第6話
これは先が思いやられる取引だと、アルスは思った。
広い室内に二人。卓を挟んで向かい合った女は、険しい顔をこちらに向けている。
歳は四十をいくらか過ぎた頃だろうか。化粧も身なりも年齢相応で、娘らしい隙も無ければ、無為に年を重ねた人間特有の弱さも見えない。つまり、付け入りにくい相手ということだ。
卓上には、アルスが持ち込んだ複数の書類が広げられていた。
それぞれ無駄に形式ばった文書だが、要約すれば中身は単純な要請である。
「つまり、この地に王都の騎士団を入れろと?」
問いに返答しないことで、アルスは肯定の意を示す。
受け入れがたいですね、と白馬は小さく呟いた。
「何もこの辺境の地に置かずとも、他に騎士様を必要としている場所はいくらでもあると思いますが。何故よりによって、この桜花に?」
この問いにもまた、アルスは答えなかった。白馬が既に自身の中にその答えを持っていることを知っていたからだ。
沈黙が続くと、白馬が諦めた顔で視線を落とした。
「要は、この地を監視したいということですね」
「したいというか、する、だけど。そっちの意志は関係ない」
訂正すれば、白馬が非難するような目を向けてくる。
こちらも冷ややかな視線を返せば相手はわずかに怯んだが、それも一瞬のことだった。むしろ負けまいとするかのように、白馬の表情に強情さがいや増した。
こういう相手は往々にして厄介で面倒だ。
実体験から改めて先行きを慮り、アルスは内心嘆息した。
とは言え、課せられた役目を早々に放棄するわけにもいかないだろう。黙したまま、書面の内容を呑ませる言葉を探し始めた時――屋敷の外から声がした。
***
読書の時間は有益だった。
数冊目の冊子を閉じる頃には、ククはここがアストリア大陸の西部に位置する「桜花の里」という地であるということ、里の人々が着ているものは着物あるいは桜花服とも呼ばれるこの地域特有の衣服で、今座っている床は畳、独特な扉は障子なるものだと理解するに至っていた。
桜花の地は元々かなり保守的な体質のようだ。他の地域との縁は薄く、ここから山を越えた先に祈紋という、桜花とよく似た文化を持つ村があるらしいが、そちらとも積極的な交流はないと記されていた。
新たな一冊に伸ばしかけた腕を止め、ククはしばし考えた。
先ほどから――どころか、この部屋に案内された後のわりと早い段階から、一つ気になっていることがある。
(……そろそろ、こっちから動いてもいいかな?)
いい、ということにしてしまおう。
ククは速やかに立ち上がり、廊下に続くふすまなるものを勢いよく開け放った。
「……!」
そこには少女が立ち竦んでいた。
大きく見開かれた双眸は暗灰色の右目に対して、左は濃い赤茶色だ。髪は白馬のものによく似た桃色だが、毛先の方が仄かに赤い。歳はククよりいくつか上だろうか。
「あなたは誰?」
「……っ!」
尋ねると、少女は我に返ったように後ずさり、踵を返して走り出した。
「あ、ちょっと待って!」
ククも後を追いかけるが、慣れない質感の廊下に足を取られている内に、少女は庭へと飛び降りて奥に建つ蔵らしき建物の中に逃げ込んでしまった。木製の扉は内側から施錠されているのか、近付いたククが強く引っ張ってみても開かなかった。
「驚かせてごめんね。わたしはクク。一緒にお話しない?」
返事はない。
そんなに怖がらせてしまったんだろうか。少女の怯えた顔を思い出し、ククはちょっと反省する。
ここは一旦出直した方がいいかもしれない。
閉ざされた扉から離れかけた時、ククはふと視界の端に何かが落ちているのに気が付いた。拾い上げてみると、細い銀の棒の先に、繊細に煌くオレンジ色の飾りが揺れている。そういえば、さっきまで読んでいた本にもこんな髪飾りが載っていた。
