第62話
アルスに案内されたのは、城を囲む塔の一柱――魔術師塔と呼ばれている建物だった。
外見よりずっと広く感じる塔内の地階にその部屋はあった。
窓はなく、壁や床は機材で埋め尽くされている。あちこちから発せられる機械の駆動音が奇妙な音楽を奏でていたが、それよりなお奇妙なものが部屋の中央に鎮座していた。
それは巨大な円柱型の水槽だった。
内側は薄い緑色の液体で満たされ、円柱の上部と下部からそれぞれ無数のコードが伸びている。それらに手足を繋がれた状態で、ククが目を閉じていた。そうするようにアルスに言われて、ディオンが彼女をそこに入れたのだ。
ククが意識を取り戻す様子はなかった。人工的な翼も未だその背に存在し続けている。
「……で、どういうことなんだ」
壁にもたれていたディオンは水槽から目を逸らし、機械と書類に覆われた机の傍らに立つアルスの横顔に視線を向けた。
部屋には先ほどまで数人の魔術師たちがいたが、水槽の傍らで作業を終えると皆出ていった。ミナベルとリスティアーナと桃は邸に残ったので、室内にはディオンとアルスしかいない。
祝典とやらがどうなっているのか、アルスがここにいて問題ないのかどうかは分からないが、今はこの際どうでもいい。
ディオンが知りたいのは、ククのことだけだった。
「この水槽は、元々彼女をこの地に連れてきた時に一緒に持ち込まれたものらしい」
アルスはいきなりそう言った。その視線は妹を閉じ込めた水槽へと向けられている。
ディオンが黙っていると、アルスは続けた。
「ククは僕の妹ではない」
予想していた内容だったので、告白に驚きはなかった。
翼に食い破られたククの顔。瞳。あの一瞬の彼女は、アルスの妹であるという以前に、これまでの「クク」という人間とはまったく異なる存在に見えた。
彼女と同じような存在をディオンは既に知っていた。
遠い記憶の彼方に沈む、この身に不死を与えた少女。そして、もう一人。先ほど対峙したばかりの、神を自称するあの男。
ククは、あちら側の生き物なのではないだろうか。
その疑問を口にする必要はなかった。
「クク、それにリティア……リスティアーナは、リバリティの研究所で生み出された女神の模造品。ライックと同じ出自の存在なんだ」
「あの女もか?」
アルスの口から発せられた意外な名前に、ディオンは眉をひそめた。リスティアーナとは元々面識があったわけではないし、話に聞いてこそいたが、本人を見たのは先ほどが初めてだ。
だが、ライックの反応を思い返せば、それらしいことを言っていた気もする。ライックとリスティアーナはお互いがどういった存在であるかをあの場で承服し合っていたのだろう。
しかし、今そんなことはどうでもいい。
「ククは自分がどういう人間か、自覚していなかったのか?」
ああ、とアルスは頷いた。
「ククとリティア、二人はかつて統一戦争の終焉と共にリバリティの研究所で発見され、当時の王によってこの地へ確保されたんだ」
確保、と言えば聞こえはいいが、要は廃国となったリバリティから奪い取ってきたということだろう。しかし、その思いは口にせず、ディオンは話の続きを待った。
「リティアは当時から今までずっと覚醒状態を維持しているけど、ククはそうじゃなかった。研究所から連れ出した時には既に意識がなくて、そのまま十年前までこの水槽の中で眠り続けていたんだ」
「どうしてだ」
「分からない。はっきりしたことは、何も。当時の研究者たちも色々調べていたみたいだけど、結局彼女を目覚めさせることは出来なかった。だけど十年前……」
「目が覚めたのか」
「そう。不意に彼女は覚醒した。理由は同じく不明だけど、ただ……」
「ただ?」
「……いや、今は一旦置いておこう」
アルスは思い直したように首を振った。
