第53話
目を開くと、真っ暗闇の中だった。
冷たくて怖くて、体の震えが止まらない。
だけど、何よりも。
(お母さん、お母さん、お母さん)
恐怖よりも強い悲しみが、桃の体と心を冷たく凍った石にする。
それなのに、涙が溢れて止まらなかった。
もうどこにも行けない。動けない。どうしたらいいか分からない。
闇の中、ただただ泣きじゃくっていると、
――あなたは賢く強くなりなさい。
声が聞こえた気がした。
それはお母さんの声ではなかった。もっと厳しくて、でもあったかい、そんな声。そんな人。
(リスティアーナさん……)
悲しみの隙間を縫うように、塔での出来事が蘇る。
ぼろぼろになった壁や床。大きな物音。階段から落ちそうになった時、抱きしめられた腕の温もり。怖い男の人。扉が閉まる前に見えた、リスティアーナの心配そうな顔。
(……たすけ、ないと)
怖くて悲しくて、震えも涙も止まらない。賢くなる、というのがどういうことかも分からないし、強くなんてなれっこない。でも、助けないと。そう思った。
「あ……」
瞬きした桃は箱の中に光を見つけた。小さな光は顔の近くでゆらゆらと揺れていたが、徐々に大きくなって体をすっぽり包み込んだ。突然視界が眩しくなり、たまらず目を瞑ると、頬に冷たい風が触れ、囁くような波の音が聞こえてきた。
気付けば、そこはもう狭い箱の中ではなかった。
桃は、目の前の塔に向かって駆け出した。
***
一人閉じ込められている――否、リスティアーナ自ら閉じ込めた桃を城まで迎えに行く。そのつもりのはずだった。
急ぎ塔を出たリスティアーナはその場ですぐに足を止め、細い架け橋を渡って近付いてくる影を半ば呆然と見つめていた。
四つ足で駆けてくる姿はあまり大きくはない。頑張れば、多分この両腕で抱きかかえることも出来るだろう。背中の黒い毛並みが、陽の光に艶々と輝いている。今は幾分丸っこく、愛らしさの方が際立っているが、もっと成長したらきっととても美しい姿になるはずだ。
そんな獣が、リスティアーナの前で跳躍した。光が散って、黒い輪郭が大きく膨らむ。
そのまま人の姿に転じた桃は、素裸のままリスティアーナの胸に飛び込んできた。
「リスティアーナさん……っ、大丈夫、ですか……?」
「え、ええ……」
頷きながら、リスティアーナは眉をひそめた。
「どうやってここまで戻ってきたの?」
桃を閉じ込めたあの箱は、今頃王城に着くか着かないかといったところだろう。もし城に着いていたとしても、こんなに早く戻ってこられるはずがない。
「その、戻らなきゃって思ったら……気付いたら、ここにいたんです」
もしかして、と意識を向けると、確かに桃の体には魔法の気配が絡んでいた。転移術か、とリスティアーナは理解する。にわかには信じがたいことだったが、それ以外に考えられる可能性もない。
「あの……」
遠慮がちな呼びかけに、リスティアーナは我に返った。とりあえず自らの羽織を桃に巻き付けたものの、まだ確認したいことは残っていた。
「どうして戻ってこようとしたの」
それは疑問というよりは苦言だった。すべて片付いた後だからいいものの、折角待避させたのに勝手に戻られたのでは意味がない。
桃は気まずそうに俯いた。
「あの……リスティアーナさんを助けなきゃって……」
「わたしを助けに?」
何の冗談かと思ったが、どうやら桃は本気で言っているようだ。……おかげで、説教をする気もなくなってしまった。
リスティアーナは溜め息交じりに言った。
「……リティアでいいわ」
「え?」
「リスティアーナだと呼びづらいでしょ? だから、リティアでいいわよ」
「はい……リティアさん、あの……」
再び俯いた桃の頬を、光る滴が滑った。
「やだ、泣いてるの?」
どうして。何故。
リスティアーナは困惑しながら膝をつく。
伸ばした手で大きな瞳から溢れる涙を拭うが、桃は泣き止まない。
それは少女が初めて見せる強い感情の発露だった。
