第3話
テトラの村は周囲一帯を森に囲まれている。
唯一、隣町の方角でもある東へ進めば比較的すぐに街道に出ることが可能だが、それ以外の方向へ進むと待っているのは深く広がる緑の海だ。
うっかり迷うと大変なことになると、村人たちでさえ必要がない限り普段はあまり奥まで進まない。
その森を、二つの影が進んでいた。
「……くそ。暗いな」
ククの前を歩いていたディオンが立ち止まり、頭上を仰ぐ。
夜を迎えて森林に満ちる闇は濃度を増すばかりだった。動かない曇は厚く、月明かりを期待することも難しそうだ。
「お前、魔法使えないのか? 明かりになるようなやつ」
足元はおろか、お互いの表情すら見えなくなりつつある中で、ディオンから投げられた問いにククは少し考えて答えた。
「魔法は……使えないかなあ」
そういう便利な技術があること自体は知っているのだが、今のククにその心得はなかった。使い方を忘れているだけなのか、元々使えないのかも分からない。
「ディオは?」
「使えないから聞いたんだろうが。……まあいい」
ディオンが視線を落とし、着ているジャケットの右袖を捲る。 手首に嵌めた無骨な銀のバングルを指先でなぞると、ややあって、その表面がぼんやりと白く発光し始めた。
「……まあ、これでも無いよりマシだろ」
「それ、なあに?」
「魔動式の携帯灯だ。っつっても俺自身の魔力じゃなくて、周りの魔力で駆動してるだけだがな。ほら、先へ進むぞ」
しかし、捜索を再開したものの、クレストの痕跡はほどなく完全に途絶えてしまった。広場から続いていた足跡は草むらの中に途絶え、付近を探すも目につくものは何もない。
「ねえディオ……何か変じゃない?」
見つからない残痕の代わりに、先ほどから何か肌をざわつかせるような感覚がククに纏わりついていた。
「何がだ?」
どうやらディオンは感じていないようだ。どう説明したものかと悩んでいると――遠くで何か音がした。
ククはディオンと顔を見合わせた。
今度は二人の共通認識だったらしい。頷き合い、二人で音のした方に歩いていくと、木々の影から明るい光が揺れているのが見えてきた。
そして、今度こそはっきり、男の声が聞こえてきた。
「助けてぇぇぇ……」
生い茂る草を掻き分けた先の一本の古木。弱々しい声はその上から降ってきていた。木の根元には大きなリュックサックに加えて、光源であるカンテラが置かれている。枝葉と闇に遮られ、頭上にいるらしい持ち主の姿は窺えなかったが、向こうにはククたちが見えたらしい。
「き、君たち! た、助けてください! おれを下ろして!」
「えっと……どうしたらいいかな?」
必死に呼びかけてくる声に、ククはディオンを仰いだ。
「放っとけばその内力尽きて落ちてくるだろ」
「そんな死に際の虫みたいな扱いはやめてよ!」
頭上の声が主張する。
「お願いですから! とにかく助けて!」
ディオンは険しい顔で黙っていたが、やがて長く深い溜息を吐いた。
「……お前は少し下がってろ」
言われるがままククが後ずさると、ディオンはおもむろに足を振り上げて――そのまま木の幹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
衝撃を受けた古木が激しく震え、ククとディオンの足元に葉や虫が雨のごとくに落ちてくる。
のみならず、半ば当然の帰結として、
「う、ぎゃあああああああ!」
声の主も落下した。
「……い、いたた……」
ほどなくして、叢の中から一人の男が立ち上がった。
背が高く、方々に跳ねた髪と穏やかそうな瞳は明るい緑色。それより更に特徴的なのが、男の頭から飛び出した三角の黒い耳と、同じ色で背中越しに揺れる猫のように長い尻尾だった。
「それにしてもひどいよ……なんて乱暴な解決法なんだ……」
呻く男に、ディオンが肩を竦めた。
「お前が『落として』っつったんだろうが」
「下ろして、ですよぉ……。まあでも、助けてくれてありがとうござ……」
息ごと言葉を呑んだ男に、ククはディオンと顔を見合わせて、すぐにその原因に思い至った。二人とも顔から服、靴に至るまで魔物の返り血と泥で汚れているのだ。これでは、ぎょっとされるのも無理はない。
「君たちは一体……」
