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refrain  作者: 水幸
第七章 模造の神
30/75

第30話

 薄暗くかび臭い地下道を延々進み続けていると、視界が少しずつ明るくなってきた。停滞し、淀みきっていた空気にも、今はどこからか風の流れが感じられる。

 更に奥へと進んでいくと、前方に四角く切り取られた出口らしきものが見えてきた。吹き込む風を受けながら、辿り着いたそこから一歩踏み出す。

 と、いきなり開けた空間に出た。


 ククは周囲を見回した。


(ここは……リバリティのお城の中?)


 広い部屋だ。

 あちこちが汚れたり崩れたりしているが、立派な造りの内壁や高い天井を支える太い柱はしっかりと残されている。居室のようには見えないので、元は倉庫なり貯蔵庫なりだったのかもしれない。


 今しがたククが出てきたばかりの壁に穿たれた地下道への入り口もきっと元々は何かで隠されていたのだろうが、室内にあるものはことごとく持ち去られ、今は家具の一つも見当たらなかった。


「やだ、ほんとに城に繋がってたのね」


 ククの後に続いて地下道を脱した杏里が感心したような声を上げる。うん、とすぐに同意したのはライックだ。


「いやあ、無事ここまで来れてよかったよ」


「っていうか、ここまで来れてなかったら今頃あんたをボコボコにしてるところよ」


「ほ、ほんとによかった……! 心からよかった!」


 賑やかな杏里とライックの影で、ククもほっとしていた。

 ライックの地下道の話を信じていなかったわけではないが、その実在が町の西端にぽつんと建った教会の裏、というあまりに分かりやすい場所で確かめられるとも思っていなかった。あっさり見つかりすぎて城とは全然違う場所に繋がっているのではないかと少し不安になっていたのだが……どうやらそれは杞憂だったようだ。


「こっちに出入り口があるよ」


 手招きするライックに従ってドアの外れた出入り口から室外へと移動すると、そちらは長い通路に繋がっていた。右手側には壁が無く、雑草の生い茂る中庭を挟んで向こう側の通路が見える。近くにククたち以外の人や生き物の気配は感じなかった。


(クレストはどこ……?)


 ククは目を閉じ、意識を澄ませる。廃墟となった土地柄ゆえか妙にザラザラとした雑音が耳についたが、何とか求める気配が見つかった。


 クレストは長い通路の更にその先、城の奥の方にいるようだ。ここからは、まだかなり離れている。


 おおよその方角と距離感の検討はついたものの、実際城内がどれだけ入り組んでいるかは不明なので、このまますぐに彼の元へ辿り着けるかは分からない。だが幸いと言うべきか、今のところ周囲に魔獣の気配は無かった。

 唯一、クレストの近くに彼とは異なる気配を感じるのが気になると言えば気になるが――今ここであれこれ考えていても結論が出るわけではない。


(とにかく、クレストのところに行こう)


 ククが先へ進みかけた時、あの、と背後で声がした。振り返れば、ライックが神妙な顔で片手を上げている。


「どうしたの、ライ君」


「その、これから正念場だと思ったら胃が痛くなってきて……ちょっとここで休憩してもいいかな?」


「あんたねえ……」


 杏里の声に、ライックは「ごめん!」と両手を合わせた。


「二人は先に行っててもらえないかな? 少し休んで落ち着いたら、すぐに追いつくから」


「承知しました! わたくしがおりますからご安心ください」


 そう軽やかに請け負ったのは杏里でもククでもなく、これまで一同の最後尾に存在感薄く付き従っていたもう一人。白い姿で穏やかな表情を浮かべる女性、ミナベルだった。


「お二人のことは、わたくしの命に代えてもお守りしますわ」


「え、えーと……」


 戸惑った表情を浮かべるライックに、ククは小さく頷いた。


「ライ君、わたしたちなら大丈夫だよ」


「本当かい? そしたら本当にすぐに追いつくから……」


「別に期待してないわよ」


「うう、ごめんってば……。三人とも、気を付けてね」


 杏里に追いやるように手を振られ、ライックがすごすごとその場に腰を下ろす。彼と別れて、ククと杏里、そしてミナベルの三人は廃城の通路を歩き出した。




 城内は奥へ向かえば向かうほど内部の荒廃が激しく、ところどころ壁の一部が崩れていたり、天井が落ちて道を塞ぎかけているのが当たり前だった。


 そんな中、これまでとは一転してククと杏里の前に立って歩くミナベルは、裾の長いローブという動きづらそうな恰好をしているのにも関わらず、しかし誰よりも身軽に進んでいく。

 障害物を飛び越えて安全に通れそうな場所を発見してくれたり、時には障害物そのものを投げ飛ばしたり、その凄まじい先導はククにとっては有り難いばかりだったが、対して杏里は不服そうな表情を隠さなかった。


 今も、瓦礫を投げ飛ばしている背中に唇を尖らせている。


「……言っとくけど、あたし、あんたを信用してないから」


「あらぁ、それは悲しいですわ」


 杏里の言葉に残念そうな顔はするものの、ミナベルはそれ以上反論するわけでもなく、歩みを止めることもない。

 やんわりと躱された杏里は一層険しい顔になっていたが、彼女も彼女でここでこれ以上争っても仕方ないと思ったのか、更に言葉を重ねることはしなかった。

 荒廃した足場を進む和やかとは言い難い道行きはその後もしばらく続いたが、やがて終わりが見えてきた。


 行き着いたのは、天井の高い、広間のような場所だった。正面には横幅の広い階段が伸びていて、その先の壁に、更に奥の空間へと続くアーチ型の出入り口が見える。そちらから吹き込んでくる温い風が、三人の足元に砂埃を舞わせていた。


(この先に、クレストはいる)


 確信し、ククは階段を上り始めた。

 頂きに近付けば近付くほど気流は強く、視界は明るくなっていく。最後の段差を上り、更にアーチの先へと進む。突如、吹き渡る穏やかな風と鳥の鳴き声に包まれて一瞬屋外に出たのかと思ったが、そうではなかった。


