第5話
ククは夜道を歩いていた。
村の中心部から離れたその道には、クク以外の影はない。辺りは天頂から降り注ぐ月の光で足元まで明るかったが、夜風は随分冷たかった。
夜の散歩に目的はなかった。ただ、今日はルーナが幼馴染の家に泊まりに出掛けていったから、屋根裏部屋にはククには一人だけ。そう分かったら、急に外の風を浴びたくなったのだ。
(でも、ちょっと遠くまで来すぎたかな……)
気付けば、村の外れの方まで歩いてきてしまった。時間も日付が変わってから大分経つ。
流石にそろそろ戻った方がいいだろう。
そう思って踵を返しかけた時、ククは道端に人影を見つけた。
「クレスト……だよね?」
歩み寄るククの声に少年が振り返った。金色の瞳が月光を反射して、静かに鋭い光を放っている。
「えっと、わたしはククっていうんだけど……覚えてる?」
目の前の少年がこの村にやってきたのは三日ほど前だ。食堂で一度挨拶はしたが、きちんと会話をするのは初めてだった。
小さく頷いたクレストにほっとしつつ、ククは尋ねた。
「こんな時間に何してるの?」
「散歩だ」
短く答えて、クレストは空を仰いだ。ククもその視線を追う。
天に浮かぶ大きな月は、今日は少し橙がかって見えた。
「……明るいな」
思いがけず届いた優しい声に、ククは顔を戻した。
クレストはまだ月を見上げている。その口の端に、かすかな微笑みを乗せて。
「綺麗な月だね」
声をかけると、こちらに視線を移したクレストはもうすっかり元の無表情に戻っていた。なんだか勿体なかったかな、と内心で思いながら、ククは付け足した。
「それにしても、今日はちょっと珍しい色だよね。オレンジ色みたいな、金色みたいな……。クレストは、こういう色が好きなの? それとも、月が好き?」
「いや、別に。好きなものなど特にない」
あっさりした答えだったが、声音にはわずかに戸惑いが感じられた。だからククは思わず「何も?」と重ねて訊いてしまった。何も好きでない人なんているのだろうか。
「……お前は何が好きなのだ」
「わたし?」
ククは首を傾げた。改まって問われると意外と困る。だが、クレストは静かな瞳のまま、ククの答えを待っていた。まるでククの回答が自分にとって何か重大な意味を持つかのように。
だからククは一生懸命考えて、思いついた。
「……春人参のスープと、チョコマフィン」
クレストは何だというように眉根を寄せた。
「ガルベラさんとルーナさんがよく作ってくれるの。すごく美味しいから今度クレストにも分けてあげるね。それから村外れにあるお花畑とか森をちょっと行ったとこにある泉とか、お気に入りの場所も色々案内したいな」
この村にはククの好きなものがたくさんある。その内の一つでもいいから、クレストにも好きになってもらえたら、それはどんなに楽しいことだろう。
しかし、黙ったままククの顔を見ていたクレストは、やがて小さく一つ鼻を鳴らすとそのまま歩き出してしまった。
「クレスト?」
さっきの回答はあまり気に入ってもらえなかったのだろうか。慌てて追いかけようとすると、金色の瞳がこちらを振り返った。
「今日はもう行く。またな」
それはとても弱く分かりづらいものではあったけれど、クレストの瞳の底には頭上の月と同じ温かみのある色があった。
だから、ククは去っていく後ろ姿に大きく手を振った。
「うん、またね!」
その背はやっぱり振り返らない。
でも「大丈夫」だと思った。この人なら……クレストなら、きっとこの村を好きになってくれる――ククはそう思った。
思っていた。
……。
……ここは、どこ?