今にも逃げ出しそうな男に向かって、ククは軽く両手を掲げ、害意がないことを示した。
「これはちょっと色々あって……。それより、わたしたち以外に誰かこっちに来なかった?」
「え? いや、見ていないけど……あ、」
男が不意に空を見上げた。同時に、ククの鼻先に滴が落ちる。
「雨だね。やっぱり降り始めたかぁ」
男が言う傍から、雨脚はたちまち激しくなってきた。
「これ以上追うのは無理だな」
「……そうだね」
ククは頷いた。
既に周囲は暗く、手がかりの足跡も途絶えてしまった。諦めきれない気持ちはあるが、ここで無理を通してディオンに迷惑をかけることは避けたかった。
とりあえず一旦町へ戻ろうか。そう提案するつもりで口を開きかけた時、「あのさ」と男が先に声を発した。
「ここから少し歩いた先に小屋があるんだ。この辺は遅くなると獣も出るし、一旦そこで雨宿りしないかい?」
まだ少しひきつった顔で、しかしそれでも男は笑った。
「おれの名前はライック。君たちのこと、何があったのか……よかったら、そこで聞かせてもらえないかな?」
ライックの言った小屋には、すぐに辿り着いた。
いつ建てられたものかは判然としないが、元々木こりや旅人の休憩用に作られたのだろう。室内には硬そうなベッドと簡易キッチンがあるばかりで、歩く度、床に厚く積もった埃が舞い上がったが、ひと時雨風を凌ぐには十分すぎる場所だった。
「で、お前はあんなところで何してたんだ?」
部屋の隅で濡れた上着を脱ぎながらディオンが問う。
床に胡坐をかいたライックは少し困ったような表情で、濡れた鼻の頭を掻いた。
「えーと、おれから? ……まあ、いっか。おれはあちこち旅しながら商人というか、便利屋みたいなことをしてるんだけど、この近くでお祭りがあるって聞いたから、ちょっと見に行こうかと思ってね。だけど途中で道に迷ってる内に遠くが騒がしくなってきて……とりあえず様子を見ようと……」
「木に登り、下りられなくなった、と」
「……はい、そうです」
「でも、この距離でよく村の騒ぎが聞こえたね」
ククが言うと、ライックはへらっと笑って頭の上を指差した。
「おれには、これがあるのです」
ぴこぴこと動く黒い耳に、ククは首を傾げた。
「えーっと……それって、本物の耳……だよね?」
「えっ」
「獣人だろ。知らねえのか? いや、覚えてないのか?」
ディオンが呆れきった声を上げた。
「獣人……。なんとなく覚えてるような……ないような……」
「ま、それなりに珍しい種族だし、元々見たことないかもな」
「うーん……そうなのかなあ……」
「な、なんだか複雑な事情があるみたいだね……。それより、君たち……えっと、ククちゃんとディオン君だよね。二人は村から来たんだよね? 一体何があったんだい?」
ライックの問いには、ディオンが答えた。
「祭りで使う神剣に手を出したやつがいて、封じられてた魔物が復活したんだよ。で、当然大騒ぎになった」
「な……一体誰がそんなことを……。村は大丈夫なのかい?」
「魔物は倒したよ。だけど、たくさん怪我人が出てる」
ククは俯き、唇を噛んだ。
「神剣に触ったのはクレスト……わたしの知り合いなの。だけど、クレストがどうしてそんなことをしたのかは分からない」
そう、何も分からない。本人に確かめない限り。何も。
「彼は今、どこに?」
「魔物が出てきてすぐ、森の中に消えちゃった。わたしたちはクレストを追いかけてきたの」
「そっか……。でも、この雨じゃあ……」
ライックの横顔が窓の外へと向けられる。
夜闇に閉ざされ、表の様子は見えないが、薄いガラスを叩く雨音は絶えるどころか激しさを増すばかりだった。
ライックはそれ以上言葉を続けなかったが、ククにも分かっていた。もしかしたら残っていたかもしれないクレストの手がかりも、きっとこの雨に流されてしまうだろう。
結局、降雨は一晩中続いた。
「……外、日が出てきたみたいだね」
「うん……」
ライックの声に、ククは徹夜明けの鈍い頭で頷いた。
差し込む日の光が室内を徐々に明るく染めていく。
雨音はもう聞こえない。聞こえてくるのは、活動を始めた鳥たちの賑やかな歌い声ばかりだ。
これから何をするか、ククの心は決まっていた。
