第54話
これは妹についての話だ。
妹の名前はカノン。歳は五歳か六歳離れていたと思うけど、今では正確に覚えていない。
髪も瞳も俺とほとんど変わらない緑色で、はっきりした眉や肌の色、黒い耳と尻尾も一緒。他人から見ても、俺たちが兄妹だというのは一目で分かったことだろう。
俺たちはあの研究所で、当初同じ実験を受けていた。だから部屋も一緒だったし、従ってカノンとは当然毎日顔を合わせて話が出来た。
けれど、それがいつからか、俺たちは別々の部屋に移されることになった。きっかけが何だったのかは分からない。原因が俺にあったのか、彼女にあったのかも。もしかしたら単なる管理者たちの気まぐれで、その分岐自体には大した意味などなかったのかもしれない。
俺はそれまでいた東エリアから西エリアに移り、ついでに二人部屋から広い個室を与えられて、実験以外の時間のすべてをそこで過ごすことになった。それまで朝晩の食事は食堂で摂っていたけれど、それも職員が部屋まで運んでくるようになり、トイレも風呂も専用のものが用意されていた。つまりこれまでとは待遇が随分上がったことになるけれど、諸手を挙げて喜ぶ気にはなれなかった。
カノンのことだ。
誰に尋ねても無事だということ以外何も教えてくれない。当然本人の姿を見ることもない。妹がどうしているか、その様子がまるで分からないというのは不安でしかなかった。
同時に、それまで自分の置かれている状況にほとんど疑問を持っていなかった俺は初めて「おかしい」と思うようになった。
そもそも、なんで俺たちがこんなわけの分からない場所に閉じ込められなければいけないのだろう? 何日も悪寒が止まらなくなる苦い液体を飲んだり、腕の皮膚を剥がされたりしなければならないのだろう? 神様とやらになるため? でも、それが何故俺たちでなければならない?
答えにはすぐ辿り着いた。
それは俺たちがいくら失敗してもまったく惜しくない命だからだ。最悪使い捨てで構わない素材だったからだ。俺たちが存在価値を得たいと願うなら、この場所の誰もが納得する答えを――完成された神の力を証明するより他にない。
暗い部屋で初めてその事実を悟った時には、どうしようもない怒りが湧いたし、強い憎しみも感じた。だけど、その感情は持続しなかった。持続しないようになっていた。当時はそのことにすら気付けなかったけれど、俺たちはあらかじめそういう風に設定されていたんだ。想定内の憤怒や憎悪を調教することなど、彼らには容易いことだったというわけだ。
けれど、そうやって怒りや憎しみが簡単に滲んでいく中で、変わらず俺の内に残り続けた思いがあった。
カノン。
妹のことが心配だった。彼女の無事を願っていた。その安否を確かめたかった。カノンを思うと感じる焦燥は、焦燥のままで有り続けた。その思いだけが、俺の中の唯一まともな感情だった。
多分、彼女だけが俺の導だったんだ。
カノンのことを忘れてしまえば、俺の手に残った縁を完全に手放してしまえば、あるいはもっと楽になれたのかもしれない。あらゆる感情から遠ざかり、何も感じない自分でいられたのかもしれない。けれど、カノンを忘れることなど出来なかった。彼女はたった一人の妹で、俺の唯一の家族なのだから。
だから俺は耐えた。その後の日々に。与えられるあらゆる苦痛や恐怖に。耐え続け、長い時間が経って――それでも俺は生きていた。少しずつ、けれど確実に、元の自分とは異なる存在に変容していくのを感じながら、それでも。
ある時から、俺は終わりの見えない毎日に異変を感じるようになった。
と言っても、最初は些細な違和感程度だった。
研究所の管理者たちは、基本的に俺ら素材――被検体とは交流しない。実験動物のご機嫌を伺うほど彼らは愚かではなかったからね。だからこちらから積極的に情報収集をすることはなかなか難しかったけれど、実験やテストのため所内を移動していれば、すれ違う奴らの立ち話を耳にする機会くらいはある。北エリアでハーフエルフの複製に成功したとか。転換実験、とか言うわけの分からない計画が動きだしているとか――そんな情報を得たのもこうした偶然の産物だった。
そうして所内で交わされている会話が、ある頃から妙に深刻なものになっていた。
当初、彼らの話す内容はほとんど理解出来なかったけれど、次第に所内には緊迫した暗い空気が漂うようになった。
