第35話
ディオンはロザリアとイダと、三人で旅を続けた。
たくさんの町を見て、人間を見て、そこで営まれる数々の暮らしを見た。突然ロザリアに弟子入りを志願してきた少年もいたし、双子の盗賊に襲われたり、年老いた騎士と協力して化け物退治をしたこともあった。ロザリアは自分を取り巻くあらゆる人間に対して横暴であり、親切だった。
やがてディオンは人間という生き物の中にも良いものと悪いものが在るということを理解して、いつしか自身も人間であるということに以前ほど拒否感を覚えなくなっていた。
ロザリアとの日々も当たり前のものとなり、時折「楽しい」という感情が過ぎることすらあったが、しかしそれを口に出すことはしなかった。絆されたことが癪だからだという理由も勿論あるが、何よりイダがいたからだ。
イダもロザリアに対して以前のような強い憎悪を覗かせることは少なくなっていたが、彼女を恨み、倒そうと思う気持ちは消えていないようだった。既にロザリアに戦いを挑むことをしなくなっていたディオンとは異なり、イダはいつまでも彼女と戦い続け、負け続けていた。
そんな馴れ合いと緊張感を半々にした旅はいつまでも続くように思われたが、そうではなかった。
ロザリアと出会って二年。別れは突然やってきた。
ある冬の朝、ロザリアとイダと小さな町の古宿を出たところに、見慣れぬ兵士たちが現れた。数はおよそ十人程度。集団の後ろから一人だけ武装していない男が出てきて、ロザリアの前に立つと安堵したような笑みを浮かべてみせた。
「ここにいたんだね、心配したよ」
「……そう」
ディオンからロザリアの表情は見えなかったが、声音はひどく冷ややかだった。だから、てっきり二言目には彼女が男と敵対するものだとばかり思っていたが、そんなディオンの予想を裏切り、振り返ったロザリアの顔は明るかった。
「あたし、うちに帰る。だから、ディオ、イダ、あんたたちともここでお別れね」
ディオンは答えなかった。否、言葉を発しようとはしたのだが、その意志は悉く失敗し、口から出たのは間抜けな呻きだけだった。
「おい、どういうことだよ!」
イダがロザリアに詰め寄った。
「だから言葉通りよ。これからのあたしの人生に、もうあんたたちは必要ない」
「……っ! だったら、俺たちを元の姿に戻せ!」
イダに凄まれ、襟首を掴まれても、ロザリアの笑みは消えなかった。
「嫌よ」
「ふざけ……ッ、!」
振り上げたイダの腕を取って、ロザリアはいつも通り、自分より大きな体を容易く放り投げた。イダは兵士たちの上に倒れ込んだが、巻き込まれた彼らの悲鳴を無視して立ち上がり、再びロザリアの元へ向かいかけた。
だが、その進路を遮って、突然巨大な光球が現れた。
同じ光はディオンの目の前にも出現し、すぐに拡散したかと思うと、見慣れないものをその場に残した。
それは剣だった。ディオンとイダの前にそれぞれ一振りずつ、炎のような赤い輝きを放つ大剣と、全く同じ色彩を持つ兄弟のような細身の剣が地面に突き刺さっていた。
「それは餞別よ」
ロザリアの声は、どこか穏やかにディオンの耳を打った。
「あんたたちに与えた変化の呪いは、あたしが死ぬまで解けたりしない。だから元の姿に戻りたかったら、いつかあたしを殺しなさい。……待っているわ、あたしは、ずっと」
そう言って、呆然と立ち尽くすディオンも罵声を上げて追いすがるイダも無視して、彼女は男たちと去っていった。
後には、目的も居場所もない二人だけが取り残された。
「…………俺は、あいつを絶対に許さない」
イダの声音には憎悪が蘇っていた。ディオンの肌に伝わってくる怒りは、かつてのいかなる時よりも激しく深かった。
裏切られた、とイダは何度も罵った。あるいは「捨てられた」と言いたいのかもしれないと、ディオンは内心で考えた。
ディオン自身の思いは、よく分からなかった。裏切られたのかもしれない。捨てられたのかもしれない。けれど彼女の本意は別のところにあるような気がした。