 そこは今しがた通ってきたばかりの広間よりも更に広い、円形の巨大な空間だった。

 頭上、遥か高くからこちらを見下ろす天井は、元々ガラスか何かで覆われていたのだろう。今はただ骨組みが残るばかりで、薄曇りの空がほとんど遮るものなく広がっている。


 入り口から左右は白い石壁が続いているが、正面、奥の方はそちらも元はガラス張りだったのか天井から床まで壁がなく、外から風が吹き込むままになっていた。

 同じく正面に、外界を見下ろすように佇む細長い石碑らしきものがある。

 その傍らに、黒い剣を携えたクレストが立っていた。

 彼一人ではない。その隣には法衣のような服装の小柄な少女が控えていた。


(初めて見る子、かな)


 明るいオレンジ色の髪はクレストと行動を共にしていた少女、ヴィヴィリアのものに似ている気がするが、彼女よりはいくらか年上に見えた。姉妹かも知れない、と頭の隅で思うと同時に、ヴィヴィリアが死んだことを告げたアルスの声も蘇ったが、今はそこに思い巡らせる時でもなかった。


 ククはクレストの金の瞳を見つめた。


「クレスト、あなたはこの地の王様なの?」


 だが、その問いに答えたのは彼の声ではなかった。


「彼はこの大陸の新たな王よ」

 宣言したのは、クレストの隣に佇む少女だった。

「今度こそアストリアを滅ぼして、クレストこそがこの大陸の支配者になるの。ね? クレスト」


 少女がクレストを仰ぐ。

 クレストは少女に視線を向けることはなく、対峙するククに向かって口を開いた。


「……だ、そうだ」


「クレスト、わたしはあなたと話をしに来たの。あなた自身に、あなたが誰なのか訊きたいの」


「話すことは何もない」


 返された言葉にククは眉をひそめた。

 クレストの視線は冷ややかで声音にも感情らしい感情は窺えなかったが、かといって無抵抗に現状を受け入れているようにも見えなかった。


 諦念や自暴自棄を抱えているわけではないのなら、何故話をしてくれないのか。

 それは、多分――。


(……クレストは、きっともう何かを決めてしまってるんだ)


 そしてその意思はククと対話して揺らぐようなものではないのだろう。だから話さない。話す必要がない。

 言葉は、既に彼のいる場所までは届かない。

 それならば。


「……クレスト」


 ククは腰に下げた剣を抜いた。無駄なことだと悟りつつ、最後にもう一度だけ訴える。


「これ以上誰かを傷付けるようなことはしないで。アストリアを滅ぼそうなんて考えは、あなたのためにならないよ」


「何故、お前が俺を阻むのだ」


 クレストが表情を変えないまま問うた。

 わずかに躊躇った後、ククは答える。


「それは、わたしがアストリアという国に属し、アストリアの王に従う人間だから」


 あなたのためだ、とか。心配だから、とか。そんな甘い理由はもう掲げない。クレストが既に何かを決意し、腹を括ってしまっているなら、ククも感情ではなく理屈を挙げる。


「リバリティという国がもう存在しない以上、今のこの大陸を統制出来るのは――それだけの力があるのはアストリアだけ。あなたが今のこの国の在り方を否定するのは自由だけど、体制を破壊して混乱を齎そうとするのなら、わたしはそれを放っておくことは出来ない。わたしは、アストリアの兵だから」


 だが、また少し迷って、結局付け足してしまった。


「それに、今あなたが進もうとしている道が、あなたを幸せに出来るとは思えないから」


 甘えた理由で、感情だ。でも、本音だった。


「だから、わたしはあなたを止める」


「大きなお世話だ」


 言い切ると、クレストはかすかな笑みを口元に浮かべた。微笑は一瞬で消え去り、再び無表情に戻ったクレストは黒い剣をククへと構えた。


「杏里ちゃん、ミナベルさん」


 ククは、背後の二人を振り返った。


「二人は下がってて。まずは、わたしだけで戦うから」


「ちょっと、何言ってるのよ!」


「お願い。そうしたいの」

 ククは笑った。なるべく呑気そうに見えるように。

「大丈夫。もし負けそうなら加勢をお願いするし、多勢に無勢だろうが、どれだけ卑怯な手を使おうがクレストは止める。でも、後ろ盾があるからこそ、まずはわたしの力だけでクレストと戦いたいの。……クレストも、それでいいよね?」


「勝手にしろ」


 呆れたような声とは裏腹に、クレストはどこか楽しそうだった。あるいは彼も、この展開を予想していたのかもしれない。


「うん、勝手にする」


 ククは今度は本心で微笑み、再び杏里を振り返った。


「杏里ちゃん、だから……」


「どうせ言っても聞かないんでしょう? だったら任せるわよ、もう」

 杏里は深々と嘆息した。

「だけど、もしあんたがピンチになったら速攻横やりを入れるから。助けてなんて言われなくてもね」


「……うん、分かった」


 ミナベルはもとより状況の推移を見守るように穏やかな表情を浮かべている。クレストの隣に立つ少女も仲間の勝利を確信しているのか、間に入ろうとする様子はなかった。


 もう止める者はいない。


 ククは再びクレストに向き直り――地面を蹴った。同じように肉薄してくるクレストに向かって、迷わず剣を振る。

 冷たい金属音が炸裂した。クレストの掲げる黒い刀身に阻まれ、突き出した刃が押し戻される。腕を引いた瞬間、今度はクレストからの一撃が来た。剣を振って叩き落とすが、衝撃で手が痺れる。


(力で競ったら押し負ける!)


