第36話
「おかえり」
サラノには何とか夕方前に帰り着いた……のはいいのだが、自らを迎えた予期せぬ第一声にククは思わず動きを止めた。
こちらから見えるのは、宿の室内で何か書きものをしているらしい細い背中と、テーブルの上に置かれたサンドイッチ。またしてもミナベルは不在のようだけど、それはまあいいとして。
(おかえり、かぁ……)
ククは別に兄を冷たい人間だとは思っていない。……思ってはいないが、本人が必要だと判断したこと以外はろくに言葉にしない性格である、とは理解している。
過去の記憶を遡っても彼の今しがたの発言は十分珍しがるに値すべきものだった。
そんなこんなで言葉を失っていると、向こうも怪訝に思ったのだろう。アルスが緩慢な動作で振り返った。
「……何?」
淡々とした声と瞳は、もう普段の彼のものだ。
「……ううん、ただいま。お兄ちゃん」
ククはほっとしつつ、湿って重い外套を脱いだ。
てっきりそれ以上会話はないものだと思っていたが、荷物から着替えを引っ張り出していると、「クク」と名を呼ばれた。
「……なあに?」
兄の表情はいつも通り冷静だったが、ククの心に伝わってくる感情は微妙に揺れていた。
「……僕は君に、残酷なことばかりしているのかもしれない」
「…………」
「そして、それは多分これからも変わらない」
「おにい、ちゃん」
何を言っているのかと笑ってしまえばよかったのだろう。
けれど、ククにはそれが出来なかった。怒り、嘆くことすらも、何も。
「僕たちは帰らなければいけない」
「……うん」
「クク、僕は……」
「分かってるよ、お兄ちゃん」
続く言葉を封じて、答える。
甘くも長くもなかった夢はもう終わった。目覚めればまた現実を歩いていくのだとは、最初から決めていたことだから。
去っていくディオンの背中を思い出しながら、ククは言った。
「帰ろ」
わたしたちは、わたしたちの帰るべき場所へ。
翌日、太陽が完全に昇ってから、ククは宿を出た。
診療所に着くと、杏里は個室で分厚い本を読んでいた。
「いらっしゃい……じゃなくて、おかえり、かしら」
微笑む顔は明るく、頬には赤みが差している。調子が良さそうな姿にほっとしつつ、ククは早速杏里に報告した。
あれからディオンを追いかけたこと。山小屋で雪を凌いだこと。彼が話してくれた過去については語らなかったけれど、二人で炎を見ながら色々な話をしたこと。
そして、お別れをしてきたことも。
ククの報告が終わると、杏里は「あいつも仕方ないわね」と呆れた顔で笑った。
「ま、そういう適当な去り方もあの男らしいんじゃない? あたしはククが後悔してないなら、それでいいわよ」
「それは、うん、大丈夫」
正直全く寂しくないと言えば嘘にはなるが、ディオンが決めたことなのだから仕方ない。
ククは気持ちと話題を切り替え、杏里と雑談を続けた。
当初は色々と戸惑っていた杏里もここの環境に随分慣れてきたようで、医師や看護師たちと仲良く話をしたり、時々一緒に食事をとったりもしているらしい。
診療所の日々を楽しそうに語る杏里の横顔に安堵を深めつつ、ククは躊躇っていた。
切り出さなければ。話さなければ。そう思えば思うほど、目を逸らし、逃げ出してしまいたい気持ちも強くなる。
(でも……伝えなきゃ)
弱々しく決意し、口を開きかけた時。
「そういえば、昨日の昼間にアルスが来たわよ」
杏里は穏やかな苦笑を浮かべていた。
「言いにくいことを、あんたの代わりに伝えにね。ほーんと、あれもなかなか不器用な人間よね」
「杏里ちゃん、わたし……」
「帰るんでしょ? アストリアの城に」
「……うん」
確信を伴う声音で問われて、ククはのろのろと頷いた。
杏里の表情は優しいままだったが、彼女が何を考えているのか、その心を読むことは難しかった。あれほどはっきりディオンの心が分かったことが嘘だったみたいに、力は今、ククに味方をしてくれない。
分からないなら訊くしかない。
意を決し、ククは切り出した。