何も、分からなかった。
それから一年が過ぎ、二年が過ぎた。
ディオンとイダは二人で各地を転々とする生活を送っていた。人として生きる術、金を稼ぐ方法はロザリアとの旅で学んでいたから困ることは少なかった。何度か訪れた町では、優秀な傭兵として頼ってもらえることさえあった。
イダはロザリアから得た細身の朱剣でどんどん強くなった。ディオンもイダの稽古に付き合って、少しずつ大剣の使い方に慣れていった。
ロザリアの行方は王都にいるらしいということくらいしか分からなかったが、それで十分だとイダは言った。
いつか絶対あいつを殺す。それがイダが剣を振り、強さを求める理由だった。同じ感情をイダが自分に求めていることは理解出来たが、それでもディオンはロザリアを恨めなかった。
毎晩、目を閉ざす度にあの傲慢な笑顔が浮かんだ。女神の証だという蝶を見せた時の寂しそうな声が蘇った。もう一度ロザリアと話がしたかった。彼女の姿が見たかった。
ロザリアに会いたかった。
やがて、その願いは叶えられた。以前ロザリアとの旅路の中で出会った少年が、ディオンとイダの前に再び現れ、告げたのだ。王都で彼女が暴れていると。
ディオンとイダが急ぎ王都に辿り着いた時にはもう、その地は壊滅状態にあった。
軍は崩壊し、広い市街には逃げ遅れた人間たちの死体があちこちに転がっていた。
ロザリアは焼け落ちた城の残骸を巣としている――そう教えてくれたのは、ディオンたちの元から彼女を連れ帰った兵士たちの一人だった。彼らを率いていた男は彼女にとっくに殺されて、死体の首だけしか回収出来ていないという。
ディオンとイダは生き残っていたわずかな軍兵たちと共に、城下の廃墟に身を潜ませた。そこで、ロザリアを待った。
不吉に赤い夕日が町を染める頃、地を裂くような獣の咆哮が響き渡った。
風が瓦礫を巻き上げ、廃墟に轟音と衝撃が落ちた。頭上に空いた風穴から数十もの赤い目が覗き、幾百もの蠢く触手が壁や天井を剥がして悲鳴を上げる兵士たちへと襲いかかった。
花弁のような口を開いた触手に頭から食われる者もいる。締め上げられ、五体がばらばらになる者もいる。力づくで犯され発狂する者もいる。
人ならざる存在による狂宴はしばらく続き、やがて満足したのか、異形は去った。
その場に残されたのは、ディオンとイダを含む数名の生き残りと、玩弄され、うち捨てられた数えきれない死体の山だった。
ディオンは廃墟から飛び出した。
振り仰ぐと、赤黒い空を泳ぐ、かつてロザリアだったものの姿が小さく見えた。
その生き物の形は、ディオンがこれまで見てきたどんな生物とも異なっていた。巨大な翼を広げて飛行する様は、人の形を与えられる前のディオンやイダの姿と多少は似ているかもしれないが、もっと本質的なところで、彼女はこの地上のどんな生き物とも乖離していた。
「俺は覚悟を決めたよ、ディオン」
いつしか隣にイダが立っていた。イダは血の気の引いた顔で彼女の消えた空を睨んでいた。
「俺は、あれを殺して終わらせる。……最初から、そういうつもりだったもんな」
いつまでも答えないでいるディオンに、イダが苛立った顔を振り向けた。
「そうだろ? 違うか? 答えろよ」
ディオンは首を振った。
イダの判断が正しいと、彼女を殺すべきだと、頭では理解していた。あれを放っておけば、この地は滅ぶ。それだけでは済まない可能性もある。分かっている。
けれど、口を衝いて出たのは別の言葉だった。
「あれはロザリアじゃない」
その言葉は驚くほど容易くディオンに馴染んだ。
そうだ、あれはロザリアではなかった。俺の知る彼女はあんな化け物などではない。あるはずがない。
「おい、何言ってんだよ……。分かるだろ? お前だって感じただろ? あれは確かに……」
「違う」
俺は認めない。認めないでいれば、それが真実に変わる気がした。
