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refrain  作者: 水幸
第十章 アストリア
43/75

第43話

 翌日、留守居役を買って出てくれたミナベルに桃を任せて、ククは王城へ、アルスは魔術師塔へ普段通り出勤した。


 無論桃のことは気になるが、二人にはそれぞれこの王都での生活の対価として義務づけられた日々の仕事がある。それを無視するわけにはいかないし、何より突然不審な動きを見せて周囲に怪しまれるのも避けたかった。


 とは言え、国内有数の魔法使いとして評価され、魔術師塔もとい魔法技術研究管理所の主任という役職を得ているアルスと違って、ククは城内のどの組織にも属しておらず、城から与えられる仕事もそう大したものではない。

 今日のお役目とて、数日前に頼まれていた資料を依頼主の元へ提出するだけの、子供でも出来そうなお使いだった。



 広大なアストリア城の石灰石を加工した白い石壁の廊下を歩いていると、同じくそれぞれの仕事で出入りする幾人もの番兵や職員たちとすれ違う。見覚えのある顔もあればまったく見知らぬ顔もあったが、ククはいつも通りそれらすべてに等しく無言と無反応を貫いたまま先へと進み、緋色に彩られた扉の前で足を止めた。

 扉を守る二人組の衛士は、ククの姿を見るなり無言で道を空けた。ククも黙したまま、ノックもせずに戸を開く。


 天井の高い開放的な執務室の奥では、国王が書き物机に積まれた書類の山を前に、頬杖をついているところだった。


「やあクク、君も私に仕事を押しつけにきたんだね」


 緋色の髪に緋色の瞳。燃えさかる炎のような色彩を持つ男は、けれど今日もどこか熱の薄い表情を浮かべていた。気怠げな雰囲気もあって、四十代後半という実際の年の頃よりもいくらか老けた印象を受ける。


「陛下が頼まれた資料です」


「ああ、そうだったっけ? 私も大概準備がいいな」


「こちらに置いておきます」


 軽口には付き合わず、ククは持参したファイルを机の端に積み重ねた。中身は城外の事務官から預かった王都の周辺地域の調査書だが、その具体的な内容や用途は知らない。

 渡すべきものを渡したククは、机と王とに背を向けてさっさとこの場を退散しようとした。


「クク、ちょっといいかい?」


「……まだ何か?」


 振り返ると、薄い微笑みと視線がぶつかった。


「礼の件、考えてくれているかな?」


 ククは思わず目を伏せた。

 投げられた話題が桃と無関係だったことにほっとしつつ、しかし重くどんよりと澱むような感情が胸に広がっていた。


「考えるも何も、既にお断りしています」


「だが、私は君に……」


「失礼します」


 不敬だろうが知ったことか。

 続く言葉を待たず今度こそ部屋を出て、そのまま明るく冷えた廊下を戻る。

 見張りに立つ兵の意味深な視線。すれ違う人々の低い囁き。いつも通り感じるそれらを、これもまたいつも通りことごとく無視して歩き続けたが、廊下の角を曲がった途端、不意打ちの声が心の狭間に飛び込んできた。


――陛下のお気に入りじゃない。


 反射的に顔を上げると、通路の先にたむろする五、六人の女官たちが視界に入った。それぞれ退屈そうな顔を見合わせながら、唇だけは弧を描き、何事か語り合っている。その内の二、三人はククに気付いているようだった。

 意識するな、と思ったが既に遅かった。


――いくらお気に入りだからって……。


――でも……れば……近付けるかも。


――相変わらず薄気味悪い子。


 それは音を伴わない。聞き取るのも耳ではない。でも、確かに「声」だった。

 ククの頭の中でさざめくのは、他人の雑多な思念の断片、心が発する声である。意識的に発せられる言葉ではなく、ほとんど無意識から生じる独り言のようなものだが、だからこそそれは時に鋭利さや攻撃性を伴ってククの元へ飛び込んでくる。