やがて俺も、この研究所が危険な状況に置かれていることを――この施設の真上にある都が敵国の侵攻を受け、もう長くは保たないであろうことを理解した。
ここが崩壊したら、どうなるのだろう。
まず考えたのはそれだった。
カノンと会えるのだろうか。俺たちは自由になれるのだろうか。
想像してみたけれど、分からなかった。研究所の崩壊を望むべきか、そうでないかも。
そして、最後の日はあっさりやってきた。
いつものように下らない実験から戻り、いつものように眠りについて、まだそれほど経たない内に、突然部屋の扉が開いて初めて見る女が俺に外に出るよう命令した。意味が分からなかったが、管理者の白衣を着ている以上逆らうわけにもいかず、俺は女の後について廊下を移動した。
おかしい、と思ったのは西エリアを出る巨大なドアの前に着いた時だった。いくつもの鍵と魔法で施錠されたその扉は、中央エリアに繋がるものだ。以前部屋を移動する時に一度通ったことはあるけれど、そんな事情でもない限り、俺たち被験者はまず使用することのない扉だった。
「これからどこへ行くんですか?」
流石に不審を覚えてそう問うと、女は振り返った。そこまで年を取っているわけではなさそうだが、ひどく疲れた顔だった。
「あなたにはこれから長い眠りに入ってもらうわ」
意味不明だ。そういう感情が顔に出ていたのだろう。女は息を吐き出して、閉じたままの扉に軽くもたれた。何か操作したのか、ピ、と短い音がして、扉を覆っていた結界の一つが解除される。でも、まだ扉は開かない。
女は言った。
「あなたも察しているとは思うけど、この場所はもう長く保たない。そこで一旦研究所を縮小し、あなたについては一旦現状で隔離保存することにしたの」
こちらの意思など一切無視した勝手な決定が申し伝えられる。抵抗したい感情がないわけでもなかったが、その衝動をそのまま遂げようとすれば、管理者たちから植え付けた「抑制機能」とやらによって俺自身に深刻な反動があることは明らかだった。つまり、女の言葉に抗う意味はない。
それでも俺は女に尋ねた。
「カノンはどこですか?」
彼女も同じ処分を受けるのだろうか。そうであれば――いや、そうでなくても彼女に会いたかった。
「カノンと会わせてください。妹の無事を確かめないまま眠ることなんて出来ません」
女は黙ったまま、何かを量るような目付きで俺を見ていた。その姿に苛立ちを覚えつつ、再び口を開きかけた時。
「あなたが知る妹は、もういないわ」
「……え」
「あなたの妹は、もっと上位の存在になったの」
今度こそ、意味が分からない。
上位の存在? カノンがいない?
意味が分からないまま、不吉な予感が俺を襲った。
カノンは、どこにいる?
「――ッ!」
気付けば俺は咄嗟に女の肩を掴んでいた。指先に力を込めると、それよりもっと強い力が俺自身の心臓を握った。けれど、手は離さない。
女は痛みに顔をしかめながら言った。
「私を殺せば、この扉の先へは行けないわよ」
挑発的な声に心の底が激しくざわめく。俺は女を突き飛ばし、冷たい鉄の表面に両の手のひらを押しつけた。
開け。
強く念じると、体の内側から生じた力が腕を波のように震わせた。一瞬膨れ上がった扉が、爆発音と共に内側に吹き飛ぶ。細かな屑となった錠前のざらざらとした感触を踏みながら、俺は廊下の奥へと駆け出した。
そこからどこをどう通ったのか、記憶はほとんどない。
けれどいつしか俺は中央エリアを抜けて、かつてカノンと共にいた東エリアに戻っていた。
東エリアには人がまったくいなかった。
通路は暗く、ひどい腐敗臭が周囲に充満していた。
かつてカノンといた部屋の前に、俺は立っていた。
目の前の扉は開け放たれ、凍てつくような冷たい風が室内から溢れだしていた。
部屋の中にはカノンがいた。
すっかりばらばらになり、隅の方に乱暴に積み上げられていたけれど、緑色の髪と黒い耳で彼女だとはすぐに分かった。
床の上には数え切れない人数の体が転がっていたけれど、カノンの頭だけが、こちらを向いていた。カノンの瞳だけが、俺を見ていた。助けを求めるように。
近付いてくる足音と気配に、俺は尋ねた。
「……これが、上位の存在だって?」
「それは――」
「お前たちはただカノンを殺しただけじゃないか!」
通路に佇む女に向かって、俺は叫んだ。憎しみはすぐに輪郭を失っていく。代わりにどうしようもない混乱が俺の頭を埋めていった。
「どうして……」
どうしてカノンはこんなことになった?