「あのね、杏里ちゃん。杏里ちゃんさえよければ、わたしたちと一緒にアストリアのお城に行かない? 住むところは用意するし、これからのこととか、色々そこで……」
「一緒には行かないわ、クク」
杏里は微笑んだまま、そう言った。
「アルスにも誘われたけど、断ったの」
どうして、と問いかける声は掠れた。
だけど本当は、心のどこかではこうなることが分かっていたのかもしれない。それでもそれが嫌だったから、分からないふりをしていただけなのかもしれなかった。
「ねえ、クク」
杏里はククから視線を外し、傍らの窓を仰いだ。ククも誘われるようにそちらを見上げる。
雲が出てきたのか、外は薄暗かった。その内また雪が降り出しそうな曖昧な空模様を見上げながら、杏里は話し出す。
「……あたし、ずっと自分の居場所が分からなかった。桜花の里にいた頃から、今も。まだ見つけられてない。でもそれは、あたしを受け入れてくれる場所がどこにもないんじゃなくて、あたし自身がもっと色々なものを見て、ちゃんと成長しないと見えないんじゃないかって思ったのよ」
「杏里ちゃん…………」
「あたし、いつまでも弱いまま、不安なまま、誰かが差し出す手に飛びついて自分を誤魔化すのは、もうやめにする」
杏里が再びククを振り返った。
彼女の葡萄茶の左目は、ククを真っ直ぐ見つめていた。
「あたしはもっとちゃんと、人間になりたい。やりたいこととか居場所とか、自分の足で見つけていきたい。ここでずっと考えて、そう決めたの。あたしはあたしの未来へ行こうって。……それはクク、あんたやアルスと同じ道ではないわ」
心を読む必要などなかった。杏里の言葉には、嘘も迷いもない。
(もう、わたしが言えることも、何も……ないんだ)
諦めと共に、そう理解した。
「……うん。分かった、杏里ちゃん」
だけど困ったらいつでも頼ってね、とか。また会おうね、とか。
そんな言葉も浮かんだけれど、口に出してしまったら今すぐにでも別れが来てしまうような気がして、声は喉に張りついたまま、外には零れていかなかった。
「クク。ありがとう」
杏里の両手が、ククの手のひらを優しく包んだ。
「あんたがあたしを助けてくれたこと、忘れないわ。ずっと感謝してるし、ずっとずっと大好きよ。それは絶対に変わらない。あんたは、永遠にあたしのヒーローよ」
「わたしも杏里ちゃんが大好きだよ」
桜花の里で出会った、ちょっと寂しそうな女の子。だけど一緒に旅をしたら、隣で笑ったり怒ったり、賑やかで楽しくて、優しくて。その存在にどんなに救われてきただろう。
(わたしはもう、帰らなくてはいけないけれど)
だからこそ、あなたの旅立ちを祝福したい。
「わたし……たとえ近くにいられなくても、杏里ちゃんの幸せを願ってる。ずっと、ずっと祈ってるから。杏里ちゃんと一緒に、わたしもちゃんと自分の場所で頑張るから」
あの場所で、逃げずに。ちゃんと。
わたしも、わたしの道を行かなくては。
「だから、杏里ちゃん」
今度こそ、ククはその言葉を口にした。
「必ず、また会おうね」
握り合った手をそっと離して、二人の少女は進み始めた。
***
出発は冬日和の午後だった。
端々に溶け残った雪を残すサラノの港には相変わらず人の姿は少なかったが、かつての寂れ具合に比べれば今は活気づいていると言っても過言ではなかった。
それというのも、乱れた海流を前になすすべもなかった状況が一転、最近またしても潮の流れが変わったのをきっかけに再び漁業が行えるようになったためである。
この海の状態が続くのであれば、港はじき交通網としての機能も得るだろうと噂されているが、とりあえず現在のところはこの地から各地へ向かう船は出ていない……はずなのだが、地元の漁師が行き交うばかりの波止場の隅に、ぽつんと一艘、今朝から見慣れぬ貨物船が停泊していた。
漁師たちはもちろんすぐに異分子を見つけて囁き声を交わしていたが、どうやらそれが役所の許可が下りた船らしいと判明すると、すぐに興味を失った。
お偉いさんの関わることなど放っておけ、というわけである。