たとえ今、この地でどれだけ多くの人間が死んでいたとしても、ロザリアは無関係だ。あれは彼女とは何の関わりもない化け物で、彼女は、ロザリアはきっとどこか別の場所で元気に生きている。……きっとそうだ。
「お前は結局逃げるんだな」
イダが、吐き捨てるように言った。
「一族の誇りを捨てた時点で、俺はお前を見限るべきだった」
緋色に輝く剣を手に、イダは一人去っていった。
他の生き残りたちが皆逃げ去った後も、残されたディオンは動けなかった。
やがて日が完全に沈むと、周囲は闇に包まれた。
彼方から化け物の甲高く不愉快な鳴き声が絶えず響いていたが、暗すぎて状況は分からない。
ディオンは自らの手にする赤い剣に視線を落とした。常に淡い輝きを宿していたはずの刀身が、今はかすかにも光を放とうとはしなかった。心中に疑問が過ぎる。と同時に、声がした。
――ディオ。
それは聞き慣れた彼女の声だった。
突然の雨のように、ディオンに無数の声が降り注いだ。
――これからあなたたちはあたしの下僕よ。せいぜい利用させてもらうから。
――昔、ある研究所である計画が立ち上がったの。
――あたしはその実験のたった一人の生き残りにして、まあまあの成功作ってわけ。
――あたしはね、あたしを殺せる人間を探しているの。――あたしを殺して。――お願い、ディオ。あたしを。
――あたしを、助けて。
「…………っ」
ディオンの頬に冷たいものが流れた。
いくら拭っても、拭っても、それは止めどなく溢れて落ちた。
膝をつき、冷たい剣の柄を強く握り締めたまま、ディオンはすすり泣いた。
どのくらい、そうしていただろう。
地面が揺れ、冷たい風がディオンの背を叩いた。
巨大な赤い光が、空を焼いていた。
剣を手に立ち上がり、ディオンは光を目指して駆け出した。
散らばる残骸。破壊された武器。転がる死体。それらすべてを踏み越えて辿り着いた、瓦礫の山の上。
そこには倒れ伏すイダの姿があった。
彼の手から離れた剣を――その剣が発する紅の光を、異形の巨大な前脚が踏み砕く。耳障りな笑いを上げながら、破壊する。
地上に君臨する彼女の相貌に、もう理性の色はない。人の心も思い出もきっともう持っていない。持っていないと思わなければ、ディオン自身が耐えられなかった。
ディオンは彼女に斬りかかった。
彼女が振り回す鋭利な爪が皮膚を裂き、伸びてきた無数の触手が出来たばかりの傷口を抉った。脳神経を鷲摑みされるような苦痛が体の内側で爆発する。ディオンが絶叫とも咆哮ともつかない声を上げながらただ闇雲に剣を振ると、赤い刀身から光が放たれ、彼女の体を貫いた。
「ァアアアアアッ!」
「ッ……ッ、……」
絶叫する彼女に地面に叩きつけられ、吐瀉物と血で息が詰まる。ふらつく足で立ち上がり、ディオンは剣を握り直した。
暴れ狂う彼女に全身で突っ込み、剣を振る。振り続ける。
投げ飛ばされ、叩きつけられ、痛みで視界が白く染まる。生と死の境界が曖昧になる。この体はもう半分以上死に踏み入れているのかもしれない。それならそれで構わない。
それでも彼女のことを救いたい。
もはや前後の区別もなくなった空間で、体に触れる温もりに必死で剣先を押し込むと、自分と彼女の叫びが爆ぜて、やがて途絶えた。
…………。
暗闇に音が響いていた。
水の音……いや、雨音か? 体に冷たい雫が当たる。瞼を開くと、睫毛を伝った水滴が目に流れ込んで視界がぼやけた。何度か瞬きして、やっと目の前の地面に焦点が合う。
重い腕を動かし、ディオンは体を起こした。
(ここは……?)
ディオンを囲んでいるのは荒廃した大地だった。どこまでも続く灰色の地面を、曇天から滴る雨が濡らしている。
こんな場所には見覚えがない。
(一体何が起きた?)
振り返ると、背後に茶色い小山があった。ずぶ濡れた体で立ち上がり、そちらに向かって歩き出すと、すぐに爪先に何かがぶつかった。
見れば、黒く尖った物体が地面から突き出している。
(これは……剣?)
