第55話
ククがその知らせを受けたのは、城を出て杏里を探し始めてから七日目、ディオンと出会ってからは二日後の夕方過ぎのことだった。
その日も前日同様ディオンを含む三人で朝から杏里の捜索を続けていたのだが、成果は得られていなかった。森の中で開けた場所を見つけたので、野宿の準備を整えていた矢先、近くの川に水を汲みに行っていたミナベルが戻ってくるなり二人に告げた。
「クク様、アルス様が急ぎ王城へ戻ってこいと」
食事の準備を進めるディオンの横で焚き火の用意をしていたククは、その手を止めてミナベルを仰いだ。
「……どうして?」
「理由は分かりません。ただ至急戻れ、としか」
ミナベルは片手に紙片を掲げた。つい先日も兄は同じ方法で彼女に外出の伝言を寄越したばかりだが、今回書かれている文言もまた、前回と同じようにごく簡潔なものだった。勿論、理由など一言も書かれていない。
まるで状況が分からないが、無視出来るものでもない。兄の言葉にはそれなりの理由や意味があるはずだ。
(もしかして……)
ククが王都にいないことが周囲に発覚したのだろうか。それとも、もっと何か別の問題でも起きたのだろうか。
「おい、どうすんだ?」
ククはディオンの言葉に振り返った。
「すぐ戻るよ」
まだ捜索の半ばではあるが、ここは兄の言葉に従うしかないだろう。
「それで……ディオも一緒に来てくれる?」
「断ったところで聞く耳持つのか?」
「……持たないかも」
「なら聞くな」
「じゃあ……」
「クク様、ディオン様、これを」
背後で声がしたかと思うと、いきなりミナベルに腕を掴まれ、そのまま何かを手首に着けられた。目の前に掲げれば、表面に繊細な細工の入った白銀のブレスレットが光った。流れるように移動したミナベルは、ディオンにもまったく同じものを装着した。
「これは……?」
疑問を口にした瞬間、全身を引っ張られるような感覚がククを急襲した。
足がもつれ、尻餅をつく。
世界の電源を丸ごと落としたように目の前が真っ暗になった。
しかし、闇はほどなくして払われた。
「…………」
ククの目の前には、見慣れた室内――王城内にある自宅の居間の風景と、少し険しい顔で立っているアルスの姿があった。と、ククの傍らに光の柱が出現し、そこからミナベルとディオンの姿も現れた。
アルスはディオンにちらりと眉を上げたものの、大きく表情を変えることはなく、再びククを見下ろした。
「……兄さん」
どういうこと、と尋ねたククに、兄は淡々と「転送装置の試作品だよ。ミナベルに渡しておいたんだ」と説明を返す。
ミナベルを見れば、
「すみません、お伝えすればクク様が無茶をされるかもと言われておりましたので……」
「そっか……」
兄に信用されていない現実に落胆はあったが、今それについて文句を言うのはやめにした。それよりも兄の顔色の悪さが気になったからだ。
今度は何があったのか訊くまでもなく、アルスはククたちに向かって言った。
「……杏里はもういない」
告げられた言葉は、到底理解しがたいものだった。
それからアルスは、クク不在の間に起きた出来事のすべてを説明した。
話が終わった後、長い沈黙が室内に落ちた。
状況がほとんど呑み込めていないであろうディオンさえ、厳しい顔をしたまま言葉を発しようとはしない。
ようやく、ククは絞り出すように口にした。
「嘘でしょ、兄さん」
桃のことも魔女のことも、兄のことでさえ、今のククにはどうでもよかった。知りたいのはただ杏里のことだけだった。だけど「彼女が死んだ」などという馬鹿げた話を知りたかったわけではない。
杏里がもうこの世界にいない? 信じない。信じられるわけがない。納得がいかない。まるで、何一つ。
「信じられないのは分かるよ」
「信じられるわけないよ。兄さんは桃ちゃんの言うことをそのまま信じるの? それが真実だって思ってるの?」
アルスは肯定も否定もしないまま、感情を抑えるように目を伏せた。
「桃の話を元に杏里が最後にいた村はある程度絞り込めた。今、部下を使って確認に向かってもらってる」
「その結果本当だったって報告されたら、兄さんはそれで納得出来るの?」
アルスは答えない。兄も兄でこの状況を完全に受け入れているわけでないことは分かっていた。彼を責めるのは間違いだということも。
それでも、言葉と感情を止めることが出来なかった。
「もう場所が絞り込めてるなら、わたしが杏里ちゃんのいた村に行く。わたしが自分で確かめる」
アルスの返事を待たず、ククは続けた。
「兄さん、もう一度さっきの転送装置を貸して。それですぐに行って戻ってくれば問題ないでしょ? だから、わたしに杏里ちゃんを探しに行かせて」
「駄目だ」
「でも……」
「物理的な可否以前の問題だ。今の君を行かせることは出来ない。君だって今の自分が冷静でないのは分かってるだろ?」
