第45話
目覚める間際は、いつも雨の音がする。
どれだけ世界の時が進み、人々が歴史を重ねようとも、お前は永遠にあの時間から動けないのだと言い聞かせるような、彼女が滅んだ朝の雨音。呪いの歌声。
だが、それもやがて消える。
少し前から瞼を開いている自覚はあったが、視界は暗いままだった。これもいつものことではある。意識と共に休眠していた視覚も少し待てば機能を取り戻すはず――だったが、しかし、いつまで待ってもその兆候は現れなかった。
ディオンは虫食いだらけの記憶を辿って、そういえばここは薄暗い虚の中だと思い出した。
のろのろと体を起こすと頭が天井を掠めた。随分狭い場所に潜り込んだものだと我ながら呆れつつ、手探りで探り当てた荷物を手に、わずかに光の差し込む方へと這い出した。
冷たい外気が肌に触れる。肺が新鮮な空気を求めて、自然と呼吸が深くなる。
日中のようだが、周囲は木々が生い茂りそれほど明るくはなかった。足元には雑草が密集している。少々肌寒いが、真冬ではなさそうだ。
「あー……」
覚醒時の習慣に従い、軽く声を出してみる。取り戻したばかりの自分の輪郭を肉体を使って確かめるためだ。
(問題なし、か)
それはそれで虚しいことだが、まあいい。
とりあえず体に変調らしい変調は見られなかったが、頭はまだ半分眠っているのか、いまいち動きが悪かった。眠りにつく前の記憶も、まだほとんど戻らない。
仕方がないので、そのまま歩き出す。
(近くに村でもあるといいんだが)
この感覚だと数年間は眠っていただろうか。
記憶は欠けているものの、自分が何者であるかまでは見失ってはいないところを考えると、長くて十年くらいの睡眠だろう。とにかく、どこか落ち着ける場所で「ヒト」として休息を取れば、もう少し色々思い出すはずだ。
「……あ?」
ディオンは立ち止まった。
一瞬気のせいかと思ったが、そうではない。
どこからか歌声が聞こえてくる。
声は一人のものではなく、幾重にも重なり合っていた。厳かで暗く、けして楽しげなものではないが、人がいることは間違いない。
歌声の聞こえる方へ細かい枝や湿った草を踏みながらしばらく歩くと、不意に木立が途切れ、小さな建物の群れが現れた。
村、だろうか。しかしどこか急拵えというか、妙な印象を受けた。家々の間には切り株が点々と残り、あちこちにろくに加工もされていない木材が摘まれている。地面には道らしい道もなく、そこで生きる人々の暮らしがまったく染みついていなかった。
歌は正面の建物から聞こえてくる。周囲に並ぶ家屋と比べれば一回り大きい木造の建築物だが、まだ真新しく、何より作りが粗っぽい。全体的にあまり手がかけられていないようで、この自然に囲まれた土地に据えるにはあまりに無防備すぎるように見えた。
ディオンは腰に履いた長剣を意識しながら、建物の裏手に回り込んだ。灰色に曇った窓を覗き込むと、薄暗い室内で人々が輪になって何かを囲んでいるのが見えた。
(あれは……)
彼らが囲んでいるのは、簡素な空間に似つかわしくない精巧な人型の彫像だった。その姿にはどこか見覚えがある。
「どうだ、よく出来てるだろ? 折角プレゼントしてやったのに、あいつは全然気に入ってないみたいだけどな」
ディオンは思わず息を詰めた。
すぐ隣に、黒塚が壁に体を預けて立っていた。
「おいおい、随分鈍いな。寝起きか?」
「黒塚。どうしてここに……」
ディオンは言いさして、再び室内を確認した。窓ガラスは薄く、自分たちの声が聞こえていてもおかしくはなさそうだが、屋内の人々はこちらにまったく目を向けることなく、相変わらず彫像を囲んで歌っている。
「……お前がここに用意したのか。俺の近くに、わざと」
「偶然だ、偶然」
黒塚はにやにやと笑っている。無論、その言葉を信用出来るはずなどない。
「今度は何のつもりだ」