俺は何を間違った?
何を間違わなければ、こんな現実を避けられた?
カノンは答えない。
代わりに答えたのは女だった。
「この器は、神になるには少し貧相だったのよ」
たった、それだけ?
「だから……」
女が何か言葉を続けようとする。その醜い顔を目にした瞬間、頭の奥で何かが爆ぜた。
衝動のままに腕を振る。鮮やかな朱色が弾け、飛沫が床や壁に散る。女の腹が裂けて、白衣と下肢が赤く染まった。
女が呻き声を上げ、壁に手をつく。そちらに踏み出した瞬間、俺は立っていられず、その場に膝をついた。心臓が仕事を放棄し、息が出来ない。呼吸しようとする度、酸素の代わりに激しい痛みが体を貫く。
「うっ……」
なんとか呼吸を取り戻した後、恐ろしく重い頭を上げると、壁に寄りかかった女が恨めしげな顔で俺を見下ろしていた。
「……ひどいことをするのね……」
死にそうな顔色だが、恐らく致命傷にはなっていないはずだ。でなければ、俺もこうして生きてはいられまい。
頭が静かに冷えていく。
俺がしていることは、してきたことは、何もかも無駄だった。
そう悟った瞬間、温いものが頬を伝った。
「そう、あなたは永遠に絶望を抱えていればいい。絶望で世界を呪う神になればいい。それが私からあなたに与える祝福よ」
与えられる言葉に、もう心は動かなかった。なのに、それでも涙が溢れるのが不思議だった。けれどそれも長くは続かず、やがてすべてが流れ落ちた後にはただ余り物のような俺が残っていた。
俺だけが、残っていた。
「さあ、行くわよ」
促された途端、体が勝手に立ち上がり、歩きだす。そこに俺の意思はない。でも、もうどうでもいい。何もかも。
女の後に従って通路を歩いていく。中央エリアに戻るとあちこちで怒号が飛び交い、そこら中で誰かが引きずり回されていた。部屋に閉じ込められたまま、泣き叫んでいる少女もいた。俺の目はただ、景色を認識するだけのものだった。
彼らが生きようが死のうが、もはや俺には関係ない。
カノンはもう、どこにもいないのだから。
無数に用意された水槽の一つに身を投じると、冷ややかな静寂に包まれた。
徐々に暗くなる視界で、青い顔の女が俺を見上げている。何かを言っているようだったが、その声は分厚いガラスに阻まれ、届かない。聞き届ける必要があるものだとも思えなかった。
意識が落ちる直前。このまま目覚めなければいいと、そう願ったのは確かに本当だった。
だけど、もし目覚めたのなら――カノンを失った世界で、この下らない世界で、再び鼓動が続くなら。
俺はきっとこの世界を愛せない。そう思った。
***
軽食でもつまもうかと食堂の扉を開けた黒塚は、古びたテーブルの端に少女の背中を発見し、「ああ」と声を上げた。
「無事逃げ果せたみたいだな。お疲れさん」
少女はのろのろと振り返り、のろのろと頭を上げた。
「はい。失敗しましたが」
恐ろしく覇気のない声だが、どろりと曇った目も含め、いつものことだ。
「失敗したっていいんじゃねえの? 重要なのは時間稼ぎつってたろ? 魔法使い様の暗殺はついでっつーか、あわよくば的な考えで、あいつだって本当に成功するとは思ってなかったぜ、きっと」
「そうでしょうか……」
少女はいまいちぴんとこない、という顔をしてから、
「そういえば、あれ、なんだったんですか?」
「あれ?」
「『ここぞという時に言え』と言われていた……ええと……」
少女はしばらく考えてから、もごもごと続けた。
「折角同じ死に方をさせてあげようと思ったのに……というやつです」
「ああ、それか。ちょっとした悪戯だよ。わりに効いただろ?」
まあ、と少女は頷いた。
それ以上説明する気はなかった。どうせ二度目は通用しないだろうから、説明したところで意味もあるまい。少女も深追いするほどの興味はなかったようで、またどこを見ているかよく分からない顔でぼんやりしだしていた。
(それにしても……暗いな)
捨てられた人形のような少女を前に、思わず呆れる。と言ってもその感情は、少女一人に対してというよりは、こんな人間がゴロゴロいるという現状に対してのものだった。
少し前。適当に使えそうな人間を探しておいて――そう頼まれた黒塚は、依頼者本人から助言された通り、今は見る影もない旧リバリティ王都跡地や、周辺の荒廃した地域を回った。
荒れた土地で無気力に暮らす人間たちの多くは、突然現れた黒塚に特に驚くこともなく、仕事を与えると言うだけであっさりそれに従った。この少女もその一人である。
