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refrain  作者: 水幸
第十一章 緩やかな目覚め
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第46話

 巨大な円卓が最たる存在感を放つ広い議場には、二十人ばかりの人間が着座していた。そのほとんどが男性で、年齢にはいくらかの開きがあるものの王城内での地位の高さを示すような上等な身なりの者が多かった。ずらりと並んだそれらの顔はどれも険しく、いかにも剣呑な空気がその場を支配しきっている。


「クク、君に十日間の自宅謹慎を命じる」


 緋色のカーテンを閉め切った窓側の席から重々しい声が響き、束の間室内がざわめいた。それらの声が静まるのを待って、末席のククは顔を上げる。


「承知しました」


 横柄な返答にも正面に座る君主――アストリアの表情は変わらなかったが、すぐにどこかからわざとらしい咳払いが発せられた。


「恐れながら陛下、それでは処分が軽すぎるのでは? 彼女の軽率な行動によって、都で混乱が起きたのですよ?」


 抗議の声を発したのは、王都の警備部長官だった。


「そうです、陛下。この大切な時期に不要な混乱をもたらしたこと、厳罰に処するべきです」


「王都追放も免れないのではありませんか?」


 内政への影響力も強い古参の言葉に追従して、あちこちから同意や扇動の声が上がる。

 皆、この城内で重職を担っている者たちばかりだ。

 本来であれば、同席者にアルスが含まれていても何らおかしくはなかったが、今、室内にその姿は見当たらなかった。アルス本人の希望からか、他者の力が働いたのかは分からない。アルスと同じ立場である他の五勇の者たちもここにはいなかった。


 兄はもとい、この場にいる誰よりも権力や責任とは無縁のところにいるククは、飛び交う雑言に反応せず、ただ黙って座っていた。この場で何か言ったところで火に油を注ぐだけだろうし、そんな面倒を引き起こしてまで守りたいものも別にない。処罰が重くなるならなるで構わないので、とりあえず、さっさとこの状況から解放してほしかった。


 方々から訴えられているアストリアは黙したままククを見つめていたが、やがてゆっくりと室内を見回した。

 雑音が引き波のように消え失せて、代わりに期待や緊張の入り交じった奇妙な沈黙が訪れた。


「確かに、町での爆発騒ぎは私も重く捉えている」


 低くよく通るが、その実あまり温度を感じさせない声だった。

 その響きと同じくらい感情の薄い瞳で、アストリアは再び視線を巡らせる。


「当事者が速やかに事態を召集出来なかったことも問題ではあるだろう。だが、この騒ぎに際して懐に爆薬を抱えていたのはククではない。では、城下の警備責任者か?」


「それは……」


 警備部長が呻くような声を上げた。


「勿論、それも違う」

 アストリアは冷ややかな微笑を唇に乗せた。

「本来罰せられるべき者はその命でもって贖った。身柄を確保出来ずに沈黙を選ばれたのは少々痛いが、今どうこう言っても仕方あるまい。皆の言い分は色々あるだろうが、今回のククへの処分は適当なものであると私は考えている。……私からは以上だが、他に何か意見はあるか?」


 言葉を発する者はない。


「では、解散としよう」


 立ち上がったアストリアは一切の躊躇を見せず、奥の豪奢な扉から会議場を出ていった。

 彼が室内に入ってきてからまださほど時間は経っていなかったが、そもそも王がこんな些事にかまけること自体が不自然と言えば不自然だった。それもまた、何の組織にも属さず、それでいて中途半端に厚遇を受けているククの立場の微妙さゆえのことである。


 王が去った後、室内に残された人々の反応は様々だった。

 呆れた表情を隠さない者、険のある目つきでククを睨む者、近くの仲間と囁き合う者。たとえ反応は違っても、彼らから発せられる批判的な空気は共通していた。

 ククは、それらすべてを無視して席を立った。

 室内を横断し、議場と廊下を繋ぐ扉から退室しようとすると、目の前に痩身の男が立ち塞がった。相手の顔に見覚えはあったが、どこの誰かは思い出せない。相手が何者にせよククに好意的な感情を抱いていないのは確実だった。