「あれは宗教ごっこだよ。人生に絶望し、傀儡になりたいって人間がこんなにいるなんて、まったくこの世は馬鹿げたもんだ。奴らがあまりに哀れだから、ちょっとしたパーティーをさせてみたんだ。退屈だし神様受けも悪いから、もうじきやめるがな。……って、まあディオンちゃんには俺の崇高な退屈しのぎなんて分からないか」
「お前は一体……」
ディオンは長剣の柄にかける手に力を込めた。
黒塚からは依然殺気も殺意も感じない。だが、油断はまったく出来なかった。
「一緒に来ないか、ディオン」
黒塚は突然、そんなことを言い出した。
「……どこへ?」
「なに、悪いようにはしないさ。お前がそう望むなら悪事に手を染める必要もない。ただ、神様の隣で終わりを眺めていればそれで済む話だ」
「神……」
ディオンの頭に室内の彫像が過った。名前は思い出せない。彼がかつて何をしようとしていたのかも、どんなやりとりをしたのかも、記憶は未だ大部分が千切れたままだ。
だが、一つだけ確信があった。
「あいつは死んだはずだ」
その最期の姿さえ曖昧であっても、あの彫像の男の「死の事実」だけは記憶の表面に刻まれていた。
あいつは確かに死んだ。決着はついた。そうでなければ、ディオン自身安穏と眠っているわけがない。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。死ってやつがいかにいい加減なものか、お前は十分理解してるだろ? ってことで、もう一度だけ言うぞ。ディオン、俺と一緒に来い。……これは冗談でも悪意でもないからな」
こちらに向けられた顔はもう笑っていなかった。どこまでも深い闇を湛えた瞳がディオンを見つめていたが、そこにも常の嘲りは見当たらない。黒塚は本気だった。
「俺は……」
こいつに従うべきなのかもしれない。そんな思いが頭を掠める。この身に宿る不死の呪いとは無縁の世界、無縁の人々に構って無意味な執着を抱くより、黒塚の言う通り他人に運命を任せてこれから起きることを傍観している方が楽だろう、と。
しかし――ディオ、と短く名を呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。
間延びした、気が抜けるような少女の声だ。名前も顔も思い出せない。けれど、何か約束をしていた、気がする。
「黒塚……俺は、お前とは行かない」
「どうしてだ?」
黒塚の顔がかすかに歪む。
「分からない」
ディオンは正直に応えた。
ディオンの世界で、目の前のこの男の存在だけは揺らがない。いくら長い眠りを経たとして、黒塚のことだけは常にはっきりと覚えていられる。後悔と罪悪感とわずかな嫌悪、そしてそれらよりももっと強い、懐かしさ。黒塚に抱く感情は到底美しいものではなかったが、それでも特別なものには違いない。
しかし、それでも。
今は目の前の黒塚ではなく、曖昧な記憶の底にある、不確かな約束を優先したかった。
俺は、あいつのところへ行かなくては。
「……そうかよ」
短い声と共に、殺気が空を裂いた。ディオンも咄嗟に反応して剣を取る。
が、刃を抜いた瞬間、黒塚の姿はその場から掻き消えていた。
「お前にはもう何も期待しない。俺は俺の神様だけを信じて生きていくさ」
突き放すような、自嘲するような声が絶えると同時に、気配も完全に消失した。ディオンに呆れて去ったのか。それともお馴染みの気まぐれか。
(……結局、ろくに会話出来なかったな)
傍らの建物からは、まだあの暗い歌が聞こえていた。だが、中に踏み込み、虚ろな目をした彼らを問い詰めたところで、あまり収穫はなさそうだ。第一、起き抜けにあまり億劫なことはしたくなかった。
無機質な集落を一瞥してディオンは歩き出した。
常ならばこれから目的を持たない彷徨が始まるところだが、今回はいつもとは少し異なり、不思議とこれから自分が取るべき行動が分かっていた。
王都アストリアに向かう。
その理由は分からない。
記憶は、まだ戻らない。




