第42話
アストリアの王都は、高台に築かれた城の裾野に扇状に広がっている。首都に相応しい栄えぶりではあるが、建築物の多くは九十年近く前の統一戦争以前から存在するもので、町並みには伝統と流行が自然に混ざり合った独特の趣があった。
しかし、他のあらゆる場所と同じように、この城下にも日の光からほど遠い場所はある。
城下町の片隅、よく整備されているが妙に人気が少なく、薄暗い路地の先にその店は存在していた。どうやら飲食店らしいということだけがなんとなく分かる地味な外観だが、一歩足を踏み入れれば内部はやけに豪奢で広く、入り組んだ狭い通路が迷路のように展開される空間だった。その上、通路の左右に並ぶ扉はどれも物々しい雰囲気で閉ざされている。
そのいかがわしくなさを装った結果、究極のいかがわしさが漂う店内を、ククは大股かつ足早に奥へと進んでいった。
店の者らしい女たちとすれ違う度、華やかな彼女たちから困惑した視線を投げられているのも、特にククの顔を知らない者に至っては「何故ここにこんな小娘が?」と言わんばかりの表情を浮かべていることも分かっていたが無視をした。
ククとて表向きは会員制レストランをうたっているこの店の実態を知らないわけではないし、無論好きでここまでやってくるはずもない。ついでに言わせてもらうと、同性に嘲り交じりの冷ややかな目を向けられるほど未成熟な子供でもなかった。二十三という実年齢に色々追いついていない自覚はあるが、それでも一応は大人である。
と、日頃の鬱憤も交えつつ憤慨したくなる気持ちを持て余しながらひたすら奥へと進んでいくと、突き当たりに立派な両開きの扉が見えてきた。
扉の前には十代後半くらいの少女が一人、近付いてくるククに目を丸くしながら立っている。
「こんにちは。お邪魔してます。通してもらうね」
「く、クク様!」
扉に手をかけると、慌てたように呼び止められた。どうやら少女はこちらを知っているようだ。
「あの、アルス様は仕事中で……」
「うん、よく分かってる。でも急ぎの用だから」
「はあ……」
少女は困った顔をしたものの、強く抵抗はしなかった。
であればと、ククは勝手に扉を押し開く。
内部は短い廊下を経て、すぐ奥にまた扉があった。内部から漏れてくる甘い匂いと声に顔をしかめつつ、扉をかなり強めにノックして「兄さん」と声を張り上げる。
「五秒後に開けるね」
一、二、三、四……五。胸の中でカウントを終えて扉を開けようとしたが、内側で何かに突っかかり、目の前に細い隙間が出来ただけだった。
「クク」
その隙間の先から、表面的には冷静な声がした。
「すぐに出ていくから、店の外で待つんだ」
「……早くしてね」
ククは深々と溜め息を吐いた。軽く頭痛を感じたが、それが単にこの場所のせいなのか、もしくは自分を取り巻くいくつかの問題に起因するものなのかは分からなかった。
あるいは、その両方なのかもしれないが。
ククが店の外に移動してからいくらも経たず、アルスも建物から出てきた。
外はもう薄暗く、風も昼間より多少冷たくなっていた。
「急ぎの用だって? どうしたんだい」
人並み外れた怜悧な美貌、などと評されたのは今は昔。兄は今も整った顔をしているものの、かつての儚げな少年らしさからはすっかり遠ざかっていた。今日も今日とて穏やかな――けれどあまり中身の伴わない笑みを、右頬に黒い痣の浮かぶ顔に乗せている。
一言で言うと、いかがわしい。
「ちょっと困ったことがあるの」
それだけ言ってククは歩き出した。アルスもそのままついてくる……のはいいのだが、風が吹く度、むせ返りそうなほど甘ったるい香水の匂いが鼻を突く。アルスが纏う黒地の着流しから発せられる香りである。
「兄さん、折角のお休み中にごめんね」
「いや、今日はちょっとした手伝いのお礼だよ。半分仕事みたいなもので……」
「そうなの。兄さんも大変だね」
「クク」
歩みを止めないまま視線だけ向ければ、隣を歩く兄の戸惑った青い瞳と目が合った。
「それで、何があったって?」
まさか嫌味を言うために呼びに来たわけじゃないだろう?
