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refrain  作者: 水幸
第十二章 落花
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第52話

 真っ暗な闇の中を、桃は漂っていた。


 不思議と怖くはない。

 温かくてほっとして、少しだけ眠たい。そんな気持ちだった。


――まるでお母さんと一緒に眠る時みたい。


 そう思った瞬間、ぱあっと目の前が明るくなった。真っ暗闇が、真っ白に変わる。あまりに明るすぎて何も見えなかったけれど、それでも、桃には分かった。


「おかあ、さん……」


 わたしの傍にお母さんがいる。


「桃」


 目には見えない優しい指が、頬をそっと包み込んだ。桃の心に薄く張った膜が、ほろり、ほろり、と溶けていく。怖くはない。もちろん痛くもないはず。なのに胸の内側がぎゅっとした。


「お母さん……?」


「ごめんね」


 優しくて寂しいその声が聞こえた瞬間、桃は思い出した。

 思い出したくなかった、ほんとうを。


 ***


 お母さんの右の目は眼帯で塞がっている。

 だけど「昔は右と左で違う色の目をしてたのよ」と前に教えてもらったことがある。あなたと同じだったのよ、と。

 どうして今はそうではないのと尋ねたら、お母さんは「大事なものを手に入れるために、同じくらい大事なものを手放さなきゃいけなかったの」と言っていた。

 その言葉は桃にはよく分からなかったし、お母さんとお揃いじゃないのは少し寂しくもあったけど、お母さんの茶色い左目は一つでもすごく綺麗で、大好きだった。

 そう、桃はお母さんのことが大好きだった。




 お母さん――杏里と桃は、あちこちを旅して生活していた。

 それがいつからなのか分からない程度には、桃にとっては昔からそういう暮らしが当たり前だった。


 行き着いた場所の過ごしやすさや、そこで暮らす住人たちの雰囲気によっては少し長めに滞在したり同じ町を二、三度訪れたりする場合もあったけれど、一所に定住することはなく、時が経てばまた新たな地へ向かうのが二人の常だった。


 しかし、毎回旅立つ前には必ず、杏里は桃に問いかけた。


「桃はここにいたい? もしそう思うなら、二人でここで暮らしましょう」


 桃の答えはいつも決まっていた。


「わたし、もっと色んなところに行きたい。色んなものを見てみたい。だから行こう、お母さん」


 桃は旅が好きだった。

 仲良くなった人々や見慣れた景色にさよならするのが寂しい時もあったけれど、新しい風景や新しい人たちとの出会いが好きだった。


 桃は父親を知らないし、母親以外の親戚というものに会ったこともない。桃の世界の中心にいるのはお母さんだけで、お母さん以外の人々は遠くにちりばめられた星々のようだった。

 でも、それでよかった。お母さんと旅を続けていられたら、それだけで。




 楽しくて幸せな日々。その頭上に分厚い雲が現れたのは、いつからだっただろう。


 ある日、買い物を終えて宿に戻ってきた杏里の顔がひどく真っ青になっていた。元々、母はたまに体調を崩して寝込むことがあったけれど、その時のそれは単に具合が悪いという様子ではなかった。

 杏里は留守番していた桃に向かって宣言した。


「行きましょう。ここを出るの」


 その日の内に桃と杏里は町を出た。顔なじみの人たちに挨拶することも新たな旅立ちの前に荷物を整理することもなく、ほとんど飛び出すような出立は桃にとって初めてのことだったが、それは、ただの始まりでしかなかった。


 それから二人はまるで逃げるように旅をすることになった。


 はじめのうちは何が起きたのか桃にはわけが分からなかったが、すぐにある人物の存在に気が付いた。


 二人の前に姿を見せるようになったのは、真っ黒な男だった。

 ある時は日中の街角で、ある時は深夜の宿の中で、彼は唐突に杏里たちの前に現れた。

 男が現れると、杏里はすぐに桃を離れた場所か別の部屋に下がらせるのが常だった。だから桃に二人のやりとりは分からない。ただ一つ確かなのは、母が男を歓迎していないということだった。


 男が現れる度に、杏里の顔は暗く強張った。声音も桃に話しかける時の優しげなものではなく、凍りついたように冷たいものだった。

 だから桃は、男がお母さんを困らせる魔物――この生活を脅かす敵であると認識した。




 また新しい町に着き、数日もしない内、いつも通り夜更けにあの男が現れた。

 杏里は男を連れて宿の外に出て行くと、そのままなかなか戻ってこなかった。

 不安になった桃がこっそり宿の裏口に回り込むと、庭の方から杏里の叫ぶような声が聞こえてきた。


 あの男がお母さんをいじめている!