「ええっと、確か……」
かんざし。
そう思い出した直後、背後の屋敷から大声が聞こえてきた。
ククは振り返り、首を傾げる。声はなおも届いてくるが、白馬やアルスのものではなさそうだ。なんだか妙に荒っぽいというか、切迫しているように聞こえる。
少し迷ってからその場にかんざしを置き直し、ククは屋敷の中へと引き返した。
声は玄関の方から聞こえてくるようだ。
廊下の角を曲がると、白馬の後ろ姿が見えた。その向こう、開かれた玄関扉の外に三、四人の男が押し寄せている。
「皆さん、落ち着いてください。一体何が……」
戸惑ったように訴える白馬に、男の一人が「落ち着いてられるかよ!」と怒声を上げた。続けて、別の男が言う。
「東の塚に子供たちが入ったんだ!」
「何ですって!」
白馬の声に緊張が混じった。
「本当なんですか? 一体どうしてそんなこと……」
「いいから早く来てくれ!」
切迫した様子の男たちに急かされるまま、白馬は屋敷から出ていった。東の塚とやらに向かうのだろう。
ククは廊下を引き返し、客間に飛び込んだ。卓上に紙片が散らばる部屋の中、騒ぎなど知らぬ顔で座っているアルスの腕を取る。
「アッ君、何か大変みたいなの! 一緒に行こう!」
アルスは、意味不明ならくがきでも見るような顔でククを仰いだ。
「僕には関係ない。そして、君にも関係がないと思うけど」
「そうだけど、なんだか大変そうだし、放っておけないよ」
アルスに行く気がないのなら、クク一人で向かうまでだ。
掴んだ腕を離すと、アルスがのっそり立ち上がった。
「……一緒に行ってくれるの?」
「何か弱みを握れるかもしれないから」
よく分からないが、一緒に行ってくれるということらしい。
アルスと共に屋敷を出ると、夕暮れの中、白馬たちの姿が遠くに見えた。後を追いかけていくと、辿り着いたのは屋敷からさほど遠くない、勾配の急な林地だった。
行く手を塞ぐような絶壁の前に、一同が集まっている。
男たちは追いついてきたククとアルスに胡乱な目を向けたが、今はそれどころではないと判断してか咎める者はいなかった。
(これは……洞窟?)
目の前に聳える土壁には、大きな穴が開いていた。そこから内部に入れそうだが、進路はすぐ手前にある鉄格子によって阻まれている――と思いきや、よく見れば足元の方に小さな横穴が掘られていた。子供や小柄な人間なら、そこから侵入できそうだ。
着物の袖口から無骨な鍵を取り出し、白馬が皆を振り返った。
「皆さんはここへ。子供たちは私が連れ戻します。お二人も、こちらでお待ちください。……理由は後で説明しますので」
そう言って鉄格子の扉を開くと、虚の奥に一人で進んでいってしまった。
「……おい、行ったな」
「ああ」
白馬の背中が完全に見えなくなると、それを待っていたかのように、男たちが囁き始めた。
農具を持った一人がククを振り返る。
「あんたたち、余所からの旅人だろう? ってことは、何かあった時には戦えるよな?」
「ええっと、少しなら」
質問の意図が分からないまま答えると、それなら、と男が距離を詰めてきた。
「頼む、俺たちと一緒にこの中に入ってくれないか?」
「え? でも、白馬さんはここで待っててって……」
「待ってられるか!」
別の男が大声を出した。そうだ、と同意する声が上がる。
「この中には化け物がいるかもしれないんだ。里長だけに任せて待ってるわけにはいかないんだよ」
「化け物?」
男たちが視線を交えて頷き合う。表情は真剣で嘘を言っているようには見えないが、何かが引っかかった。
躊躇うククの頭の上から、大きな溜息が降ってきた。
「余所者は当てに出来ねえか……」
「もういい。俺たちだけで行くぞ」
険しい顔の男たちもまた、白馬の後を追って洞窟の中へと消えていき、その場にはククとアルスだけが残った。
