薄く開いた唇の間から、血が幾筋も流れている。椅子の座面も彼の足元の床も、一面真っ赤だ。すえたひどい臭いがする。


「うっ……」


 吐き気がお腹の底を突き上げて、咄嗟に両手で口を覆った。なんとか堪えたけれど、体の震えは止まらなかった。


「ソラ……」


 わたしが呟くと同時に、椅子の横に立っていた二人が振り向いた。一人は見覚えのある眼鏡の先生、もう一人は見たことのない女の人だ。ぴったりとした服の上に、汚れ一つない綺麗な白衣を着ている。

 この人も先生なんだろうか?

 女の人がこちらに近付いてきた。伸びてきた手が、わたしの顎を掴む。長い爪の並んだ手は、驚くほど冷たかった。


「起きて動いてるところは初めて見るわ。成功体とは分かりにくいわね」


 観察するような瞳に見つめられ、わたしは目を逸らした。女の人ではなく眼鏡の先生に向かって、「これは……?」と震える声で問いかける。


 これは――ソラはどうしてここにいるの? どうして死んでいるの? この人は、誰?


「残念だけど、この子は失敗してしまったの」


 答えたのは、目の前にいる女の人だった。わたしの顔から手を離し、背後のソラを振り返る。


「あなたと同じ実験を受けてもらったんだけど、彼の体には負担が大きかったみたい。だから……」


 その時、女の人が話し続ける声に重なって、別の声がした。


――これは、あなたがさっきまで入っていたものよ。


「え?」


 わたしの声に、女の人が素早く振り返った。見開かれた目が妖しく輝き始めている。


「分かった? 今の、聞こえた?」


 まるで子供のように弾んだ声を上げて、彼女がわたしの手を掴む。途端、触れた肌を通して、おぞましい感覚がわたしの体に流れ込んだ。


「ああ、すごい! 期待した通りだわ!」


 甲高い声と一緒に、わたしのものではない歪んだ喜びが胸を満たしていく。暴れだす胸が熱い息を吐き出して、わたしは興奮している、と知覚した。でもそれはわたしの感情ではない。


 誰かが、わたしに入ってくる。

 わたしから、わたしを奪おうとしている。


 悲鳴が喉から迸った。腕を振り回して、目の前の化け物を振り払う。足が震えて立っていられず、大きな音を立てて腰を床に打ちつける。座り込み、溢れてくる涙でぼやける視界で、目の前の大人たちを見上げた。


 わたしは恐怖していた。わたしは混乱していた。けれど、それらの強い感情が、心を塞いでいた何かを押し流していく。

 走ってくる先生に腕を掴まれて、わたしは意識を失った。




 次に目が覚めた時、そこはあの椅子の部屋でも、寝台を置いてある部屋でも、試験場でもなかった。

 冷えた床に手をついて軋む体を起こすと、目の前にズボンを穿いた細い足が並んで見えた。


 顔を上げる。

 目の前に立っていたのは、あの白衣の女だった。


「ようやく起きたのね」


 その声には答えず、周囲を見回す。随分大きい部屋だ。食堂と同じくらい……いや、もっと広いかもしれない。灯りに乏しく、前も後ろも奥の方はほとんど見えないけれど、右手の暗がりに、床から天井まで大きな柱のようなシルエットがいくつも見えた。目をこらそうとすると心臓が早鐘を刻み始めたので、視線を外し、傍らの女を仰いだ。

 仕方なく、質問する。


「ここは一体なんなの? あなたは……あなたたちは、わたしに何をしようとしているの?」


 精一杯の反抗心を込めた問いに、女はふっと唇の端で笑った。


「自我が回復してるのね。でも反抗期には遅いんじゃない?」


「うるさい」

 わたしはなるべく大きな声を出した。

「わたしの質問に答えて」


 自我。そう、それはわたしが失っていたもの。

 わたしはこれまで嘘で作った柔らかい毛布にくるまれていたようなものだ。現実を認識しないように、正常な思考を手放すように。与えられた薬、打たれた注射。その数はもう数え切れないけれど、だけど、もう無駄だ。


 わたしは気付いてしまった。

 この女は、この研究所は、異常だ。

 異常で、間違っている。


 女はしばらく笑みを浮かべながらわたしを見ていたが、やがて顔を上げると、


「開けて」


 そう部屋の奥に向かって叫んだ。


 女の視線の先を見ると、暗がりに一つ、小さな赤い光が灯っているのが見えた。それはすぐに青色に変化して、やがて、ぽかりと白い出口が開いた。差し込んだ光が部屋の闇を薄めた直後、スイッチを入れる音がして、室内全体が明るくなった。


 わたしは、息を呑む。

 暗闇に紛れていた彼ら。その傍らを横切って近付いてくる、眼鏡の先生。どちらに目を向けていいか分からないでいる内に、先生との距離がぐんぐん迫る。


「来ないで!」


 叫ぶと、先生の足がぴたりと止まった。しゃがみこんだままのわたしに、先生が膝を折る。眼鏡の奥、細めた目がわたしを覗き込み、生臭い息が顔にかかった。


「なあ、兄さんに会いたくはないのか?」


 底冷えする声が、わたしの心臓を掴む。


「お前が抵抗すれば、兄さんに永遠に会えなくなるかもしれない。それでも、そんな反抗的な態度を取るのか?」


「……兄さんはどこ? 無事なの?」


 かすれた声でなんとかそう尋ねると、


「彼も君と同じように、神様に近付いている。君が女神になれば、すぐに再会出来るだろう」


(兄さんに、会える?)


