第40話
これから書き始める文章に、何か意味が生じるのかは分からない。多少有意義なものになるかもしれないし、まったくの無駄に終わるかもしれない。けれど、どちらであっても大した違いはないだろう。
結局のところ、これはただの気まぐれ、ただの暇潰しにしか過ぎないし、誰かがこれを読もうが読むまいが別に構わない。
ただ、俺は俺の話を勝手にするだけだ。
俺には、他の人間にはない力がある。それは今はもう存在しないリバリティという国の、地下研究所で与えられたものだ。
元々研究所で生まれ育ったわけではないけれど、かと言って平穏な家庭の子供だった記憶もない。
俺は六歳離れた妹との二人兄妹で、父親は獣人だけど母親は普通の人間だった。
父親に関する思い出は少ない。元からほとんど家に帰ってこなかったし、妹が生まれた直後に出ていって、それきり。まあよくある話だ。
母は自分を捨てた男をひたすら恨み、本人に届かない矛先は俺たち兄妹に向かうことになった。それでも外面はいい人だったから、他人から見れば俺と妹は問題なく育てられているように見えたかもしれない。実際、折檻を受けずにうまくやっていける日もそれなりにはあったし、このままどうにか折り合いをつけて家族の形を維持出来るかもしれないと思ったこともある。
けれど、それは俺の馬鹿げた勘違いだった。
ある冬の朝、母が不在の家に妙な連中が現れて、俺と妹は揃って小さな馬車に押し込められた。
それで辿り着いたのがリバリティの王都だった。
自分たちが売られことを理解するのに、さほど時間はかからなかった。
馬車の中で、目的地は「研究所」だと聞かされていたけれど、詳しい話は何も教えてもらえなかった。
町外れに建つ家屋から地下へ続く階段を下りるまでの間、監視は二人しかついていなかったから、逃げだそうと思えば逃げられたかもしれない。俺は十六になる歳で、まあまあ力もあったから。うまく逃げおおせれば、そのまま一人で生きることも出来ただろう。
でも、結局そうはしなかった。
俺と妹は研究所で暮らすことになった。
研究所が何のために存在するのか。
それはひとえに「神」を作るためだった。かつてこの世界を創造した万能の女神、リフレイン。凡庸な人間を彼女に等しい存在に昇華させることが研究所の命題だった。
その所内で生きる者たちは「素材」と「管理者」に二分されていた。何のひねりもない、書いたままの名称だ。
素材側は妹と同年代、つまり十代前半くらいが一番多かった気がするけれど、もっと小さな子供もいれば、ごく少数ではあるものの二十代、三十代に見える大人の姿もあった。そして、普通の人間もそこそこいたものの、獣人がやたら多かった。世間的には珍しいはずの半妖精や緑肌種の子供もいたけれど、いつの間にか彼らの姿は見かけなくなった。
そういえば、絶滅種のエルフも見たことがある。流石に純血ではないだろうけど。
さておき、自分以外の素材たちとは共用の食堂で交流の機会があったので色々話を聞いていると、俺と妹のように外から連れられてきたと語る人もいれば、研究所で生まれ育ったという人もいた。
ただ、来歴はそれぞれ異なっていても、俺たちが総じて「素材」であるのに変わりはなかった。
一方で、俺たち素材の管理者は純粋な人間ばかりだった。先生と呼ばれている人間もいれば、博士と呼ばれている人間もいたけれど、呼称の違いによる立場の上下はよく分からない。とにかく連中は獣の耳や尾とも、エルフの透き通る肌色とも無縁だった。当時はその理由も分からなかったけれど、今ならなんとなく察しがつく。ただ、それをあえてここに書く必要もないだろう。
研究所での日々――管理者たちの素材として生きる暮らしは、割合誰にでも簡単に想像出来るんじゃないかな。
幸いと言うべきか、研究所の掲げる計画とやらは俺たちが連れてこられた時点でそこそこ煮詰まっていたらしく、素材仲間の先輩に言わせてみれば、「今は多少マシ」な状況とのことだった。実際どう考えても死に直結するような無茶な実験は少なかったけれど、それでも得体の知れない薬品を体にぶち込まれるのは当たり前だったし、個体によっては早々に使い物にならなくなるのも珍しくなかった。
それが多少マシと言うのだから、以前の環境は推して知るべしということだろう。