声は激しくはなかったが、アルスの目に常の穏やかな色はなかった。
「兄さん……」
説得は出来そうになかった。意思を押し通そうと思うなら、また王城を飛び出す他ないだろうが、そうすれば最後、兄との断裂がいよいよ取り返しのつかないものになる予感があった。
そして何より、本当は分かっていた。
理屈に合わないことを言っているのは、間違っているのは、クク自身だと。
「……クク」
「分かった。……もう、言わない」
ククは顔を上げた。
ごめんなさいと伝える声は、思ったよりもずっと小さくなってしまった。
「……少し頭を冷やしてくるね」
「クク」
「家から出たりしないから」
そう伝えて背中を向ければ、もう呼び止められることはなかった。
数日ぶりの邸に変化らしい変化などあるわけもなく、歩廊から望む裏庭もいつもと何ら変わりなかった。日が落ち、吹き抜ける風が涼しい。海沿いだが比較的気候の安定したこの地で暮らしていると、時々季節が分からなくなる。
ただ茫洋と夜風を浴びていると、背後から足音が近付いてきた。おおざっぱな歩き方だが騒々しくはない。音の主は、すぐ分かった。
「ディオ」
ディオンはククの隣で立ち止まり、いかにも文句言いたげに顔をしかめた。
「おい、突然あんなとこに取り残されてみろよ。どうしたらいいか分からねえだろうが」
「あ……」
すっかり忘れてしまっていたが、確かにそうだ。ディオンにしてみれば突然よく分からないまま連れてこられてそのまま放置されたのだ。混乱しないわけがない。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃったよね」
「ああ、いや……そうじゃなくてだな……」
ディオンは言い淀み、頭を掻いた。
「わけが分からんのは確かだが、別にそこまで腹は立ってない。非常事態だってのは分かってたしな。……なんつーか、あいつのこと、残念だったな」
「杏里ちゃんのこと、だよね」
「? ああ、そうだが……」
ディオンが気遣ってくれているのは明らかで、それは嬉しいことだった。けれど――。
「……いや、すまん。軽率な言い方だったな」
「あ、ううん、違うの」
ディオンの気持ちを突き返すつもりではなかったのに、結局余計に気を遣わせてしまった。
どうしてわたしはこうなんだろうと、つくづく自分が嫌になる。
「わたしこそ、ごめんね」
「いや、お前が謝ることじゃないだろ。……先に戻ってあいつともう少し話をしてくる。っつーか挨拶もまだだしな」
そう言って、ディオンが来たばかりの廊下を戻ろうとする。
「……あの!」
ククは思わずその背を呼び止めた。
「何だ?」
「あの……ここまで来てくれて、ありがとう」
「別に礼を言われる程のことじゃない。……それだけか?」
まだ色々と伝えたいことはある気がしたが、言葉にするのは難しかった。仕方なく、うん、と頷くと、ディオンは呆れたような顔をする。
今度こそ邸に戻っていく後ろ姿を、ククはただただ見送った。
***
ククが去り、その後を追うようにディオンも部屋を出ていった。一連のやりとりを見守っていたミナベルが、アルスに向かって不安げな表情で首を傾げた。
「……クク様、大丈夫でしょうか?」
「……どうだろうね。まあ、なんとかなるんじゃないかな」
「ディオン様がいらっしゃるから、ですか?」
「いや、それは分からないけど」
と言うより、恐らくディオンの手には負えないだろうが……それはまあ、今さして重要なことではない。
アルスはソファに腰を下ろした。
疲労感で頭が痛い。転送魔法を使った影響もあるだろうが、どちらかと言えば精神的な疲れの方が大きかった。
昨日リスティアーナの塔が襲撃された件で、アルスは今朝早くから王に呼び出され、つい先ほどまで報告のため城に拘束されていた。
桃についても結局報告せざるを得ず、あくまで「知人の娘」を預かっているだけという説明で押し通したものの、納得されたとは思えない。
だが、唯一救いなのは、現状王が周囲に彼女の存在を開示する気がなさそうなことだった。
もうすぐ王都で催される祝典。それに誰よりこだわっているのはアストリア王その人だ。その開催が揺らぐようなトラブルは断じて避けたいし、公にしたくもないのだろう。
襲撃事件そのものも、一旦事故という体裁を取ることになった。他の人間がそれでどこまで納得しているかは分からないが、事件の現場が「十三番目の塔」という特殊な場所であることも状況の秘匿に有利に働いているようだ。もっとも、それを幸いと呼ぶべきか否かまでは分からなかったが。
微妙な状況を振り返り、再び息を吐き出せば、横に立つミナベルが心配そうな顔になる。アルスは小さく苦笑した。
「ミナベルにも申し訳ないことをしたね。ククの世話を任せておいて、結局こんなことになってしまった」
「いえ、わたくしはいいんですの。ただ……いえ、なんと言ったらいいか……」
