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refrain  作者: 水幸
第十三章 夜明けの声
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第57話

 そこはとても冷たくて、静かで、うっすら暗い場所だった。光は遠く、見上げる空の彼方にぼんやり滲んで揺れている。吐き出す呼気が細かな泡となって、ゆっくり天へ上っていった。

 ここは水底なのだ、と私が理解した瞬間、目の前がさっと明るくなった。

 千切れた手足や人の頭が目の前に無数に浮かんでいる。音はなく、溢れ出る血潮も見えない。ばらばらになった人形のような死体は、けれど確かに見知った者たちの姿だった。


 リスティアーナ。

 かつてその名で生きていた、私と同じ人形たち。





 覚醒直後の視界は、ぼんやり青かった。

 息を吐き出し、ゆっくり瞬く。やはり青く、そして、暗い。夜が明ける前の曖昧な時の狭間、世界中の何もかもに取り残されたような静寂――だが、それは小さな寝息によってすぐに破られた。


 すぐ隣で眠る桃の頭を見つめて、リスティアーナはまた一つ、けれど先ほどのそれとは幾分意味合いの異なる息を吐く。浮かんだ感情を安堵と呼ぶことには抵抗があったが、他に置き換えられるような言葉も見つからなかった。


 リスティアーナがこの幼い少女と同じベッドで一緒に眠るようになったのはここ数日のことだった。桃に声をかけたのに、はっきりとした意図はない。リスティアーナの提案に桃は特に抵抗なく頷き、それからずっと、こうして一緒に眠っている。

 まずい兆候だ、とは自分でも分かっていた。

 だが、今はそれよりも――。


「……けだもの」


 リスティアーナは体を反転させ、侵入者を睨みつけた。


「違うから。いや、……否定はしづらいけど」


 桃を起こさないようにだろう、囁くような声が返ってくる。広いベッドはアルスが転がっていてもまだ余裕があるが、勿論そんなことのために特注で作らせたわけではない。……ないのだが、しかしまあこの男の不法侵入は今に始まったことではないし、別に何をされるわけでもない。

 だから特別大騒ぎするつもりはなかったが、かと言ってまったく文句がないわけでもなかった。


「それにしても随分香水の趣味が悪い女ね」


 リスティアーナは枕に頭を付けたまま、眉根を寄せた。


「……あー」


 アルスは同じく横たわったまま、いやにばつが悪そうな顔をしている。


「ああ、男なの?」


「……遊んでたわけじゃないんだ」


 どうやら昨日今日と日中ここに顔を出さなかったことに後ろめたさを覚えているらしい。

 リスティアーナ自身はさして気にしていなかったが、折角なので少し苛めてみることにした。


「分かってるわよ。大事なお仕事の一環かつ趣味の一部でしょ」


 アルスは目を伏せ、黙ったままだ。軽い嫌味のつもりだったのだが、どうやら存外深く刺さってしまったらしい。


(まったく……)


 そんな顔をするくらいなら下らないことは止めればいいのに。

 そう思っていると、


「それなりに正しくあろうとはしてるんだけど、一度壊れたものはどうしたって戻らないんだ。僕は多分、死ぬまでこういうことを続けるんだろうと思う」


 不意にアルス本人がそんなことを口にした。


「……そんな自分が心底下らないと思う時もあるのにね」


「今とか?」


「そう、今とか」


 享楽的な生き方や自分を切り売りする処世術から抜けられないのは、もはや彼の病気のようなものだ。自分でもよく分かっているのなら、いっそ開き直ってしまえばいいのに、どうやらそれも出来ないらしい。