管理者たちの愉快な実験に協力した結果、使い物にならなくなった素材がどうなるか。これもあえてここに書く必要があるとは思えないけれど、かつての自分が辿りかねなかった道だし、一応記しておこう。
生きていようが死んでいようが素材は素材だ。使えるものは最後まで使うし、使えなくなったら処分される。
それだけだ。
さておき、そんな研究所で俺たち――俺と妹は随分長い間生き延び続けた。
別に二人とも並外れて頑丈だったわけじゃない。獣人だから普通の人間よりは多少丈夫かもしれないけれど、俺たちより体格や体力に恵まれた素材は他にいくらだっていた。けれど、そういう人たちがあっさり命を落としても、俺たちに死が巡ってくることはなかった。だから、俺たちはただ単に運が良かったんだと思う。
そう、運が良かったんだ。
そのおかげで俺はまだ生きている。
***
瞼を開くと、少し離れた壁際で蠢く小さな炎が見えた。
長らく光から遠ざかっていた瞳にはわずかな灯火さえも眩しくて、ライックは上げた腕で焔の色を遮った。
(……だるいな)
体はどこまでも重く、自分のものだという感覚が乏しかった。脳もまだ覚醒状態には遠く、それに従属する肉体も久しぶりに与えられる無数の指示に混乱しているようだった。
「気分はどうだい、神様」
軽薄な声が背中を叩いた。金属板のように強ばる上体を無理やり捻ると、声音同様に情の薄い笑みを浮かべた若い男がこちらを仰いでいた。
「……黒、塚……」
「おっ、覚えててくれたんだな。嬉しいぜ、心からな」
男が乾いた声で笑い、細い足を軽く振る。と、同時にライックの足下に展開されていた黒い魔法陣が音もなく消失した。
浮上する力を失った体は、受け身を取る間もなく落下した。
「いったた……乱暴だな……」
文句を言いつつ起き上がると、全身を覆う違和感が随分薄くなっていた。どうやら衝撃を受けて体と脳が本格的に活動を始めたらしい。
「悪い悪い。それ、割と力を喰うんだよ。あんたが目覚めたんなら、さっさと片付けときたくてな」
黒塚が軽い調子で言って、傍らの簡素な椅子に腰掛ける。
「……ふうん」
ライックは床を見下ろした。
散らばった術式の痕跡から推測するに、生体を修復・保持するような力が働いていたようだ。寝起きのこの体がそれなりに快適なのも、そのおかげだろう。
顔を上げると、黒塚の背後、壁に寄せられた机に分厚い本と何かの計器らしき物体、その他の雑多な道具が乱雑に置かれているのが目に入った。多くは、薄く埃を被っている。
「で、あれからどれくらい経ったんだい?」
「聞いて驚け。六年だ」
「ああ、そう」
「なんだよ、驚けっつーの。ノリ悪いな。てかよ」
黒塚が闇色の目を眇めながら身を乗り出してきた。
「神様くん、あんたがこの俺様の忠告を聞き入れてもう少し慎重にやってくれてたら、ここまで時間も手間も掛からなかったんだぜ? ほんと、心臓も脳もがっつりやられてたからな。いくら防御術張ってても限界あるっつの。自殺志願者かよ」
「まあでも、君のおかげで死なずに済んだよ」
「あんただけでも死ななかっただろ、どうせ」
黒塚は鼻で笑ってから、すぐにその笑みを引っ込めた。
「あ、あと顔は流石に完全に治んなかったからな。俺のせいじゃないから許せよ」
「……ああ」
頬や目元に触れると、左側の皮膚だけ引きつるような感覚があった。しかし、これといって視覚や嗅覚に問題はない。大したことではないだろう。
顔から手を離し、ライックは改めて周囲を見回した。
狭くて薄暗い部屋だ。窓はなく、灯りは燭台の炎だけ。以前拠点にしていた屋敷と少し似ているが、あれはライックの魔法が作り出した空間で今はもう存在しない場所だった。
「新しい寝床を用意してくれるなら、もっと爽やかな場所がよかったな」
「文句言うなよ。それにこういう方があんた好みだと思ったんだがな。ほら、いかにも悪の巣窟っぽいだろ?」
「悪、ねえ」
「別に宗旨替えして正義の味方になるって言うなら、それはそれで構わねえけどな。って、神様に宗旨替えなんていうのもおかしな話か。……ま、とにかく」
立ち上がった黒塚が、ライックの鼻先に顔を近付ける。
甘く腐敗した死の匂いが鼻孔をくすぐった。
「あんたの祈りも物語も、まだ始まったばかりだ。そうだろ?」