濁された言葉の続きは想像がついた。杏里のことだろう。
アルス自身まだ困惑していたし、当然納得など出来ていなかった。それだとどうしようもないから、ただ納得したふりをしているだけだ。
しかし、感傷に長く浸っている余裕はなかった。
アルスは開いたままの戸口に戻ってきた人物に視線を向ける。
「色々慌ただしくて存在を失念しそうになったけど、久しぶりだね」
「……誰だお前は。いや、本気で」
紫色の客人は、野良犬のような警戒心を剥き出して唸った。
「まあ、色々あってね」
過去あらゆる人間にされてきた反応にいつも通りの返答を寄越しつつ、アルスはふと思いついて付け足した。
「君は変わらないね。ああ、もちろん悪い意味で。でも背はもう僕より小さいか」
「……ああ、そのクソみたいな性格の悪さは変わらねえのな」
いかにも苦々しげな口調にアルスは声を上げて笑う。ディオンはいよいよ不気味なものを見る目をしていた。
「わたくし、お茶を淹れてきますわ」
言って、ミナベルが部屋を出ていく。扉が閉まる音と同時に、ディオンが再び口を開いた。
「お前の背が伸びようが縮もうがどうでもいい。だけどあいつはどういうことだ?」
「あいつ?」
「ククに決まってるだろ」
誤魔化すな、と言いたげだったが、アルスはあえて言葉を続けなかった。
「お前と比べて……っつーか比べなくても、変わらなさすぎるだろ。あいつは」
そうかな、とアルスは答えた。実際ディオンの言葉は少々意外だった。てっきり彼が言及するのは先ほどのククの取り乱しようについてだろうと思っていたからだ。
「妹は昔から童顔だとは思うけど」
「アレは、そうじゃないだろ」
「と言うと?」
ディオンの眉間にしわが増えた。
少し考えるような間があって、
「……なんつーか、見た目もそうだが、雰囲気……いや、匂いみたいなもんが七年前とまるっきり同じなんだよ」
(……なるほどね)
どうやら動物の勘的なもので、ディオンはククに違和感を覚えているらしい。
まったく、なんて厄介で素晴らしい鼻の利き方なのだろう。
「君はククがこの城で暮らすまでの経緯は聞いてるかい?」
アルスは尋ねた。
「というか、聞いてたとして覚えてるかい?」
「いや……ああ、でもそういやなんか言ってたな、あいつ。お前の妹だからここに連れてこられた、とか……」
ディオンは曖昧な表情で首を傾げている。
ククがかつての旅路の中で彼に説明していたとしても、もう七年前の話だ。不老不死だというディオンの中で七年という歳月がどのような感覚で処理されるのかは不明だが、過ぎ去った過去をすべて正確に記憶しているわけでもないだろう。
案の定ディオンはそれ以上のことは思い出せないようだった。
「まあ、その内はっきり思い出すか、またククが君に語るかもしれないね。だけど、それまでは彼女を放っておいてくれないかな」
「どういうことだ?」
「君がどんな疑問を抱えていたとして、それで彼女本人を問い詰めるのだけは、絶対にやめてほしいんだ」
「……わけが分からねえんだが」
苦情はもっともだったが、今ここであらゆる事情を説明する気はなかった。
ディオンは納得がいかないような表情を浮かべていたが、やがて、
「……まあ、そこまでして突き詰めようとは思ってねえよ」
「それならいいけど。……彼女は君が思うよりずっと厄介な女の子かもしれないよ」
ククが敷地内にいるのであまり深掘りしたくない話題ではあったが――この際言っておいた方がいいだろう。
「君は厄介な人間と関わっても構わないと思ってるのかい? ここに来るってことはそういうことになるんだけど」
「……それは俺に出ていけってことか?」
「違う。そういうわけじゃないよ。君がいてくれた方がこちらとしても都合はいい。だけど……」
「だけど、なんだよ?」
「……ここはあまり居心地が良くないからね」
どう伝えるべきか迷って、アルスは結局本音とは少し離れた場所にある言葉を選んだ。
「お前の意味の分からなさは相変わらずだな」
ディオンは訝しむのを通り越して呆れているようだった。
「で、どうする? 僕の有り難い助言に従っておく?」
「面倒に巻き込まれるのはごめんだが、お前に従うのも癪だな」
ということは、ここにいるつもりだということか。結局その事実に少しほっとしている自分を感じつつ、アルスは言った。
「じゃあ、しばらく滞在するといい」
「本当になんなんだよお前は」
……などと話している内に扉が開き、ミナベルがティーセットと共に戻ってきた。
「ごめん、ミーナ。僕は出るよ」
言って、立ち上がる。ディオンを指差し、「コレをよろしく」と伝えると、ミナベルの「はあい」という呑気な返答とディオンの「誰がコレだ」というぼやきが重なった。
とりあえず後は任せておいて問題ないだろう。アルスはそのまま部屋を出る。
やるべきことはまだいくらでも残っていた。