「どうして泣くの? 悪者はやっつけたわよ?」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい? 一体どうして……」
リスティアーナは言葉を切った。
いつの間にか、周囲が騒がしくなりつつあった。
城内へ続く架け橋の向こうに人々が集まっている。塔での騒ぎに気付いてやってきた衛兵たちだろう。
兵士たちはやってきたはいいものの、突然姿を現した塔に迂闊に近付くことを躊躇しているようだった。
城内の人間にあまり馴染みがないリスティアーナにとっては知らない顔ばかりだったが、その中に一人だけ見知った者が混じっていた。
彼は、困惑し、進みあぐねる兵たちを尻目に塔への橋を駆け渡る。その顔に焦燥はなかったが、いつもの白々しい笑みもなかった。
「……早かったわね。転移で戻ったの?」
「まあね」
アルスは短く答えて、身を屈めた。
「怪我は?」
「してないわ。桃は無事……だと思うのだけど」
見下ろす少女は未だ泣き続けている。
アルスもまた、そんな彼女に困惑しているようだった。
「一体何が?」
「……わたし、思い出したんです」
少女は泣きじゃくりながら、絞り出すような声で言った。
「お母さんは、もういないんです」
そして、桃はすべてを話した。
***
泣き疲れた様子の桃は、リスティアーナの膝の上で眠りについた。かすかな寝息は穏やかだったが、小さな体が熱かった。少し熱が出ているのかもしれない。
部屋の扉が静かに開いて、一時間半ぶりにアルスが室内に入ってきた。
机を挟んで正面のソファに腰を下ろす。
「とりあえずあの男は投獄されたよ。まだ満足に口も利けないようだから、尋問は明日からだって」
「少しやりすぎたかもしれないわね」
アルスはちらりと笑みを浮かべたが、それも一瞬の後に薄れて消えた。
「陛下にも明日話をすると伝えておいたよ。全然納得してないみたいだけどね」
それはそうだろう。王城の敷地内に賊が侵入したのだ。もっと大騒ぎになっていても何ら不思議ではないし、リスティアーナに対してもすぐに説明するよう求められるのが普通だろう。しかし、アルスはそこをどうにかして時間稼ぎをしてくれたらしい。随分骨を折ったに違いないが、幾分疲れた表情はけしてそれらの対応だけが原因とは思えなかった。
「そっちは? 塔の被害は把握出来たかい?」
問われて、リスティアーナは頷いた。
「上の方は悲惨だけど、地下の設備は問題ないわ。障壁も一応張り直したから、外向きには何も見えないはずよ。後々ちゃんと修理する必要はあるけれど」
ここもまた塔の地階部分、普段はまったく使っていない一室だ。かつての同居人の寝室だったのをそのまま残しておいたのだが、こんな形で役に立つとは思わなかった。長い間掃除していなかったため少々埃っぽいが、それくらいは我慢するしかないだろう。
「それより、こうなるともう桃のことも隠しておけないわね」
そう、問題は彼女のことだった。アルスは意識的にその話題を避けようとしているようだが、いつまでも触れずにいられることでもない。
「そうだね。だけど先に表明しておくと……」
アルスは手を伸ばし、眠る桃の頭を優しく撫でた。
「僕は彼女の味方になりたい。これから先、どんなことがあっても。……それが杏里に対しても唯一出来ることだと思うから」
「……そう」
先ほど桃から聞いた話が脳裏を過る。
彼女はずっと泣いていたから、すべてをちゃんと聞き取れたわけではないし、情報が不足しているところも多かった。後でもう一度話を聞く必要があるだろうが、それは同時に少女に残酷なことを強いるのに他ならず、今から気分が重くなった。
「……あの子の話を信じるのね?」
リスティアーナが確認すると、アルスは「君は?」と問い返してきた。
「信じるわ」
本当でなければいいという思いも捨てきれないが、それはあくまで感情の問題だ。
桃の語った言葉――彼女の母が病で死んだということは恐らく事実なのだろう。