膝をつき、湿った土を掘り返す。
やはり剣だった。刀身は黒いが、錆びたり焦げたりしているわけではなさそうだ。嫌な予感はすぐに確信に変わった。
それはロザリアがイダに渡した剣だった。緋色の輝きは失われ、刀身から柄の先に至るまで何もかもが黒く染まっているが、間違いない。これはイダの剣だ。
「イダ……!」
剣がここにあるということは、持ち主もどこかにいるはずだ。
ディオンは足元を探した。剣と一緒に埋まっているのではないかと思ったが、少なくとも見える範囲に姿はない。
顔を上げると先ほどの小山が視界に入り、ディオンは思わず呻いた。
高く積み上がったそれは、山などではなかった。小山と見えたものは生き物の死骸だった。かつて少女だったその生き物は、もはやただの肉塊と成り果てた姿で打ちつける雨に湿った腐臭を放っていた。
「ロザリア……」
躯に近付き、指先で触れる。骨から剥がれた肉が、びちゃびちゃと地面に落ちてゆく。
これはもう生き物ではない。ただの物体だ。だが、それでも、見覚えのない世界で他に縋れるものなどありはしなかった。
「ロザリア……」
答えてくれ。ここはどこだ。君はどこにいる。
ざあざあと雨の音が強くなる。
そこに、異質な音色が混じった。
「……ア、アア……」
声だ。そう気付いた時には、異変は既に始まっていた。
ディオンが振り返った先、黒い地面の上に人型の生き物が頭を抱えて蹲っていた。
人、と断言出来なかったのは、それが完全な人間には見えなかったからだ。黒い頭、黒い手足。背後の巨大な死骸以上に強く放たれる、腐った肉の匂い。生き物と呼ぶことさえ躊躇われるその影は、しかし生きて、呻いていた。
「アアア……ァア、ア……」
その声には覚えがあった。
「イダ?」
ディオンは呆然と歩み寄る。
途端、影がびくりと震えた。瞳も口もない頭が、怯えたように上げられる。
「……ディオン、か?」
ああ、とディオンが頷いた瞬間。
「殺してくれ! 俺を、今すぐに!」
影が、ディオンの足下に縋りついた。
「今なら間に合う! 頼むから、今すぐこれを止めてくれ!」
懇願する声に、ディオンは後ずさった。
目の前のそれは人間には見えなかったが、必死に訴えてくる声は確かにイダのものだった。ならば、殺せ、などと言われたところで殺せない。殺せるわけがない。
「ディオン、頼む……頼むよ……」
「んなこと……出来るわけないだろ……」
ただただ首を振り続けるディオンに、影もまた訴え続けた。
殺せ。殺してくれ。今なら間に合う。早く。早く殺せ。
そう何度も。何度も。
だが、やがて、
「っぐ、あああああっ!」
影が咆哮した。
雨が激しさを増し、影を覆う黒色を洗い流していく。
ややあって、のろのろと立ち上がったのは、先ほどまでの黒い影とも、今までのイダとも異なる姿の「男」だった。
黒い髪、黒い瞳。ディオンと同じだった「イダ」の色は、もうどこにも残っていない。けれど、蝋のように白い肌には、腐臭がべったりとこびりついたままだった。
「……はっ」
顔を上げた男が肩を震わせ、笑い出す。引き攣る唇から零れる笑い声は、徐々に大きくなっていった。
その歪な笑声の響く大地で、ディオンはようやく理解した。
目の前に広がる灰の荒野。この地が先ほどまでディオン自身がいた場所と同じ、あの王都であるということを。今こうして流れている時間が、確かに現実のものであるということを。
壊れた世界に壊れた存在として取り残されたということを、ようやく――ようやく理解した。
***
「そうして当時の首都は滅びて、俺とイダだけが生き残った。俺らが無事だった理由ははっきりしないが、ロザリアの渡した剣か、もしくはロザリア本人から何か影響を受けたんだろうな。そうやって生き延びた結果、気付いたら死から拒絶されるようになっていた。俺も、イダ……いや、黒塚も」
あの日を境に、イダは本来の自分の名を名乗らなくなった。いくつかの偽名を経た後、黒塚と自称するようになったのがいつ頃だったのかは、もうよく覚えていない。ただ、その名を特別気に入ったのか、以来、黒塚は黒塚と名乗り続けている。