 嘘だ、と思った。

 本当かもしれない、と思った。

 先生の言っていることが事実かどうか、判断出来なかった。

 意識を手放す前、女の「声」が聞こえたみたいに、また先生の感情が分かったら。そう思って念じても、今は何も感じられない。聞こえない。


「……理解したようだ」


 先生が、満足げな様子で女にそう伝える。

 部屋の外、開かれたままのドアの向こうから、乱暴な足音と誰かの叫び声が聞こえてきた。

 すぐに室内に入ってきたのは、白衣を着た見知らぬ男だ。後ろ手に誰かの頭を掴み、無理やり部屋に引きずり込む。


「――っ!」


 突き飛ばされ、床に転がったのはレインだった。すぐに起き上がり、呆然とわたしたちの方を見た後、そのまま無言で部屋を見回す。

 レインの視線が彼女の真横――無数に並ぶ巨大な水槽と、そこに閉じ込められた無数の人々を見つけて止まった。口を開いた横顔が歪む。彼女は立ち上がり、水槽の一つに駆け寄った。


「お母さん……っ!」


 そこに浮かんでいるのはコトリだった。目は薄く開かれ、微笑むような表情を浮かべている。真っ白な裸の胴体には、腕も足もない。もう生きていない。死んでいる。

 お母さん、お母さんと泣き叫びながら、レインは水槽に縋りついていた。


 混乱し、硬直するわたしの隣で、笑い声がした。


「たかが素材としての親なのに。こんなに情を持つものなのね」


 女は、ねえ、とレインに向かって呼びかけた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が、わたしたちを振り返る。


「そこにいる並んでいる人たちは、全員この子の糧になったのよ。あなたのお母さんのコトリもその一人。父親のソラだって後でそこに加わるわ」


 女が伸ばした人差し指は、わたしの顔を指している。

 幾ばくかの沈黙を挟んで、


「……あなたが殺したの?」


 レインが低い声で問う。赤く腫れた両目は、女ではなくわたしを睨んでいた。


「違う、わたしはそんなことしてない」


「ええ、この子は殺してないわ」


 ぞっとする感触が、頭の上を往復する。

 女がわたしの髪を撫でながら、歌うように訂正した。


「あなたはただ新しい体に移り住んだだけ。そうよね、カノン?」


「わたしは……」


 わたしの体は小刻みに震えだしていた。

 震えを止めようと両手で体を抱こうとして、気付く。

 見慣れないホクロの浮かんだ皮膚。首元を流れ、胸の下まで伸びた灰色の髪。


 この体は、誰のもの?

 わたしは、誰?


「……カノン」


 ああ、そうだ。それがわたしの名前だ。

 だけど、名を呼んでくれたその声は、わたしを見る空色の瞳は、ひどく凍えたものだった。

 レインがこちらに歩いてくる。

 無表情のまま、一歩一歩、慎重に。まるで獲物に飛びかかる前の獣のように、わたしに近付いてくる。彼女が発する強い憎しみが、わたしの肌に突き刺さる。


「やめて……レイン、やめて……」


 わたしは後ずさりながら懇願する。レインは止まらない。

 近付いてくる彼女を拒みたくて両手を胸の前に掲げると、その手のひらの先に「闇」が生まれた。物体ではない。霧……いや、それも違う。黒い光、という矛盾した表現が一番しっくりくる。だけど、それが何なのかわたしには分からない。分からないのに、それは確かにわたしの中から生まれたものだった。


 先ほどまでの状況が一変し、レインが怯えた顔で後ずさる。


「カノン、何を……」


「これは……ち、違うの……っ」


 レインを傷付けるつもりなんかない。慌てて首を振ろうとした瞬間、目の前の闇がぶわりと膨らんだ。短く悲鳴を上げて、わたしは腕を引く。

 瞬間、弾けた闇が室内を烏のように駆け巡り、並んだ水槽の方へ向かっていった。

 アアアアア……。

 風の唸りとも、獣の声ともつかない低い音が尾を引いて、生き物のように広がった闇が水槽たちを包み込み、そのまま小さく縮んでいく。

 拳ほどの大きさになった闇がぱちんと弾けると、そこにはもう、何もなかった。


 水槽も、その中で揺蕩っていた無数の死体も。

 何も、何もない。

 広くなった床。見通しのよくなった部屋。


 これは――何?

 わたし、何をしたの?


