第59話
そうしてディオンが「ククの正式な客人」とやらになってから、半月ばかりが過ぎた。
最初の内はこれといって問題はなかった。
そもそもディオンは自分で言うのもなんだが、大分怠惰な方である。衣食住さえ保証されているのなら外出などしなくても生きていけると思っていた。
……思っていたのだが、しかし実際は時間の経過と共にこう言わざるを得なくなってきた。
暇だ。
端的に言って、飽きたのだ。
その日も昼近くなってから起きだし、家人の数に対してどう考えても広すぎる食堂で遅い朝食を食べながら、ディオンは本日早数度目の欠伸を放った。
ククの姿は見えないが、大方自分の部屋で仕事をしているか、大人しく本でも読んでいるのだろう。
相変わらず、ククはたまに用事だと言って出かける以外はほとんど家に引きこもっていた。
最初はてっきり仕事もしていないのだろうと思ったのだが、話を聞くに、どうやら彼女はアルスの書類仕事の手伝いや、アストリア王から依頼された事務作業などをしているらしい。仕事中の姿を見たことはないが、時折自室に長時間籠もって、変な時間に食事をとっていたりする。
とにかく、ククはほとんど出かけず、ディオンに至ってはまったく外に出ない日々がひたすら続いていた。
こうも閉じこもっているとそれもそれで窮屈であるということを、ディオンは今更発見した。
こんな退屈が続くなら、たとえ騎士の連中と顔を合わせることになっても一度外に出てみるか――とうとうディオンがそんな思いに至った時、食堂の扉が静かに開いた。
アルスは外出し、よく出入りしているミナベルも今日はいない。となれば、現れるのは一人。
「ディオ、今暇?」
「忙しそうに見えるか?」
空になった皿をフォークで示すと、ククはにっこり微笑んだ。
「良かったら買い物ついでに町へ行かない?」
随分タイミングのいいことだ。
勿論、ディオンに文句はなかった。
城下町は相変わらず騒々しかったが、久方ぶりの外出とあって少々の喧噪くらいはどうでもよく感じられた。
ひとまずククに従って大通りにある本屋に向かうと、書棚を素早く回った少女は分厚い書籍を抱えてさっさと会計を終えた。どうやら仕事で使うものだったらしい。
店を出た後、なんとなく町の中心部を目指してぶらぶらしていると、通り沿いにちらほら屋台が出ているのが目についた。
式典の影響か、とククに尋ねると首を傾げている。
「どうだろう? この辺りは元々よくお祭りみたいになってるらしいけど……。ああ、あのアイスクリームは確か有名なんじゃないかな。あと公園の近くにたまに出てる屋台のフルーツサンドが美味しいっていうのも聞いたことがあるよ」
「俺はあのパンで果物を挟む意味がよく分からん」
「そう? あとは他に何が美味しいって言われてたかな……」
ディオンはククを見下ろした。ククは暑さのせいか、汗を浮かべた顔でにこにこしている。
「っていうか、どうして全部伝聞なんだよ。お前んちの近所だろ、ここは」
素直な疑問をぶつけると、ククは一瞬きょとんとした表情になってから、困ったように微笑んだ。
「町にはあんまり来ないから。たまに兄さんやミナベルがお土産を買ってきてくれたりするけど、自分で遊んだり、食べ歩いたりしたことはないんだ。……でも」
目を伏せかけたククは、思い直したようにディオンを仰いだ。
「実はずっと来てみたかったんだ。だからディオと一緒に来れて嬉しいよ」
行こう、と妙に冷たい手で腕を引かれる。
それからのククはいつにも増して饒舌だった。あちこちの屋台や出店を覗いては、あれもこれもと食べ物を買う。そのくせ何も食べずに買い物を続けるものだから、両腕はすぐに荷物でいっぱいになった。
はっきりと様子がおかしいと気付いたのは、町を回り始めて一時間以上が経ってからだった。
「……流石に買いすぎじゃないか?」
休憩に立ち寄った公園で、ディオンは呆れてククを見下ろした。日差しが強く、あちこちから子供たちの笑い声が響いてくる。空いているベンチを探しているのだが、なかなか見付からなかった。
「ちょっとはしゃぎすぎちゃったかも」
ククはなおも楽しそうにしていたが、不意にその場に立ち止まった。
その視線の先を追うと、なにやら身なりの立派な年寄り連中が十人ほど連れだって歩いている。騎士ではなさそうだが、城の人間だろうか。
そう考えている内に、彼らが顔を上げてこちらを見た。何かを言っているようだが、声はここまで届かない。
「何なんだ、あいつら……おい」