「身勝手な言い分だね」
呆れたように呟くアルスの横顔を仰いで、ククは眉を寄せた。
「追いかけなくて大丈夫かな……」
「さあ」
改めて、東の塚なる洞窟を見やる。
塚というよりは牢獄を想起させる鉄格子の向こうは、下り坂になっているようだ。内部の闇が濃く、先の方は全く見えないが、何か得体の知れない嫌な感じがした。
この中に化け物がいるというのは、本当なのだろうか。
思えば、男たちは武器を持っていなかったようだ。一人は鍬を抱えていたが、それだって本当に化け物が出るのであれば装備としては不十分だろう。先に入っていった白馬も、特に何かを持っていた様子はない。
「……わたし、やっぱり追いかけるよ」
振り向いて伝えれば、アルスは「僕は行かない」と首を振った。想定内の答えだったので、分かった、とククは頷いた。
「ぱぱっと行ってくるから待っててね!」
返事は待たず、ククは開かれたままの扉から洞窟内部に踏み込んだ。とりあえず、奥に向かって進んでいく。
進路は暗く、目の前も足元もよく見えなかったが、道は分岐点もなく、ひたすら下り坂だった。道幅に余裕があったのは最初の内だけで、進むにつれ左右の圧迫感がどんどん増していく。
両手で探りながら前進を続けていくと、やがて前方に小さな光が現れた。
進むと、裂け目のような道が途切れ、突然開けた場所に出た。
「う…………」
辿り着いた空間は天井が高く、家屋を建てて暮らせそうなほど広かったが、一帯に異様な匂いの空気が充満していて呼吸をするのが苦しかった。
壁際に設けられた魔力灯の光が揺れているところを見ると、風は多少流れているのだろうが、換気が十分とは言い難い。このまま長居をしていたら、すぐに具合が悪くなりそうだ。
(白馬さんは……)
いた。奥の方で男たちと何かを話している。しかし、先に中に入っていったという子供の姿は見当たらなかった。
周囲を見回して、ククは思わず固まった。
広間のあちらこちらに、無数の細長い「箱」が置かれていた。素材は木のようだが、どれもかなり古いものだろう。すべての箱に大きな石が乗せられていて、更にその上から錆びた鎖で地面に縫い止められている。中身は見えないが、大きさや作りで察しはついた。
それらは棺だ。
その数は、ざっと数えるだけでも二十以上ある。
「ここは……」
困惑を唇に乗せかけた瞬間、高い悲鳴が木霊した。
見れば、白馬が男たちの手によって地面に押さえつけられている。
「何してるの!」
「余所者はすっこんでろ!」
駆け寄ったククを、男の太い腕が突き飛ばした。
彼らのすぐ傍にも棺の一つが安置されていた。他のもの同様に封じられてはいるが、幾分綺麗なようにも見える。
鋤を持った一人がそちらに近付き、腕を大きく振り上げた。
「やめなさい! やめて!」
白馬の叫び声が上がるのと同時に、降り下ろされた鋤先が棺の鎖を断ち切った。白馬を押さえていた男たちが立ち上がり、残った重石を落として、蓋を開く。
やっぱりな、と誰かが呟いた。
棺の中身は空洞だった。
「……あんたはずっと俺たちを騙してたんだ」
「杏里はどこだ? まだ里の中にいるんだろう!」
よろめきながら立ち上がった白馬が、男たちの視線と声を受けて青ざめた顔で後ずさる。
次の瞬間、彼女は勢いよく振り返ると、そのまま元来た道へ逃げ出した。
「追うぞ! どうせ屋敷だ!」
「いいや、先に他の連中にも知らせよう。奴が生きてるなら危険かもしれん」
「村の入り口も塞げ。絶対に見つけるんだ!」
各々顔を見合わせながら、男たちも出口に向かっていく。後には、再びククだけが取り残された。
(一体、何が起きてるの?)
ククは空の棺から視線を剥がし、未だ閉ざされたままでいるいくつもの棺を見渡した。
(他の棺も、空?)