 ならば、受け流しながら手数を叩き込むしかない。追撃を回避しながら距離を取り、攻め込まれる前に自らまた距離を詰める。ククは片手剣の軽さを生かして速さで攻めきろうとしたが、クレストの反応速度も尋常ではなかった。

 踊る黒い剣の軌跡が、ククの鼻先を掠めて過ぎる。


「……っ」


 剣戟の音色が加速する。乱暴なダンスのように刃がぶつかり、また離れる。避け損なった攻撃で、ククの腕に、頬に、血が滲む。だがそれと同じだけ、クレストの体にも傷が増えていく。

 互いの命を狙った一撃を重ねながら、いつしかそこには笑みが在った。相容れない敵同士ではなく、まるで親しい友のように、野蛮な宴の中で舞い、笑い、互いの存在を賭けて殺し合う。

 床の石材が砕ける。下界の狂騒に動揺する鳥たちの喧しい鳴き声が降り注ぐ。柱に血が飛び、埃が白く高く舞い上がる。

 刹那を積み上げていつまでも続くかと思われたその時間にも、やがて終幕の時が訪れた。


「――ッ!」


 クレストの一閃が、ククの肩を擦過し肉を裂く。

 同時に放ったククの刃は、クレストの喉元で静止した。

 それでもまだ足掻こうと思えば足掻けた状況かもしれない。だが、クレストはその道を選ばなかった。


「俺の、負けだ」


 剣先を突きつけられたクレストが、どこか安堵したような顔で腕を下ろす。

 真っ先に反応したのは、法衣姿の少女だった。


「どうして……! あなたは……あなたはまだ戦えるわ!」


「決着はついた。ユイージナ、お前ももう諦めろ」


 髪を振り乱して訴える少女を初めて振り返り、クレストが告げる。その横顔と声には、憐れみが滲んでいた。


「嫌よ、そんなの……」

 ユイージナと呼ばれた少女は、頭を振って拒絶した。

「だって……ここで諦めたら、あなたの世界は作れない……! あなたと私の故郷を、リバリティを取り戻すことだって出来なくなる……!」


「お前の故郷は、リバリティではない」


 クレストは静かに宣告した。


「お前が生きるのはこのアストリアの国だ。たとえお前の血にリバリティの歴史が流れていようとも、お前はアストリアの人間だ。お前は俺とは違う、この時代の人間なのだから……だから、こんな無意味なことはもう止めろ」


「違う! 違う……! だって、私はずっとあなたを王にするために生きてきた! 母様から、お祖母様から託されて、ずっと……ただずっと、そのためだけに……!」


「ユイージナ、俺は……」


「私は諦めない! あなたが作る未来以外は認めない!」


 クレストの言葉を遮って、ユイージナは絶叫した。


「だからライック、力を貸して! 今すぐこの連中を皆殺しにして!」


 一瞬の静寂。

 そして、


「あーあ、思ったよりもつまらない幕切れだったなぁ」


 歩み出た男は午睡から目覚めたような呑気さで広間を見回すと、優しげな目を細めて嘆息した。


「うん、君たちの顔も大体想像通りだね。がっかりだよ」


「ライ君……」


 ククはすぐに状況を察した。察したけれど、感情が追いつかなかった。心が理解を拒んでいた。だって、彼からはこれまで一度だって悪意を感じたことなんてなかった。

 なかったのに。


「どうして……」


「ライック!」


 ユイージナに呼ばれたライックは、人の良さそうな顔を歪めて煩そうに振り返った。


「聞こえてるよ。こいつらを殺せって?」


「そうよ! っ、何……?」


 ユイージナが怯えた声を出す。

 彼女の手足には、床材を割って伸びる黒い蔦のようなものが巻きついていた。不気味な蔦はあっという間に伸び、絡み合い、長く高く成長していく。そこに絡め取られたユイージナの体もまた、宙高く浮き上がっていった。


 磔にされた少女を見上げ、ライックは薄く微笑んだ。


「勿論、やるよ。ユイージナ、君を壊してからね」


「私を裏切るの……?」


 震えた声の問いかけに、ライックが笑みを深くする。


「人聞きの悪いことを言わないでほしいな。そりゃあ君には感謝してるけど、そもそも勝手に擦り寄ってきたのはそっちの方じゃないか。面白そうだから多少協力してきたけど、俺は君の味方じゃない。俺は、俺の味方だよ」


「そん、な……」


「ユイージナ!」


 状況を飲み込んだクレストが、ユイージナの元へ駆け寄ろうとする。瞬間、その足下から放たれた幾筋もの黒い光が、少年の全身を貫いた。


「クレスト……ッ!」


 その場に倒れるクレストに、ユイージナが悲鳴を上げる。応えは返らず、汚れた床に彼の全身から流れる鮮血が広がっていく。


「クレスト! クレスト……!」


 叫び続けるユイージナに、ライックが笑い声を上げた。


「さて、君の大事な王様はこれでさよならだ。もう君の人生や存在に意味は無い。君にはもう、価値がないんだ!」


 ユイージナが目を見開く。彼女の内側で彼女自身を支えていた、大事な何かが砕けていく。悲鳴のようなその音を、ククははっきりと聞き取った。


「ライ君、やめ……、っ?」


 踏み出そうとした足は、しかしわずかにも動かなかった。


「これは……?」


 いつの間にか、ククの足首に赤い糸が絡みついていた。いや、足だけではない。広間中に細い糸が張り巡らされている

「ぁあああ……っ!」


 その正体に思い至る前に、ククの背後で悲鳴が上がった。


「杏里ちゃん!」


 振り返った先で、杏里が苦しげに屈み込んでいる。ククは再び周囲を見回して、彼女に視線を戻した。

 広間に交錯する赤い糸は、すべて杏里の元へと繋がっていた。


「ライ君、これは何? 杏里ちゃんに何をしたの!」


「さて、ユイージナ。そろそろ君の時間も終わりにしようか」


 ククの声など聞こえないように、ライックがユイージナに向けて穏やかに告げる。彼が指揮者のように腕を振り上げると、床から新たな蔦が伸び、項垂れるユイージナの頭上に迫った。