「もう少し華やかな船出がよかったんですけどねぇ」
その正体不明の貨物船の傍らで沈んだ色の船体を見上げながら、今日も輝かんばかりに白く着飾ったミナベルが嘆く。
「仕方ないよ」
ククは答えた。
「あんまり目立って海の上で面倒に巻き込まれても困るし……」
「まあ、クク様にはロマンが足りませんわね。そんなに地に足つけてますと、海賊に攫われるヒロインにはなれませんわよ」
「うん、なれなくていいよ」
多分、攫った方に怪我をさせてしまう気がするし。
「あああっ!」
いきなりミナベルが大声を上げた。
「な、なにっ?」
「姉上へのお土産を買い忘れましたの! 執念深い人ですから渡さないと何を言われるか! 出航はまだですわよね? わたくし、ちょっと行ってまいりますっ! すぐ戻りますから!」
そうまくし立てるや否や、ミナベルは優美な見目を裏切るダイナミックな爆走っぷりで町の方へ戻っていってしまった。
「えーっと」
置きざりのククは、周囲を見回した。
港は倉庫に囲まれて、町の喧噪は耳に届けど遠かった。冷えた風に、着込んだ外套がはたはた揺れる。
アルスの姿は見えないが、既に目の前の船内にいるようだ。
杏里からは、昨晩の内に「見送らないわよ」と宣言されていた。見送ったら、いつまでも別れられないのが分かるから、と。
だから当然、辺りにもう見知った顔はない。誰もいない。
こうしてぐずぐずしていても仕方ないとは思うのだが、これから帰路を行く船を前に、ククはなかなか踏み出せないでいた。
まだ、ここにいたい。
浮かぶ願いはそれだけではない。あんなに大変で、辛いこともあって、その願いを果たしても誰も幸せになれないと分かっているのに。抱くべき祈りではないのに。
それでも。
(……もう一度、最初からやり直したいなんて)
(わたしは、ばかだ)
頭を振って、愚かな感情を振り落とす。この期に及んで逃げ口を探そうとしている自分が情けなかった。
(わたしは、元の居場所に帰るんだ)
他でもない自分自身が決めたことを、胸の内に再び刻む。
そのまま重い足を踏み出しかけた、その時。
「クク!」
それは聞き慣れた声。けれど、そうやって名を呼んでもらったのは初めてだった。
「……ディオ」
振り返った先、大股で近付いてくる不機嫌そうな顔を見上げて、ククもまたディオンの名を呼んだ。
「もしかして、気が変わったの?」
「そうじゃねえよ。ただ……」
ククの前で立ち止まったディオンは言葉を切って、着ている上着のポケットに手を突っ込んだ。
乱暴に取り出したそれを、ククの鼻先に突きつけて言う。
「お前のだろ? 落ちてたぞ」
それは、青い蝶の髪飾りだった。
「落ちてたって、どこに?」
「あの小屋の近くだよ。お前を送った帰りに見つけた」
「え……? でも……」
そんなはずはない。何故なら、それはディオンを迎えに行く前にアルスに返したものなのだから。アルスだって、わざわざあの場所に捨てに行ったりしないだろう。
しかし、ディオンが嘘を吐いているとも感じなかった。第一、そんな嘘、彼に何のメリットもない。
「おい、要らねえのか」
痺れを切らしたようにディオンが言う。
ディオンの大きな手の中に収まった蝶は、まるで静かに眠っているように見えた。少し疲れて、でもまたいつか目覚めるように。
壊したり、捨てたりするのはなんだか可哀想。
そんな思いが浮かぶと同時に、手が自然に動いていた。
「……ありがとう。ディオが見つけてくれて嬉しいよ」
受け取った蝶を髪に下げると、何だかとても懐かしい、ささやかな重みにほっとした。もしかしたらこの蝶も、一緒に旅をしてきた仲間なのかもしれなかった。
ククはディオンを仰いだ。
「ディオと、また会えてよかった」
「うるせえ」
ディオンは渋面を作った。
「お前のだって分かってんのに放っといたら後味悪いだろ。つーか落とすなよ」
「えへへ」
「えへへじゃねーよえへへじゃ」
ディオンが呆れたように溜息を吐く。何度も目にしてきた彼のその表情を見るのは、けれどこれが本当に最後になるだろう。