そうであればいいと思ったが、そうではないだろうという予感もあった。……確かめる気にはなれなかったが。
とにかく、一度白馬に話を聞かなければ。
ククも、元来た道へ向かって走り出した。
ククが雑木林を出て白馬の屋敷に戻ると、表門の前にアルスが一人で立っていた。
「アッ君……これ、なに?」
ククは彼の背後に聳える見慣れないものを指差した。
そこには薄青色の光の壁が大きく半円状に広がり、屋敷全体をすっぽり覆っていた。魔法らしい、ということは辛うじて分かる。
「簡単な結界」
「アッ君が作ったの?」
「……こちらの要求を呑む代わりに作れと頼まれたから」
いまいち要領を得ない返答だけ残して、アルスはククに背中を向けた。結界だという青い光の一部が消えて、そこから敷地の中へと入っていくと、アルスは家屋へ向かう足を止めないまま、ククを軽く振り返った。
「閉じるよ」
「あ、待って!」
ククも慌てて結界の内側へと駆け込んだ。
その後で背後を確かめれば、再び光の壁が出来ている。閉じた、ということなのだろう。
白馬の姿は見えなかったが、玄関から中へ上がると、さほど遠くないところから声が聞こえてきた。
アルスと二人、そちらへ向かって進んでいく。
廊下の角を曲がると、白馬の背中が見えた。
彼女に向かい合って立っているのは、蔵の中に逃げ込んでしまった、あの少女だった。
「杏里、あなたは蔵の中に。絶対出てきては駄目よ」
白馬が少女の肩を掴んで、訴えるように言う。
杏里と呼ばれた少女は、怯えた顔で首を振った。
「だけど、母様、このままだと母様が……」
「私は問題ないわ。とにかく今は身を隠して。それがあなたに出来る最善のことなの。分かるわね?」
静かだが、強い口調だった。
杏里が戸惑いながらも、小さく頷く。
「……分かりました。母様……ごめんなさい」
顔を上げた杏里の視線が、一瞬だけククを捉えた。けれど、彼女は今度も立ち止まらない。桃色の、花のような髪を躍らせて、屋敷の奥へと消えていく。あの蔵へ向かったのだろう。
束の間の沈黙を挟み、白馬がこちらを振り返った。
「……アルス様、ありがとうございました。もう結構です」
アルスが無表情のまま、右腕を上げて、軽く振る。
音も目に見える反応も何もなかったが、周囲の空気が変わり、屋敷を包んでいた彼の力が失せたのがククにも感じられた。
ククは白馬に尋ねた。
「白馬さん、大丈夫?」
「……ええ。結界を張ったままだと、かえって村人を煽るようなことになりますから」
違う。心配なのは、もっと根本的なことだった。
白馬もククの表情から、すぐにそれを察したようだった。
「お二人を巻き込んでしまって申し訳ありません。……この騒ぎは、里の風習によるものなのです」
「風習?」「鬼の目、か」
返す声が重なった。
「アルス様はご存知でしたか」
「一応。外でも有名な話だし」
「アッ君、鬼の目って何?」
「……左右の目の色が違う人間」
整った顔を面倒そうに歪ませつつ、アルスは説明してくれた。
「それをこの地では鬼の目の子と呼んで、厄災をもたらすとか何とか言って忌み嫌ってる。……まあ、変わった目の色の人間なんて、大陸にいくらでもいるけどね」
ククは杏里の双眸を思い出した。右目の落ち着いた灰色と、左の意志の強そうな赤茶色。
確かに珍しいとは思ったが、綺麗に分かれた二つの色は、どちらも悪いものになど見えなかった。
「ですが、この地ではそれが重要な意味を持つのです」
白馬がアルスの言葉の続きを引き取った。
「桜花で生まれる鬼の目は、我々の祖先たちが犯したある罪ゆえに生じるものだと言われています。そして、鬼の目が生を受けることによって、里に不幸が齎され、放置すれば取り返しのつかない厄災が起きるとも……。だから、存在させてはいけないものだと言い伝えられているのです」
「で、あの塚はそうした鬼の目の処分場だというわけか」
アルスの声にククは言葉を失った。信じがたいが、白馬も否定しようとしない。どころか、諦めたように小さく頷いた。