「とにかく目覚めたはいいものの、彼女の精神状態は恐ろしく不安定だった。彼女の存在は機密扱いだったから、ごく限られた魔術師たちが対応にあたっていたけれど、誰も彼女に認識されることすらなかった。それを見た今の王が、何を思ったか彼女と年頃の近い魔術師に情報を開示して手助けを求めたんだ。……それが僕だよ」
青い双眸が苦しげに細められた。
「この部屋で面会した彼女はまともに会話のやりとりも出来ない状態だったけど、何度か会って言葉の断片を拾う内、『兄』を探してるんだと分かった。誰も、何も目に入らず、ただ兄を……ここにいない肉親を探そうとして、言葉にならない悲鳴を上げていた。だから……」
「お前が代わりをしたのか」
アルスは頷かなかったが、その表情がすべてを肯定していた。
「……ある日彼女の呼びかけに答えた途端、その様子が変化した。何が起きたのか気付いたのはしばらく経った後だ。彼女は自らの過去と記憶を捨て、僕の妹になった。本来の自分ではなく、僕が兄であるという誤った定義の元で新しい自分を作ったんだ」
つまり自らの記憶を捏造した、ということか。
「混乱状態から脱した彼女はククと名乗ったけれど、それが本名だとは思えなかった」
「実際違うんだろうな」
ライックが彼女に向かって発した言葉が頭を過った。アルスも同じことを考えているのだろうとは表情で分かった。
「あいつはお前とは別々に育ったとか言ってたが……つまり、それも真実ではなかったんだな?」
「彼女の中では、それが真実であり現実なんだ。アストリアの城にいるのは僕の妹として連れてこられたから。不思議な力はこの城で検査を受けたから……時と場合によって多少の揺らぎはあるみたいだけど、それが彼女が自分自身に与えた設定だ」
「そのままずっと、あいつはこれまで生きてきたのか? 一切、何の疑問もなく?」
偽りの過去で自分自身を塗り替える。それも一時的なものではなく、十年間という長期にわたって。
そんなことがはたして可能なのだろうか。
「君も知っている通り、七年前、彼女は改竄した記憶を更に手放して王都を離れることを選んだ。この城の環境が嫌になったからと説明したけど、他にもっと深い理由があったのか……理由は今も分からない。陛下はその選択を受け入れたけど、彼女を放置する危険性を案じて一つの条件を与えた。もし記憶が戻ったら城に戻ってこいというものだ。彼女もそれに同意した」
そもそも記憶というものは自分の意思でそう感単に手放せるものではない。けれど、ククはその事実からも目を逸らし、再び記憶を手放した。真っ白な存在……「クク」という名だけを持った、何者でもない存在になるために。
「それからククは君や杏里たちに出会い、やがて記憶を取り戻した。……彼女は失敗したんだ」
ククは失敗した――だが、取り戻したその記憶でさえも本来のものではなかったということか。
「僕が彼女を追いかけたのは、彼女が本当の記憶を取り戻すんじゃないかと思ったからだ。でも、そうではなかった。彼女はあくまで僕の妹としての記憶しか取り戻さなかった」
「それでお前も黙ったままだったのか」
「……いずれ破綻することは分かってたよ」
それまでの説明口調から、アルスは誰にともなく呟くような声で言った。
「黙っていればいるほど、ククが抱える歪みは大きくなる。設定の矛盾も増えていく。彼女の力は増幅傾向にあったし、年の取り方だって普通の人間とは違う。その度に記憶を少しずつ変え、それらしい理屈を手に入れているのだとしても……年々、彼女は少しずつ『クク』から引き離されていくようだった」
ディオンは再び水槽を仰いだ。
青い液体に浸かったククは、七年前と姿形がほとんど変わらない。
彼女と再会するなり、変わらない、と本人に言ったことを思い出す。確かあの時、ククは困ったような顔で微笑んでいた。