(……全部、いつも通り)


 ククは足早に女中たちとすれ違った。

 まだ「声」は聞こえていたが、かかずらっても何の意味もない――どころか、そんなことをすれば面倒な事態になるだけだというのはよく分かっていた。相手をしない、無視をする。

 そう、いつも通りに。




 極力平穏に自宅に戻るため、比較的人の往来の少ない城内二階から東にある通用口へ向かっていると、不意に妙に浮ついた空気を感じた。

 距離があるのか、声というほどはっきりしないが、随分多くの人の気配だ。

 思わず窓辺に近付くと、真下にある城門の手前に馬車がいくつも止まっているのが見えた。荷物の運搬用だと思われるごく簡素な車もあれば、派手な装飾を施したものもある。皆、登城の手続き待ちをしているのだろう。

 最近、城内は人の出入りが増えていた。というのも約二月後に王の即位二十周年記念の祝典が控えているためである。

 あの今ひとつ覇気に欠ける王も、この行事の準備に限っては精力的な様子であるし、眼下の馬車の何割かも祝典のため外部から集められた人材や物資なのだろう。


(それにしても、今日は賑やかだな)


 厚い窓ガラスの向こうで、眼下の木々が風に煽られ揺れている。

 同時に、閉ざされた境界を無視して再び人々の「声」が届いた。


 頭の中に流れ込む心の欠片たちはその数の多さから一つ一つははっきりせず、まるで潮騒のようだった。集中すれば聞き分けることも可能だろうが、無論そんな努力はしない。

 ククはすぐにその場を離れたが、それでも声の残滓はついてきた。そもそも人の気配に不用心に近付いた自分が悪いのだから仕方ない。そう割り切ろうとする腹の底で、しかし違和感を訴える自分もいた。


(……前は、こんなことはなかった)


 この奇妙な力は、かつてはこれほど強くはなかった。

 聞こえる声も今ほど多くなかったし、もっと不鮮明だった。

 それがいつからこんな状態になったのか、ククには分からない。確かなのは、時を重ねていくほどにこの望んでもいない力が強くなっている、という事実だけだった。その存在を疎み、逃げようとしても、力はククから離れない。まるで呪いのようにぴたりと寄り添い、不穏な成長を続けていく。

 その冷たい手から完全に逃れることは出来ないと知りながら、それでもククは今日もなるべく耳と心を塞ぎ、先を急ぐことしか出来なかった。



 東の通用口から屋外に出てしばらく進むと、石造りの長い階段が見えてきた。陽光を受けて白く輝く石段を下れば、そこはもう城内の住宅街で、自邸にもすぐに帰り着く。


 だが、なだらかな斜面の先に点在する家々の屋根を見下ろして、ククは小さく溜め息を吐いた。


(桃ちゃん、か……)


 屋敷であの少女が待っているかと思うと、塞いだ気分が更に重さを増していく。

 彼女に対して悪意を向けようなどとは思っていないし、出来ればなるべく親切にしたい……しなければ、という気持ちはある。しかしその一方で彼女に接したくないという気持ちを拭うことも出来なかった。はっきりした理由はないのだが、なんとなく不安定な気持ちになるのだ。


 だが、そんなことを言ってもいられない。

 少女の姿、流れる桃色の髪や色違いの双眸を思い出すと、そこに別の面影が重なった。


(杏里ちゃん……)


 封じていた記憶が蘇り、後悔と不安で胸が痛む。

 彼女は今どこでどうしているだろう?