「鬼の目の子が生まれると、二十歳を迎える前に殺さねばならない。それがこの里の習わしです。あの塚に眠るのは、代々の里長によって葬られた鬼の目の子供たちです」
「そんな……」
「酷いと思われますか? けれど、それがこの地の定め。それに事実、この地で生まれる鬼の目の子は常人とは異なる強い力を持っていることが多く、それ故に皆も彼らを恐れます。里の人間が安心して生きるためには、仕方がないことなのです」
「でも、さっきの子……杏里ちゃんは?」
「……あれは、私の娘です」
感情を抑えた白馬の目が、その時だけははっきりと揺れた。
「私の曾祖父の代以降、長い間忌み子は生まれていませんでした。けれど、久しぶりに生まれた鬼の目が、私の……里長の子だったのです。……どんな家でも、鬼の目の子供は取り上げられ、始末された。たとえ里長であってもその決定から逃れることは出来ません」
だけど、と白馬は声を震わせた。
「……だけど私はそこから逃げ出したかった。我が子を手放すことが恐ろしくて、決心することが出来なくて……里の人々に頭を下げて、せめて娘が十五になるまで待ってもらえるように請いました。……そして今から四年前、杏里が十五を迎える誕生日に、私は彼女を連れてあの塚へ向かいました。里長として、あの子の命を終わらせるために」
「でも、殺さなかったんだね?」
ククの念押しに、白馬は曖昧に微笑んだ。
「塚に入る権利を持つのは里長だけです。家畜の血を浴びて戻った私が杏里を殺したと言い張れば、それ以上何かを問われることはありませんでした。けれど、中には疑念を抱いた者もいたのでしょう」
「さっきの人たちのこと?」
「ええ。杏里を連れ帰ってから、私は極力この家に人を近づけないようにしてきました。必死だったとはいえ怪しまれて当然でしょうね」
「でも、なんで今更」
「それは、十日後が杏里の二十歳の誕生日だからでしょう」
なるほど、とククは納得した。
伝承を信じるならば、二十歳までに死なねばならない忌み子。
里の人々が抱いていた疑念の種が芽吹くのには、ちょうどいい頃合いだ。洞窟に子供が入っていったというのも、そこに本当に杏里が眠っているか確かめるため、白馬に塚の鍵を開けさせる狂言だったということか。
そうこうしている内に何やら表が騒がしくなってきた。
複数の大声、足音が近付いてくる。
敷地に入った人々がこちらへ向かってきているようだ。
「お二人は奥へ。後は私が対応します」
「大丈夫なの?」
ククの問いには答えず、白馬はアルスに目を向けた。
「アルス様……もし私に万が一のことがあった時には、どうか杏里を逃がしてやってはいただけないでしょうか? 先ほどのお話もすべて受け入れます。ですから、どうか……」
「断る」
アルスの返事はにべもない。
「あんたが私刑で死んだところで里長の権限が他人に移るだけだ。契約にならない」
「……そうですよね」
白馬は力なく笑った。
「お許しください。この里の人間はみな身勝手なのです」
白馬が廊下を戻り、玄関の方へと向かっていく。その背を見送ってから、ククはアルスの顔を見た。
珍しく、アルスもククの顔を見ていた。
「また追いかけるつもり?」
先に質問され、ククは返答に窮した。
白馬のことは心配だったが、かといって自分たちが出ていくと余計にややこしいことになりかねない。迷ってる、と正直に告げると、アルスは「そう」と頷いて歩き出した。方向は白馬の元……ではなく屋敷の奥だ。
「アッ君……」
「僕には関係がないから」
「でも」
「ろくに事情も分からないことに、よく首を突っ込む気になれるね、君は」
振り返って告げられた言葉には、冷えた棘が含まれていた。
そのままアルスの姿は廊下の角を曲がり、見えなくなった。
(アッ君の言う通りだな……)
余所者のわたしに、この里のことに関わる権利はない。誰かの味方になったり、何かを責める資格もない。
