第61話
「カノン……?」
澱んだ夜風に混じって、ライックの囁くような呼び声が聞こえた。
それが異変の始まりだった。
「……やめて」
ディオンの前方、ライックに対峙していたククが、怯えた様子で後ずさる。武器は地面に落とされたまま、まったく無防備な状態だった。
「クク?」
尋常ではない様子に、ディオンは思わず声をかけた。ククはこちらを振り返ったが、その顔は明らかに何かを怖がっていた。空色の瞳もディオンを通り越してどこか遠くへ向けられている。
ククは、まるで何かに抗うように両手で自らの頭を抱え込んだ。
全身が震えだしている。
「……違う、やめて……」
「おい、どうした……」
ディオンが踏み出しかけた、その時。
「やめて……! わたしを、わたしに、触らないで! 放っておいて! ……いやだ、いや……いやあああっ」
激しく泣き叫ぶような声と同時に、彼女の足元に無数の亀裂が錯綜する。暴風と閃光が狂ったように駆け抜けて、その中心でうずくまるククの背中から、青い「翼」が広がった。
「……っ」
直線的かつ無機的な構造で左右対称に広がる、ステンドグラスのように透き通った青色の翼。明らかに自然物とは異なるそれは、美しいが冷ややかで、鮮やかでいて歪だった。二枚の翼は少女が着ているドレスごと皮膚を食い破り、細い背中は真っ赤な鮮血で染まっていた。
翼はまるでククの存在そのものを引き裂いているように見えたが、異変は彼女のみに留まらなかった。
翼の出現と時同じくして、ククの上空に黒い線状の物体――いや、彼女の足元から広がる亀裂と同じ、空間そのものを切り裂くヒビが現れていた。傷口のような亀裂は、こうしている間にもどんどん増え広がり、暗い夜空を浸食していく。
その異様な光景の中、
「ああ、その気配。そうか、君がカノンだったのか」
落とすような呟きはライックから発せられたものだった。その双眸は虚ろだが、唇には歪んだ笑みが浮かべられている。
「ずっと気付かなかった。ああ、俺はなんて愚かなんだろう」
ライックが動かないククに向けて足を踏み出そうとした瞬間、しかしそれを阻むように青い影が飛来した。
ライックが飛び退ると、地面に巨大な氷の槍が幾本も突き刺さる。衝撃で地面が揺れ、凍てつくような冷風がディオンの肌を打ちつけた。
「やあ、お久しぶりだね。アルス君。君は……」
ライックはアルスと共に現れた女を見て、軽く首を傾げた。
「初めまして、私はリスティアーナ。この国の魔女よ。同郷のよしみであなたをぶっ飛ばしに来たわ」
「あの研究所の……? 俺とカノン以外も生きてたんだ」
「ええ」
気色を浮かべるライックに、リスティアーナと名乗った女はごく淡々と頷いた。
「それじゃあ殴るわよ」
リスティアーナが軽く腕を振ると、空中に大小無数の魚が出現した。魔法で生み出されたものなのか、一匹一匹が強い輝きを放ち、渦を為すようにして虚空を泳ぎだしている。
そのどこか幻想的な光景とは裏腹に、リスティアーナはディオンに視線を向けると
「あなたはアルスと一緒にあの子を抑えて!」
鋭い声で一喝した。
同時に魚群がライックに襲いかかる。
「……ッ」
半ば気圧されるように、ディオンは再びククに向き直った。
いつの間にか彼女の頭上、無数のヒビの上を覆うように青い魔法陣が出現している。どうやらアルスの魔法がヒビの増殖を食い止めようとしているらしい。
だが、魔法陣の向こうで亀裂は今も少しずつ広がっていた。
(抑えろ、と言われても……)
一体どうすればいい。
躊躇う内に不意に突風が巻き起こり、アルスが弾かれるように吹き飛ばされた。青い式の一部が消えて亀裂が広がる。
ククは未だ動かない。ただ、混乱の中央で頭を抱えてうずくまっている。どうすべきかは分からないが、彼女を放っておくことは出来なかった。
「これをククに!」
歩きだそうとしたディオンの顔めがけて何かが飛んできた。受け取れば、細い青銅の輪――ブレスレットだ。これは何かと問うより早く、アルスが再び切迫した声を上げた。
「いいから早く!」
「……分かった」
正確には何も分からなかったが、とにかくククに駆け寄った。動かない彼女の傍らにしゃがみこみ、その肩に触れた瞬間、氷のような冷たさに思わず息を呑んだ。
同時にククが顔を上げた。
ディオンの姿を映す瞳は、いつもの春空のような色彩ではなかった。
冷えた緑色――だがその色も一瞬で沈みこみ、無感情な青、澱んだ黒、燃えるような緋色と、次々に移り変わっていく。まるで本当の色を隠すように。
ふと視界の端に違和感を覚えて、ディオンは顔を上げた。
(……は?)