 桃を追いかけて、この地を目指しているのだろうか。それともどこかに留まっているのだろうか。

 一体何があったのか。

 とにかく桃に話を聞かなければならない。


 ようやく決意し、ククは石段を駆け下りた。




 自宅の前に到着すると、建物の内部から本来ここにないはずの気配を感じた。だが、中に入っても廊下は静かで、話し声などは聞こえない。

 ひとまず客間に向かうと、三人掛けのソファには兄一人だけがこちらに背を向けて座っていた。


「……今日はずっと仕事じゃなかったの?」


「抜けてきたんだ。後で戻るよ」


 振り返ったアルスは軽い調子で言って、正面のやや小さめのソファを指した。


「桃とはさっき話をしたから、君には僕から説明しようと思ってね」


「桃ちゃんはどうしてるの?」


「隣の部屋で眠ってるよ。……子供一人でこんなところまでやってきたんだ、大分消耗してるんだと思う」


 アルスの声は優しかったが、目を伏せた顔は何か別のことを考えているように見えた。常の笑みが薄くなると、頬の痣が凄みを増してどことなく昔の近寄り難い雰囲気を思い出す。


 落ち着かない気持ちになりつつ、ククは兄の正面に座って、今一番知りたいことを問いかけた。


「杏里ちゃんはどこにいるの? 無事にしてるって?」


「端的に言うと、分からない」


「分からない?」


 思わず声が大きくなってしまった。

 アルスは困った顔をしながらも、曖昧な笑みを浮かべる余裕は保っていた。その表情で「彼女は混乱しているみたいだ」と言葉を重ねる。


「しばらく話したけど、どうもいろんな記憶が曖昧らしい。恐らく一時的なものだとは思うんだけど……杏とはぐれる前後の経緯も思い出せないって」


「そんな……」


 大事なことなのに――という言葉は呑み込んだ。かつて記憶喪失だった自分は、とても彼女を責められる立場ではない。

 それでも納得のいかない顔にはなっていたのだろう。アルスがほのかに苦笑した。


「ククの言いたいことは分かるよ。ただ、今の僕には……いや、僕たちには、桃の話以上の判断材料がない。だからまずは彼女から聞いたことを君に共有したいと思ってるんだ」


「とりあえず話を聞けってことだよね」


 ククはわざと乱暴な言い方をしたが、アルスは特に気にする様子もなく「そう」と短く頷き、話を再開した。


「杏と彼女は元々この地を目指して旅をしてたみたいなんだ。杏は友達に会いに行こうって説明してたらしい」


「……それ、わたしたちのこと?」


「他に誰が?」


 驚いた顔をするアルスに対して、ククは「そうだよね」と首肯した。しかし、内心疑念は消えなかった。黙っていようかとも思ったが、結局口にした。


「でも杏里ちゃんがわたしのところに来るわけがないと思ったから。王都に来るんだとしたら、何かはっきりした理由がないと不自然じゃない?」


「……まあ、そうかもしれないね」


 アルスは中途半端に同意した。


「何かしら事情はあるんだろうけど、桃は聞いてないらしい。それでとにかく二人で森を抜けようとしたそうだけど、具体的にどこだったかは分からないって。ただ、桃の話と王都までの距離から考えるに、恐らく西のリエフ街道の近辺が怪しいんじゃないかなと僕は思う」


 リエフ街道は王都の西方に広がる森林地帯を通る道だ。環境的にも治安的にも特に不穏な話は聞かないが、かといって整備が行き届いているというわけでもない。街道を囲む森はいくつかの集落や村を内包する程度には広く、子供が一人で簡単に抜けられるとは思えなかった。


「その前はどこにいたんだろう? それによって本当にリエフ街道を通ったかどうかの確度は変わってくるよね」


「一年くらい前はハリエールにいたって」


 アルスが持ち出したのは、王都からは北西方向に位置する小さな町の名だ。


「ハリエールからここを目指すには北の道を下ってくるのが一番近いけど、あの辺はあまり治安が良くないからね。多少遠回りにはなるけど、安全なリエフ街道を使うのがまったくあり得ないって距離じゃない」