潮風と共に、ディオンの凪いだ心が伝わってくる。
「ディオ……大変なことも悲しいこともたくさんあったけど、わたし、ディオに会えてよかったよ」
「……それはこの間聞いた」
「絶対忘れないよ、ディオのこと」
「そうかよ」
「ここまで来てくれて、ありがとう。それから、えっと」
言いたいことはもっと色々ある気がするのに、言葉がうまく見つからなかった。
「ほら。あれ、行くんだろ?」
ディオンがククの背後を指さした。
「……うん」
杏里の言っていた通りだ。これ以上喋っていたら別れ難くなる一方だろう。
だからもう、行かなくては。
「そうだね。えっと、それじゃあ」
「じゃあな」
ククはディオンに背を向け、船を仰いだ。いつの間に戻ってきたのか、甲板の隅で白い影がそわそわしている。
そちらから投げられる視線を避けるように顔を伏せて、ククはタラップに向けて歩き出した。
背中越しの気配は、まだそこにある。
「あの」
「おい」
中途半端に振り返った姿勢で、ククは瞬いた。
「……何だよ」
「あ、わたしは帰り道、気をつけてねって言おうと思って……。それより、ディオはどうしたの?」
「いや……」
ディオンは気まずそうに頭を掻いて、なかなか答えない。
長い沈黙を経た後でようやく、
「……まあ、いつか困ったことがあったら助けてやらんでもない、と思っただけだ。お前には多少の借りもあるしな」
下を向いたまま、そう言った。
「……あの、わたし、何かディオに貸してたっけ?」
「思いつかないならいい。この話はなかったことに……」
「ま、待って待って! やっぱり貸してたかも! 多分、きっと! その、だから……いつか返しに来てね」
「は? 俺がそっちに行く前提かよ」
「だって、わたしはディオがどこにいるのか分からないから」
ディオンは深々と溜息を吐き、更にぐるぐると唸ってから、諦めたように頷いた。
「……気が向いたらな」
「ほんと?」
「覚えてたらだ。約束はしねえ」
「してくれないの?」
「しない。したって意味ねえだろ」
「そっか……」
それなら仕方がない、けれど……。
「…………」
「…………」
「…………」
「……だああ! さっきから面倒臭いんだよお前は!」
大股で接近してきたディオンは、ククの手を乱暴に掴んで上下に激しく揺さぶった。
「ほら約束! これで気が済んだか? 済んだな? 言っとくが、たとえ破っても俺にはペナルティのない約束だからな! っつーか、もし守ったら凄まじい報酬要求するからな!」
「……うん! お金、いっぱい用意するね。あとご馳走とか」
「おう、期待してるぞ」
ディオンが手を離した。
それじゃあな、と一言残して、ククに背を向け、歩いていく。
「ディオ、またね!」
彼は振り返らず、上げた手を軽く振っただけだった。それは別れの挨拶と呼ぶには、やっぱり軽すぎるものだったけれど――それでもククは、去っていく姿が見えなくなるまで、しばらくその場に佇んでいた。
青い蝶と一緒に。
***
そろそろ、あの子は出発しただろうか。
杏里は診療所の中庭で、薄暗いとも薄明るいとも呼べそうな灰色の空を仰いでいた。
看護師たちからはまだ本調子ではないのだし、くれぐれも体を冷やすなと注意されたけれど、頬に受ける澄んだ風は心地よく、胸の澱まで優しく払っていってくれるようだ。
ただ、それでも静かな痛みは残る。
迷い、不安も。
もうあたしには、蜘蛛の糸は使えない。郷里との縁の力は失われ、永遠に戻ってくることはない。あの男と同じように。
喪失の事実は、辛い。悲しい。悔しい。どうしようもない苦しみを、泣いて喚いて訴えたい。
だけど、それでも――あたしは生きている。
片方の目を諦めて里を出た時のように。少しの力を手放して、またここから旅立てる。神様にはなれなくても、特別な力など得られなくても、そうやってあたしは人として生きていく。
零れた涙を指先で弾いて、杏里は彼方に呟いた。
「さよなら」
少女の旅に。あたしの迷いに。
そして、神様になんてならなくてもよかった、かわいそうな嘘つきに。