ククの青い翼を透かして見える景色が、邸の庭ではなくなっていた。ひび割れた石壁がククの背後に迫っている。
視線を巡らせたディオンは今度こそ言葉を失った。
そこは灰色の壁面に囲まれたどこかの室内だった。
右手に寝台のようなものと、その上でこちらを向いて横たわる……いや、目を見開き、絶命している人間が見える。
それは、緑色の髪と瞳の少女だった。
(あれは……)
「ディオン!」
アルスの声が聞こえた直後、周囲は再び元の光景に立ち返っていた。
ディオンはククに視線を向ける。
その双眸もまた元の空色に戻っていたが、そこに反応は一切なく、ククはディオンを見てはいなかった。
渡されたブレスレットの存在を思い出し、ディオンはククの手を取った。
再び感じる冷え切った感触に不安を覚えながら、青銅の輪を少女の手首に嵌める。
変化はすぐに訪れた。
強張ったククの体が、ゆっくりと力を失いながら前のめりに倒れていく。慌てて抱き留めると、どうやら意識を失っているようだった。
しかし、未だ肌は冷たく、羽根は広がったままだ。
これで本当に大丈夫なのか。
背後を振り返ろうとしたディオンの頬に強風が叩きつけられた。空気を乱す魔力の流れが肌をひりつかせる。見れば、少し離れたところでリスティアーナの生み出す魚の群れが、ライックに流星のような強襲を仕掛け続けていた。
しかし、それも決定的な攻撃にはならず、ライックの周囲に展開される障壁にぶつかって、魚たちは徐々に数を減らしていく。鎌を掲げたミナベルが突進するも、ライックの腕の一振りであっけなく弾き飛ばされた。その後を追うように踏み出したライックの足元に、氷の槍が突き刺さる。
足下に魔法陣の輝きを灯したアルスが、ライックに相対していた。
「なんだ、結局君たちの好きな袋だたき戦法か」
小馬鹿にしたように笑うライックに、アルスが軽く首を傾げて笑み返す。
「生憎手段を選んでられなくてね。このまま全力で潰させてもらうよ」
「相変わらず君は偉そうだよね。ついでに色々聞きたいこともあるけど……」
ライックがこちらを――ククを見る。唇には笑みがあったが、そこには確かに困惑のような色も滲んでいた。
「まあ、今日はいいや。……また来るよ」
そう言うなり、ライックの姿が滲み、あっという間に掻き消える。行き場を失ったリスティアーナの魚群が戸惑ったように旋回し、すぐに消滅した。
「……終わったのか?」
ディオンは呆然と呟いた。何が終わって何が始まったのか、実のところまったく分かっていなかった。答えを返す者もない。
気付けば、周囲が妙に騒がしくなっていた。大声と声と共に、庭に武装した兵士やローブを着た魔術師たちが駆け込んでくる。彼らは荒れた庭とうずくまるククに戸惑いつつも、そうするのが最善と判断してだろう、すぐにアルスの元へ駆け寄った。
「アルス様、これは……?」
「どういうことなんですか」
「侵入者が現れたのでは?」
口々に問われたアルスは苦い顔で首を振った。一番近くにいたローブの男を見る。
「南、すぐ塔の奥を開けてくれ。彼女を運ぶ必要がある」
男は「分かりました」と頷いて、周囲の人々を押しやりながら駆けていった。
「……ディオン、君も手伝ってくれ」
「ああ」
言われなくてもそのつもりだ。
ククの体を慎重に抱えて、だらりと垂れた腕を肩に回させる。大きな翼は見た目のわりに重量はほとんどなく、立ち上がるのにさして苦労はなかった。
近付いてくるアルスに向かって、ディオンは自制を総動員して短く尋ねた。
「……お前はこれを予測してたのか」
アルスは水面のような目をディオンに向けた。昔のような感情の読めない瞳がククの真っ暗な瞳と重なって、ディオンの心を乱れさせた。
お前は、と続ける声はかすれた。
「お前は何を知っている?」
今ここでするべき話ではないと思ったが、止められなかった。
「ククは……こいつは何者だ?」
目を伏せ、何もかも諦めたようにアルスは答えた。
「すべて話すよ」