「……そうだね」


 まだまだ疑問はあるものの、ククはひとまず頷いた。アルスの言うことは一応理にかなっていたし、現状他に思い当たる場所がないのも事実だ。

 とにかく問題なのは杏里の居場所と状態だった。桃を追いかけてこの地を目指しているかもしれないし、まだ森に残っている可能性もある。


「早く杏里ちゃんを探さないと」


 手は打ってある、とアルスは言った。


「城外の知り合いに頼んで現地に向かってもらったよ。流石に今すぐ大規模な捜索隊は出せないけど、状況によっては……」


「それより、わたしが行くよ」


「駄目だ」


 一蹴だった。


「だけど、他の人に任せてなんておけないよ。杏里ちゃんだって……」


「駄目なものは駄目だ。君の提案は容認出来ない」


「……どうして?」


「分かってるはずだよ」


 食い下がるククにアルスは苦々しげな顔をした。


「今の王都の状態や僕らの立場を考えれば当たり前だ。このタイミングで王命も受けずにここを離れるのはまずい」


 アルスが言わんとしているのは、件の祝典に絡んだことだろう。確かに大がかりな式事の準備にあたって、現在王城の内外は常ならぬ忙しなさと緊張感に包まれている。加えて、王も周囲の人間の動向に殊更に神経質になっていた。兄と共に目をかけられている以上、ここでククが勝手な行動をとれば、問題視される可能性は高い。

 兄の主張も、兄の主張が正しいということも理解出来た。


 けれど。


「それでも、杏里ちゃんの安否が分からないんだよ? もし何か危険な目に遭ってたらどうするの? それに、桃ちゃんの父親のことだって……」


「あの男は死んだよ。今ここでは何も関係ない」


 兄の淡々とした声と瞳にククは首を振った。


「恐らく、だよね? 死体は結局出てないし、確かな証拠は何にもない。もしかしたら生きてる可能性だってある」


「だとしても、今その可能性を問題視してどうなる? とにかく、君が城を出るのを許すわけにはいかない。これは君のためでもあるんだ」


「そんなの納得出来ないよ! 兄さんは杏里ちゃんが危険な目に遭ってもいいって思ってるの?」


「クク、声が大きい」


「っ……」


 静かだが鋭い声に諫められ、はっとした。頭に血が上るあまり、別室に桃がいるという状況が意識から抜け落ちてしまっていた。


「ごめんなさい」


 いくらか冷静になりつつ、しかし心はまだ諦めきれなかった。


「でも、桃ちゃんだってお母さんを心配してるはずだよ」


 そう、現状の問題は杏里の居場所だけではない。


「これから桃ちゃんのことはどうするの?」


 アルスはなかなか口を開かなかった。まるでその答えがこの場にどのような風を起こすか知るように。

 沈黙が二人の間に落ちる。

 窓の外はまだ明るいが、室内の空気は重かった。


 しかし、ついにアルスは宣言した。


「桃はリティアのところへ連れていく」


 正直に言えば、その答えをまったく予想しなかったわけではない。

 それでも、ククは呆れた声を出さずにはいられなかった。


「あの魔女のところへ? 本気で言ってるの?」


「それが最善だと思うからね」


 一度宣言した以上、後は押し切るのみと思っているのか、アルスはあっさり頷いた。


「君も僕もずっとこの家にいるわけではないし、ミナベルに世話を頼み続けるわけにもいかないだろう? あの塔なら安全を確保出来るし、桃の持つ魔力のことを考えても彼女に協力を仰ぐのが一番だ」


 滑らかな語調も相まってそれは実に論理的な意見に聞こえたが、ククは勿論頷かない。

 だって、魔女は魔女だ。

 ククは魔女――リスティアーナが好きではない。理由は単純な理屈で、彼女に敵視されているからだ。理由は分からない。そもそも関わったことだってろくにない。それでも王城でたまに見かける彼女は、ククに対する冷ややかな感情と態度を隠そうともしなかった。