対して、ディオンはディオンのままだった。これまでも。そして恐らくこれからも。
「黒塚は俺を憎んでる」
当然だ。ディオンがもっと早くロザリアと戦っていれば、黒塚と力を合わせていれば、あんな結末は迎えなかったかもしれない。いや、たとえ滅びの運命を回避出来なかったとしても、半端に再生しかけていた黒塚にディオンがとどめを刺していれば、少なくとも黒塚は不死の呪いを免れることが出来たのだ。
それなのにディオンは選ぶことから逃げた。逃げて、誤った。
結果何もかもぶち壊して、黒塚さえをも巻き込んで、ただ「永遠」の罰が残っただけだった。
「俺も黒塚も、死ぬ度に蘇る。命が終わることはない。老いることもない。四百年前からずっと、このままだ」
「四百年前……」
ククの顔色が変わった。ディオンの不死は悟っていただろうが、流石にその年月は予想外だったのだろう。
ディオンは苦笑した。
「……ま、多少救いがあるとすれば、その気になりゃ人間より多少長く眠れるってとこだろうな。お前と出会った時だって、しばらく眠ってた後だったんだよ」
人気のない森の奥で眠りについたのは確か三年ほど前だっただろうか。途中で睡眠を邪魔する者も現れず、自然で快適な目覚めを迎えて、ディオンは久しぶりに人里に下りることにした。
確たる目的も持たないまま、近くにあったからという理由で適当に訪れたその村で、ディオンは目の前のこの少女と出会った――否、出会ってしまった。
まさか寝起きにこんな面倒毎に巻き込まれる羽目になるとは一体誰が予想出来ようか。運が悪いにも程があるが、しかし、それはともかくとして。
「……そういうわけで話は終わりだ。これ以上は何もないぞ」
両手を広げてみせる。
本来ならばこんなに長々話をするつもりなどなかったというのに、少し喋りすぎてしまった。この上、不死を受け入れられない男の自殺遍歴や、四百年間の時間潰しについて語ったところで実るものなど何もない。
だから、下らない物語はこれでおしまいだ。
ククはまだ迷うような表情を浮かべていたが、ややあって、こっくりと頷いた。
「……話してくれて、ありがとう」
そんな風に真っ直ぐ礼を言われると、妙に身の置き所のない気分になる。
「んな深刻な顔すんな。言っただろ、暇潰しだって」
「だけど……」
「ああほら、そろそろ雪も落ち着く頃だろ」
適当に言ったのだが、振り返って窓を仰げばどうやら本当に止んでいるようである。
どころか、夜明けを迎えて外はうっすら明るくなっていた。自分で思っていたよりも随分長く話し続けていたらしい。室内に干しておいた外套も、すっかり乾ききっていた。
「これで帰れるな。仕方ねえから、その辺まで送ってやるよ」
「ディオ……」
「ほら、行くぞ」
物言いたげなククを急き立て、外に出る。
雪はかなり積もっているが、幸い凍結には至っていないようだった。白い大地に踏み出すと、柔らかな新雪に足が深く沈み込んだ。
「……ねえ、ディオ」
背後から投げられた声に、ディオンは立ち止まった。
「ん?」
「もしかして、この場所って……」
「どうだったかな。もう忘れた」
ディオンは苦笑し、首を振った。ククには意味のない嘘かもしれないが、それならそれで別に構わなかった。
「……そっか」
頷いたククは、それ以上何も言わなかった。
二人、今度こそ町に向かって歩き出す。
頭上の雲は薄く、徐々に強まっていく陽光は徹夜明けの頭に堪えた。乾いたばかりの服が、蹴り上げる雪でまた濡れていく。
「そういえば……ちょっと不思議だな」
大人しく隣を歩いていたククが、不意にそんなことを言い出した。
何がだよ、とディオンは問う。
「あの、わたしの力のことは言ったでしょ?」
「人の心が分かる、だったか?」
とんでもない能力だ、と思っていると。
「うーんと……実際はそんなに大層なものでもないんだよね」
ククは曖昧に否定した。