いかにもそう言いたげだった。
「……見たらすぐに分かると思うよ」
それ以上説明のしようもない。
大体、ククにだって何がなんだか分からないのだから。
王都はその外周を防壁によって守られているが、城下の都と城は更にもう一段階、高い城壁によって区分されていた。城下町から城内の敷地へ向かうには、都の中央を貫く大通りを進み、城壁に設けられた正門で入城の手続きを踏むのが一般的だが、ククとアルスはその道を選ばず、正門から少し離れた内部者専用の通用門に向かった。
そこもまた城壁を越える通路ではあるが、手続きさえ済ませれば誰でも通行出来る正門とは異なり、こちらは城内に居住する人間の行き来しか許されていない出入り口だ。そのため人の出入りも正門ほど激しくはなかった。
番兵はククとアルスの顔を見るなり、鉄扉を開いて二人を城内へ通してくれた。
殺風景な通路を抜けると、辿り着くのはアストリア城内の庭先だ。西方には複数の巨大な塔と、それらと回廊で繋がった王の居城が見て取れる。
その手前に広がる城内勤務者の特別住宅街へ足を進め、緑豊かな敷地に整然と敷かれた道を歩いていくと、ほどなくして藍色の屋根の屋敷が目の前に現れた。
平屋の家屋は周囲の他の建造物とは若干趣の異なる外観だが、それは一部の様式や意匠をはるか桜花の里の地から取り入れているためである。
勿論、家主であるアルスの趣味だ。
「アルス様、クク様、おかえりなさいませ」
屋敷の中に入ると、廊下の奥からやってきたミナベルが一見普段通りの温厚さでククたち二人を出迎えた。アルスの秘書を自称する彼女がこの屋敷に出入りするのは日常茶飯事なので、アルスもそこは気にしない。
「ただいま、ミーナ。何かあったんだって?」
「はい、ありましたわ」
「君も濁すのかい? 一体何が……」
ミナベルの案内で応接間の扉を開けた瞬間、アルスの横顔がかすかに強張った。
無理もないよね、とククは内心で呟く。
そんな中、ソファに行儀良く座った小さな影が頭を上げた。
「はじめまして……お邪魔、してます……」
こちらを見上げる大きな瞳は、左目が赤茶色なのに対して、右は明るい緑色をしている。ぎこちないお辞儀に合わせて桃色の髪が細い肩口をするりと滑り、髪を割って覗く三角の黒耳がわずかに動いた。
少し汚れてはいるが華やかな橙色の衣に身を包んだ少女は、幼い子供らしからぬ緊張感と共にあくまで礼儀正しく名乗った。
「あの……桃と言います。お母さんの言付けで、来ました」
この台詞はつい先ほどククが、そしてその前はミナベルが、この子猫のような少女から告げられた言葉とそっくり同じものだった。
「……兄さん」
ククはアルスに視線を投げた。予想通りアルスの顔にも強い困惑が滲んでいたが、早々に敵前逃亡したククとは異なり、彼はたちどころにその色を払拭した。
「はじめまして、ではないよ。実はね」
そう言うと、少女の前に屈み込み、他人に言わせれば女子受けのいい――ククにしてみればまったく信用ならないとしか思えない――優しげな微笑みを浮かべる。
「君がうんと小さい頃に会ったことがあるんだ。そうだよね、クク」
「えっと、そう……だね。うん……」
いきなり飛んできた言葉にぎこちなく頷いて、ククはアルスの隣に立った。
確かに兄の言葉通り、彼女――桃とは初対面ではない。
だが、記憶の中の彼女と今目の前にいる少女が違和感なく結びつくかと問われれば、かなり微妙なところだった。何しろ、ククが桃と顔を合わせた最初で最後のその時は、まだこの少女が一歳にもならない頃のことなのだ。
今目の前に座る桃は、ククの認識違いがなければ、もうすぐ七歳になるはずだった。まだまだ幼い子供とは言え、乳児の頃しか知らないククからすれば愕然とするほど成長している。こうして顔を合わせていることさえ、どこか奇妙な感覚だった。
その桃は今、戸惑いと不安の滲む表情でじっと黙ったままだった。会話するつもりはあるが何を言えばいいか分からない、そんな様子にも見える。しかし、それも当然だろう。桃からすれば、物心つく前に会ったという者たちなど、初対面に等しい存在であるはずだ。