 蔦は音もなく蠢き、その先端を槍状の形へ変化させた。


「価値を失った……いや、元々価値なんてなかった君を終わらせてあげる。これが俺の最大の恩返しだよ。ユイージナ」


「わたし、わたしは、クレストを……」


「クレストはもう蘇らない。リバリティは復活しない。君の見ていた夢は、現実にはならないんだ」


「……っ!」


 弾かれたように顔を上げたユイージナは、確かに何かを言おうとしていた。与えられた言葉への承服か、あるいは最後の抵抗か。しかし、少女が言葉を発しようとしたその瞬間、槍が彼女の体にめり込んだ。

 夕焼け色の頭髪ごと、小さな頭蓋が音を立てて砕かれる。天から振り下ろされた槍先は少女の全身を容易く貫いた後、両の足の間から床へ、深く突き刺さってようやく停止した。

 拘束を解かれた腕がだらりと落ちて、面影を失った、虚ろな相貌が一同を見下ろした。


「……さて、これで退屈な序章は終わりかな」


 凍てついた空気の中、ライックの声が柔らかく響く。


「ああ、それに愉快な仲間も揃ったね。おかえり、二人とも」


 ククはライックの視線を追って振り返った。

 広間への入り口近くに、ディオンとアルスが立っている。だが、その手前に交錯する無数の赤い糸たちが彼らの進路を阻んでいた。


「ライック、何のつもりだ」


 剣を構えるディオンに、ライックが軽く肩を竦める。


「大体君の想像通りだと思うけど……。あ、ちなみにその糸。君がそうしたいなら斬ってもいいけど、その先が『彼女』の血管に続いてるってことは一応断っておこうかな」


 ディオンの表情が強張った。

 杏里が苦しそうに屈んだまま、ライックを見上げる。


「あんた、あたしに何を……」


「大したことはしてないよ。ああ、いつ仕込んだかって質問なら、ここでは答えない方がいいんじゃないかな? 俺は別に困らないけどね」


「な……」


 ライックの言葉に、杏里の顔色が変わる。


「あなたは誰なの? 目的は?」


 動かないよう注意しながら、ククは問いかけた。


「俺?」


 振り返った男はまるで当たり前のように答えた。


「俺は神様の模造品。君たちの敵です」


 ふざけるな、と呻いたディオンに、ライックが眉を下げる。


「ひどいなぁ、俺は全然ふざけてないよ。君たちも見たよね? リバリティの研究所跡地をさ。俺はそこの施設で作られた、人による人のための人ならざる存在なんだ」


 そう語り、ライックはただ一人広間を歩き回る。彼の足が床に散らばる無数の赤い糸を引っかけ、踏みつける度に、杏里から押し殺した呻きが上がった。


「ライ君、やめて! お願いだから!」


 その言葉に恭順したわけではないだろうが、ライックは広場の中央で立ち止まると再びククたちに向き直った。


「ずっと昔……この城がまだこんな姿になる前に、俺はあの研究所で作られたんだ。だけど、うっかり寝てる内に戦争でリバリティが滅びちゃってね。生き残った連中にこっそり運び出されたはいいけど、設備も資料も失った状況ではきちんと起こしてもらうことは出来なかった。曖昧な意識はあったけど、体はただただ眠り続けてたんだ」


 優しげな表情のまま、ライックは語り続ける。


「だけど何年か前にこのユイージナがとうとう俺を起こしてくれた。随分大変だったみたいだけど、とにかく、おかげで俺はやっと目覚めることが出来た。自由になれたんだ」


「だからユイージナに手を貸していたの……? クレストのことも……あなたは、クレストに何をしたの?」


「何って、復活させたんだよ。ユイージナに頼まれて、まあ起こしてくれたお礼くらいはしてもいいかなと思ってね。流石に元王様、丁重に弔われてたおかげで素材には困らなかったけど、とは言えそれなりには大変だったかなぁ」


 ククは目の前が暗くなっていくのを感じた。ライックは何を言っている? 一つ一つの言葉は理解出来ても、それらが導こうとする内容は到底受け入れ難かった。


 彼は何者で――これから何をしようとしている?


「……どうしてこいつらを殺したんだ?」


「だって、彼が支配者になれるわけなんてないじゃないか」


 ディオンの問いに、ライックは自明のことと言わんばかりに両手を広げた。


「そもそも一回死んだ人間がもう一度やり直そうなんて図々しいよ。それでも彼ら……いや、ユイージナに、かな。彼女に夢を見せたのは俺だから、目を覚まさせてあげるのもまた俺の役目かなって。クレスト君には可哀想なことをしたけどね」


「二人を殺して、お前はどうする。お前の目的は一体何だ?」


「うーん、特に考えてないよ。今までも全部暇潰しみたいなものだったし……あ、君の剣には多少興味があったけど、それももうどうでもいいかなあ。だからこれからのことは分からない……けど、クレスト君の代わりに俺がアストリアの国を滅ぼしてみるっていうのも悪くないかな。理不尽な神様みたいにね」


「……あなたは神様なんかじゃない」


「そうだよ」


 ククの言葉に、ライックはあっさり頷いた。


「だから言ってるじゃないか。神様の『模造品』だって」


 日が傾き、周囲は徐々に暗くなりつつあった。薄闇の中、ライックが持つ獣の耳と尾はなお黒く、対して緑色の髪と瞳は星のように明るい。相反する二つの色を背負って、ライックは微笑む。


「リバリティの研究所の目的はね、神様を作ることだったんだよ。太古の昔、この世界を創造したという女神リフレイン。彼女を模した新たな神を人の手で造ろうとしてたんだ。その試みがどの程度成功したかは知らないけれど、結果生まれた俺が神様の模造品を自称するのは別に咎められるものじゃないだろう? だから……」


「一つ聞きたい」


 ライックの声を遮ったのはアルスだった。


「ヴィヴィリアを差し向けたのはあんたか」


 常以上に冷ややかな声が響く。誰に、を示す言葉はなかったが、ライックは瞬時に理解したようだった。


「ああ、直接ヴィヴィリアに命じたのはユイージナだよ。そのユイージナを唆したのは俺だけど。これで満足かい?」


 アルスは黙っていた。彼の内に去来しているであろう感情を思い、ククは思わず呟いた。


「どうして……」


「深い理由はないよ? ただ、アストリアの偉い人が死んだら面白いかなって。標的だったアルス君は取り逃しちゃったけど、ヴィヴィリアを処分する手間がなくなったのはよかったな」