「兄さんはあの人に桃ちゃんを利用させるつもりなの?」


 リスティアーナは、アルスやザングと同じ五勇の一人にして、王の信奉者だ。主と自分のために、桃を利用することも厭わないだろう。


「そんなことは言ってないよ」


 素早い返答と共に伝わってきたのは、純粋な驚きとごくかすかな苛立ちだった。しかしそれらもすぐに消え去り、元通り、凪いだ空気がアルスを取り巻く。

 兄は、いつもそうだ。

 怒らず、騒がず、いつも冷静で。その上、何でも一人で考えて一人で決めようとする。昔、ろくに口もきいてくれなかった頃から変わらず、ずっとそう。


「僕はどんな人間にも桃を利用させるつもりはないし、そのためには当面陛下や他の人間に彼女の存在を知らせるべきではないとも思ってるよ。誰がどういう思惑を抱いて桃を扱うか分からないからね。……だけど、少なくともリティアは桃を利用したりはしない。それだけは確かだし、保証出来る」


「どうして保証出来るなんて言い切れるの? あの人は陛下のためなら何でもする人だと思うけど」


「桃に関しては心配ないよ。万が一彼女を利用するつもりなら僕が出奔するだけだ」


 ククは今度こそ呆れ果てた。

 アルスは真面目な顔をしているが、彼がこの王城を去ることなど出来るわけがない。そんなのは本人が一番よく理解しているはずだ。


「……分かった。もういいよ」


 これ以上会話を続けても、お互い不毛な思いをするだけだ。


「桃ちゃんは兄さんに任せるよ。わたしのことは放っておいて」


 呼び止めるアルスの声を無視して、ククは部屋を出た。

 勢いのまま廊下を進み、奥にある自室の扉を開く。白い調度が並ぶ殺風景な部屋で最低限の荷造りをした後、一番近い窓から庭に出れば、木立と厩舎が正面に見えた。

 ククは木立に向かって指笛を鳴らした。ややあって、木陰から栗色の影が一つ、一直線に駆け寄ってくる。小柄だが月毛の美しい、ククの馬だ。


「いい子だね、ソラ」


 親しげに差し出された鼻先を撫でると、低い嘶きが返ってくる。自室から持ってきた手綱と鞍を装着し、ククはその背に飛び乗った。


「さあ、行って」


 応じてソラが地を蹴った。

 裏門から敷地の外に出て、石畳の住宅街を駆け抜ける。

 それなりに人通りはあったものの、広い城内を馬で移動する人間は珍しくないので、ククたちに気を留める者はいなかった。

 誰に阻まれることなく東にある門を抜けると、そこから先は城下町の端を通る長い通行路だ。町の端を通るとは言っても、道の左右には石壁が立ちはだかり、町の敷地とは明確に区切られている。ここは城内から王都の外に出る人間専用の、外界へ出る近道だ。

 壁に挟まれた実用性重視の殺風景な道をひたすら走っていくと、やがてこれも飾り気のない鉄の門扉が現れた。

 門の表面には外部からの侵入者を防ぐ魔法の術式が浮かんでいるが、排除の対象はあくまで外敵だけだ。番兵たちもククの顔を不審げに一瞥したものの、特に呼び止めることはしなかった。


 門を越えると、そこはもう王都の外だった。

 目の前はやや勾配のきつい下り坂の斜面が続くが、その向こうには穏やかな平野が広がっている。無数の街道が枝分かれしながら伸びていて、どの方角を見ても、たくさんの人や馬車が行き交っていた。


 ククは馬上から彼方へと目を向けた。青い空と鮮やかな緑を湛えた山々が視界に入るが、心が求めている景色は別のものだった。


 杏里ちゃんはどこにいるんだろう。どこを探せば、杏里ちゃんと会えるだろう? 

 知りたいのはただそれだけで、目にしたいのは彼女の無事な姿だけ。


(リエフ街道の方、か……)


 あまりに漠然とした情報だが、桃から詳しい話を聞ける望みが薄い以上、他に頼れるものもない。

 とにかく現地に向かって探してみるしかないだろう。西方へ向かうため、再びソラに呼びかけようとした瞬間。


 声が届いた。


――誰か助けて!