沈黙を持て余した様子の少女に、アルスが再び口を開いた。
「でも改めて名乗っておこうかな。僕はアルス。で、こっちは妹のクク。僕たちは君のお母さんの友達だよ。……それで、今日はどうしたんだい? お母さんは一緒じゃないのかな?」
「お母さんは……分かりません」
「分からない?」
俯いた桃は膝の上で華奢な両手を握りしめ、消え入りそうな声で答えた。
「……お母さんと一緒にアストリアのお城に行こうとしてたんです……でも、気付いたらお母さんがいなくて……」
「はぐれちゃった、ってことかな?」
「……はい。多分、そうです」
桃は頷き、そのまま頭を上げなかった。
「最後にあ……お母さんと一緒にいた場所がどこなのか、思い出せる?」
ククが尋ねると、囁くような声が返ってきた。
「森の……中、です……」
「森? どのあたりのこと?」
「……分かりません……」
「どんなところかだけでもいいの。何か……」
「クク」
アルスがやんわり遮った。
「はるばるここまで来たばかりなんだ。少し休憩させてあげよう」
「でも……」
ククは桃を見下ろした。視線に気付いたのか、桃も顔を上げ、視線が交わった。だが――。
(何も読めない……)
目の前の少女が何を考えているのか。母親とはぐれたと言う、その言葉の真偽が。何も見えない。聞こえない。
それはククにとっては本来あり得ないことだった。
(どういうこと……?)
問題はそれだけではなかった。
「……兄さん、ちょっと」
ククはアルスの背中に呼びかけた。
しゃがんだまま振り向いた顔に目配せすれば、それで察してくれたらしい。
「ごめん、ちょっと仕事の話をしてくるよ」
ククはアルスと共にその場をミナベルに任せて廊下に出た。離れた空き部屋に移動した上で、なるべく声をひそめて告げる。
「あの子……桃は、少し普通じゃないかもしれない」
「どういうことだい」
「ミナベルに呼ばれて東門にあの子を迎えに行った時、兵士から報告を受けたの。彼女が城下町で暴れたって」
「暴れたって、どうやって? 誰相手に?」
ククも状況を完全に把握出来ているわけではない。
アルスを呼びに行く前、ククはミナベルに連れられて、客人が待つという東の門に赴いた。
城と城下を区切る境界で、桃は何人もの兵士に囲まれながら縮こまっていた。兵の一人曰く、彼女は城下の路地裏で大人相手に騒動を起こした末、半ば連行される形で保護され、話を聞こうとした兵に向かってアルスとククの名前を出したという。お母さんの友達だからと言い張るので、と若い兵士は困った顔をしていた。
混乱しつつ、ククはとりあえずミナベルと共に桃をこの家に連れ帰ってきた――ものの、流石にこの事態は手に余りすぎた。そのため、急ぎアルスを呼びつけた……というのがここに至るまでの経緯だった。
「詳しいことは分からないんだけど、何か魔法を使ったみたい。でも、桃本人にはその自覚はないみたいで……」
これも兵士の報告そのままだ。
だが、城門で顔を合わせた桃は怯えてはいたが攻撃的な様子はなかったし、自分から何かを、誰かを傷付けるような女の子には見えなかった。勿論、現在進行形でその印象は変わらない。
「無意識に魔法を使ったなら暴走状態だったのかも、とも思ったんだけど……」
「そんな状態にあったようには見えないな」
「うん。そうだよね……」
もし自身の魔力を制御出来ない暴走状態に陥っていたのであれば、精神的に相当不安定になっているはずだ。しかし、彼女にそこまで深刻な雰囲気はない。
「騒動の被害は深刻だって?」
アルスの問いにククは首を振った。
「怪我をした人はいるけど軽傷みたい。ただ、建物への被害はあるみたいだけど……」
「そっちは後で確認しよう。問題は桃本人だね」
「どうするつもり?」
とりあえず部屋に戻ろう、とアルスは答えた。
室内に戻ると、桃は先ほどより更に不安げな表情を浮かべていた。ククたちが自分の話をしていたのを察しているのかもしれない。
桃の隣に座るミナベルはいつにも増してにこやかだったが、その優しげな存在感をもってしても少女を安心させるのは難しかったようだ。
「桃、少しいいかな」