 とうとう我慢出来なくなった桃は外へ飛び出した。

 伸びた草で荒れた庭に、杏里と男が向かい合って立っている。

 桃は、男に向かって出せる限りの大声で怒鳴った。


「お母さんを困らせないでください!」


 突然何かが弾けたように、桃の前に色とりどりの火花が散った。思わずびっくりしたけれど、恐怖はなかった。渦巻く力は、桃の――桃の怒りの味方だった。


 この力を使えば、きっと男を追い払うことも出来るはず。


 そう思って再び口を開きかけた時、


「やめなさい!」


 駆け寄り、桃の腕を掴んだ杏里が、初めて見る怖い顔で怒鳴った。途端、火花は消え失せる。桃は怒鳴られた衝撃から立ち直れず、ただただ杏里を見上げていた。

 そこへ、男の笑い声が響いた。


「いや、これはいよいよ面白いな。あいつにも報告して……いや、とっくに知ってるのか? まあ、どっちでもいいけどよ」


「……帰って」


 男は笑みを浮かべたまま、痩せた体をわずかに引いた。


「ま、今日のところはな。だが、手遅れにならない内に考えろよ。それがあんたのためでもあるんだから」


 そう言って、二人に背中を向け、歩きだす。庭の隅、暗がりの中に溶けるように、その姿が見えなくなった。


 不意に、杏里が激しい咳をしながらしゃがみこんだ。


「お母さん……!」


 屈んだ桃の体を、柔らかな腕が抱きしめる。大丈夫、と弱々しく囁いて、杏里は優しく微笑んだ。


「さっきは怒鳴ってごめんなさい。怖かったわよね?」


 桃はただただ首を振った。

 温かい手が頭をそっと撫でてくれる。


「でも、あの力は簡単に使ってはダメ。扱い方をきちんと知らないまま、使ってはいけないものなの」


「それなら、お母さんが教えてくれたら使っていいの?」


 杏里は微笑しながらもそれには答えず、まったく別のことを言った。


「ねえ桃、これからまた新しいところに行きましょう。今度の場所は王都アストリア、この国と同じ名前の、大陸の一番大きな都よ」


「アストリア?」


「そう、そこにお母さんの友達がいるの」


「友達? ククちゃんのこと?」


 母にククという女の子の友達がいることは知っていた。桃もあったことがあるらしいけれど、うんと小さな頃のことらしく、その時のことは思い出せない。ただ、前に届いた手紙を読んでもらったことは覚えていた。


 杏里は桃の問いに頷きながら、少し困ったような、悲しそうな、なんとも言えない顔をした。

 どうしてだろう。桃は少し考えて、尋ねた。


「お母さん、ククちゃんと喧嘩してるの?」


 これには杏里は「ううん」と首を振った。再び、桃の頭を撫でる。


「桃、よく聞いて。これから一緒に王都に向かうのよ。そこには絶対に辿り着かなきゃいけない。どんなことがあっても、絶対に。……たとえあたしが一緒に行けなくなったとしても」


「お母さん、一緒に行けないの?」


 嘘よ、とか。大丈夫よ、とか。桃はそういう答えを期待した。なのに、


「約束して。何があっても辿り着くって。桃だけでも必ず行くって。お願い」


「そんなのいや」


 嫌だ。無理だ。

 これまでお母さんと離れたことなんて一度もない。大きくなって昔よりはずっとお姉さんになれたと思うけれど、それでも、ひとりでなんかいられない。


「あなたはククたちのところに辿り着かなきゃいけないのよ、桃。それが、それだけが、あなたのためにあたしが示せることだから」


 そんな風に言われたって、わけが分からない。うん、なんて頷けるわけがない。けれど桃が何度首を振っても、しまいには嫌だと泣き叫んでも、杏里は聞き入れてくれなかった。


 翌日、桃は半ば引きずられるようにして、杏里と「アストリアの王都」を目指して旅立った。



 杏里の体調が悪くなったのは、それからすぐ――新たな旅路をいくらも進まない内だった。


 王都に向かうため、杏里と桃は街道沿いにある広い森を抜けることになった。森の中とは言っても、途中に村や里がいくつもあるので休む場所には困らないはず、と杏里は話したが、実際それが本当なのか確かめることは出来なかった。


