第4話
テトラの村から、健康な若者の足で歩いてほぼ丸一日。穏やかな森を抜けた先に「隣町」と表現するにはやや無理のある、イートという町がある。魔獣対策の外壁に囲まれた、テトラと比べれば人口は多いが基本的には静かで平和な町だ。
そんなイートの町の中心街からは少々離れた小さな宿で、ククはベッドに荷物を投げだして、自らもその隣に寝っ転がった。
軽くシャワーを浴びたばかりの体はもう雨にも魔物の返り血にも濡れてはいない。それでも、まだ流しきれない何かが体を覆っているような気がした。疲労感ともまた違う、もっと何か、嫌なもの。
結局、クレストの手がかりを見つけることは出来なかった。
あれからガルベラの家を後にしたククは、村外れにある彼の自宅へと足を向けた。その途中、進行方向から村の男たちが苦りきった顔で歩いてくるのを見かけて嫌な予感がしたが、いざ彼の家に到着してみれば、予感は大当たりだった。
クレストの住居に残されていたのは、元々あった最低限の家具だけだった。彼の私物は、日用品などは勿論、食料一つでさえ残ってはいなかった。既に誰かに持ち出された可能性もないわけではないが、恐らくそうではないだろうとククは確信を抱いていた。
クレストは何も残さなかったのだ。自分の痕跡を、何一つ。
恐らく彼が再びこの地に戻ってくることはないのだろう。
その現実を確認して、ククもまた村から旅立つことにした。
……したのだが。
「これからどうしよう……」
ククに今後の当てはない。村で発見されるより前の記憶は持たず、村で出会った人々以外に知り合いもいない。
ないない尽くしだが、唯一路銀だけは即刻行き倒れずに済む程度には持っていた。荷物にいつの間にか入っていたのだが、きっとガルベラが情けをかけてくれたのだろう。
しかし、それにも当然限りはある。無一文になって身動きが取れなくなる前に、まずは大きな町へ行って何か仕事を探した方がいいかもしれない。
ただ、今はそんなことよりも。
「……お腹、減ったなぁ」
思えば祭りの日の昼以来、何も口にしていない。
とりあえず何か食べよう。そう決めて部屋を出ようと扉を開けると、目の前にまさに今ノックをしようというような恰好で固まっている男がいた。
「び、びっくりしたぁ……」
よく見れば、相手は先ほど受付をしてくれた宿の主人だった。
相手はしばし窺うような表情でククを見下ろしていたかと思うと、急にその表情を明るくした。
「ああ、やっぱり! お客さん、また来てくれたんですね」
「……また?」
「あ、ちょっと待っててください!」
言うなり、主人は廊下をどたばたと走っていく。どちらにせよ外出するつもりだったので、ククもその後を追いかけた。
ロビーに着くと、ドア近くに設けられた古いカウンターの内側で主人の頭が動いているのが見えた。しゃがみこんで何かを探しているようだ。
「あの……」
「はい、どうぞ!」
立ち上がった主人が、手に乗せた何かをククに差し出した。
「これ……髪飾り?」
反射的に受け取ったそれに、ククは小さく首を傾げた。
両手に乗るほどの大きさのそれは、青く透き通った不思議な素材で作られた髪留めで、形は蝶を模しているらしい。
らしい――と言うのは、羽と思しきパーツが壊れてバラバラになっているからだ。本来左右対称の羽を広げているものが、合わせ目で真っ二つに折れてしまったようだ。
「この間の忘れ物です。と言っても、もう半年以上前ですが」
そう言われても全く身に覚えがない。しかし、そう答えようとする気持ちとは別に、奇妙な感情のさざめきがククの胸の奥を揺らしていた。
黙ったままでいるククを、主人が怪訝そうに覗き込んだ。
「どうしたんですか? それ、お客さんのでしょう? 部屋に置いたままだったんですよ。ああその、ちょっと壊れてますが……。私が見つけた時には、もうこの状態でしたから」
繕うような声が遠く聞こえる。心音がうるさくて、妙に足元が心許なかった。自分がこの場所にちゃんと立てているのか、不安になる。
にわかに痛み始めた頭を振って、ククは問うた。
「あの、わたしが、ここに来たんですよね? 間違いなく、わたしでしたか……?」
「ええ……そうですが……」