再び桃の前に膝をついたアルスが右手をそっと差し伸べる。その開いた手のひらの上に、鶏卵ほどの大きさの半透明の青い球体が浮き上がった。
球体の内部では魔術式の文字列が淡い光を放っている。
「どちらの手でもいいから、これに軽く触れてみてくれるかな? 危ないものではないから心配しないで」
桃は逡巡するようにアルスの顔と手を見比べていたが、掛けられた言葉が信用に足ると判断したのか、やがて小さく頷いた。
おずおずと伸ばされた指先が輝く球体の表層に触れた途端、ぴしり、と鋭い音が響いた。直後、球体は桃の指先を起点に真っ二つに割れ、そのまま朽ち果てるように消滅した。
「兄さん、これ……」
思わず声を上げると、振り返ったアルスがかすかに顎を引いた。宥めるような表情に、ククは言葉を呑み込んだ。
「あの、わたし……」
危険はなかったものの驚いたのだろう。狼狽しきった桃は、ともすれば泣き出しそうだった。
「大丈夫だよ。今のは良いことなんだ」
(……これが魔術師の適性試験だったらね)
ククは内心補足を入れつつも、勿論口には出さなかった。
天性の才能、あるいは異端の能力か。いずれにしても、試験用とは言えアルスの術式をいとも容易く瓦解させた桃を普通の少女と呼ぶには無理がある。
流石に今すぐその問題に触れて目の前の桃を問い詰めることは躊躇われたが、それを置いておくにしても、ククには一つだけどうしても訊いておかなければならないことがあった。
「桃ちゃん、これだけは教えて。杏里ちゃんとは本当にはぐれただけなんだよね?」
「クク」
「……はい」
諫めるようなアルスの声に重なって、桃の答えが返ってきた。
それでもまだ納得は出来なかったが、ククもまた頷いた。頷くしかなかった。
閉ざした窓の外はもうすっかり夜の気配に覆われていた。庭の向こう、上空では城と塔から零れる灯りが星々と競うように輝いている。
「桃、今日は疲れただろう。ご飯を食べたらゆっくり休んで、明日また話を聞かせてくれるかな」
扉近くで一連のやりとりを見守っていたミナベルが心得たように進み出た。
「わたくしが案内いたしますわ。どうぞ、こちらへ」
「はい……あの、お願いします」
桃が立ち上がると、細い尻尾がふわりと揺れた。耳と同じ黒く短い毛に覆われた子猫のようなそれから、ククはそっと視線を外す。蘇る記憶に、今ここで向き合う余力はなかったから。
ミナベルが桃を伴って退室すると、室内にはククとアルスだけが残された。
自然、二人で顔を見合わせる。
「さて……どうしようか」
兄の神妙な声に、ククは肩を落としてみせた。
それはこっちの台詞だった。
それからしばらくアルスと話し合ったものの、二人が出した結論は、桃から詳しい事情を聞かないことにはどうしようもない、というものだった。
その桃はよほど疲れ切っていたのだろう、食事と風呂の後、ミナベルが客室に案内した途端すぐに眠ってしまったらしい。
応接間に戻ってきたミナベルは、とりあえず怪我をしていたり体調が悪そうな様子はないですが、と前置きした上で、心配そうな表情を崩さなかった。
「念のため、明日にでも医療塔にお連れした方が良いでしょうか?」
医療塔とは、アストリア城を囲む巨大な塔の一基だ。本来もう少し長い正式名称を持っているのだが、他の「魔術師塔」や「騎士塔」などと同様、城内の人間は「医療塔」という分かりやすい通称を用いることがほとんどである。医療塔はその名の通り医療関係者が管理する施設で、主に城の内部者の診療や専門的な検査などを請け負う他、城外から訪れる人間の外来診療も行っていた。つまり、端的に言えば病院だ。
しかし、アルスはミナベルの提案に首を振った。
「知り合いの医者をここに呼ぶよ。彼女を外に連れ出すのは、しばらく控えよう」
ククは兄の意図をなんとなく察した。
「陛下や城の人たちには報告しないってことだよね?」
「ああ」
アルスは首肯し、付け足した。
「その方がいいと思うからね」
それ以上の説明はなかったが、ククは反対しなかった。
ただでさえ厄介な状況なのだ。下手な周知で事態が更にややこしくなる可能性を案じれば、反対する理由などどこにもなかった。