 森に入ってから二日後、辿り着いた小さな村で宿を取ると、杏里はそのまま寝込んでしまった。


 宿の主人をはじめ村の人たちは皆親切で、突然やってきた旅人にも嫌な顔をすることなく、「疲れが出たんだろう」と言って杏里を介抱してくれたり、桃に食事を作ってくれたり、近くの町から医者を呼んだりしてくれた。


 けれど杏里は一向に回復しなかった。

 一日、一日と経つ内に寝ている時間が長くなり、起きていても高熱のせいで苦しげだった。桃はあまり傍にいさせてもらえず、宿の主人が用意してくれた別の部屋に遠ざけられることが多くなった。


 ひとりぼっちでいる時、桃はよく首から下げたペンダントを握りしめた。

 それは王都へ向けて出発することになった日、杏里からプレゼントされたものだった。銀の糸で編まれていて、きらきら光るオレンジ色の石が一つ、穴を開けて通してある。お守りだから外さないでと杏里は言っていたが、もちろん桃はそんなことなんてしない。

 ただ、不安な時にその石に触れていると、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。それが何故かは分からない。それでも桃はオレンジの石に祈った。お母さんが早くよくなりますように――ただ、それだけを。



 しかし、村に着いてから十日ほど経った頃。

 別室から杏里の元へ向かおうとしていた桃は、廊下の角で宿の主人と村人たちが声をひそめて話している声を耳にした。


「……らしい。本人がそう言ってたよ」


「だったらもう回復しないじゃないか?」


「これからどうするんだろう」


「お母さんのことですか?」


 村人たちは驚いて振り返り、誰も桃の疑問に答えることなくすぐにその場から立ち去ってしまった。


 桃は怖くなった。

 お母さんはどうなるの? 誰もその答えをくれなかった。お母さんを苦しめる病気がどういうものなのか、わたしには分からない。


 分かる人を連れてこなければいけない。


 桃は杏里の休む部屋に飛び込んだ。眠っているだろうと思ったけれど、杏里は目を覚ましていて、体を半分起こしてもいた。そんな様子は随分久しぶりのことだったけれど、具合が良くなったんだという期待を抱くことは出来なかった。杏里の顔は、これまで見たことがないほど真っ白だった。


「お母さん、大丈夫? あのね、わたし……」


 お医者さまを呼んでくるよ。お母さんを治せる人を探してくるから。そう伝えようと駆け寄った桃の手を取って、杏里は静かに視線を合わせた。


「よく聞いて、桃」


 母の目は、桃を通り越してどこか別の場所を見ているようだった。


「いい? あなたは王都に向かうの。ここからならそんなに遠くないし、町の人に送ってくれるように頼んだから心配しなくて大丈夫よ。都に着いたらククとアルス――二人に、会いに行くの。二人なら、きっとあなたの力になってくれる」


「お母さん、わたし……」


 嫌だと首を振ろうとしたが、それより早く、杏里の腕が桃の頭を抱きしめた。腕の力は苦しいほど強いのに、頬に触れる肌はどこまでも冷たかった。


「桃……」


 名を呼んだその後に続いた言葉は聞き取れなかった。腕に込められた力が失われ、傾いた体が桃に被さる。なんとか支えようとしたが、駄目だった。

 激しい物音を聞きつけて、宿の人々が慌てて駆けつける。

 何が起きたか、桃には分からなかった。

 分かりたくなかった。




 そこから、桃の記憶はバラバラだ。

 曇り空の下で影法師みたいに行き交う村の人たち。湿った風と掘り返される土の匂い。真っ赤な棺のささくれた側面。大人たちの低い声。自分の泣き声。叫び声。息苦しさ。涙の苦さ。お母さんの白い頬。長い睫。共同墓地、という誰かの言葉。眠っているお母さん。お母さん。お母さん。