 本当に仕方のない、いや、救えない男だ。


「……壊れていようが壊れてなかろうが、下らなくても立派でも、人は誰でも死ぬ時には死ぬわ」


 アルスは薄闇の中で瞬いた。隙だらけの顔が、次の瞬間ふわりと笑う。


「君もわりとめちゃくちゃだね。誇りを持って生きろと言ったり、死ぬ時は死ぬなんて言ったり……他人を突き放そうとして、やっぱり諦めたりとかさ」


「……桃のことなら自分でも分かってるわよ」


 自身の矛盾も、迷いも、迂闊さも。理解はしている。そして、それがいつか軌道修正を必要とするものだということも。

 だから、リスティアーナは口にした。


「この子をこのままここに置いておくのは難しいわ。彼女の将来のためにならない」


 今この状況でそんな言葉を述べること自体が矛盾まみれであることも分かっていたが、言わずにはいられなかった。自分で自分に言い聞かせる必要があると思ったからだ。


 いつかこの少女はここからいなくなる。

 この少女は私のものなどでは断じてない。

 ……私の本来守るべきものでも、ない。


「……君は彼女を術師として育てるつもりなのかと思ってた」


「私がここで桃を育て続ければ、彼女はそういう選択をするかもしれない。でも、それは本人の意思とは言えないわ」


 それでは意味がない、と思う。

 やはり私は甘くなったのだろう。


「あなたに対しては、そんな風に思ったことなんてないのにね」


 かつてこの塔に迷い込んだアルスをリスティアーナは魔術師として鍛え上げた。それがこの国の、王のためであると思ったからだ。アルス自身の意思などどうでもよかった。魔女らしく、彼を利用したのだ。


「あのさ、僕の場合は状況が少し違うから」


 アルスが薄闇の中で微笑んだ。


「僕は君がいてもいなくても城を離れることはなかったよ。だけど君がいたからこそ、今こうしてそれなりの立場で生きられてる。そのことには単純に感謝してるよ。今も、昔も」


 取りなすような言葉だが、事実でもあるのだろう。アルスの心の奥底には、今はもういない人間がいる。この城でアルスをアルスたらしめているのはその人間で、リスティアーナとの関係はそこに付随したものでしかない。

 けれど、桃は違う。

 大切なものを失った彼女の傍にいるということは、彼女に手を差し伸べるということは、リスティアーナ自身が彼女に責任を負うということだ。

 責任が与えられること自体は別に構わない。

 けれど責任を負ったその先にある、桃の未来は?

 何も保証できない。してやることが出来ない。


「とにかく、このままではお互いのためにならないわ。祝典が終わったら彼女の今後についても考えなくちゃ」


「そうだね」


 アルスは考え込むような顔をしている。その表情から、彼がこの少女のことまで背負い込もうとしているのは明らかだった。

 馬鹿なことを考えるなと叱りたいのは山々だったが、今のリスティアーナが言ったところで説得力に欠けるだろうし、アルスも折れはしないだろう。

 なればこそ、リスティアーナはわざと大きく溜め息を吐いた。


「それより、祝典の日はどうするつもり?」


 なんだかんだで、祭事は一月半後に迫っている。五勇の面々は当日は王の身辺警護に当たることになっており、普段は滅多に塔から出ないリスティアーナも今回はその例外ではなかった。

 従って、この塔は主不在の空間になる。


「桃をここに置いておくわけにはいかないでしょ?」


「うちに連れてきてミナベルに頼むつもりだよ。それからディオンにもお願いしようと思ってる」


「ああ、ディオンちゃんね」


 彼についてはアルスから話を聞いて知っている。どうやら不死の力を持っているらしい、ということも。アルスの話しぶりや評価の仕方を見るに、それなりに信頼を置いている人物なのだろう。


 それはそれとして。


「そろそろ覚悟すべきだわ」


「それは……」


「逃げられないわよ、もう」


「……分かってるよ」


 それもどうだか。本当に分かっているのなら、もう少しまともな顔をしていそうなものだが。

 横たわるマットがわずかに軋む。

 体を起こしたアルスが、ベッドから降りて立ち上がった。


「戻るの?」


「まあね。小さいお姫様もいるし」


「……ああ、そういうこと」


 一応桃に気を遣っているらしい。……なんだか納得いかない気もしたが、それが明確な感情になる前に寝室の扉が開かれた。


「おやすみ」


 そう軽い口調で言ってアルスは部屋を出ていった。しばらくすると塔に満ちる魔力が動いて、彼が完全に外に出ていったのが感じられた。

 結局、いつも通り逃げたのだ。


(……まあいいわ)


 枕に頭を乗せ直し、リスティアーナは窓の外に目を向ける。

 外は先ほどよりもわずかに明るくなっていた。アルスはおやすみなどと言っていたが、夜の匂いはすっかり薄い。気付かなかったのか、気付いていて無視したのか――彼の真意は分からなかったけれど。

 目覚める時間はもうすぐそこまで迫っている。

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