第33話
「アルス様、これで良かったんですの?」
買い出しから戻ってきたミナベルは、上着の肩に積もる雪を払いながら開口一番そう言った。
アルスは膝の上で開いた本に目を落としたまま黙っていたが、穏やかな視線が一向に引こうとしないのに諦め、息を吐いた。
「……別にいい」
「クク様の気が変わって戻られないかもしれませんよ? それに、この蝶。外されてしまったらまずいのでは?」
サイドテーブルの蝶を指差すミナベルに、アルスは呆れた。
「あんたは、何をどこまで知ってるんだ」
「色々と。わたくし、元来好奇心が旺盛なたちでして」
ミナベルは悪びれずに微笑んでいる。
アルスは辟易しながらも、ずっと考えていたことをそのまま言った。
「このままククがまた逃げて、どこかへ行くならそれでいい」
「あら、そうなったらアルス様が困るのでは? 陛下と魔女にこっぴどく怒られますわよ」
「だろうね。また追えと命じられたら、従うまでだ」
「同じことを繰り返すんですの? そんなの、無駄ですわ」
それでも。逃げることがククの――妹の望みなら、アルスに止めるつもりはなかった。追えと命じられれば追わないわけにはいかないが、ククが抗い、逃げようとするのなら、いくらでも見逃し、見逃した上でまた追うだろう。流されていると言われればそれまでだが、それがアルスなりの一つの責任の取り方だった。
「……だけど」
アルスは立ち上がり、ミナベルの隣に立った。窓を開けば、淡い幻想を掻き消すように冷えた風が頬を打った。
「彼女はここに戻ってくるだろうね」
握った拳を窓の外に伸ばして、指を解く。重力に従って落下した青い蝶は、しかし地面に落ちる前にふわりと浮き上がり、どこかへと飛び去っていった。
「あれは、どちらへ?」
「さあ。残った魔力が尽きれば、その辺に落ちるだろうね」
そうして、きっと朽ちていく。
窓を閉ざして再び本を開こうとすると、ミナベルの溜息が聞こえてきた。
「報われませんねえ」
無視しようとしたものの、一つ、気になることがあった。
「っていうか、あんたはいつまでここにいるんだ」
と、言うよりは。
「そもそも、何で僕たちに関わってるわけ?」
「今更ですわねぇ。というかアルス様こそ、わたくしを恨む気持ち、本当にないんですか?」
重い問いを軽妙な声音で投げて、ミナベルはベッドに腰かけた。女子にしては幾分長い足をぶらぶらと揺らしている。
言葉遣いの割には行儀が悪いな、とこれもまた今更なことを思いつつ、アルスは少し考えて、言った。
「あんたを恨む理由を作ろうと思えば作れるけど、それをしたところで意味がない。別に、あんたが直接あの人を殺したわけじゃないし、ついでにあんたの兄でもない」
「けれど、兄が……ロストベルがシトラス様にちょっかいを掛けなければ、襲撃があったとしても、あの人は負けなかったかもしれません」
「かもしれないね」
「それなら……」
「だけどそれを言うなら、そもそもあの人は僕に関わるべきではなかった。僕が、あの人に関わるべきではなかった」
ミナベルの言葉を遮って、アルスは言った。
「僕はあんたも、あんたの兄も恨んでない。他のどんな他人も恨もうとは思えない。ただ、それだけ」
「……そうですか」
応じて、ミナベルは肩を落とした。
そんな反応を求めていたわけではないが、この口喧しい女が静かになるならそれでいい。思って、アルスは今度こそ本を開こうとした。が。
「では何故わたくしがここにいるのか、ということですが!」
「……何?」
「それはわたくしがそうしたいと思ったからです」
ミナベルは幼児並みの動機を自信満々に掲げてみせた。
「贖罪のつもりではありませんが、アルス様が不愉快なら帰るつもりでおりました。でも、そうではないんですよね?」
「……特には」
「では、これからもよろしくお願いいたします。お役に立てるように努力しますわ」
勢いよく片腕を突き出される。
「…………」
目を逸らそうとしたものの、「ほらっ」と犬に餌でもやるような勢いで再度突き出される。「アルス様!」鬱陶しい。「握手ですわよ。握手!」心底鬱陶しい。