主人もさすがに不審に感じたようだが、商売柄か露骨な態度は取らなかった。代わりにカウンター内の本棚から帳簿らしき一冊を取り出し、しばらく手繰った後、開いたページをククの前に差し出した。
「ほら、これ。……お客さんの名前ですよね?」
七か月ほど前の日付の下。
そこには見覚えのある、けれどどこか乱れた筆跡で、他ならぬククの名前が記されていた。
「これ……やっぱりわたしのなんだよね……」
なんだかんだで食欲には勝てず、近場の屋台で簡単に夕食を済ませた後。再び戻った宿の一室で、ククは掌の上の蝶を見つめて呟いた。
いくら髪飾りを眺めても、やはり記憶は戻らない。先ほどの奇妙な胸のざわめきも今はすっかり身を潜めているが、仄かに感じる懐かしさだけは唯一消えずに留まっていた。
そっと掌を傾けてみる。
二枚の羽が軽くぶつかり、小さな冷たい音がした。無残な死骸のような姿が少し可哀想そうで、両手で摘まんだ羽を元の形になるように合わせてみる。と。
「あれ? ……直った……の、かな?」
軽く振ってみても、一対の羽は昔からずっとそうだったかのように、ぴったりとくっついて離れない。本来の姿を取り戻した蝶は、どういう仕組みか、かすかに青い光を放ちながらククの手の中に収まっていた。
「……」
束の間の躊躇を経て、ククは蝶を自らの髪へと導いた。
もたつくこともなく、あっさり止まった髪飾りのささやかな重みは何の違和感もないどころか、むしろしっくりと身に馴染むようだった。
ククは立ち上がり、扉近くの姿見の前に立った。
そこにはごく平凡な顔立ちの、けれど少し困ったような表情の少女が、頭の左側に蝶を下げて映っていた。
彼女の子供の頃の姿をククは知らない。今は肩を掠める程度の髪が違う長さだった頃の姿も、そもそもそんな時があったのかすらも知らない。親の顔も、兄弟がいるのかも、何も、何も知らない。分からない。
けれど、青い髪飾りをつけた少女は、確かに「わたし」だ。
急に力が抜けてきて、ククはベッドに転がった。
弾みで揺られた髪飾りが、しゃらりと優しい音で鳴る。
(なんだか、安心する)
そう思う内に、柔らかな眠気がゆっくり全身を包んでいった。
それから、どのくらい経っただろう。
「……ん」
暗闇から意識を呼び戻され、ククは体を起こした。
見上げた窓の外はまだ薄暗いが、夜明けは近そうだった。夢も見ずにぐっすり眠っていたおかげで、疲れはすっかり取れている。二度寝する必要もなさそうだ。
(……散歩でもしようかな)
着替えたククは宿を出て、人気のない、ひっそりとした朝の町へと繰り出した。
眠る家々の上に広がる空はうっすら白んでいる。綺麗に舗装された通りには猫一匹歩いていないが、どこかで鳥が鳴いていた。朝の訪れを告げるにしては幾分主張が激しいその声に導かれて歩いていくと、町の入り口が見えてきた。
町は高い外壁に囲まれているが、魔獣の生息地から離れた土地柄故か、表門に設けられた通用口は常に開放されているようだった。
そこから町の外へ出ると、大きな外路がずっと遠くまで伸びているのが視界に入る。
周辺には草原が広がり、町からも道からも少し離れたところに背の高い痩せた木が一本、はぐれたように立っていた。
その周りを、無数の野鳥が激しく飛び回っている。自分たちの住処の下に立つ、少年と馬を拒み、威嚇するように。
「……クレスト?」
はじめは見間違いだと思った。一歩、二歩近付いて、夢を見ているのだろうとも疑った。けれど、とうとう駆け寄り、残り数歩の距離に至っても、少年の姿はその場に残ったままだった。
「クレスト!」
ククの呼びかけに応じて、クレストが顔を上げた。
しかし、その顔にはどんな感情もない。金色の瞳さえ真っ暗な虚のようだった。
息を呑みながら、それでもククは言葉を探す。
どうしてあんなことをしたの? なぜ今ここにいるの?
「あなたは……何者なの?」
他のどんな疑問でもなく、唇から零れたのはその言葉だった。
ククの知るクレストは、ある時村にやってきた、少しぶっきらぼうだけど親切な少年だった。それ以外の可能性について考えたことなどなかった。だけど、それなら村の神剣を解き放ち、魔物を残して立ち去った少年は誰だった?
そして、今目の前にいるこの少年は?