体を起こすと、振動が体中に響いた。何かに乗り上げたのか、ビロードを張った座席ががたがたと音を立てて揺れている。
投げ出されないよう壁に手をつき、ククはようやく自分が置かれている状況を思い出した。
ここはもう、テトラの村ではない。
ククの目の前、馬車のソファの対面には、少年――アルスが座っていた。人形のように整った顔は膝の上で開いた本へと向けられていて、ククが起き上がったことにはまったく関心がないようだ。
二人を乗せた馬車はアルスが手配してくれたものだったが、一体どこから借りてきたのか随分豪華な代物で、広い座席もククがつい眠ってしまう程度には快適なものだった。窓には薄いレースのカーテンが吊るされ、春の陽射しを柔らかく通している。
アルスと出会ったあの日。
つまり二日前のこと。
二人で町へ戻った直後、アルスは調べ物があるとだけ言って、いきなりどこかへ出かけてしまった。
それから待つこと丸一日。もしかして最初からわたしと行動を共にする気なんてなかったんじゃないだろうか。宿の一室でそうククが疑い始めた頃、アルスは出ていった時と同じように唐突に戻ってきて、言った。
「大体分かった。ここを出る」
何が? どこへ?
当然ククは質問したが、答えは与えられなかった。
そのままさっさと部屋を出ていくアルスを追いかけ、いつの間にか宿の前に止まっていた馬車に乗り込み――そして、今に至っている。
これからどこに向かうか、ククは全く把握していなかった。
(……うーん)
ククは改めてアルスの顔を見つめた。無表情で反応に乏しくて何を考えているのか分からないけれど、悪い人ではない……とは思う。少なくとも彼から明確な悪意や害意は感じなかった。
(そういえば、クレストはともかく、ディオもあんまり喋らなかったっけ)
鮮やかな紫色の髪と、不機嫌そうな顔を思い出す。彼はあれからどうしただろう。今頃別の町へ辿り着いているだろうか。
(元気にしてるといいな……)
息を吐き、顔を上げると、ちょうどアルスと目が合った。
その視線が外される前に、ククは急いで彼に尋ねた。
「アッ君。わたしたち、クレストに追いつけるよね」
アルスはかすかに眉根をひそめたが、すぐに元の感情の薄い顔に戻って言った。
「……あんたの追いかけようとしているクレストは、村祭りの夜に神剣を抜いた。それで間違いない?」
それはアルスと出会い、町へ戻った直後、彼に伝えていたことだ。改めて問われたククは頷いて、同じ説明を繰り返した。
「そう。……それで確か、期待とは違った……みたいなことを言って、森の中へ消えちゃったの」
「あの村の人間も、同じことを証言していた」
一瞬、意味が飲め込めなかった。
「……アッ君、もしかしてテトラの村へ行ったの?」
アルスはそうとも違うとも言わず、別の言葉を口にした。
「期待とは違う、とはどんな意味だと思う?」
「え? どんな意味って……」
混乱しつつ、ククは考える。
言われてみれば、クレストが残したその言葉についてきちんと考えたことはなかった。期待と違った、ということは、クレストは何かに期待をしていたということだろうか。
けれど、何に? あの神剣に?
「もしかして、クレストは何かを探してた……? それで、神剣を手に入れようとしたの?」
けれど、舞台の上で剣に触れ、クレストは気が付いた。それが彼の望んだものではなかったことに。だから、何の迷いもなく立ち去った。もう神剣にも村にも用がなかったから。
そういうことだろうか?