「兄妹揃って陛下の信が厚いですな。なんとも羨ましい」


(……やっぱり)


 同じような文句をもう何度他人から聞いてきたことか。


「……どいてください。でなければ、お互いに嫌な思いをするだけですよ」


 男を見上げてなるべく低い声を出すと、途端に相手の目に怯えが走った。周囲の者たちも男に加勢するでもなく、ただただ二人を遠巻きにしている。

 これもまた、飽き飽きしている反応だった。

 怯えるくらいなら最初から構ってこなければいいものを。


「抗議していただいても、わたしにこの処分を訂正する権限はありません。では」


「……っ!」


 遠慮なく踏み出したククに男が大きくのけぞった。

 もう誰も何も言わない。

 代わりにぶつけられる賑やかな感情の「声」は無視した。




 一応謹慎を命じられた手前、そのまま真っ直ぐ自宅に帰ると、玄関に入るや否やミナベルが待ちかねたように飛び出してきた。


「クク様、大丈夫でしたか?」


「うん」


 案じる声に頷いて、ククは上着を脱いだ。


「十日の謹慎で済んだよ」


「そんな……」


 朗報のつもりだったのだが、ミナベルは衝撃を受けたように息を呑んでいる。ククは思わず苦笑した。


「と言っても、特に監視がつくわけでもなさそうだし、随分甘い処分じゃないかな。お城の仕事を手伝わなくていい分、実際はただの休暇みたいなものだよ」


 ミナベルはそれでもまだ納得のいかない顔だった。


「そもそもクク様は別に悪いことなどしてませんのに……」


 擁護してくれるのは有り難いが、それに関しては微妙なところだった。

 確かに城下で爆発騒ぎを起こした犯人はククではない。が、その結果を招いたのはククである。


 裏路地で少女を襲おうとしていたあの男たち。

 彼らが何者だったのか、その目的が何だったのか、あれから二日経った今も結局分からないままだった。警備部の人々が調査をしているということだが、襲われた少女自身に心当たりがなく、彼らが細切れの死体になってしまった以上、恐らく詳細を掴むのは難しいだろう。

 そんな状況に加えて路地や付近の家屋に物理的な被害も出ている以上、犯人でなくとも関係者ではあるククが、何も分かりません責任も取りませんで済まされないのは仕方のないことだった。


 不審者を速やかに、かつ生かしたまま制圧出来なかったことへの叱責やこの謹慎処分に、クク自身は別段異を唱える気はないし、先ほど口にしたように、甘い、どころか甘すぎる処罰だとすら思っていた。

 それに、


「いいこともあったよ」


「いいこと、ですか?」


「これで桃ちゃんの騒ぎが有耶無耶になったでしょ?」


「まあ、それはそうかもしれませんが……」


 そう、町では爆発事件の前日に別の事件も起きている。

 桃が起こした騒動だ。両者とも未だ謎に包まれているという点では同じだが、今回の事件によって桃の件は完全に塗り潰されたものと思って問題ないだろう。

 アルスが先んじて手を打ったこともあり、少女の存在は未だ王の耳にも届いていないようだった。

 いつまでも秘密裏に彼女を保護し続けられるわけではないだろうが、当面は心配要らなそうだ。


「それより、少し気になってるんだけど……」


 自宅にもう一つ人の気配があることには、帰宅と同時に気付いていた。相変わらず妙に掴みどころのない存在感ではあるが誰のものなのかくらいはすぐ分かる。


「桃ちゃんが来てるの?」


 まさに今、話題にしている少女である。

 二日前にアルスが魔女の塔に連れていって以来、ククは彼女と顔を合わせていなかった。


「ええ。こちらで簡単な健康診断と検査を受けていただきました。その間はアルス様もいらっしゃったのですが、お仕事で出られてしまったので、後でわたくしが塔にお連れいたします。今は奥のお部屋にいらっしゃいますよ」