 お母さん。




 気が付くと、桃は宿の部屋にいた。

 お母さんから離れて眠る部屋ではなく、お母さんの寝ていた部屋だ。ベッドの角に頭を乗せて、そのまま眠ってしまっていたらしい。


「桃、起きたのね」


 優しい声が桃を呼んだ。

 お母さんは部屋の入り口に立っていた。旅立つ時の大きな荷物を背負って、今すぐにでも出かけるような格好だ。


「お母さん、もう行くの?」


「ええ、行くわよ。桃が早く支度しないと先に行っちゃうかも」


「やだ!」


 桃は慌てて飛び起きる。机の上に置いた、自分の荷物を取る間も、お母さんは開いたドアの傍で桃を待っていてくれた。


 手を繋いで宿屋を出ると、外は暗かった。これまで夜に出発することはあまりなかったけれど、空には星々が賑やかに輝いていたし、何よりお母さんと一緒であればどこへ行くにも怖くなかった。


「これから王都に行くんだよね?」


 桃が確認すると、杏里はそうよ、と答えた。


「お友達に会いに行くの?」


「ええ」


 静かな村を横切って、桃と杏里は森に入った。

 夜の森は昼よりも空気が湿って重たい気がした。風が吹く度、頭の上や足元で草木がざわざわ音を立てる。フクロウの鳴き声に混じって、遠くから狼の遠吠えのような声が聞こえてきたが、やはり桃の胸に恐怖はなかった。

 お母さんの顔は暗闇に沈んで見えないけれど、繋いだ手は温かい。なんだか長い間、ひどく悲しくて恐ろしい夢を見ていた気がするけれど、それもきっともう終わり。


「待ちなさい!」


 突然大きな声がして、桃の肩に硬い指が食い込んだ。悲鳴を上げて振り返ると、大きな影が桃を見下ろしている。更に叫びそうになった桃はしかし、目の前にいるのが宿屋の主人だということに気が付いて、なんとか声を呑み込んだ。


「どこ行くんだい。こんなところを一人で歩いて、危ないじゃないか」


 なんだかおかしなことを言う人だ。


「一人じゃないです。お母さんと一緒に……」


 再び振り返った桃は、目を見開いた。お母さんがいない。さっきまで手を繋いでいたはずなのに。

 開いた指の間から温もりがさらさらと溶けてゆく。


「お母さん!」


 声を上げると、肩に置かれた手のひらに力が込められた。宿の人が何か言っている。でもよく聞こえない。どうでもいい。

 お母さんがいない。

 きっと先に行ってしまったんだ。王都――お友達のところに。

 早くお母さんを追いかけなくちゃ。


「離して!」


 両手をめちゃくちゃに振り回すと、肩を掴む手が離れた。そのまま桃は走りだす。追いかけてくる声は、すぐに遠くなった。


 ――。


 前も後ろも真っ暗だった。がさがさした葉っぱが頬や頭を好き勝手に撫で回し、尖った木の枝が腕や足を切りつける。踏み出した足の先が不意に何かに引っかかった。前に倒れる体を支えようと腕を伸ばしたが、手のひらに何も当たらない。

 悲鳴を上げる余裕もなく、体が投げ出され、闇の中で痛みの火花が弾け飛んだ。攪拌される意識の底で何かが駆け巡るような荒々しい物音が聞こえたが、それが自分が転がる音だとすぐには分からなかった。


「……っ」


 全身が痛い。息が苦しい。痛くて、痛くて、怖い。苦しい。

 目を開いても何も見えなかった。止まらない涙で頬が冷たい。口の中が泥臭い。けれど、動けないままじっとしていると、少しずつ、暗い世界に色々なものが浮き上がってきた。


(真っ暗、じゃない)


 暗いけれど、目の前には雑草が生い茂っていて、突然降ってきた桃に驚いた小さな虫たちがその合間を逃げ回っている。ここは、変わらず森の中だ。

 桃はゆっくり体を起こした。

 ずきずきする体にまだ涙は溢れたが、握った拳で拭いながら、辺りを見回してみる。

 桃のすぐ背後には、険しい斜面が黒々とした影になって続いていた。どうやらこの上の方から転がり落ちてしまったようだ。

 上るのは難しそうだが、周囲に他に道があるわけでもない。


(どうしよう……)


 不安に駆られた桃は無意識の内に首元に触れ、すぐに気が付いた。お母さんからもらったペンダントがない。

 慌ててその場にしゃがみこむ。呼吸さえ忘れたまま、地面に手をつき、湿った土と草以外の感触を探す。再び零れた涙が手の甲に落ちたその時、指先が覚えのある感触を捉えた。拾い上げて確かめる。


「……っ」


 間違いない。大切なお守りだ。紐は切れてしまっているけれど、きらきらした石はちゃんと付いている。よかった、と思わず呟いて、桃はペンダントを抱きしめた。


(お母さん……)