根負けしてその手を取りながら、アルスは思った。
(……どうして僕のまわりには変な女ばかり湧くんだ)
心から、そう思った。
***
寒さはもう感じなかった。手も足も積もった白に埋もれていながら、痛みも冷たさもまるで感覚がない。
雪片を落とす夜空に星や月は見えないが、かといって完全な闇が辺りを包んでいるわけでもなく、曖昧に残った自分の輪郭が疎ましかった。
いっそ闇の底へ完全に溶けて消えてしまえれば。そう何千、何万回目の祈りが過ぎる。罪人の願いを聞き入れてくれる人間など、どこにもいないのに。
「ディオ」
何故かひどく懐かしく感じる声が背後で響いたが、ディオンは振り返らなかった。どうしてここに居るのか。どうやってここまで辿り着いたのか。ぼんやりとそんな思いも過ぎったが、どうでもいい。関わりたくなかった。
「ディオ、こんなとこいたら風邪ひくよ。町へ戻ろう?」
肩に手を掛けられる。
ディオンはようやく振り返り、その掌を静かに払った。
こちらを見る空色の瞳には、ディオン自身が映っていた。降りしきる雪の中、白く染まりかけた紫色の髪。見飽きた己の、何もかも諦めきった暗い相貌。うんざりした。
「ね、大丈夫?」
「うるせえな」
再び伸びてきた手を払う。吐いた息は白く霞んだが、やはり寒さは感じなかった。
「遅いから迎えに来たんだよ。とにかく一回……」
「もう町へ戻るつもりはない。余計なお世話だ」
「だけどディオ、この間から少し様子がおかしいから」
「お前には関係ないだろ」
「そうだけど……」
言い淀むククは上着を羽織ってはいるものの、肩にもフードを被った頭にも、雪をうっすら積もらせていた。
赤く擦りきれたような彼女の顔をしばらく見据え、ディオンは溜息を吐いた。
「……言っただろ。もうお前らと一緒にいる理由はない。旅は終わったんだ。勝手にさせろ」
自分の声が遠く響く。
何もかもが鬱陶しい。面倒臭い。目の前から遠ざけたい。耳を塞いで喚きたいほどの苛立ちと、何もかも投げ出してしまいたい倦怠感が一秒毎に明滅していた。
頭の中で黒塚が笑う声がする。
そうだ、どうせお前は誰とも分かり合えない。他人と同じ時を重ねただけ、苦痛と絶望が長引くだけだ。分かっていたくせに。分かっていたくせに。分かっていたくせに!
(ああ、うるさい)
「ディオ」
「黙れ。もう一人にしてくれよ」
「それは……いやだよ」
いやにはっきりと響いたククの言葉に、血が上った。
「っ、お前の意見なんか聞いてねえだろ!」
自制は間に合わず、振り上げた手でククの細い手首を掴む。雪の上で引き倒した体を押さえつけると、フードがずれて少女の表情が見えなくなった。
ディオンの髪を濡らしていた水滴が、頬を滑ってぱたぱたと落ちる。冷たい。ようやくそう思うと同時に、感情が堰を切って溢れたが、漏れた声は自分でも驚くほどに弱かった。
「俺はお前らとは違う生き物だ。お前も見ただろ? 俺は死なない。お前らみたいな弱い生き物とは違う。……自分より劣る生き物と、どうして一緒にいる理由がある? ないだろ、そんな理由、これっぽっちも」
「だから、もう一緒にいてはくれないの?」
「ああ。最初から迷惑だったんだよ。俺は、ずっと……」
「違うよ」
ククが手を上げ、フードを直す。晴れた空の色の瞳がディオンを見上げた。
「やっぱり、違う」
「何が」
「ディオの気持ちは、違うから。言葉と全然違うから」
ククが手を伸ばし、何かを確かめるようにディオンの頬に触れた。突然のことにディオンが動けないでいると、彼女はやがて納得したように、言った。
「ディオは、黒塚さんに言われたことが辛かったんだね」
「違う……。勝手なことを言うな。お前に何が分かるんだよ」
「分かるよ。分かるの、わたしには」
一体何を言っているのか。眉をひそめたディオンに対して、ククは雪の上に転がったまま、
「わたしも人間だけど、人間ではないから」
静かな表情でそう言って、淡く苦笑した。