振り返ると、背後のククは真っ青だった。同時にその両腕から荷物がばらばらと落下する。それがいかにも切迫感のない音だったので、ディオンは一瞬彼女がふざけているのかと思った。
しかし、荷物をすべてひっくり返したククは、自らもそのまま前のめりに倒れていった。
「っ!」
咄嗟に腕を掴むと、細い肩に全体重が掛かったのが分かった。慌てて背中を抱えようと足を出した瞬間、地面に散らばった紙袋を踏みつけた。靴裏で湿った嫌な感触がする。
そうしている内に、ククの膝ががっくりと折れた。支えきれず、食い物の散乱したべちゃべちゃの地面に、ククのワンピースが浸る。むせ返りそうな甘ったるい匂いの中で、ディオンもその場に屈み込んだ。
掴んだままのククの腕は恐ろしく冷たくて、それなのに青白い肌は汗でびっしょり濡れていた。
「クク、どうした。大丈夫か?」
ゆっくりと顔を上げたククは今にも泣きだしそうに見えた。
アルスかミナベルが戻っていればと思ったのだが、帰り着いた屋敷にはそのどちらもいなかった。
「……ごめんなさい」
居間のソファに座ったククは、ディオンが持ってきたタオルを抱えて俯いた。手足や服はまだ汚れたままだが、ろくに拭くこともせず、じっとしている。
「いや、それはいいが……大丈夫か?」
ククの顔色はまだ悪い。病院……いや、医療塔とやらに連れていくべきだろうか。
「うん、大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけだから」
先ほどのあれは「ちょっと気分が悪くなっただけ」には到底見えなかったが、明らかに元気がない今のククにそれを指摘するのは躊躇われた。
そのまま、室内に沈黙が落ちる。
「その、人の多いところが、あまり得意じゃなくて……」
しばらくして、ククが囁くようにそう言った。
「そうだったのか?」
そんなことは聞いた覚えがない。
尋ねると、ククは俯いたまま、
「なんて言うのかな、情報が多いっていうか、勝手に色んなことが頭に飛び込んでくるの。誰かが考えてることとか、もっと漠然とした感情や魔力の流れとか。前はうまく制御出来たんだけど、最近あんまりうまくいかなくて……」
「それじゃ……さっきのあの連中の声も聞こえたってことか?」
その前から、とククは小さな声で答えた。
「あの人たちはわたしを知ってたから特に声が大きくて、それで、急に怖くなっちゃって……」
それ以上ククは説明しなかったが、つまり倒れたのは彼らが直接の原因だということではなく、あくまできっかけだったということだろうか。そういえば今日は町に出てからずっと、どこか様子がおかしかった気もする。外にいる間中、無理をしていたというのか? だが、一体どうしてそんなことをするのか、まるで意味が分からない。
ごめんなさい、と再びククは言った。
「別に謝らなくていいが……だけど町が嫌ならどうして出かけるって言ったんだ? どうして黙ってたんだよ」
そこまで言って、ようやくディオンは気が付いた。
「……俺が、外に出たいと望んだからか」
どういう理屈か知らないが、ディオンの心の内はククに簡単に見透かされる。
だから彼女は気付いたのだ。ディオンがこの家にいることに対し、息苦しさを感じていることに。
だから、気を遣って外出に誘ってきたのだ。
(それなら……)
今ククに感じているこの苛立ちや混乱、納得出来ない感情などもすべて、きっと彼女に伝わっているのだろう。だから何度も謝って、だからこんなに苦しそうな表情を――。
「……おい、クク」
努めて何も考えないようにしながら、ディオンは声を出した。返事を待たず、すぐに訊く。
「お前の力はどのくらい距離をおけば届かなくなるんだ? お前からどれくらい離れれば、俺の声は届かなくなる」
「え」
ククが戸惑ったように瞬く。その目がこちらの腹を透かしてしまう前に、ディオンは「いいから教えろ」と強めに催促した。
「っ、この家を出れば……多分……」
「そうか」
頷いて、続けた。
「じゃあ俺は少し出る。お前も落ち着け」
最低限のことだけ伝えて、反応を確かめることはしなかった。
いまはとにかくククの前から離れたかった。
その意思に従い、ディオンはそのまま足早に部屋を出た。
***
「…………」
ディオンの気配が遠ざかっていく。
その事実を受け止めて、ククは深く息を吸った。ぶちまけた菓子たちの甘い匂いに混じって、どうしようもない後悔が胸を重く満たしていた。
ディオンを怒らせてしまった。
でも、当たり前だ。