「っ!」


 頭の奥が自分の意思と無関係に開かれて、その隙間から自らのものではない恐怖と戸惑いが流れ込む。

 思わず崩れ落ちそうになるのを堪えて、ククは周囲を見回した。視界に入る範囲では特に何の変異も見つけられなかったが、自らの内に流入した恐慌は消えていなかった。

 いつしか手綱を力の限り握っていたことに気付いて、ゆっくり息を吐き出す。落ち着け、と自らに言い聞かせ、指を解いた。


 そうして自制を取り戻したことを確信した後、ククは馬上で目を閉じた。


 視界が暗く閉ざされたのは一瞬。

 闇は突如として、無数の紋様が蠢く極彩色の景色に変化した。

 宙に散らばり、一つずつ意思を持っているかのように踊る紋様は、人の世界の文字と似ているとも言えたし、まったく似ていないとも言えた。この世のものとは思えない光景はひどく混沌としながらも秩序の概念を失っておらず、無数の記号が舞う様は、狂気と同時に冷たい理性を感じさせた。

 この歪な世界の理を理解することについて、ククはとうの昔に諦めていた。必要な情報を得ることが出来ればそれで良かったし、その方法は自然と知っていた。


(どこに、いるの)


 先ほど聞こえた声を思い出し、呼ぶ。

 と、途端に極彩色が大きく揺らいだ。浮遊する色彩の欠片が輝きながら波を立て、誘うように駆けていく。


 瞼を開くと異界は消えたが、脳裏に焼き付いた導きを頼りに頭を巡らせた。


 声は、今背後にしたばかりの王都から放たれたものだった。こちらへ届いたくらいだから、恐らくあまり遠くはないだろう。

 しかし、


(どうしよう……)


 ククは逡巡する。杏里の行方を捜すのに、ぐずぐずしている時間はなかった。それに城下に戻ればアルスや城の関係者に出くわす可能性もある。

 無視して先へ進むべきだ。そう判断しかけたククを引き止めたのは、再び響いたあの声だった。


――助けて。


――怖い。


 感情が言語化していたのはそこまでだ。続く声はもう意味ある言葉にはならず、ただただ悲痛な混乱と目の前が暗くなるような絶望がククの心を上書きしようと押し寄せる。

 しかし、不意打ちから立ち直り、冷静さを取り戻した今のククであれば、それらの強襲を押しのけることもそう難しいことではなかった。


「…………」


 ククは溜め息を落とす。


 そもそも、王の庇護を手厚く受けているはずの首都で、衛兵や騎士たちは一体何をしているのだろう。どこかで起きているであろう変事に、どうしても誰も気付かない?

 自らの胸から起こる苛立ちがククの意思を一層明確なものに変えていく。

 そこにはもう、他人の声が入る隙間はなかった。


 ククは馬を駆り、先を急ぐことにした。


 ***


「アルス様、そのぉ……」


 窺うような声に振り返って、アルスは苦笑した。


「ククを追いかけなくていいのか、って?」


 妹が飛び出していったためにすっかり静まりかえった室内で、ミナベルは「ええ」と頷いてから、遠慮がちに付け足した。


「よろしければ、わたくしが向かいますが……」


「いや、いいんだ」

 アルスは首を振った。

「下手に追いかけても彼女には『読まれる』し、かえって騒ぎになるといけない」


 ククだって、いくら腹を立てていてもそれほど無茶苦茶なことはしないだろう。しばらく様子を見ようと告げると、ミナベルもすぐに頷いた。


「アルス様がそう仰るなら」


「助かるよ」


「ですが、クク様……少し様子がおかしくありませんでした?」


「……そうかな?」


「ええ……。いえ、最近お元気がないなとは思っていましたが、先ほどは特にクク様らしくなかったと言いますか……」


(流石にミナベルも気付いたか)