彼女は変わらない自分を本当はどう思っていたのだろう。
アルスは自嘲するように息を吐いた。
「すべての事情を知るリティアからも何度も警告されていた。ククの中で歪みが大きくなればなるほど、真実を突き付けられた時に彼女の力が暴走するリスクも高くなると」
「それで案の定この状況か」
七年前、ククはライックに普通に接していた。けれど今日、彼女はライックによってすべてを思い出した。
この七年の間、目の前のアルスは一体何をしてたのか。こんなことになる前にもっと何か出来なかったのか。
そう思った途端、感情がどうしようもなく波打った。
「全部分かってて、どうしてお前はここまで放置してたんだ!」
「いつどんなタイミングであったって、真実を知ればククは必ず壊れると思ったからだ!」
互いの怒鳴り声は虚しく室内に反響して、消えた。
部外者であるディオンにアルスを責める資格はない。それにこうなってしまった以上、今更ああすればよかった、こうすべきだった、などという議論に意味はない。
それでも腹が立った。何故腹が立つのか自分でもよく分からないまま。それでも。
水槽の方から発せられる機器の駆動音を耳にしながら、ディオンは最後の疑問を口にした。
「こいつの本当の兄は……」
カノン、とククの名を呼んだライック。
かつて混乱の中で兄を求めていたというクク。
それらが意味するものは――。
「確証はない。それに、そう定義するためには引っかかることもある」
「姿のことか」
獣人であるライックと、そうでないクク。確かに二人の種族は違うが、その事実が「二人が兄妹ではない」という確たる証拠にはなるとは思えなかった。血の繋がりのない兄妹だっている――とは、今のアルスにしてみれば皮肉のようなものだろうが、本人も自覚しているのか表情は苦々しげだった。
「答えは彼女の中にしかない」
アルスも突然浮上したこの可能性を認めたくないだけなのだろう。
現実問題、本当に確かめるにはククかライックに問い質すより他にない。
「ククはどうなる。このまま放っておいて目を覚ますのか? それに、あのブレスレットは何だったんだ?」
青銅の輪は既にククの手首から外され、ディオンの傍らの机に放置されている。
「あれは魔力の暴走を抑制する装置だよ。肉体に害はないし、一時的に意識を失くしても、彼女の状態から考えれば昏睡に陥ることは考えにくい」
「ならすぐ目覚めるんだな?」
「分からない」
アルスは呻くように言った。
「魔力の状態や肉体的な面だけ見れば、既に目覚めていてもおかしくないんだ。だけど覚醒する兆候はない。つまり何の問題もないのに目を覚まさない状態になってしまってる」
「意味不明な羽根が出てるのが問題ないって言えるのか?」
ディオンは水槽の中の青い翼を指さした。どう見てもあれは普通の人間が持つべきものではない。
「あれについては魔力で構成されてること以外、今はなんとも言えないけど……多分、彼女の命を脅かすものではないはずだ」
随分曖昧だが、この翼はアルスも想定外のものなのだろう。青く透けた羽根は今はクク同様に沈黙していて、何か力を感じるということもない。
とりあえずアルスの言う通り、ククに害のないものだと信じるとして、それなら、
「何もかも問題ないって言うんなら、どうしてこいつは眠ったままなんだ?」
再び疑問を言葉にしながら、ディオンの胸には一つの予感が鎮座していた。
それはクク自身が目覚めるのを拒んでいるのではないか、というものだ。
そもそもこのような事態になったのは、突然直面した真実に彼女が耐えられなかったことが原因だろう。真実を受け止められないククが、現実で目を覚まそうとしなくても何ら不思議ではない。
(あいつが取り戻した真実は、一体どんなものだったんだ?)