結局、人材は黒塚の想像をはるかに超えて集まった。おまけにその後、この国を害するあらゆる工作活動や破壊活動の任務を与えても、彼らの態度は変わらない。中には、むしろそういった任を喜ぶ者もいた。
彼らのほとんどに共通するものは、この世界への失望だった。
それは絶望ほど鮮烈な感情ではない。故に彼らに自ら動き、革命を起こすような意思はない。
だが、その失望故に、彼らは他者の希望を摘む行為にも抵抗がない。すべてに期待することをやめた彼らは、自らの行動の結果にすら無関心なまま、黒塚の指針に準拠する。まるで操り人形のように。
勿論、そうした人間を目にするのは初めてのことではない。生死の概念を失った黒塚がこれまで通り過ぎてきた長い歴史の中で――かつて繰り返されていた戦乱の中で、同じような者たちは数え切れないほど見てきた。だが、今は戦時ではない。アストリアによって統治された大陸は、それ以前の世界と比べて圧倒的に平和になったはずである。実際どんなに荒廃した場所であっても、そこにかつてほどの混乱はなかった。
それでも、いや、むしろ先の見えない戦に明け暮れていた時代よりもよほど、この世界には人形ばかりが溢れていた。戦の炎が消えた薄暗い世界で、王都の光が届かない影に彼らは取り残されている。光があることを知るからこそ、彼らは自らを影だと自覚して、失望している。
しかしそれも結局、黒塚にとっては都合の良いことだった。世界の状況や人々の心など知ったことではない。使える駒が多ければそれに越したことはなかった。
「ま、しばらく休んどけよ。報酬はいつも通り誰かに渡させる。で、いいよな?」
頷いた少女に片手を振って、黒塚は部屋を出た。すぐに食事をし損ねたことに気付いたが、戻るのも面倒だ。どうしようかと思っていると、邸に人の気配が増えたことに気が付いた。
存在感を消そうと思えば誰にも気付かれず戻ってこられるはずなのに、どこまでもあけすけな気配はまるであの少女と正反対だ。黒塚は小さく苦笑する。
(出迎えくらいはしてやるか)
それに、気になることもある。
黒塚は邸の奥に足を向けた。進む廊下も並んだ扉も、特別変わったところはない。そこに居住する人間の性質を考えれば不自然なほど普通の内装だ。外観も同様で、そもそも山奥に建っているためまず人目にはつかないが、万が一近くを通りがかった人間がいたとしても、精々人付き合いが苦手な金持ちが住んでいるのだろう、くらいにしか思わないはずだ。
「よお、邪魔するぜ」
ろくにノックもせず、黒塚は目の前の扉を開ける。
その男の部屋もまた、ごく普通だった。クリーム色の壁紙に濃茶のカーテン。床には毛足の短いラグまで敷かれている。ただ、それらは部屋の主の選んだものというわけではなく、邸を得た時に前住人が使っていたものをそのまま利用しているだけだ。とは言え少しでも気に入らなければ替えてしまえばいいのだから、このおままごとのような部屋が現住人の好みの許容範囲内であることは間違いないだろう。
その部屋の主は、奥にある書き物机の前に座っていた。帰宅して一息吐くその手前、そんな様子だった。
「ただいま、黒塚」
「我が家は落ち着くか?」
「まあね」
黒塚が用意した隠れ家を捨て、この邸に潜伏することを選んだのは、他ならぬ目の前のライックだった。他にいくらでも選択肢があった中でこの場所を選んだ理由は分からない。いかにも平和で満ち足りた家庭を彷彿とさせる邸はライックの放つ気配とはまったく馴染まないし、本人とてそれを自覚しているだろうに、他に移動するという話も今のところなかった。
(……ま、どうでもいいか)
そんなことより、今は他に話題がある。
ライックは既にこちらから視線を外し、机に向き直っていた。黒塚からは茶色っぽい服の背中が見えるばかりで、何をしているかは分からない。しかし出ていけとも言われないので話しかけても問題はないだろう。
「お嬢ちゃんの魔法が解けたみたいだな」
投げかけた言葉は報告ではなく、あくまで確認である。案の定、振り返ったライックの表情に驚きはなかった。
「まあね」
心底どうでもよさそうな応答だ。いや、実際どうでもいいのだろう。というよりは、
「想定内だよ」
「だろうな」
黒塚は苦笑した。
「でもって真実はまだ鍵の掛かった部屋の中、か」
ライックは答えない。
「いつか鍵を開けるつもりはあるのか?」
黒塚は重ねて問いかけた。
この男の意図が見えないのは今に始まったことではない。だが、「この件」に関しては特に不明瞭な、理解出来ない点が多かった。