「……もしそうなら、クレストは何を探してるの?」
零れ落ちた言葉に、アルスは軽く首を傾げた。
「さあ。何か特定の物質なのか、それでなければ特別な力のようなものなのか。現時点で判断することは不可能だろうね」
また何か石にでも乗り上げたのか、馬車が軽くがたついた。
鬱陶しそうに溜息を吐いたアルスが、再び口を開く。
「何にせよ、クレスト自身がその探し物の詳細を把握していない可能性は高い」
「そっか。だからあの剣に触って初めて気が付いたんだ」
アルスは頷いた。
「クレストという男が漠然と何かを探しているのなら、目ぼしい情報に食いつく可能性は高い。だから、わざわざこちらから追いかけずとも、ただ餌を撒いて引き寄せればいい」
「餌を撒くって……もしかして、クレストが興味を持ちそうな情報とか噂を流すってこと?」
「そう」
アルスはあっさり肯定したが、そんなことが容易に出来るとは思えなかった。
たとえ嘘の情報を作ったとして、どうすればそれをクレストの耳にまで届けられるだろう。何せ、彼が今どこにいるのかさえ分からないのだ。
困惑するククに対して、アルスはあくまで冷静だった。
「当てならある」
「当て?」
「けれど、その前にやることもある」
「わっ!」
馬車がいきなり停車して、体勢を崩したククは座席から勢いよく転がり落ちた。
幸いラグを敷いた足元は柔らかく痛みを感じることはなかったが、起き上がろうとばたばたしている内に、アルスはククの体をまたいで先に車外へ出ていってしまった。
「ま、待って待って!」
やっとのことで起き上がり、ククも慌てて馬車を飛び出す。
途端、春の匂いに包まれた。
足元の大地は乾き、前方に向かってそれほど幅の広くない道が伸びている。道沿いに茶色い草で覆った不思議な様相の屋根の家がまばらに建っていて、更にその向こうには大小の山々が連なっているのが見て取れた。
規模からすると、町ではなく村だろうか。往来にはいくらかの人通りもあった。鮮やかな生地を重ね、腰に帯を結んだ独特の装束に身を包んだ彼らは、一様に不審げな表情をククたちに向けていた。視線が合うと慌てて目を逸らされるが、あちこちから密やかな声が聞こえてくる。
村人にも去っていく馬車にも目をくれず、アルスは迷いのない足取りで道の先へと歩いていく。
ククもその後を追って、隣に並んだ。
「アッ君、ここはどこ?」
当然のように答えはない。もう慣れっこだ。
人々の視線と囁き声を浴びながら進んでいくと、やがて前方に大きな屋敷が見えてきた。この地の住居の様式なのか、平屋の作りで高さはないが、それでも周囲の家屋とは明らかに一線を画した立派な構えの家だった。
その屋敷を囲む門の前に、一人の女性が立っていた。
歳は四十代くらいだろうか。まとめた髪は、花のように淡い桃色をしている。
女性は、到着したアルスに一礼した。
「お待ちしておりました、アルス様。桜花の里にようこそおいでくださいました。私は里長の白馬と申し……」
「面倒な挨拶をするつもりはない。さっさと案内を」
「は、はい」
露骨に鬱陶しそうな顔をするアルスに、白馬と名乗った女性は少し戸惑った顔をしながらも二人を門の内側へと導いた。
草木豊かな庭園を抜けた先に佇む屋敷の内部は、案の定随分と広かった。間仕切りの多い作りのようだが、板張りの廊下は長く、すべての部屋を数えたらかなりの数になるだろう。
だが、それにしても。
(静かだな……)
これだけ広い家なのに全く人の気配がない。他に誰もいないのか、薄暗い屋内には三人分の足音が響くばかりだ。
白馬は奥の一室の戸を開き、アルスとククを振り返った。
「今、お茶をお持ちします。申し訳ありませんが、この家には私以外の者がおらず……。滞在中はご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、」
「つまらないもてなしも要らない」
アルスが再び白馬の声を遮った。
「僕は仕事の話がしたいだけだ」
「そうですか……。それでは、こちらの方も……?」
白馬の視線がククへと注がれた。
間髪入れず、アルスが首を振る。
「これは無関係。別室を」
「分かりました。では、こちらに……」
これ、とか、無関係、とか。さらっとあんまりなことを言われた気がするが、ここでアルスに食い下がったところで徒労に終わる予感しかしなかった。
仕方なく、ククは白馬の案内に従い、更に奥の一室へと移動した。
「こちらでしばらくお待ちいただけますか? あまり使っていない客間で申し訳ないのですが。中の物はどうぞご自由にお使いください」
そう言い残して白馬も去り、ククは一人、しんとした室内に取り残される。
結局、ここがどこなのかもよく分からない。
どうしたものかと室内を見回すと、一角に小さな書棚を見つけた。近付き、中から数冊を手に取ると、恐らく客人用なのだろう、簡単な歴史書やこの地の文化についてまとめられた本ばかりだ。
どうせ他にすることもない。
その場に座り、ククは本を読み始めた。