手がかりを求めて記憶を辿ると、ククの体に触れたあの瞬間、彼女の青い翼越しに見えた景色が蘇った。
石壁の部屋の中。寝台、死体。緑色の髪と瞳の少女。
あれは一体何だったのか。彼女は一体誰だったのか。
冷たい手で撫でられたように胸の底が冷えていく。色々な前提が崩れかねない疑問と違和感が浮かんだが、今はその正体を追うより、ククの存在を通してどこか別の場所を見た、ということの方が重要に思えた。
あいつに触れた瞬間、何かが見えた。
ディオンがその事実を伝えると、アルスは深刻な顔になった。
「君が見たのは恐らくククの内側に広がる世界……彼女の力によって記憶の一部、いや、意識そのものを共有したんだと思う。君は彼女に取り込まれかけたんだ」
取り込まれたとは物騒な言葉だが、確かにあの時目にした光景は恐ろしく真に迫っていた。しかし、あれが彼女の抱える世界だというのなら――あの場所に彼女の記憶があり、ディオンがそれに触れることが出来るなら。
「もう一度意識を共有すれば、ククに干渉出来るんじゃないか?」
意識の内側から干渉すれば、ククを再び現実に引っ張り出せるかもしれない。難しいことが分からないなりにそう考えたのだが、アルスはディオンの言葉に頷かなかった。
「それは無理だ。今の彼女からは何の力も発せられてないし、こちらから働きかけて意識を共有することは難しい。第一、仮に出来たとして双方に対してリスクが大きすぎる」
「だったら、このまま放置しとくのか? 昔みたいに何年も眠り続けたままになるかもしれないんだぞ」
「君は、そんなにククを助けたいの?」
「何言ってんだ? それはお前だって……」
ディオンは言葉を切った。
向けられた瞳はこれまで相対したどんな瞬間よりも真剣だった。アルスは真剣にディオンに問いかけていた。
ククを助けたいのか、と。
「俺は…………」
答えることが出来ないでいると、アルスは静かにディオンから視線を外した。
「とにかく彼女を目覚めさせる方法について、もう少し色々調べてみるよ」
「……分かった」
「僕は一旦陛下のところに顔を出してくる。君は……」
「もう少しここにいる。問題ないだろ?」
「……ああ。構わないよ」
アルスが部屋を出ていった後、ディオンは水槽の中のククを見上げた。確認するのはこれで何度目か、少女は相変わらず眠ったままだ。
奇妙な翼が出ていても、目を瞑った顔は一見いつも通りのククに見えた。纏っているのは祝典用に着ていた水色のドレスだ。今はところどころ破れ、血で汚れているが、悲惨な状態になる前は彼女の雰囲気に似合っていたなと思い出す。
もしも意識が戻ったとして、その時の彼女ははたして元のククなのだろうか。
その疑問に答えは与えられない。少なくとも、今すぐには。
ディオンは溜め息を吐いた。
とりあえずどこかに腰を下ろそうと振り返り――思わずぎょっとした。いつの間にか対面の壁際に人が立っていたからだ。
「こんばんは、ディオンちゃん」
ふわりと波打つ青い髪、同じ色の瞳。派手に着飾っているわけではないが、妙に見栄えのする姿。
「……リスティアーナか」
「あら、知っててくれたのね」
「何の用だ」
端的に問うと、リスティアーナはあっさり言った。
「その子を取り戻すのなら手伝うわ。あなたを彼女の中に放り込んであげる」
先ほどアルスが難しいと否定したことを、いとも容易く請け合おうとする。それが本当に可能なのかという以前に、この女の考えていることがまったくもって見えなかった。
眉をひそめるディオンに対して、リスティアーナは微笑んだ。
「意図が分からん、って顔ね。別に大した理由ではないわ。彼女の力はこの国にとって有益なものだから、こんなところでぐーすか寝てるのを見過ごせないの。ただそれだけよ」
それだけと言われても、いまいち信用が出来なかった。そもそもこのリスティアーナという女が信用に値すべき人物かどうかの判断が出来るほど、ディオンは彼女のことを知らなかった。
「あんたは、こいつと同じような存在なんだろ」
先ほどアルスから聞いたばかりの情報を投げつけてみる。
「そうよ。私の方が先輩だけどね」
さらりと答えた顔が、わずかに険しくなった。