「さあな」
何の温度もない声が返る。クレストの表情に変化はなかった。
「それを知るために、行動している」
「どういうこと……?」
混乱するククの頭に、ある可能性が過ぎった。
「もしかして……クレストも……」
ククの言葉を待たず、クレストは傍らの黒い馬に飛び乗った。冷えた風に、少年の線の細い体を覆う外套が黒い翼のようにはためく。
「クレスト、待って! まだ話は終わってない!」
追い縋ろうとしたククを、無感情な眼差しが見下ろした。
「お前には関係のないことだ」
「クレスト……!」
駆け出した馬はあっという間に遠ざかる。叫んで、走って、追いかける――けれど、届かない。どんどん離れていく。
やがて、クレストの姿は彼方に消えた。
「……っ」
ククは荒れた草むらの中で膝をついた。
息は切れ、全身が熱かったが、胸の底は冷たかった。
「関係ない、か……」
確かにその通りだった。ガルベラやルーナの顔が過ぎる。何を大切にして、何に固執するべきだったのか。きっとわたしは間違えた。だけど、それでも……。
「……?」
背後で激しさを増す鳥の声に、ククは振り返った。
いつの間にか霧が薄く広がっていた。もう朝日も出ているだろうに、視界はむしろ先ほどより悪い。乳白色に滲む景色の中、クレストを見つけたあの大木が曖昧なシルエットだけを残していた。叫ぶような鳥の鳴き声はそちらからだけではなく、あちこちで上がっている。
その原因が、霧の中から現れた。
野犬。いや、うっすらと輝く毛並みは普通の獣ではあり得ない。魔力によって変質した獣――魔獣だ。そうククは理解する。
数は三頭。対してククの武器は、何もない。
「……っ!」
魔獣が地面を蹴ると同時に、ククは町へ向かって駆け出した。
遠吠えが上がる。荒い息遣いと、乱れた足音が背中に迫る。
飛び掛かってきた一匹に組み付かれ、ククは地面に転がった。
体を捻り、視界いっぱいに広がる真っ赤な口から無理やり逃れる。息を止め、精一杯の力で獣の横腹に膝を叩き込むと、敵がわずかに怯んだ。その隙に何とか立ち上がり、迫ってきた新たな一匹から身を躱す。
どうしよう。どうしたらいい。
周囲はいよいよ霧に包まれ、武器になるものはおろか町も見えなくなっていた。戦うには不利。逃げても追いつかれる。でも、どうにかするしかない。
ククが覚悟と共に拳を握った瞬間。
一陣の風が吹き抜けた。
ぱきりぱきりと音を立て、霧に濡れた地面が、草が、瞬く間に凍りついていく。唸る獣たちもまた、一瞬の後、氷像へと姿を変えていた。
(何が起きたの?)
ククは周囲を見回した。冷え切った風に全身が震え始めていたが、体が動くことにむしろほっとした。手足をぎくしゃくと動かしてどこも凍っていないことを確かめていると、再び風が吹き抜けて、既に薄れつつあった霧を呆気なく一掃した。
遠くも近くもない距離に、一人の少年が立っていた。
透き通るような肌に、輝く細い銀の髪。瞳は深い青で、いかにも涼やかだ。まるで氷で出来たお人形みたい。冷気の名残に肌を撫でられながら、ククは思った。
「あなた、誰?」
問いかけると、少年は長い睫毛に縁どられた目を軽く細めてククを見た。何かを探るような視線だが、言葉は一切返ってこない。ククは再び問いかけた。
「あの、わたしを助けてくれたんだよね?」
無言。
「ええと、その……ありがとう」
これも反応無し。もしかして言葉が通じていないんだろうか。
「どうしよう……わたし、この言葉しか話せないしなあ……。えーっと、あなたは、どうしてここに?」
何とか察してもらえるよう、身振り手振りを交えながら一生懸命話しかけてみる。これで駄目なら、
「目的がある」
「え? ……え? 目的?」
ククは少年を見る。少年も推し量るようにククを見ていた。
一体彼は何者なのか。当然分かるわけもなかったが、言葉少なな少年に、どこか重なる姿があった。わずかな期待を込めて、ククは尋ねた。
「……もしかして、あなたもクレストを探してるの?」
「……そうだと言ったら?」
「本当!?」
思わず詰め寄ったククに、少年は表情を変えなかった。
ククは少し体を離して、少年の姿を改めて観察した。
少年はただの旅人にしては綺麗な恰好で、着ている紺色のローブも随分立派なものだ。けれど怪しかったり危なさそうだったり、害意のある人間には見えなかった。
「あの、よかったらそれ、一緒に行っていいかな?」
自分の方がよほど怪しく見えるのは承知で、ククは少年に頭を下げた。
「わたしもクレストを探してるの。だから、お願いします」
どうしてまだクレストを追おうと思うのか。その理由は自分でもよく分からない。それでも何故か諦めきれなかった。
関係ない。そう本人から言われても。
「あの……って、あれ?」
長い沈黙に耐えかねて頭を上げると、目の前から少年がいなくなっていた。慌てて視線を巡らせると、町へ向かって歩いていく背中が見える。
「ま、待って!」
呼びかけると、その後ろ姿が振り返らないまま立ち止まった。すかさず駆け寄ったククに、少年は訝るような表情になる。
「……何?」
「あの、わたしもついていっていい?」
少年はしばらく黙ってから、何を言っているのか理解できない、と言うように首を傾げてみせた。
「……もうついてきていると思うけど」
「あ、それもそうだね」
今度こそ少年は歩き出す。ククが並んで歩いても何も言葉は返らない。だけど、ついてくるなとも言われない。これからそう言われたら……まあ、その時はその時だろう。
ククは尋ねた。
「わたしの名前はクク。あなたの名前は?」
アルス、と少年は名乗った。