それは分かっている。
……だけど。
ククは軽く深呼吸してから、傍らの障子を開け放った。
「きゃっ」
「杏里ちゃん、蔵にいなくて大丈夫なの?」
悲鳴を上げた少女――杏里は、激しい眼差しでククを睨んだ。
「それに、それ……危ないよ」
杏里の手には、長柄の先に刃のついた物騒な武器が握られていた。その全長は杏里の背丈とさして変わらず、傍目からは持て余しているようにしか見えなかったが、うるさい、と彼女は低く唸った。
「あたしは母様を守るの」
邪魔をするなら容赦しない、とでも言いたげだった。
「でも、杏里ちゃんが出ていったら余計騒ぎになるんじゃないかな?」
「……だから、隠れて近付くつもりだったのよ」
それをククが見つけてしまった、ということか。
確かに襖で仕切られた部屋を渡っていけば、白馬たちの元までひそかに接近することは可能かもしれない。けれど、
「少しでも母様に乱暴したら、あんな奴ら全員殺してやる」
こんな状態の杏里を、はいそうですかと行かせるわけにはいかなかった。
「杏里ちゃん、落ち着いて。そんなことしたら駄目だよ」
「うるさい!」
噛みつくような声と瞳で、杏里はククの胸倉を掴んだ。
「あいつらは、この里の汚い部分を里長一人に押しつけてのうのうと生きてきた卑怯な連中よ! そんな奴ら、殺したって構わない!」
ククは瞬いた。杏里が怒っている理由が意外だったからだ。
だが、それでも、彼女を止めなければと思う気持ち自体に変わりはない。だから、掴み掛かられた状態のまま言った。
「わたしはこの里の事情に詳しくないから、杏里ちゃんの言ってることが正しいか間違っているかは分からないよ。だけど、白馬さんは杏里ちゃんだけじゃなくて、杏里ちゃんの言う『卑怯な連中』のことも、これまでずっと里長として守ってきたんだよね? 白馬さんがこれまで築いてきたものを、ここで壊してしまってもいいの?」
「それは……っ」
「お願い、その武器は一旦置いて、わたしと話を……」
そのククの説得に被さるように、客間の方から怒号が響いた。
「っ!」
駆け出した杏里を、ククも今度はすぐに追いかけた。隣に並び、着物の袖口から覗く細い手首を掴んで、引き留める。
「杏里ちゃん、落ち着いて!」
「うるさい! あんたには関係ないでしょ!」
無理やり前に進もうとする杏里に、ククもそのまま廊下をずるずると引き摺られ、声のする客間の手前まで来てしまった。
幸い障子は閉まっていたが、中からは未だ男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
杏里の横顔に再び激しい怒気が宿る。障子に手を伸ばす彼女を止めようと、ククは廊下に踏ん張った。
「杏里ちゃん、分かった! 分かったから! まずはわたしが様子を…………っ! わっ!」
言い終わらない内に、不意に足元が大きく揺れた。
バランスを崩したククは障子を突き破り、客間の中へと転がり込んだ。
「あんた……それに、お前は!」
室内の人々の視線が倒れるククに、次いで、障子の向こうの杏里に向けられる。
「お前、どうして!」
杏里が後ずさり、白馬が立ち上がった、その時。
再び床――どころか、屋敷全体が大きく揺れた。
「おい、なんだ! わああっ」
ずしん、という鈍い音と共に、天井の一部が崩落する。
頭上に開いた穴から一同の目の前に降ってきたのは、恐ろしく巨大な蜘蛛だった。見上げる胴体はまだらに混じった黒と赤。蠢く長い手足は、人毛のような黒い毛でびっしりと覆われている。
人々が悲鳴を上げる中、子供の頭ほどもある八つ目に映るのは、ただ一人。
「杏里ちゃん!」「杏里!」
ククと白馬が共に叫び、同時に蜘蛛が跳躍した。
巨躯が再び天井の一部を吹き飛ばし、大小の瓦礫が降り注ぐ。
ククは何とか杏里の傍に駆け寄った。
「杏里ちゃん、逃げ……」
掴んだ手の上に、暗い影が落ちる。振り仰ごうと頭を上げた瞬間――衝撃に押し潰されて、視界が消えた。