「ふざけないで!」


 その言葉がクク自身の口から出たものだと気付くのには、少し時間が掛かった。

 ライックが意外そうな顔をする。


「どうして君がそんなに怒るんだい? 関係ない人間なのに。いや、そういえば君はアルス君の妹なんだっけ? あんまり似てないように見えるけどなあ」


 再び糸を踏みつけながら、ライックがこちらに向かって歩いてくる。ククは一歩も動けないまま、彼が目の前で立ち止まるのを迎える他なかった。


「……っ、!」


 伸びてきたライックの手がククの右手を掴む。背の高い彼に持ち上げられ、爪先が浮いた。強く握られた手首から骨が軋む音がする。

 ライックの瞳は壊れた太陽のように輝いていた。そこに吸い込まれそうになるのを堪えて、ククは言った。


「……あなたは間違ってる。神様の模造品だか何だか知らないけど、あなたのしてることは乱暴で幼稚で愚かで、神様のすることなんかじゃ絶対ない!」


「かもしれないね」


 ライックの表情は凪いだままだ。変わらない。揺れない。


「俺はね、自分が神様になるためにはどうすればいいか、ずっと考えてたんだ。目が覚めてから、色んな場所で色んな人間を見てずっとずっと考えてきた。だけど、分かったのは何も分からないってことだけだった。自分が何になればいいのか分かっているのに、どうやったらそれになれるのか分からない。誰も教えてくれない。それって結構寂しいことだよ。そういう気持ちが君たちに分かる? 分かるわけないよね」


 手首を掴む手に力が込められる。

 その痛みに負けないように、ククは言い返した。


「たとえあなたが人間じゃなくて、そのことで孤独を感じてたとしても、それが他人を好き勝手に傷付けていい理由にはならない! あなたのそれは何の言い訳にもなってない!」


「だろうね。だけど、それはいかにも人間らしいルールだよ。君たちは気付いてなかったみたいだけど、俺は随分色んな人間を殺したし、その度にとても晴れ晴れとした気持ちになったよ。無力な人間が無力に死んでるのを見ると、俺は彼らとは違う、彼らみたいな死に方は絶対しないって確信出来るんだ。死んでいる彼らと生きている俺の間にある境界線が、俺を神様に近付けてくれる」


「そんなの……!」


「勝手だろ? だけどたとえば神様だったら、気まぐれで人に試練を与えても仕方ないって思ってもらえるよね? だって、神様ってそういうものなんだから。だから、俺も俺の理屈だけを受け入れて生きることにしたんだ。だって俺は神であれと望まれて生まれたから。人間の理屈に従う理由は俺にはない。これっぽっちもないんだよ」


 ククは胸の底が冷えていくのを感じた。

 これは会話ではない。そう、ようやく理解した。どれだけ言葉を重ねても目の前の彼には恐らく何も届かない。彼の言葉をククが理解し、受け入れることが出来ないのと同じくらい、いや、それ以上に。言葉も、思いも、届くことはないのだろう。

 遠く遠く隔たった場所で、ライックは一人で生きている。彼のためだけに用意された世界の中で。


(……でも)


 まだ、諦めない。対話を諦めたらいけない。

 そう思っていた――けれど。


「逆に聞くけど、君たちはどうして旅をしてたんだい?」


「それは……」


「クレスト君を止めるため、だっけ? だけどそれはどうして? 何のため、誰のために? 本当はクレスト君のためでも何でもなくて、君たちは目的が欲しかっただけなんじゃないのかい? 自分の意志も理想も何にも持っていないのに、いかにも何かしてますって顔をしたかったから。違うかい?」


 違う、とククは即答出来なかった。

 ククの体をぶら下げたまま、ライックは空いた片手を空に掲げた。そのまま、理不尽を訴えるように彼は言う。


「大体君たちがどうして俺を糾弾出来る? 他人を裁けるほど、君たちの生き方は美しくて正しいのかい?」


「少なくとも、わたしたちは罪もない誰かを傷付けたりしない……!」


「本当にそうかい? そう思ってるだけじゃないのかい?」


 緑の瞳が細められた。


「だって君たちは都合のいいものしか見てなかったじゃないか。俺が君たちに出会ったのはいつだった? どうしてあんな港町で偶然再会したんだろう? 島にクレスト君が現れた理由は? アルス君が倒れた時に医者を呼びに行ったのは誰だった? すぐ隣にある悪意に気付こうと思えば気付けたはずなのに、君たちは何にも気付かなかったじゃないか!」


 ライックの言う通りだった。疑問を抱くタイミングはいくらでもあった。でも気付けなかった。怪しむことさえしなかった。彼は仲間だと、盲目的に信じて安心していたからだ。


「君たちはずっと、クレストという君たちに都合のいい敵ばかり見てた。乱暴で幼稚で愚かだったのは、君たちの方だよ」


(…………ああ)


 ククは息を吐いた。体から力が抜けていくと、吊り上げられた体重を支えきれず、腕が、肩が軋むのを感じた。抵抗しなければ。そう思うのに、動けない。ライックの理屈はおかしい。間違っている。けれど、彼が指摘するクク自身の過ちは正しかった。