「確かに他人の考えてることがはっきり分かる時もあるけど、普段はうっすら感情が伝わってくるっていうか、ぼんやり感じる程度で結構ムラがある力なの。……ライ君のことだって、全然分からなかったし……」
少女の横顔が暗く沈む。
確かに、他人の心や思考を完全に把握するような力があれば、あの男が抱えていた歪みも事前に察知することが出来ただろう。
だが、そんなことを今更どうこう言ったところで始まらない。ククもそれを理解しているのだろう。軽く首を振ってから、元の穏やかな顔でディオンを見上げた。
「でもね、どうしてなのかは分からないけど、ディオの心の声は特別はっきり聞こえる気がするの」
ディオンは思わず立ち止まった。
「……それは俺が分かりやすい単純男だって言いたいのか?」
「ち、違うよ! 単に不思議だなって思ったの! 全然、悪い意味なんかじゃないよ」
と言われても、悪い意味にしか聞こえないのだが。
ディオンは深く考えないことにした。
「……で、お前は?」
何が、と言わんばかりの顔に問いを重ねる。
「お前は何でそんな力を持ってるんだよ」
「……興味、あるの?」
「いいや」
ディオンは首を振った。
「だけど俺だけ話すのだと不公平だろ。それだけだ」
ククは間抜けな顔で瞳を瞬かせていたが、ふっと気が抜けたように微笑んだ。
真っ白な雪景色の中を歩きながら、話し出す。
「何でって言われたら少し難しいかな。物心ついた時から、何となく変な感じはしてたの。急に心がざわざわしたり、わけもなく悲しくなったり、でも力って呼べるほどはっきりしたものじゃなかったし、みんなそんなものだって思ってた」
陽射しが少女の髪を明るく照らしている。ククの声音にも陰りはなかった。
「わたしがアッ君……お兄ちゃんと全然交流がなかったっていうのは言ったよね? 事情があって別々の環境で育てられてたから、わたしは長い間アッ君の存在を知らなかったの。それはアッ君も同じだったんだけど、あの薬師さんに拾われてお城で暮らすようになった後、自分に妹がいるって知ったんだって。お城に入る人はみんな身辺調査されるから、多分その時分かったんだと思うんだけど……。妹がいるっていうのと同時にわたしに変な力があるっていうのも分かって、何か役に立つんじゃないかってお城に連れてこられたの」
「……無理やりか?」
「ええっと、そんなに無理やりじゃなかったと思うけど……。でね、お城で検査とかしてる内に、どんどん力が強くなってきちゃって……気付いたらこんな感じになってたんだよね」
「こんな感じって……」
軽く言うが、軽く言うような話なのだろうか?
困惑と呆れを乗せたディオンの視線に気付いて、ククはまた妙に明るい顔で微笑んだ。
「だから何でって言われたら、生まれつきプラスお城での生活が原因、って感じかな。それで、しばらくは普通に暮らしてたんだけど、ある時急に色々嫌になっちゃって。家出したんだ」
「……は?」
「お城から脱走して、自分で自分の記憶を消したの。面倒なことも自分の力のことも、全部忘れてやり直せるように」
「もしかして、それであの村にいたのか?」
ディオンが問えば、ククは頷いた。
「なるべく王都の情報が入ってこないような場所で暮らしたいと思って、あの村の近くでやり直したの。でも、結局旅を始めて、探しに来たアッ君にも見つかって、思い出しちゃった」
雪を軽く蹴り上げて、ククは体ごとディオンを振り返った。
「わたし、家出する時にアッ君やお城の偉い人たちに書置きしたんだ。もし、わたしがわたしから逃げられなかったら、その時は諦める。諦めて、帰るって。……だから、わたしはお城に帰らなくちゃいけないんだ。これで、わたしの話もおしまい」
ククは明るく笑ったまま、そう己の話を締め括った。
少女が心の底で何を考えているのか。何を感じているのか。彼女のような力は持たないディオンには、結局、何一つ分からないままだった。
雪に苦戦しながら進むこと数時間、二人は開けた高台に出た。右手には海岸線が広がり、左手には雪に覆われた平原と、遠くに小さくサラノの町の姿が見てとれる。