 アルスは内心で呟く。

 ククが兄である自分に対して心を開かないことには慣れている。しかし、だからこそ彼女がこちらに何かを強く主張することは稀だった。それに、ククはその必要があれば誰より冷静かつ合理的な判断が出来る人間だ。ミナベルの言う通り、先ほどの感情的な態度はおよそ普段の彼女らしくない。

 しかし、アルスは気遣うような表情のミナベルに微笑んだ。何も問題ないと伝えようとしたのだが、しかしそれより早く、背後で扉が開く音がした。


 戸口に視線を遣れば、まだ眠たげな顔をした桃が、それでいていじらしいほど遠慮がちな佇まいで室内を覗き込んでいた。


「ああ桃、起きたんだね。体は辛くないかい? まだ眠かったら寝ていていいよ」


「……大丈夫です。その、まだ夜じゃないですし……」


 弱々しい声が訴える通り、確かにまだ日中ではある。しかしククが帰宅する前――アルスと会話をしていた時の桃はまだひどく疲れているように見えたし、実際別室で休ませた途端あっという間に寝入ってしまったから、てっきり今日もこのまま朝まで目を覚まさないだろうと思っていたのだ。

 彼女は今もまだ回復しきっているようには見えなかったが、その顔色は先ほどと比べれば幾分子供らしい赤みを取り戻していた。少しほっとしながらも、次にとるべき行動を思い出し、アルスは桃の正面に膝をついた。

 不安げに揺れる色違いの瞳を前にして、なるべく言葉を選ぼうとは思ったが、どうにも適当な言い方が見つからない。


 結局、率直に伝えることにした。


「桃、君にはこれからしばらくこの王都にいてもらおうと思ってるんだ。君のお母さんは僕たちが探すから、少しだけ待っててくれるかい?」


「……はい」


 心細げな承諾はアルスを信頼したからではなく、他に選べる道がないからだろう。この状況に桃は戸惑い、怯えている。

 そんな肉親から離れた幼い少女に投げるにはあまりに不誠実な提案だと自覚しながら、それでもアルスは話を続けた。


「それで、実はこの家は君が暮らすのにはあまり向かないかもしれないから、これからある人……僕の友達のところに一緒に行ってくれるかな。少しの間、その人のところでお母さんを待っててほしいんだ」


 桃は何度か瞬いた後、囁くような声を出した。


「……お友達のところ、ですか?」


 先ほどとは違い、今度はわずかに混乱と抵抗が滲んでいた。それも仕方ない。誰だってこんな状況で自分の身の置き場を他人から他人へ委託されるのは心細いはずだ。ひどいことをしていると分かっているし、少女に負担を強いるのは心が痛むが、それでもアルスにはアルスなりにこの対応を断行しなければならない理由があった。

 従って、説得の言葉を重ねようとしたその時、桃がこくりと頷いた。


「はい、分かりました」


 それはきっと数多の疑問や不安を呑み込んだ末の返答だった。


「……ありがとう」


 あるいは、申し訳ないと謝るべきだろうか。

 いずれにしても、こちらの勝手で少女に一層の不安を与えている事実は変わらない。であれば、つまらない自己弁護に努めるよりも、とにかく今はすべきことをするしかなかった。


「じゃあ、暗くなる前に行こうか」


 背後のミナベルに外出中の留守を頼んで、アルスは右手を差し出した。ただの自己満足と言われればそれまでだったし、期待をしていたわけでもない。

 しかし――。

 黒い耳が、尻尾が、しばし躊躇うように揺れた後、少女の小さな手がアルスの掌に重なった。


 ***


「そこの男たち、やめなさい」


 左右に密集した不格好な建造物のせいで昼なお暗い路地裏に声を放てば、それはクク自身が意図した以上に冷たい印象を伴って響いた。


「誰だ?」


 低い声音と共に、正面にいる男たちが振り返る。

 相手は二人。揃って闇に溶け込むような沈んだ色の皮鎧を着込み、それぞれの腰回りには刃物が複数確認出来た。妙に澱んだ、いやな目付きだ。たまたま通りがかった不良というわけではないだろうし、そもそもこの町の住人であるかも怪しいところだ。