 正しく、わたしは間違えていた。


「あんたのご託はもう結構よ」


 闇を打ち据えるような声が、ククとライックの合間に割って入った。

 少し驚いた顔をしたライックは、しかしすぐに薄い笑みを取り戻して、ククの手を掴んだまま声のした方を見遣った。


「君は自分の状況が……」


「うるさい。あんたがどんな存在だろうが、あたしはあんたの道具にはならない」


 血の気の失せた顔で、杏里がライックの言葉を遮る。

 しゃがみこんだまま、その表情も未だ苦しげだったが、杏里の左目には意志の光があった。

 そして、その瞳とよく似た輝きを放つ短刀を、彼女は片手に握っていた。


「杏里ちゃん、やめて!」


 叫ぶククに少し困ったように微笑んだ後、杏里は自らの手首から伸びる糸に向かって、一気に短刀を振り抜いた。


「……!」


 瞬間、広間中に錯綜していた糸のすべてが、鮮やかな血潮となって土砂降りの雨のように降り注いだ。


「杏里ちゃん!」

「ミナベル!」


 アルスの声が反響し、白い影が杏里の元へ疾駆した。同時に広間の入り口から無数の氷塊が床を切り裂きながら屹立し、ライックに向かって殺到する。


「無駄だよ」


 未だククの腕を掴んだまま、自身を襲う氷塊にライックが足を振り上げる。その靴先に氷の刃が触れると同時に力は瞬時に形を無くし、アルスの魔法が瓦解した。


「君程度の力じゃ俺には届かないよ、アルス様」


 ライックの背後から黒い閃光が奔る。自らに迫る攻撃を防ぐため、アルスが防御壁を展開させた。――だが。

 黒い光は障壁を容易く撃ち抜いて、爆発音と共に広間の入り口が崩壊した。


「アッ君!」


 粉塵に呑まれ、アルスの姿は見えなくなった。


「……っ」


 もう迷っている場合ではない。


(この人は……ライックは、敵だ)


 吊られた腕を支えに、ククは無理やり体を捻る。捕らえた獲物の抵抗にライックが反応するより早く、ばきり、と背筋が冷える音がして手首が折れた。


「ッ……!」


 広がった可動域。苦痛が理性を蝕む前に、ククは全ての力を注ぎ込んで、傍らの男の顔面に向かって蹴りを放った。


(届いて……!)


「おっと」


 ライックの手がククの手首から離れる。

 だが、そのまま素早く足首を掴み直され、直後、猛烈な衝撃がククの体を突き抜けた。


「……っく、は……っ」


 ククはぐらつく視界で、地面へと叩きつけられたことを理解する。体を裂くような痛みで呼吸が出来ないが、しかしそれも想定内だった。無事な方の手を伸ばす。指先が、赤く濡れた床に転がる自らの剣に何とか届いた。その柄を手繰り寄せ、ククはすぐ目の前に見える男の片足に、迷わず剣先を突き立てた。


「ぐ、ッ……ァ!」


 床に足を縫い止められ、ライックがバランスを崩す。

 今ならいける!

 今度こそ拘束から解放されたククは、男の足から刃を引き抜いた。あらゆる思考を排除し、ただ、目の前の存在を倒すためだけに剣を振り上げる。大丈夫だ。ライックの反応より早く、この一撃は彼に届――その時、視界の端に黒い光が瞬いた。


 避けられない。


 そう悟った瞬間、背後から誰かに襟首を掴まれ、そのまま放り投げられた。瞬間、目の前を黒い光が撃ち抜いて、粉々に砕けた床材が宙に散らばった。

 まともに喰らっていたら肉片になっていたであろう攻撃に、しかしぞっとしている暇もない。

 床に転がるククと入れ替わるように、ディオンが赤い大剣をライックに向かって振り被った。


 重い刃がぶつかる音が広間に響く。

 ディオンの一撃を阻んだのは、ライックが手にする翡翠色の剣だった。魔力で形成されたものなのだろう、景色を透かして揺らめく刀身は、実体を伴うディオンの剣を難なく押し止めている――どころか、まるでディオンの剣が纏う赤い灯火を侵食するかのように、徐々に黒い光を放ち始めていた。


 翡翠の剣が疾風と共に閃いて、ディオンの体が吹き飛んだ。


「ディオ!」


 よろめきながら床に膝をついたディオンは、胸上を斬りつけられ、上衣を血で汚していた。


「残念、喉を狙ったつもりなんだけどなあ」

 ライックが呑気な声を出す。

「あ、でも確か君は死なないんだっけ? どういう理屈なのか気になるけど、今はそれどころじゃないから後で調べるとして……とりあえず、別の対策を考えようかな」


 広間の床に黒い影が蠢くのを見て、ククは叫んだ。


「ディオ、避けて!」


 ぶわり、と。

 浮き上がるような風と共に、床から無数の蔦が伸びる。その範囲は――広間全域だ。避けきることなく当然出来ず、ククの足にも伸びてきた数本が絡みつく。咄嗟に剣で斬りつけるが、あまりに数が多すぎた。対応しきれない。逃げられない。


 しかし、突如吹き抜けた冷たい風に、伸びていく蔦の動きが停止した。それだけではない。すっかり凍りついた蔦は次々と形を崩して、あっという間に消えていく。

 凍て風は床にも霜を落として、蠢いていた不穏な黒い影は既に完全に封じられていた。


「これは……」


 ライックが呟くと同時に、彼の背後の床が轟音と共に大きく崩れた。

 突如階下から屹立した氷の一柱。天高く伸びたその足場から、少年の影が飛来する。

 衝撃と轟音で、広間が揺れた。

 中空で、アルスが放つ青い閃光と、ライックが展開する黒い障壁がぶつかりあう。だが、力が拮抗していたのは一瞬だった。


「何度やっても無駄だよ」


 ライックが腕を掲げると、彼の頭上に展開されている障壁がバチバチと音を立てながら膨れ上がった。

 圧倒的な力に押されながら、アルスの顔がククを向く。未だ戦意を宿したままのその目は、ククの意志を確かめているようだった。


(……わたしも、諦めない)


 諦めた先に待っているのは恐らく死だ。それをむざむざ受け入れるつもりはない。


「……おい、まだ動けるか」


 体を引き摺るようにして近付いてきたディオンが、低く抑えた、けれど切迫した声で問う。ククは頷き、どうしようか、と問い返した。ディオンに何か考えがあるように見えたからだ。