「そっか……」


 あまり気は進まないが、ここで無視をするのもおかしいだろう。

 ククはその場にミナベルを残して、桃がいるという来客用の個室に向かった。

 扉に触れる前に、頬に手を当てて微笑んでみる。


 大丈夫、不自然なところはない。……多分だけど。


「桃ちゃん、こんにちは。来てたんだね」


 ノックをしてから部屋に入ると、桃は窓の傍らに立っていた。庭の景色を眺めていたのだろうか。


「こんにちは。えっと、お邪魔してます」


 二日ぶりだねと微笑みながら、ククは改めて目の前の少女を観察した。


 色違いの瞳や鮮やかな桃色の髪、長い睫など、桃の姿には母親である杏里と似ている要素がいくつも含まれている。当然のことだ。しかし、こうして向かい合い続けていると、どうしても「そうではない」部分の方に意識がいってしまいそうになる。

 たとえば、右目の明るい緑色、頭上で揺れる三角の耳……それに、どこか弱気な表情も。


(……今考えるのはやめにしよう)


 無理やり感情を押しのけてローテーブルを囲むソファの一方に腰掛けると、桃も躊躇いながら正面の席に腰を下ろした。

 きっと、何かククから話があると思ったのだろう。

 実際ククも何かしら桃と会話しよう……否、会話すべきだとは思っていたが、別にこれといって話題があるわけではなかった。とりあえず座ってみれば口が滑らかに動き出すかと思ったが、どうやらそんなこともない。

 となると必然、二人の間に沈黙が落ちた。


 気詰まりな空気に耐えかねて、ククは必死に言葉を探した。


「あの、えっと……あの塔で不自由はしてないかな?」


 天気の話題よりはまし、と思ったものの。


「はい、大丈夫です」


 他人行儀な問いに他人行儀な反応が返ってくるのは当然だ。

 なんとなくの義務感で他人と関わろうとした自分の軽率さを悔やみつつ、ククはなおも足掻こうとした。


「もし何か困ったことがあったら兄さんに言ってね。色々適当な人に見えるかもしれないけど……桃ちゃんのことは気にかけてると思うから」


「はい、ありがとうございます。……あの」


「ん? なあに?」


「……大丈夫ですか?」


 ククは瞬いた。


「どうして?」


「その……ごめんなさい」

 桃はおろおろと視線を彷徨わせた。

「分からないんですけど……でも、不安そうに見えたので……」


「不安そう? わたしが?」


 桃の感情が伝播したように、ククもまた混乱した。


 わたしは不安なのだろうか?


 室内灯の明るさが白々しく感じるほど、二人の間には距離があった。

 しかしふと、その果てしない隔たりを跨いで桃の表情に労るような色が宿った。テーブル越しに差し伸べられた小さな右手が、ククの膝の上――揃えた手の甲にわずかに触れる。


 途端、ククの内側で閃光が弾け、何かが激しく蠢いた。


「……ッ!」


 心の底を切り裂いて、正体不明の感情が凄まじい質量で溢れ出す。その暗い澱はククの輪郭を塗り潰し、何か別のものへ作り変えようとしていた。

 一度転じてしまえばもう後戻り出来ない、恐ろしくおぞましい何かに。


「やめて!」


 響いた悲鳴は、他人のもののようだった。

 立ち上がったククは呆然と桃を見下ろした。

 桃も、ひどく驚いた顔でククを見ていた。


 しばらくして、ククはようやく少女の手を振り払った事実を自覚した。


「あ、ごめんね……! 大丈夫!? 」


 慌てて問うと、桃は強く首を振った。


「いえ、わたしこそごめんなさい……」


「ううん。急にごめんね……」


 謝りつつ、動揺は消えない。

 今のは一体何なのか。

 あの黒い本流。あれに足を取られれば、どこまでも深く戻れない暗闇に引きずり込まれるような予感があった。

 強い不安を感じた。嫌悪感もあった。


 けれどもっと単純に、ククはただただ恐怖していた。


「さっきは本当にごめんね、ちょっとびっくりしちゃって……」


 それだけ伝えるのがようやくで、うまく笑えていたかどうかまでは分からなかった。

 今はとにかく逃げなくては。そう思った。


「わたし、用事があるからもう行くね」


 ククはろくに桃の顔を見ないまま立ち上がり、踵を返した。桃の声が聞こえたような気がしたが構わずそのまま廊下に出て、邸の奥へと足早に進む。最後はほとんど駆け足で自室に飛び込み、後ろ手に扉を閉ざした途端、膝からどっと力が抜けた。