「わたしの世界は普通の人より賑やかなんだ。人より色んな音が聞こえるし、色んなものが見えるから……だから人の考えていることも、ちょっとだけ多く分かるの。読める、って言った方が分かりやすいかな」
「読めるって……」
「何でも全部分かるわけじゃないよ。でも変な力でしょ?」
言って、ククはへらりと笑い直した。
「この力のせいで、わたし、お城では怖がられてたんだ。だから、記憶が戻っても言えなかったの。みんなに怖がられたり、嫌われたりしたくなかったから。……一人ぼっちになりたくなかったから」
ククはゆっくり体を起こして、ディオンに向き直った。
ディオ、と春風のような声が、ディオンを呼ぶ。
「ディオの寂しさが聞こえる内は、わたし、どこにも行かないから。勝手にここに、そばにいるから」
「そんなこと、俺は……」
寂しい、なんて思っていない。思っているわけがない。そう言い切ってしまえば済むはずなのに。
降る雪に、指先がかじかむ。鼻の奥が痛い。体が軋んで、訴える。冷たい。寒い。辛い。こんなところにいたくない。一人なんてになりたくない。この空の下は広すぎるから。吹く風は冷たすぎるから。人ではないのに、人ではないけど、独りにはなりたくない。どこにも辿り着けない呪われた生を抱えてそれでも人と同じ場所にいたいという願いを、人として生きていたいという望みを、期待を、捨てきれない。
苦しい。寂しい。怖い。
嘆きは誰にも届かない。こんな罪人の祈りなど、誰も。
「……っ」
掠れた息が空気を震わせたその時、冷えきった小さな少女の手が、ディオンの頭をあやすように撫でた。
「大丈夫、ディオの声は聞こえてるよ」
言葉にならない思いを、拾い上げる声がする。心に入り込み、醜い願いを受け止める手のひらがある。
「わたしにはディオの願いを叶えてあげることは出来ないけれど、声は、ちゃんと聞こえてるから」
「…………ああ」
少女の細い肩に頭を乗せて、ディオンは息を吐いた。
自分も人間ではない、とククは言った。けれど、きっと彼女は不死ではない。いつかは死んでゆくのだろう。他の人間と同じように。すべての人間と同じように。
それが胸を灼くほど羨ましい。
永遠なんてこの世界のどこにもない。人の命は、気持ちは、移ろってゆく。けれどそれは悪いことではない。変わってゆくからこそ、世界は美しい。限りがあるから、命は意味を持つ。
願わくば、この身もその変化の中に在りたかった。変わり、移ろい、終わりたかった。ただの人間と同じように。
願いは叶わない。けれど、祈る声だけは彼女に届いているのなら。
それは多分、ちっぽけでささやかな、救いと呼べるものだった。
「……今、俺の心が分かるか」
肩に頭を乗せたまま顔を見ずに問いかければ、少女は迷いなく答えた。
「うん、分かるよ」
「……なら、よかった」
「よかった?」
ククは少し笑ったようだった。
「ディオはわたしのことが怖くないの? 心が読まれるの、嫌じゃないの?」
自分で告白しておいて何を今更という気はしたが、ディオンは素直に答えることにした。
「正直怖いかもな」
何をどこまで読まれているのかは分からないが、自分の剥き出しの心に触れられるのが恐ろしくないと言えば嘘になる。だが、嫌なのかと問われれば、そんなこともない気がした。心を読まれることよりも恐ろしいのは、誰にも理解されず、独りでいることの方だから。
こちらのそんな思いを汲んだのか、ククが再び小さく笑った。
「ディオって、ちょっと変わってるよね」
「……お前にだけは言われたくねえよ」
言って、ディオンは顔を上げた。
雪はいつの間にか止んでいた。白く凍えた大地と佇む墓標に幽かな月光が投げかけられている。
その曖昧な祈りのような光の下、軋む体で立ち上がった。
「行くぞ」
ディオンは、こちらを見上げる少女に右手を差し出した。
帰るぞ、とは言わなかった。
道はすっかり雪に埋もれていたが、この地に慣れたディオンに迷う心配はなかった。
白く覆われてなお特徴的な木や岩を目印に、これまで何度通ったか分からない獣道を進む。冷え切った体は踏み出す度に鋭く痛んだが、動けるだけマシだと思った方がいいだろう。