「悪いがあいつに突っ込んでくれ」

 ディオンの要求はシンプルだった。

「後は俺が引き取る。うまくいくかは分からんが」


「いかなかったら?」


「知らん。死にたくなければ勝手に逃げろ。一応盾くらいにはなってやるが、期待はするなよ」


 あまりにざっくりした作戦とも呼べない指針だったが、もはや四の五の言っている時間はなかった。

 爆音が轟き、視界が一気に暗くなった。

 広間を包んだ闇はすぐに集束し、後には一人、ライックだけが立っていた。アルスの姿は離れた床の上で、倒れ伏して動かない。だが、今はそれも無視するしかなかった。

 折れた利き手を庇いつつ、剣の柄を握り締めると、ククはライックに向かって駆け出した。


「懲りないね、君も」

「懲りないよ……!」


 叫んで、片手で剣を振る。刀身がライックの翡翠の剣にぶつかった瞬間、嫌な手応えと共にククの剣が根元から勢いよく折れた。刃は、ククの体を掠めて彼方へと飛んでいく。


(まだ……っ)


 不要となった柄を離し、蹴りを放つ。

 防がれていい。掴まれてもいい。ただ、少しでも時間を稼げれば、それで。


「……ぅ、……っ!」


 背を貫く衝撃と共に、膝からがくんと力が抜けた。叩きつけられたのは肘か剣か、それとも他の何かか。確認出来ないまま、地面に体が沈む。息が出来ない。胃酸が逆流し、目の前が赤く明滅する。


(でも、これで……!)


 予想通り、背後から駆け抜ける足音が聞こえた。ふらつく頭を上げると、剣を構えたディオンがライックに肉薄するのが見えた。


「――!」


 一挙に放出された紅蓮の光が、この場のすべてを包み込む。暴風が頭上を覆う天蓋の骨組みを吹き飛ばし、方々の柱が大きく傾いだ。咆哮のような風音を伴って、赤く、赤く、景色が塗り潰されていく。

 その中心で、ライックがとうとうその場に膝を付き――声を上げて、笑った。


「なぁんだ、結局その程度か。期待外れもいいところだよ」


 息を呑んだのは、ディオンかククか。

 ライックが手を伸ばし、自身に振り下ろされようとしているディオンの剣を、その剥き出しの刀身を、直接掴んだ。

 彼の手のひらから真っ赤な血が流れ出し、同時に、ディオンの剣に亀裂が走る。


「ディオ!」


 瞬間、大剣がガラス細工のように砕け散った。

 風はなおも荒れ狂うが、その支配権はもはやディオンにはない。剣を失ったディオンの体はなす術なく吹き飛ばされ、崩れかけた壁へと叩きつけられる。


 周囲に満ちていた紅の光は、黒く、汚れた色へと変質しつつあった。

 終わらない夜を迎えたような空間の中心で、ライックが黒い耳と尾を揺らし、立ち上がる。

 対して、ククは起き上がれなかった。

 もう他に彼に抵抗出来る者もいない。ライックは、そのことを誰よりもよく分かっている表情を浮かべて言った。


「さて、これでおしまいかな」


 そのライックの胸元から、黒い剣先が突き通った。


「いいや、まだだ」

「……っ、は……」


 ライックが信じ難い顔で振り返ろうとする。が、自らを貫く刃に阻まれて、それは叶わなかった。

 彼は呆然と自らの胸元を見下ろした。


「死人を侮ったな。神とやら」


 ライックの背に寄り掛かるようにして立つ血まみれのクレストは、剣を握ったまま、不敵な笑みを口元に浮かべた。


「魔剣よ、喰らえ。その心臓はお前のものだ」


「――!」


 クレストの声に応えるように、彼の持つ黒い剣の切っ先がわずかに明滅し、震える。

 たったそれだけで、すべては終わった。


 クレストが剣を引き抜くと、ライックはその場に崩れた。

 血溜まりの中、その体はもう動かない。見慣れた長い尾と獣の耳を覆う黒い毛並みだけが、吹き抜ける風にかすかに揺れていた。


(終わった、の?)


 こんなに呆気なく、すべてが?


 風は、床を薄く覆う血潮にも細かなさざ波を作りながら、穏やかに、あくまで無関心に吹いている。

 その光景を呆然と眺めるククの頭に、突然、声が響いた。


――怖がらなくて大丈夫だよ。


――どうして、君が……。


――俺には、もう、何もない。


――何もない。何もない。何もない。


――生きる理由も、意味も、何も。全部、全部がない。


――どうしたら、おれは、いきていける?


――「神様」になれば、俺は、生きていくことを許される?



「くっ……」


 クレストが、崩れるように膝をついた。


「……クレスト!」


 我に返ったククは、体を引き摺るようにして少年の元へ駆け寄った。

 クレストはこの状態で動けていた方が不思議なほど、全身に無数の深い傷を負っていた。

 ククの視線を受けて、クレストは笑った。


「……いくら死人でも不死ではないようだな。しかしまさか、こんな下らんもので命拾いするとは思わなかったが」


 そう言ってあぐらをかいたクレストが投げ出したのは、派手な装飾に覆われた短剣だった。刃を覆う鞘にはライックの攻撃で出来たものか、大きな傷跡が刻まれている。


「これ……、っ?」


 短剣に手を伸ばしかけたククは、かすかな振動に気が付いて顔を上げた。

 途端、轟音を伴って、広間全体が大きく揺れ始めた。


「……ッ! 何?」


 大きな揺れはすぐに収まったが、足下の振動と地響きのような音は止まらない。答えが返るのを待たず、ククは直感した。


 ここは、崩れる。


「……さっさと脱出するよ」


 冷静な声はアルスのものだった。ふらつきながら、こちらに歩いてくる。


「アッ君、これは……」


「……城の中と城下町に爆発型の魔法が仕掛けられてた。いくつかは解除したけど、数が多すぎて全部には対応出来てない。この城はじきに潰れる」


 アルスの言葉を証明するように再び激しい揺れが襲ってきた。階下から巨大な何かが崩れるような音もする。時間は全くなさそうだ。

 一刻も早く脱出しなければまずいだろうが、その前に確かめなければならないことがあった。


「杏里ちゃんは……!?」


「こちらですわ。生きてますわよ、ギリギリですけど」


 広間の隅から、全身を朱色に染めたミナベルが答えた。

 彼女の背にはぐったりとした杏里が背負われている。


「一応出血は止めましたが、私の回復魔法では気休め程度にしかなりません。早く病院にお連れしなければ……」


 もはや、ぐずぐずしている場合ではない。


「分かった、行こう! ディオは……」


「問題ない」


 同じく離れたところから被せるように即答される。彼もまた傷だらけだが、何とかまだ動けるようだ。


(ライ君は……)