「君に何か関係が?」
返事は素っ気ない。苛立っているわけではなさそうだが、投げやりな表情が面倒だと全力で語っていた。
「いや、別に」
黒塚は肩を竦めた。
この方向から話を振っても、特に得るものはなさそうだ。
そう思って、話を変えることにする。
「それにしても、思いがけずうまくいったな」
我ながら微妙な話題の逸らし方だと思ったが、案の定ライックは返事を寄越さなかった。一人で喋り続けるのは馬鹿馬鹿しかったが、仕方ない。
「なあ、あの村の陽動作戦、もしあれでアルス様が城から出てこなかったらどうするつもりだったんだ?」
気になる点、その二だ。
王都の目障りな魔法使いを呼び出して、手薄になった彼の地を襲撃。ある「目的」を果たす――今回のライックの命令は端的に言えばそういうことだったが、大それた計画の内実は、計画と呼ぶのも躊躇われるほど突発的で衝動的なものだった。もっと分かりやすく、適当、と言い換えてもいいかもしれない。
作戦実行の人員も、洗脳術に長けた少女と王城へ特攻する魔術師、他にいくらかの人間を投入しただけだ。端から見れば随分捨て鉢な兵数である。
失敗しても何ら不思議ではなかった計画は、やはりその結果も微妙なものに終わったが、アルスをアストリアから引っ張り出すという点に関しては成功したと言ってもいいだろう。だが、それがうまくいったのも完全なる偶然である。たとえ王都の外で騒ぎを起こしても、アルスが王都から出てこなかった可能性だって十分にあった――どころか、そちらの確率の方がずっと高かっただろう。
しかし、
「さあね」
ライックはまたしても満足な答えを投げなかった。
何も考えていなかった、ということか? そんなことはあるまい。
「なあ、もうちょっとあんたの腹の中を見せてくれてもいいんじゃないか?」
ライックは食い下がる黒塚に眉を寄せた。
「……別にまったく無関係の人間があの村にやってきてアルス君が城に残ったとしても、塔を襲う作戦の方針は変わらなかったさ」
つまり成功の確度が下がっても、可能な限り作戦を進めようとしたということか。
(……いや、待て)
黒塚はライックの言葉に違和感を覚えた。
「あの塔を襲う?」
勿論、それも作戦に含まれていた。というより、目的を果たす上で避けては通れない「手段」だった。だが今のライックの言い方では、まるで塔を襲うこと自体が最終目的のようではなかったか?
そんなはずはない。何故なら、
「あの作戦は……あんたの目的は、娘を連れ帰ることじゃなかったのか?」
ライックは答えない。
彼が提示した、わざわざ障害要素への陽動を行ってまで王都を襲撃するその目的、それは彼の娘のはずだった。彼女がいるからこそ彼の地を狙うのだと、少なくとも黒塚はライックにそう説明されていた。
最終的に目的は果たされなかったものの、それはこの際関係ない。これは一体どういうことなのか。
黒塚の不信感に怯んだわけでもないだろうが、ライックはようやく話し始めた。
「桃が手に入ればそれに越したことはないけど、叶わなくても構わなかった。要は彼女の記憶が戻ればそれで十分だったんだ。君もさっき言っただろ? 魔法が解けたって」
「……ああ」
「塔を任せた男にも、それだけは……桃の記憶の復活だけは絶対に果たすように伝えてあった。で、彼は見事その役割を完遂したってわけだよ」
ということは、襲撃役の男にそれを叶えるための力を与えていたのだろう。黒塚の預かり知らぬところで。
まあ、それは別にいい。
「あの子供の記憶を取り戻しさえすれば、か」
それなら確かに目的は叶った。作戦は成功したと言っていいだろう。だが――。
「納得したかい?」
ライックの問いに頷く気にはなれなかった。
「なんであんたはそこまでしてあのガキが記憶を取り戻すことにこだわったんだ?」
「まあ、元々適当なところで蘇らせるつもりではあったからね。あんまり長いこと放っておいて、勝手に鍵を開かれるよりいいだろう? それくらい出来る人間が向こうにはいるからね」
「それは確かにそうだけどな……」
「結果、向こうは一旦納得したはずだ。桃の記憶が蘇った。それが彼らに与えられた現実で、真実だ。だからたとえその記憶がどんなものであっても、彼らはそれを信用するだろう」
ライックの言い分は表面的には理解出来るが、根本のところで納得がいかなかった。
いずれにしても作戦の根幹が杜撰だったことに変わりはない。
(そもそも、陽動の必要なんてあったのか?)