ここまで来れば帰路に迷うこともないだろう。
ディオ、と呼ばれて視線を下げれば、頼りない表情のククと目が合った。
「……やっぱり、一緒には行かない?」
「ああ。分かるだろ?」
俺の感情が読めるなら。そう重ねずとも、ククの顔を見ればこの心が伝わっていることは明らかだった。
一緒には戻らない。もう決めたことだ。別に意固地になっているわけではない。町を出た時は確かに少し自棄になっていたかもしれないが、今は違う。
ククは、それでもまだ物言いたげに黙ったままだった。
意固地なのはこいつかと、ディオンは溜息を吐く。
「もう俺の目的は達成したんだ。お前もお前でやることがあるんだろ? なら俺たちの道はもう交わらない。一緒に戻ったところでどうせ別れるなら、ここで別れるのも同じことだ」
「でも、杏里ちゃんやアッ君には……」
「わざわざさよならを言い合う関係でもないだろ」
このままディオンが消えたところで、彼らが嘆いたり悲しんだりするとも思えない。むしろそれぞれ納得し、自分たちの道を歩んでいくことだろう。
それくらいのことが分かる程度の時間は共有してきたつもりだった。
「……分かった」
長い沈黙を経て、ククはようやく頷いた。
しかし、やっと話がついたと思いきや、
「あのね、わたし、ディオに渡すものがあるの」
いきなりそんなことを言って、彼女は上着のポケットに手を突っ込んだ。すぐに白いハンカチに包んだ何かを取り出して、ディオンの前に広げてみせる。
その赤い破片には見覚えがあった。
「ごめん、急いでたから全部は拾えなかったんだけど」
「…………ああ」
ディオンは、ハンカチごと破片を受け取った。そこにもはや魔力はわずかにも残っておらず、修復しようもなさそうだったが、まあ、何かの記念に持っておいても損はあるまい。
そう思うことにした。
「っつーか危ねえな、これ。拾うにしたってもっと厳重に包んどけよ。……怪我とかしてないよな?」
「ううん、全然。ちょっとチクチクしたけど大丈夫だったよ」
呑気だなと呻いていると、ククが再び神妙な顔になった。
「ディオは、ずっとここにいるの?」
「分からん。とりあえず適当な場所を探して少し寝る。お前らに付き合って疲れたんでな」
その少しが数ヶ月か数年かは、ディオン自身にも分からない。
ディオンは死なない。
正確に言えば、死んでも蘇り、再び命を取り戻す。その繰り返しに果てはないが、死と生の境界を越える度、魂は少しずつ疲弊し、消耗する。その状態を放置したところで死ねるわけでもなかったが、まともに思考し、活動するためには睡眠による回復がどうしても必要だった。もっとも、たとえ疲れていなくても数年単位で眠れるのだが、それはそれ、これはこれである。
「……そっか。でも気をつけてね」
「お前に心配されたかねえよ」
そうだね、とククは笑い、その顔のまま言った。
「ディオ、一緒に旅をしてくれてありがとう。ディオが何者でも、わたしにとってディオはディオだったよ。ディオと会えて、よかったって思ってる」
人だとか化け物だとか、あるいはそんなことは関係ないとか。
きっと他の奴らから言われたら、もっと腹が立つのだろう。お前に何が分かると憎しみが湧くのだろう。だが、目の前に立つこの少女に言われると、何だか嫌な感じがしないというか、急にどうでもよくなってくるのが不思議だ。
彼女も彼女で得体の知れない存在だからかもしれない。
「ディオ、だから……」
「分かった分かった。いいからほら、さっさと行けよ」
居心地の悪さに耐えかねて手を振ると、ククはようやく歩き出した――が、少し進んでは振り返って、なかなか進まない。
仕方なく、ディオンは宣言した。
「俺も、もう行くぞ。じゃあな」
自分から彼女に背を向け、歩き出す。寝床をどこにするかはまだ考えていないが、とりあえず昨夜の小屋に戻ってゆっくり考えるのも悪くないだろう。
ディオンは振り返らずに歩き続けた。