 ククは、命を喪った男の体を見下ろした。

 誰に聞くことも出来ない。だが、答えは分かっていた。


(ここに、置いていくしかない)


 だけど、彼は違う。

 ククはクレストを振り返った。


「クレストも一緒に!」


「俺は行かない。ここで別れだ」


 クレストの答えには迷いがなかった。


「っ、でも、ここは崩れるんだよ……! だから……」


「俺の居場所はここだ」

 淀みなく言って、クレストは笑った。

「ここにしかない」


「そんなことない!」


 食い下がろうとしながらも、ククは理解しつつあった。

 この意思は覆せない。


 剣を床に横たえて、クレストは頭上に開かれた空を仰いだ。


「俺はこの地の最期を看取る。かつてここに在った国の王として、それこそがこの身の務めで、俺の望んだ生き方だ」


 言って、金の瞳を細める。その表情はこれまで見たどんな顔より穏やかで、幸せそうにすら見えた。


「行くぞ」


 腕を引かれて見上げれば、ディオンが険しい表情を浮かべていた。諦めろ、と、彼がそう言いたいのが分かる。ククにも分かっている。それでも。

 それでも。


「クレスト……」


 ククを見上げて、クレストは小さく頷いた。

 分かっている。彼もまた、そう伝えるような顔だった。


「礼を言う。お前が俺の敵であってよかった」


「……わたしは、あなたの友達になりたかったよ」


 クレストは一度目を伏せて、微笑みと共にククを見上げた。


「友よ。お前はお前の城へ、胸を張って凱旋しろ」


 行け、とクレストは言った。


「……クレスト」


 さよなら。その別れの言葉を、笑顔で告げることは出来なかったけれど。

 ククは少年に背を向け、先に進む皆の後を追って走り出した。

 振り返ることはしなかった。


***


 少女たちの背を見送って、クレストは広間を見回した。

 天窓の骨組みを支えていた支柱は既に吹き飛び、血で汚れた床はあちこちが剥がれ、崩れている。かつての面影はほとんど残ってはいなかったが、それでもそこは確かにクレストの知るリバリティの城だった。

 しかし、思えばこの場所でのクレストの思い出は少ない。その限られた思い出の中でも、自らが王としてここに立った記憶はそれこそ数えるほどしかなかった。


 クレストは自分の手のひらを見下ろした。

 薄くて小さい、子供の手だ。体も細く、背だって低い。アストリアの王の手によって死んだ時の姿、そのまま。何もかもが父である先王にはほど遠かった、あの頃のままだ。

 だが、それでもクレストは王だった。

 間に合わせの、未熟で、未完成の王だったけれど、それでも確かに王だった。

 だから後悔はしない。手に入らなかった数多の可能性を夢想することもしない。したところで無意味だからだ。


 やがて、轟音と共に複数の柱が折れた。

 床の一部が崩落し、串刺しにされたユイージナの死体が黒い槍ごと大きく傾くのが見えた。そのまま、床に開いた穴に呑み込まれていく。


「……すまない、ユイージナ」


 彼女の願いを果たせると思っていたわけではない。君主一人が蘇ったところで滅びた国が復興することなど不可能だ。だが、彼女の見ていた夢はあまりに愚かで、あまりに甘く、あまりに美しかったから、せめて優しく目覚めさせてやりたかった。

 しかし、それももう叶わない。


「お前も、すまなかったな」


 二度目の言葉は、目の前の短剣に。

 それはとうの昔に喪ったはずの宝剣だ。一体誰がどこで見つけてきたのかは分からないが、それをクレストに似合うと言って笑ってくれた少女も、もういない。彼女にだって、もっとしてやれたことはあったかもしれない。


(……それだけではない。俺は、数多の人間を傷付けた)


 失ったものは戻らない。王であった頃の自分に後悔はない。

 だが、この世に再び生を受けた自分が無数の過ちを重ね、罪のない人々を害したのは事実だ。それだけは、少し苦しかった。


 また一つ巨大な柱が倒れ伏し、崩壊の音が大きくなる。

 だが、何故かこの場所は明るかった。

 空を仰げば、巨大な月がクレストを見下ろしていた。

 月光も陽光も、この地に降り注ぎ続ける。たとえ、そこに城がなくとも。たとえ、そこに刻まれた国の名前が失われても。


(ならば、この地は永遠に俺の故郷なのだろう)


 クレストは、空に向かって腕を伸ばした。

 過ちを重ねたことは否定しない。その罪はこの身、この命で贖うことしか出来ないが、それで赦されるとも思っていない。深い地の底で果てぬ業火に灼かれるというなら、甘受しよう。

 だが、この思いだけは譲らない。


(俺はこの国の王だ)


(この滅びた国の、最後の王だ)


 そうして訪れた暗闇を、クレストは瞼を閉じて受け入れた。


***


 轟音と衝撃が、空気と大地を激しく揺らしていた。白い粉塵を激しく散らしながら、巨大な城が崩壊し、沈んでいく。かつての栄華も、数多の無念や後悔さえをも呑み込んで。

 小高い丘の上で足を止め、その光景を見守る者たちがいた。

 崩壊の最中で、一人微笑む者がいた。

 その道は重なることはなかったが、思いが交わされた瞬間は確かにあったのだと、互いだけが知っていた。

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