ライックが襲撃者に力を与えていたのなら、たとえアルスが王城に残っていたとして、隙をついて桃に接触出来てさえいれば記憶の解放は可能だっただろう。現に今し方、ライックはアルスが城を離れずとも作戦を継続するつもりだったと言っていた。今回、結果としてアルスが出てきたからより楽な状況になったというだけで、本来そうならない確率の方がずっと高かったはずだ。他の人間が出てきたところで何の意味もない。どころか、誘き出した人間によってあの少女が捕まりでもしたら、あるいはアルスがあのまま少女を捕まえていたとしたら、損失以外の何物でもない。ほとんど無意味な陽動は、そのくせリスクが高すぎるのだ。
(これじゃあまるで……)
まるで、失敗すればいいと思っているかのようだった。
ライックにその自覚はないだろう。穴だらけの作戦。矛盾。行き当たりばったり。しかし本人にはその自覚はない。
そもそも自身の立てた計画を検算してすらいないかもしれない。意味と無意味の間、破綻のすぐ隣の道をこの男は平気な顔で歩いている。
恐ろしくたちが悪いとしか言いようがなかった。
(あーあーあー……)
この男を相手にする連中は攪乱されるだろうが、それはこちらとて同じだ。その上これがただの切り捨て可能な味方ならまだしも、大将なのだから救えない。
しかし、七年前も大概よく分からない男ではあったが、昔からここまで破綻していただろうか?
あのさ、とライックが唐突に声を上げた。
「さっきから何が言いたいんだい? そもそも君だって勝手に王城に人をやっただろ?」
「ん? あー、あれか」
確かにやった。王城に柄の悪い二人組を差し向けて、獣人の子供をさらえと告げたのだ。まあ、見事に失敗したが。
「様子見だよ、様子見。うちのガキの洗脳術とやらも確認しておきたかったしな」
「それで城の連中が警戒すると思わなかったのかい?」
「お、もしかして今回の作戦は俺のせいって言いたいのか?」
「そういうわけじゃない。ただ……」
ライックは深々と溜息を吐いた後、一層冷たい瞳になった。
「君こそ、どういうつもりなんだい? 余計なことをしたのは別にいい。だけど自分を棚上げして俺にしつこく食い下がる、その理由は何なのかな」
鋭利な空気が黒塚の腕を撫でる。たとえこの場で殺されたところでさして問題はなかったが、あえてその道を選ぶ理由もまたない。だからここは潔く降参することにした。
「ごめんって、神様。俺は、俺の神様が意味不明な理由で全部投げ出さないかって心配してんだよ」
結局のところ案じているのはその一点だけだ。
「もうあんたには逆らわないし、傍観するだけだって約束するぜ。どうぞあんたの好きにやってくれ。どうせ最後には全部壊すつもりなんだろ?」
じきに訪れる最後。その時までこの男が何をしようとどうでもいい。黒塚には、はなから関係ないからだ。
「……そうか。そうだね」
妙に無防備な顔で黒塚の言葉を聞いていたライックが、いきなり声を上げて笑いだした。
常軌を逸したその姿に、黒塚は思わず眉をひそめる。常ならば他人が壊れる様を見るのはそれなりに愉快なものなのだが、それが自分の運命を握る相手となれば話は別だ。
壊れるなら、何もかも終わった後にしてもらわなければ困る。
不安定な笑い声は、しかしすぐに収まった。
「……それなら心配いらないよ。ここまでついてきてくれた君の望みくらいは叶えてあげるさ」
白々しさを隠す気のない野卑な笑み。告げられた言葉には有無を言わせない強引な響きが含まれていたが、黒塚は構わず溜め息を吐いた。
「いや、あんたには前科があるから信用出来ねえよ」
「じゃあ手を切るかい?」
「それとこれとは話が別だ」
黒塚にとって縋れる神は目の前のこの男だけだ。信用出来ない人間を救いの神と奉り上げようとするあたり、結局自分も矛盾と破綻の塊なのだろう。
だが、それでも構わなかった。