ディオンが最近この家での生活にうんざりしているのは感じていた。だから、彼のその鬱屈を和らげたかった……というのは体のいい言い訳で、実際それはディオンのためというより、彼をここに留めたいククの我欲からくる行動だった。それでもディオンを喜ばせたいという気持ちは嘘ではなかったし、彼と町を歩くのは楽しかった。
しかし、結果自分が大きな失敗をしたことに変わりはないし、その失敗を繕うことも出来なかった。
ディオンは出ていった。
(もう戻ってこないかもしれない)
胸がじわりと痛い。
彼をこの地に留めているのはククの身勝手だし、喜ばせようとしたのはただのエゴだ。いつも通り空回った自分が情けなくて恥ずかしかった。迷惑をかけたことが苦しかった。
けれど、もうどうしようもない。
どうすることも出来なかった。
そうして馬鹿みたいな匂いと馬鹿みたいな自分に囲まれて動けないまま、どれくらい時が経っただろう。
(あ……)
不意にククは気配に気付いて頭を上げた。
束の間、何かの間違いではないかと思った。そんなことがあるわけないと。
しかし、やがて部屋の扉が開き、見慣れた姿が現れた。
「戻ったぞ」
「…………あの」
「ん?」
「おかえり、なさい」
おう、とディオンは頷いた。普通の、いつも通りの声で。
「具合は?」
「……もう大丈夫」
「そら良かった。まあでもこれは後で食え。食えなかったら兄貴にでもやれ」
手渡された紙袋にククは視線を落とす。中にはきらきらした色のフルーツサンドがいくつか入っていた。
「あの……ありがとう」
「どーいたしまして」
ディオンがククの隣に腰を下ろす。赤い瞳がククを見る。でも、そこから怒りは伝わってこなかった。
「……あのな、俺は気が短いから、すぐにイライラするんだよ」
唐突にディオンは言った。
「別にそれでお前がいちいち気に病む必要はない……っつっても、お前は多分気にするんだろ? だから、イラついてる時はなるべくお前に近付かないことにした。ま、お互いのためってやつだな」
ぶっきらぼうなようでいて、どこか慎重に取り出される言葉。その一つ一つが、優しい雨のようにククの肌を伝って浸透していく。
ククが黙っていると、ディオンは少し困った顔になった。
「だけどお前も言いたいことがあれば言えよ。行きたくないところには連れていかないし、やりたくないことを強要するつもりはない。だけど、それは言ってもらわなきゃ分からん。お前が考えてること……不安でも希望でもなんでもいいから、ちゃんと俺に伝えてくれ。俺にはお前みたいな力はねえんだよ」
「……うん」
もう少しまともな返事をしたかったのに、それだけしか言えなかった。
「とにかく、これが俺の言いたいことだ。以上」
「……えっと、ディオ」
「なんだ?」
「これからも、ディオはわたしと一緒にいてくれるの?」
困惑を抱えて尋ねると、ディオンが眉を寄せた。
「逆にそのつもりがないのか? なら別に……」
「あるよ! あるの……でも……」
「でも?」
ディオンはククの言葉を待つように黙っている。
だから一生懸命言葉を探した。
「……ディオは、わたしのこと、怒って……見放したんじゃないかって、思ったから」
「見放すんならとっくに見放してるだろ。二百回くらい」
あっさりと言われて、急に目が覚めた気がした。
「そっか」
「そうだよ」
目が覚めても、その優しい言葉が嬉しかった。
「……ディオ、ありがとう」
「さっきも聞いたな」
ククはもう一度視線を落とした。フルーツと生クリームを挟んだサンドイッチはほんのり甘い匂いがする。べたべたに汚れた自分の重たい匂いに重なっても、それは不思議といい香りで――なのに、胸の奥がなんだか少し痛かった。
「あの、ディオ」
顔を上げたディオンに、ククは問う。
「わたしが今何を考えているか分かる?」
「いや、だから分かんねえって」
「そうだよね」
だから話せ、とディオンは言ってくれた。さっきだってそうするべきだったと確かに思う。
そして、この瞬間感じている気持ちも、きっと言葉にしたら簡単なものなのかもしれない。
……でも。
「今は秘密にしてもいいかな」
この気持ちは、もう少し大事に取っておきたかったから。
「あのなあ……」
ディオンは呆れた顔をしたけれど、やがて「勝手にしろよ」と肩を竦めた。
なんだか、安心したら急にお腹が空いてきた。
「ディオ、おやつにしよ」
「その前に着替えとけよ。既にクリームの亡霊みたいだぞ」
確かにそれもそうだ。
ククは声を上げて笑った。