 ククは、ずるずるとその場に座り込んだ。

 前後を見失うほどの恐怖は徐々に薄れつつあったが、完全に自分を取り戻せるほどの安堵はまだ訪れていなかった。

 何が起きたのか。いや、何が起きているのか。まるで何も分からないが、ただ確実に何かが起きていることだけは感じられた。

 それも、恐らくクク自身からそう遠くない場所で。


 ***


 子供たちの声で賑やかな敷地には、今日も穏やかな日差しが注ぎ込んでいた。

 城内の一角に間借りした小さな施設ではあるが、塔から離れているため、その影に覆われることもなく、この辺りは日当たりがいい。よく手入れされた生け垣も鮮やかな緑を滴らせていた。


 アルスは門を潜り、目の前の建物の中に入った。

 途端、子供たちの笑い声が一気に大きくなった。


「あ、アルスさま!」


 ロビーを走り回っていた子供の一人がアルスに気付き、他の子供たちと一緒に駆け寄ってきた。

 一番大きな子で十歳、小さな子で五歳だったか。

 こんにちは、と挨拶すると、こちらの何倍も大きな返事が戻ってきた。


「みんなで何してたんだい?」


「騎士さまごっこだよ。今はないらんってやつで、味方どうしでたたかってるんだ」


「すごい遊び方だな」

 内心苦笑しつつ、アルスは目の前の頭を撫でた。

「でも、ここは滑りやすいから気を付けて。よく晴れてるから、庭で遊ぶのも楽しいと思うよ」


「うん、わかったー」


 素直な子供たちは早速中庭に繋がる扉へ駆けていく。

 年齢も、勿論見目もばらばらの彼らだが、その中のリーダー格の少年の手足にはアルスが自らの体に持つものと同じ、黒い痣が刻まれていた。また、皆の手首には魔力を抑制する腕輪型の装置がつけられている。


 彼らの後ろ姿から視線を外して、アルスは廊下に並ぶドアの一つへ向かった。


 中に入ると、声を掛けるより早く奥の暗がりからマグカップを両手に持った男が現れた。

 小柄で痩せた老人だが、その目には若々しい輝きが灯り、背筋もしゃんとしている。白い髪と口髭は丁寧に整えられていた。


 老人は書棚の傍らのテーブルに手にしたカップを静かに置いた。中身は紅茶らしい。ゆらゆらと立ち上る湯気と一緒に、蜂蜜の甘い匂いがした。


「そろそろ注意しようかと思ってたのですが、アルス様が来てくださって助かりました」


 男は苦笑して、テーブルを挟んだ二脚の椅子の一方に腰掛ける。

 アルスも対面に腰掛けながら、頭を下げた。


「すみません、先生。事前に連絡もせず」


「いつでも来ていただいて構いませんよ。それに先生はやめてください。その名で呼ばれるべきはむしろあなたの方でしょう」


 老人はますます苦笑を強めた。

 前言を撤回する意思はなかったが、アルスは話を逸らした。


「最近は問題ないですか? 何か不便なことや足りないものがあれば仰ってください」


「大丈夫ですよ。おかげで毎日平和です」


「なら良かったです」


 アルスは安堵し、カップを手に取った。

 一口含むと、やはり甘い。というより想定以上に更に甘い。喜ばしいことではあったが、目の前の相手に味覚の好みについて話をした覚えはなかったから、単純に老人の趣味なのかもしれない。魔術師は大体甘党である、というのはアルスの持論だったが。