 彼らの向こうには、若い女性らしき姿があった。フードを深く被り、身を縮めているので、容貌ははっきりとは分からない。しかし、わずかに覗く瞳は助けを求めるように揺れていた。


「……どこの誰だか知らないけれど、こんなところで女の子にちょっかい出すなんて、随分格好悪いと思うよ」


「何だと?」


 男の一人が苛立ちをあらわに近付いてきた。狙い通りだ。相手が挑発に乗り、彼女から離れれば――。


「おい、わけの分からんガキは放っとけ、さっさとこっちを連れてくぞ」


「チッ、分かってるよ」


 仲間の声に、こちらに向かいかけていた男が立ち止まり、舌打ちと共に踵を返した。

 失敗か、と溜め息を吐きたくなる気持ちはすぐに脇にやる。

 男たちからは少女への害意しか感じない。このまま大人しく離れてくれないのなら、無理矢理引き離すまでだ。


「ああッ!?」


 薄闇を一筋の光が切り裂く。先ほど仲間を引き止めた男が異変に気付いて身を捩るが、既に遅い。ククの放ったナイフが、男の左腿に吸い込まれるように突き刺さった。

 吠えるような叫びを上げ、男が崩れ落ちる。その隙にククは一気に距離を詰め、半ば強引に割り込む形で少女の元まで駆け寄った。

 低い体勢から、屈んだ男に蹴りを入れて撥ね飛ばす。間を置かず、服の裏地から取り出した新たなナイフを、もう一人の男に投擲する。今度もナイフは相手の足に直撃し、敵はあえなく体勢を崩す――はずだった。


「……!」


 一瞬男から放たれた異様な気配に、咄嗟に少女を抱き寄せた。

 直後、閃光と轟音、更には凄まじい衝撃が全身に叩きつけられ、ククはなすすべもなく吹き飛んだ。



「…………ッ」


 彩度を失った暗い視界に、少しずつ色が戻ってくる。

 音はまだ聞こえない。

 体を動かすと頭が脳ごと揺れているような感覚に襲われ、吐き気がした。


「……っく、あ……ッ……」


 何度か失敗して頽れながらも、ククはなんとか上体を起こした。自らを覆っていた青い光――護身用の結界が瓦解してぱらぱらと崩れ落ちていく。全身が鈍い痛みを訴えていたが、結界のおかげでそれくらいで済んだのだから僥倖と考えるべきだろう。

 顔を上げて状況を目にした途端、その思いはますます強くなった。


(ひどいことになっちゃったな……)


 周囲の建物は壁面が大きく抉れ、路地の石畳も粉々に砕けて焦げた土が剥き出しになっている。大小の礫に混じって散乱するのは、千切れた無数の肉片だった。爆心地となった男はもとより、仲間のもう一人も爆風を直に受けたらしい。その姿はもうどこにも見当たらず、また、見つけることも不可能だった。

 騒ぎを聞きつけた人々が何事かと集まってきていたが、惨状を前に皆たじろいでいる。女の甲高い悲鳴が上がり、ククは聴力の回復に気が付いた。


 同時に、大事なことを思い出す。


「っ、大丈夫!?」


 ククの背後で、助けを求めていたあの女性が仰向けに倒れ込んでいた。慌てて肩に手を触れると、呻き声が返ってくる。手足には打撲の痕やかすり傷が見られるものの、とりあえず命に繋がるような怪我はなさそうだ。

 よく見ればまだ若く、十代前半と思しき少女だった。顔と頭を覆っていたフードが外れ、豊かな朱色の髪が地面に広がっている。

 視界に飛び込んできたものに、ククは思わず息を呑んだ。


 倒れ伏す少女の頭には、黒い獣の耳が生えていた。

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