「カノン、あなたはとっても素晴らしい」


 激しく上下する肩を、背後から伸びてきた手が支える。

 そのまま抱き込まれて、わたしは女の胸の中でレインを見つめる。


「あなただって、彼女の中に溶けてみたいと思うでしょ?」


 頭の上から女の声が降ってくるが、その言葉はわたしに向けられたものではない。


「いや……」


 レインが弱々しく首を振る。女に向かって。わたしに向かって。

 このままでは、彼女は――。


「離して……!」


 わたしは身を捩る。


「離せ!」


 激しく手足を振り回すと、体に回された腕の力がわずかに緩んだ。その隙をついて女を突き飛ばそうとした瞬間。

 耳元で声が囁いた。


「もうあんな椅子も要らないわ」


 一瞬離れた手のひらが、わたしの腕を掴み直す。強く、握り潰すように。女の指に嵌めた指輪が皮膚に食い込んで、痛い。熱い。


「あなたはとっくに人とは違う領域にある」


 女の声が、与えられる痛みが、わたしの内側を掻き回す。閉じた扉を、こじ開ける。


「やめ……て……」


 懇願したのは、レインか、わたしか。


「これが次のあなたの巣よ。カノン」


 悲鳴が響き渡った。



 

 …………。



 透明な壁に囲まれた部屋は、かつて何人もの子供たちが共同で使っていた部屋だという。少し前に空き部屋になったから、あなたにあげる。女――所長の説明はそれだけだったけれど、その言葉が何を意味するのかくらい、わたしにはもう分かっていた。


「あなたは神様になるの」


 わたしを部屋に閉じ込める直前、女はそう言った。


「あなたが神様になれなければ、違う誰かがあなたの代わりをするだけよ。あなたたちは特別であり、特別ではないのだから」


「どうして……神様を作るの?」


 尋ねると、一瞬、女の目が虚に変わった。

 真っ暗な、何も映さない、虚。


「……さあ、何故かしら? 誰にも分からないわ。それにそんなことはどうだっていいの」


 そう言って、女は部屋を出ていった。



 それから毎日、わたしは透明な箱の中で息をしている。

 透明な壁は、わたしの姿を綺麗に映す。

 茶色の柔らかそうな髪の毛。明るい空色の瞳。

 この体はかつてレインのものだった。

 でも、その中には今、わたしがいる。

 レインの心は、もうどこにもない。



 部屋の前を誰かが通る度、わたしは尋ねる。


「兄さんはどこにいるの?」


 白衣を着た人たちは、暗い顔でわたしを一瞥するばかりで何も答えてはくれない。だけど時折、わたしに向けたものではない彼らの声が聞こえてくることがあった。ここももう終わりだ、とか、上で戦が始まった、とか。でも、それはわたしには何も関係のないことだった。


 わたしはただただ繰り返す。

 兄さんはどこにいるの? 兄さんに会いたい。兄さんに会わせて。何度も、何度も繰り返す。

 そして――その願いは、とうとう叶えられた。




 人々の足音が騒がしく、あちこちから怒号や大きな物音が聞こえてくる日だった。

 目の前の廊下を、荷物を抱えた白衣たちが駆け抜けていく。誰かが落とした書類が、そこら中に散らばっていたけれど、誰も拾わず、目もくれない。その内、どこかで爆発のような音がした。


 これまでとは違う、うるさくて、だけど奇妙に張り詰めた空気の中、真っ青な顔の所長に腕を引かれながら、わたしの部屋の前をふらふら横切る人影があった。


 ひどく痩せていたし、横顔は沈んで暗かったけれど――見間違えるはずもない。


「兄さん!」


 わたしは壁際に駆け寄り、叫んだ。

 握った拳で透明な壁を何度も叩く。


「兄さん!」


 兄さん。兄さん。兄さん。

 やっと会えた――やっと。

 思いが溢れて、うまく言葉にならない。


「兄さん!」


 ただ呼んで、叫んで、わたしたちを遮る壁を叩き続ける。

 けれど兄さんは答えない。ゆっくりとわたしの前を通り過ぎていく。ほんの鼻先を。壁さえなければ手が届く、その距離を――通り過ぎていく。


「……ッ! 助けて、兄さん! っ、お兄ちゃん!」


 わたしは絶叫しながら、ありったけの力で目の前の壁に拳を打ちつける。無力な子供に戻って、お兄ちゃんに助けを求める。

 すると、ようやくお兄ちゃんの目がこっちを見て――すぐに視線が外された。

 まるで、意味のないものを見たように。

 わたし(カノン)など存在しないように。




 血だらけの所長がふらふらやってきて、場所を移るとわたしに言った。あなたのことはまだ手放さない、と。

 研究所はすっかり元の落ち着きを取り戻していた。誰かが文句を言いながら床に散らばった書類を拾っている。真っ赤に汚れた白衣を着た人が、仲間と笑い合いながら歩いている。

 通り過ぎていく人々の中に、もうわたしの求める人はいない。

 わたしを助けてくれる人はいない。


「さあ、行きましょう」


「……はい」


 立ち上がると、所長の向こう、透明な壁にレインの姿をしたわたしが映っている。

 かつてカノンと呼ばれていた、黒い耳の生えた女の子はもういない。それなのに、かつてカノンと呼ばれていたわたしは、ここにいる。

 わたしは、一体誰なんだろう?

 もう、分からない。

 だけど、これはきっと、わたしへの罰なんだろう。

 そう思った。

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