「アルス様、何度も言うようですが、私は感謝していますよ」


 老人――魔術師塔の元主任魔術師、ロールール。

 現在アルスが収まる席にかつて座っていた彼は、穏やかな表情で言った。


「あの場所は老いた私には忙しすぎた。ここも賑やかではありますが、我の強い魔術師たちを束ねることに比べれば子供相手の方がはるかに容易い。……まあ、あなたは上司を追い出した不忠の部下としてなじられるかもしれませんが、それはそれでなんとかしていただければと」


 最後の言葉は彼なりの冗談であり気遣いなのだろう。なんとかします、とアルスは笑った。

 これ以上それぞれの立場にこだわっていてもお互いのためにならなさそうだと察して、こちらも本題に入ることにした。


「上の階の子供たちはどうしてますか?」


「順調です」

 ロールールはすぐ頷いた。

「痣も大分薄くなりましたし、ほぼ消えている子もいます。一応まだ外出は控えさせていますが、この通り大騒ぎです」


 ロールールが片手を掲げると、中空に光の枠が浮かんだ。

 枠の中にはホールのような室内の景色が映し出されている。すぐ上の階の遊び場だ。

 部屋の中では背の高い大人が一人と、三人の子供が駆け回って遊んでいる。いや、駆け回る子供たちを大人が必死で追いかけている、と表現した方が正しいだろうか。

 映される子供の手足に変わったところは見られない。かつて彼らに刻まれていた黒い痣も、確認出来ない。

 ロールールの言葉から考えるに、実際近くで目にすればまだその痕跡は確かめられるのだろうが、元々の彼らから比べれば劇的な変化が起きていることには変わりない。


「とりあえず成功かな。術後の経過は……」


「こちらが資料です」


 アルスは差し出された紙束を礼を言って受け取った。取り急ぎ必要な数値を拾って確認する。

 今のところ、大きな問題はなさそうだ。

 とりあえずほっとしつつ、アルスは持ってきた荷物から別の冊子を取り出した。


「こっちは僕の結果です。まあ報告まで」


 中身を確認するロールールの顔が曇った。


「……芳しくないですな」


「まあ、想定内です」

 アルスはこれといった感情を乗せずに言った。

「やはりある程度の段階を超えると治療の効果はほぼないと考えていいかと」


「事を急ぐのは不安ですが……悠長にしている時間はない、ということですな」


「ええ。君は大人だから間に合いませんでしたなんて言い訳を、僕はあの子たちにしたくないですから」


「……私もです。未来を担う者の助けになれないのであれば、この城の魔術師である意味もないでしょう」


 少し空気の沈んだ室内。沈黙する二人の間に軽やかな笑い声が届く。庭で遊んでいる子供たちのものだろう。

 彼らのほとんどは孤児だが、中には家族の希望で一時的に預けられている子供もいた。アルスと同じ黒い痣を持つ子供たちもいるが、そうではない子供もいる。

 この場所が様々な事情を持つ子供たちの保護施設、というのは建前ではなく実態である。

 だが、同時に黒い痣、イサキ病に対する治療所も兼ねている、というのもまた事実であった。


 イサキ病――その宿主を蝕む黒い痣が、他者の魔力を投与することによって消失あるいは緩和するのではないか。それがアルスの掲げる仮説だった。

 その根拠は自分である。

 七年前よりアルスの体にはある変化が起きていた。シトラスに命を救われた結果、右半身に広がっていた痣の一部が消えたのだ。とはいえ既に体の多くを蝕まれていることに変わりはなかったが、独自で研究を進めた結果、ここ数年でその仮説に対する裏付けもいくつか取れた。

 そこで一年前、アルスはいよいよこの課題を公的なものにしようと王城で頭の固い連中相手に話をしたが、彼らは自分たちに関係のない病など知ったことではないと言わんばかりで、王さえも今はその時ではないとアルスの言葉を退けた。要は、自分の祝典の方が大事だということらしい。その感情も分からないではなかったし、食い下がる行為の無益さは明らかだったため、アルスは公的な援助を一旦諦めた。