(まともな人間なら凍死してるもんな……)
己の異質さを再認識しつつ、隣を歩くククを見遣る。
一体どうやってここを嗅ぎつけ、やって来たのか、その辺の事情に関してはもはや詮索する気も起きないが、無駄に頑健そうな彼女といえど今は流石に寒そうだった。
そういえば、先ほどから全く言葉を発していない。
「なあ」
長く続いた沈黙を破れば、立ち止まったククが「なあに」と首を傾げた。
「さっきから、なんで妙に静かなんだよ」
「それは、その……わたし、なんだか勝手に自分の話ばっかりしちゃったなって……反省してて……」
「なんだそりゃ」
ククは、らしくなく気まずそうな表情を浮かべていた。
「ディオのことを元気づけようと思ってたのに、どうしたらいいか分からなくて、それで……。でも、別にディオにわたしの事情を分かってほしかったわけじゃなくて……」
「あー」
何だかよく分からないが、とりあえず。
「俺は別に気にしてねえよ」
「ほんと?」
「ああ。にしてもお前、意外と細かいこと気にするのな」
「そうかな」
ひょっとしたら、これが彼女の地なのかもしれない。どこかぎこちなく笑う少女を見下ろして思いつつ、ついでに別の事実にも気が付いた。
「お前、顔色大分悪いな」
「え? そう?」
言葉少なだったのは気まずかったからだけでなく、体調のせいもあったのだろうか。
「町までまだ結構距離あるし、今日は休んだ方がいいな。確かこの近くに山小屋があったはず……」
道を外れ、記憶を頼りに歩いていくと、予想通り前方に小屋が見えてきた。
狩猟者のために作られた古い山小屋は屋根に重なった雪で今にも潰れそうに見えるが、こうして現存している以上、一晩休むくらいなら恐らく問題はないだろう。
さっさと中に入り、積んであった焚き火から使えそうなものを選り抜いていたディオンに、遅れて室内に入ったククが若干呆れたような声を上げた。
「……ディオだって、時々人の話聞かないよね」
「は? 何がだよ」
ククは、何でもないと笑って首を振った。
無事に暖炉に火を熾した後、ククの持っていた携帯食料を二人で摘むと、特にすることもなくなった。しかし、雪に濡れた身体はなかなか乾かず、このまま横たわる気にもなれない。
「ねえ、ディオ」
呼びかけてきたククは、両膝を抱えた体勢で壁に寄り掛かっていた。顔色は良くなっているが、代わりに瞼が重そうだ。
「何か用か? あと、寝るなよ。多分凍死はしないと思うが」
「それは大丈夫。あのね、用っていうか」
ククはまたしてもごにょごにょ喋り出した。
「……さっきの話の続きなんだけど……わたしもディオも全然違う人間だけど、こうして喋ったり同じ時間を重ねていれば、分かり合えることは出来るんじゃないかなって思ってて……」
「はあ」
「それで……ディオは嫌かもしれないけれど、お互いのことをもっと知ったら今より仲良くなれるんじゃないかな、とも思うんだよね……」
「ほう」
「つまり何が言いたいのかっていうとね……。……ええと、困ったな、回りくどい言い方をするつもりはないんだけど」
「いや、回りくどいだろ。十分」
う、と言葉に詰まった後、ククはじわじわと上目遣いになってディオンを見上げた。そういえば、今日はその頭に青い蝶がついていないが――。
「……あのね、わたしはディオのことを知りたいな」
あまりに話が見えなくてややぼんやりしていたディオンは、告げられた言葉の意図を理解するのに若干時間を必要とした。
「……興味がねえんじゃなかったか」
「それは、えっと……」
困った顔をしているククに、ディオンは頭を掻いた。
今よりもっと前に同じことを頼まれていたのなら、即断り、それ以上踏み込まれる前に彼女を突き放していただろう。
だが、今は……今なら。
「……別に大した話じゃねえよ。それでも聞きたいなら、してやってもいい」
どうせ夜はまだ続く。下らない昔話でも暇潰しくらいにはなるだろう。
闇と静寂とに囲まれた小屋の中。
最初に頭を過ぎったのは、深い谷底に吹きつける故郷の濁った風だった。