 本当は、お母さんに抱きしめてもらいたかった。だけど今、その姿はどこにも見えない。やっぱり、先に王都に行ってしまったのだろうか。


(わたしも追いかけなきゃ)


 早く、速く、お母さんに会いたい。お母さんに追いつきたい。風のように駆けることの出来る足が欲しい。この闇にも負けない、獣のような目が欲しい。


 祈りを込めた、その直後――ふっと体が軽くなるのを感じた。


「あれ……?」


 視界がいつの間にか明るくなっている……だけではない。見下ろす草が先ほどよりうんと近い。首を巡らせると、濃い土の匂いが鼻孔に流れ込んできた。

 困惑する桃の視界に黒い影が映る。それは、足だ。夜色の毛に覆われた獣の足。

 桃自身の足だった。


(わたし、また変身したの……?)


 人の姿ではなく、獣の姿に。

 その変化は初めてではなかった。でも、最後に変身したのは、ずっとずっと前のことだった。

 桃は獣の姿の自分が好きではなかった。だって、お母さんは変身しないから。お母さんには桃のような黒い耳も尻尾もなかった。お母さんは変身出来ないの、と初めて教えられた時、桃はとても悲しかった。

 どうしてわたしだけが獣の姿になるの? わたしは本当にお母さんの子供なの?

 そう尋ねた桃を杏里は強く抱きしめ、言った。当たり前でしょう、と。その言葉はあったかくて、やわらかくて、でも、ずっしりと重たかった。少しだけ、悲しそうでもあった。

 だから桃は自分がお母さんの子供ではないかもしれないなんて、そんなことを考えるのはやめにした。やめにしたけれど、獣の姿にはなるべくならないようにしようとも思った。それは特別難しいことではなくて、気付けば変身する感覚などすぐに忘れてしまった。そうしていつしか自分が変身出来ることすら、桃は忘れ去っていた。


 そんな獣の姿に、今、なっている。


 久しぶりの変化に嫌な気持ちは伴わなかった。この足でなら、森を駆けることが出来る。この目なら、夜を見通すことが出来る。今はその喜びの方が大きかったから。


 脱げ落ちた服に向かって頭を突っ込むと、なんとか首に絡まった。他の荷物は斜面を落ちた拍子にそこら中に散らばっていたが、放っておくしかないだろう。


 桃は地面を蹴って駆け出した。

 ぬかるんだ地面も、あちこちから飛び出した木の枝や岩も、もう桃の敵ではなかった。邪魔なものがあれば跳躍し、時には蹴散らし、ただただ前へと駆け抜ける。時々聞こえる不穏な獣の鳴き声も、けして桃に近付いてこようとはしなかった。どころか、こちらを避けるように遠ざかっていく。




 一人で走り続ける内、気付けば森を抜け、野原を越えて、いくつもの町を遠くに望んだが、桃は一度も足を止めなかった。


 朝も昼も夜もただただ駆け抜けて、とうとう彼方に巨大なお城が見えてきた。

 王都は、桃がこれまで目にしてきたどんな場所より大きな町だった。中の様子は高い塀によって見えないが、開かれた門からたくさんの馬車や人々が出入りしている。塀の内側、奥の方に聳えるたくさんの塔と、塔に囲まれた背の高い城が、まるで神様のように桃を見下ろしていた。


 あの場所が、アストリアの王都。お母さんのお友達が暮らす場所。


 ……でも、流石にこの姿で町に入ったらすれ違う人々にびっくりされてしまうだろうか。獣人は珍しい、というのもお母さんが教えてくれたことだった。

 獣の姿になるのも久しぶりなら元に戻るのも久しぶりだったが、変化はまったく難しいことではなかった。

 再び人の形を得た桃は、二本の足で歩き始めた。


 お母さんはどうしただろう。頭を巡るのはそればかり。これまでただただ王都に向かったと信じて追いかけてきたけれど、なんだか急に不安な気持ちになっていた。


 もし、お母さんがいなかったら?

 お母さんに会えなかったら、どうしよう。


 怖い想像を頭を振って払い落とす。お母さんはきっとこの町のどこかにいる。いるはずだ。でも、もしも――もしもいなかったら、その時はお母さんの言う通り、お母さんの友達に会って、困っていることを伝えよう。

 お母さんの友達なら、きっと助けてくれる。

 お母さんを見つけてくれるはずだから。

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