 諦めて、勝手に建てたのがこの施設だ。


 しかし治療法はまだ模索段階で、子供たちに対して行うのは治療というより治験に近い。危険性は極力排しているものの、彼らを研究材料として利用しているのは確かだ。

 そして、今日もまたアルスの脳裏には七年前の記憶が過ぎる。

 神を自称した男。その男の出自。リバリティの地下に眠る、研究施設。かつてそこにいた連中と自分を隔てるものがあるのか、という疑問。そして彼女の――。


「アルス様?」


「……ああ、すみません」


 ロールールの訝しげな声にアルスは首を振った。残った紅茶を飲み干して立ち上がる。


「上の子供たちを確認してから戻ります。明後日もまたこの時間に」


「色々お忙しいのでは? あまりご無理はなさらずに……」


「ありがとうございます」


 ロールールの気遣いは嬉しかったが、どれもこれも自分の勝手で始めたことだ。それに、まだ足りない。まだまだずっと届かない。

 あの人に誇れる自分には。



 用事を終えて外に出ると、中庭の方から子供たちの声が聞こえてきた。その明るさに救われそうになる前に、アルスは城に向かって歩き出す。


(ククはどうしたかな)


 あえて意識から外していた懸念が蘇り、歩みを止めないまま溜め息を吐いた。

 先日の騒動を受け、ククへの処遇を決める会議もそろそろ終わっている頃だろう。

 議会の席に参加することを選ばなかったのはアルス自身の意思だった。念のため内通者は入れてあるが、その者にもククに謹慎以上の処分が下らない限りは口を挟むなと言い含めてある。

 アルス自身が同席しなかったのは、身内が顔を並べることでククへの風当たりがより強くなるのを懸念したからではあるが、けしてそれだけがすべてではなかった。


 アルスはククへ謹慎処分が下るのを望んでいた。

 今のククは不安定だ。

 ミナベルが指摘した通り、桃と接した時の様子がおかしかったのもそうだ。だが、彼女の変化そのものは昨日今日始まったわけではない。少なくとも、アルスはその予兆に随分前から気付いていた。

 ただ、クク本人にその自覚があるかどうか分からない。問い詰めるわけにもいかなかった。

 彼女の意思や決定を可能な限り尊重したいとは思っているが、今、あの状態のククにイレギュラーな人物を近づけたり、イレギュラーな行動を取らせるのは正直気が進まなかった。もっと正確に言えば、不安だった。

 だから、謹慎処分が下りてククが大人しくしていてくれるならそれでいい。

 そう思っていたのだが――なんだか嫌な予感がした。



 施設から魔術師塔に戻って半日、仕事を終わらせて自宅に戻ると、浮かない顔のミナベルがアルスを出迎えた。


「変わりはなかった?」


 あるんだろうなと思いつつ尋ねると、


「その、クク様の様子が少しおかしくて……」


「体調が悪い?」


「いえ、そういうわけではないらしいのですが……桃様と少しお話をされてから部屋に閉じこもられてしまって。お呼びしても出てこられません」


(……しまったな)


 アルスは内心舌打ちした。

 迂闊だった。今日、桃とククがタイミング的に入れ違いになるのでは、という危惧を感じつつ、アルスはミナベルに桃を任せた。

 多少会話するくらいなら問題はないだろうとも思ったし、それ以上にククが桃に関わろうとしないだろうと高をくくっている部分もあった。


 気を付けているつもりで、心配しているつもりで、自分はどこか事態を楽観視していたのかもしれない。


「……ククは何か言っていた?」


「疲れたから放っておいて、と。アルス様にもそう伝えてほしいとのことでした」


「……そう」


 彼女がそうやってこちらと距離を取ろうとするということは――その理性があるということは、まだ事態はそこまで深刻なものではないのかもしれない。

 懸念を抱きつつ、アルスはわずかに安堵した。

 ただ、それも長くは続かなかった。

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