それでも疑問は残っていたが、今すぐそれを一つずつ取り上げる気にはなれなかった。何よりリスティアーナ自身、今日はもう疲れ切っている。
だから今はとりあえず、桃の言葉を信じる、という方向性についてアルスと共有出来ればそれでよかった。
「……で、あなたの方はどうだったの? 誰かしら確保したんでしょ?」
アルスが城外の任務から急ぎここまで戻ってきたのは理解しているし、当の任務として収拾すべきだった事件がリスティアーナの予想通り仕組まれたものだったというのも確認した。
しかし、それ以上の詳しい話はまだ何も聞いていない。突っ込んだ話は後日するにしても、一応概要くらいは聞いておきたかった。
「あー……」
アルスは何故か気まずそうに頭を掻いている。
「まさか……逃がしたの?」
アルスは否定しない。
信じられない、とリスティアーナは天井を仰いだ。
「言い訳のしようもないよ」
「……何かあったの?」
この問いにもまたなかなか答えない。
だが、やがてアルスはのろのろと口を開いた。
「……犯人に吹っ飛ばされそうになってね。それは防いだんだけど、その時に『同じ死に方をさせてあげようと思ったのに』って言われたんだ。それでちょっと動揺して、ミスした」
「何それ」
束の間意味を捉えかねたが、少し考えて思い当たった。
「相手はしいちゃ……シトラスのことを知ってたってこと? それで嫌がらせにそんなことを言ったわけ?」
「分からない。ただ、見覚えのある顔じゃなかったな。考えられる可能性としては、それを知る人間が後ろについている、とかね」
そう話すアルスの声は暗い。上の空とまでは言わないが瞳はどこか遠くを見ていた。
(……まったく)
リスティアーナは溜め息を吐く。無駄に繊細な横顔は昔とまったく変わらない。以前の方が物静かだった分、まだ可愛げがあったのだが。
「あのねえ、だったらそんなクソ野郎は尚更捕まえてボコボコにしなきゃダメじゃない。何が動揺してミスした、よ」
「いや、向こうは女の子だったけど」
だったら何だというのだ。このポンコツは。
「女だろうが男だろうが関係ないわよ。敵に容赦する必要なんかこれっぽっちもないんだから。見え透いた精神攻撃でダメージ受けてる暇があったら、殺す気で仕返ししなさい、このバカ」
「……ほんと物騒だな、君は」
「あなたが不甲斐ないだけでしょ。それでも私の弟子なの?」
「いや、君を師匠だと思ったことはないけど」
アルスが笑う。まだ多少気落ちしているようだが、そこまで面倒見てやる義理はない。後は放っておこうと思っていると、
「リティア、その腕」
アルスの視線の先を追って自らの右腕を見ると、土埃に汚れた二の腕に大分悲惨な痣が出来ていた。
「いくら優秀な魔女でもコケることくらいはあるわ」
「……ごめん」
何のごめん、なのか分からない。いや、なんとなく分かる気もするのだが、別にこの男に謝らせたくてつけた痕ではない。
「気にしてないわよ。このくらいすぐに……」
言い終わる前にアルスが素早く立ち止まった。
「上から冷やすものを取ってくるよ」
「いいわよ」
「いいから」
アルスは頑なに首を振る。
「これ以上自分にがっかりしたくないしね」
エゴにまみれた理由だ。本人もそれを自覚しつつ、その言葉を差し出せばリスティアーナが黙ると思ったのだろう。
実際黙ってしまったのがなんとも腹立たしい。
「ついでミナベルにも連絡してくるよ」
そう言って上階に向かう背中を見送って、リスティアーナは視線を落とした。
「……ほんと、めんどくさい男ね」
膝の上に乗った桃の頭を撫でる。
少女はよく眠っていた。辛いことも、悲しいこともないように。
静寂の中、穏やかな寝顔を見ていると、彼女の告げた現実が胸の底にさざ波を立てるのを感じた。痛みというほど強くはないが、気分がゆっくりと暗いところへ沈んでいくような、そんな嫌な気分に囚われる。
恐らく、あの面倒な男はこれよりももっと強い苦痛を上階で感じているのだろう。
杏里。
桃の母親だというその女性が、もうこの世にいないという現実を前にして。