「だけど私はこの子とは違うわ。自分の出自や力を受け入れてるし、すべてを丸ごと否定して殻に閉じこもったりしないもの。……まあそれはいいわ。で、あなたはこの子を助ける気があるの? ないの?」
そう問われれば、答えは一つ。
「ある」
としか答えようがなかった。
「本当に?」
自分から聞いておいて、リスティアーナが念押ししてくる。
「一応忠告しておくけど、仮にあなたがこの子を助けた場合、彼女、あなたにものすごーく依存するし執着するわよ。そういう果てしなく面倒な爆弾みたいな存在を、本当に助けるつもりなの?」
執拗で回りくどく聞こえる確認だが、そういえば、いつだったかアルスにも似たようなことを言われた気がする。その時は意味がよく分からなかったが、今なら理解可能だった。
――本当に、ククを助けたいと思うのか。
自分でもよく分からない。面倒なことは極力避けたいし、他人の人生に巻き込まれるのなんて絶対にご免だ。
けれど今、目の前のククを放っておくのも嫌だった。彼女を諦めるという選択肢を選びたくなかった。
かつての旅路の中で、ククのことはお節介で脳天気で、その癖妙に掴み所がない、変なやつだと思っていた。別に特別な感情はなかった。彼女にとっても、ディオンはただの仲間の一人だっただろう。
けれど七年前の別れの直前、ククは勝手に出ていったディオンを追って、わざわざ雪山まで迎えにやってきた。誰も頼んでいないのに、彼女はその手を差し伸べた。
そのククが今彷徨っているのは、あの冬の景色よりももっと冷たくて暗い場所なのかもしれない。そこで一人何を思うのか、何を感じているのか。分からないが、きっと楽しい思いはしていないだろう。もしかしたら苦しんでいるかもしれない。
それなら迎えにいってやろう、とディオンは思った。勝手に寝るな、とか文句の一つでも言って、困った顔を見てやろう。そう思った。
「……答えが出たみたいね」
顔を上げたディオンが言葉を発する前に、リスティアーナは勝手に頷き、片手を上げた。指先が光を灯したように、淡く光り始めている。
「それじゃ急ぎましょ。アルスにももうすぐバレそうだし」
リスティアーナが輝く手を振ると、部屋中に白く発光する魔法の術式が散らばった。複雑な模様に見える文字列は、ディオンにはとても解読出来ない。ただ、巨大な魔力の流れが体を覆いつつあることは感じられた。
「俺はどうすればいい」
「わりと単純なことよ」
指先を指揮者のように振って術式を制御しながら、リスティアーナが答える。
「私たちがいた研究所ではいくつかの大きな能力を被検体に授けようとしていて、実際私や彼女もその力を有しているの。この子の力は世界を読み取り、切り分けるもの……つまり新しい世界の創造に近しいもので、その能力故に自分の内側に虚構を作るのも簡単だったというわけ。で、記憶を取り戻したことによって力が増幅した結果、彼女は今度は自意識そのものを……」
「おい」
「何かしら」
「急ぐんならもう少し平易な言葉で話してくれ」
「……箱庭から彼女を引きずり出しなさい。要するに、しっかりやれってことよ!」
叱咤と同時に、部屋全体が輝きだした。
白く染められる視界の中、ディオンは机に手をつこうとしたが、触れた手のひらの感触が不意にぐにゃりと歪んで溶けた。
一瞬意識が断線し、すぐに再び繋がった。
「ここは……」
ディオンが立っているのは、灰色の部屋だった。少し前にも目にした景色だが、あの時と違って寝台はない。そして死体も。
家具らしい家具のない独房のような部屋の隅に、少女がいた。
ククではない。
緑色の髪と瞳、黒い獣の耳を生やした暗い表情の少女だ。彼女はこちらをまっすぐ見つめながら、ゆっくり近付いてくる。
対してディオンの体はぴくりとも動かなかった。息苦しさを感じながら、歩み寄る少女を見つめることしか叶わない。
やがて少女の体が間近に迫り、ぶつかる、と思った直後――その姿がディオンに呑まれるように消失した。
(いや……違う)
否定する心の輪郭がぼやけていく。
勝手に頭が動きだし、ディオンは先ほどよりも低い視点で部屋を見回した。じわじわと、心に泥のような諦念とかすかな不安が満ちていく。
そこでようやく気が付いた。
消えたのは、呑まれたのは、少女ではない。
俺の方だ。