立ち上がると、億劫そうなディオンと心配そうなライックの顔がこちらへ向けられた。
昨夜は思い思いに休んでいたから会話はあまり出来なかったが、二人が「いい人」であるということは短い交流でもよく分かった。だから、ククは報告した。
「わたし、村へ戻るよ」
クレストに追いつくことが出来なかった。その事実には納得しかねる気持ちも、悔いもある。何よりここまで付き合ってくれたディオンにも申し訳なかったが、足跡や手がかりが雨に流されてしまったであろう今、このまま森をうろついたところでクレストの発見に繋がる可能性は低いだろう。
だから、一旦村へ戻る――つもりだったのだが、ディオンの表情は予想外に曇っていた。
「村に戻る? ……お前、あの時あの場を離れる意味を考えてなかったのか?」
質問の意味を図りかねているククに、ディオンは心底呆れたように頭を振った。
「悪いことは言わない。戻るのはやめておけ」
「あの……おれもそう思うよ」
ククはライックを見る。どうして彼までそんなことを言い出すのか、理解出来なかったからだ。
「その……多分、君が傷付くことになるんじゃないかな……」
ライックはディオンの呆れ果てた様子ともまた違う、ククに同情するような表情を浮かべていた。
「えっと……」
二人が何を言いたいのかは分からなかったが、その表情や声音から心配してくれているのだろうということは汲み取れた。
その上でククの気持ちは変わらなかった。
「……二人とも、ありがとう。でも、やっぱり戻らなきゃ」
クレストの捜索を諦めるにしろ、準備を整えて再び探しに向かうにしろ、ククにとって帰れる場所はあの村だけだ。ルーナやガルベラ、他の村人たちのことだって心配だった。
帰らない、なんて選択肢は存在しない。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言って、ディオンが立ち上がった。ククに向けられた視線は、出会った時のように冷ややかなものだった。
「俺は行く。もう村には戻らない」
剣を背負い、小屋から出ていくディオンの後ろ姿を、ククは慌てて追いかけた。
「ディオ、待って……! あの、ごめんなさい……!」
伝えるべき言葉を見失ったまま口から飛び出したのは、そんな不足だらけの一言だった。けれど、村を出た時点でディオンがそこに戻らないことを決意していたのなら――決意せざるを得なかったのなら、その原因は無理やり彼を連れ出したククに他ならない。
「……別に、お前のせいだとは思ってない」
ディオンは立ち止まったが、振り返ろうとはしなかった。
「どのみち村を出ることになるだろうとは思っていたし、こういうことには慣れてる。……っつーか、悪いな」
「なんでディオが謝るの?」
答えず、ディオンは首を振った。
「じゃあな」
今度こそ、その背を引き留めることは出来なかった。
「その、今の状況だとよそ者は村に入りづらいと思うから……力になれなくてごめんね、ククちゃん」
雨上がりの小屋の前、耳も尻尾もしょんぼりさせたライックに、ククは笑って首を振った。
「ううん、平気だよ。ありがとう、ライ君」
昨晩出会ったばかりで、まだ不審感を持たれていたとしてもまるで不思議はないというのに。心から案じるようなライックの表情に、優しい人なんだな、とククは思った。
その彼が、ふと表情を緩めて微笑んだ。
「どうしたの?」
「ああ、えっと……いつかまた会えるといいな、と思って」
「うん、そうだね。きっとまた会えるよ」
手を振り合い、別々の方向に歩き出す。ライックは元来た町へ。ククは再び、テトラの村へ。
二つの足音は、すぐにクク一人のものだけになった。
ぬかるんだ道は歩きづらいが、晴れていて周囲は明るかった。小屋の前から続く獣道をライックが教えてくれた通りに進んでいくと、ほどなくして馴染んだ景色が見えてきた。一晩ぶりのテトラ村だ。
だが、そこにいつものような活気はなかった。人々の姿は少なく、常ならば賑やかに聞こえてくる子供たちの声もない。外に出ているわずかな村人も暗い表情で身を寄せ合っている。
ククに気付いた数人の村人が、こちらへ駆け寄ってきた。
「あんた……! 今までどこにいたんだ!」
真っ先に声を上げたのは、食堂の常連客でもある農家の若い主人だった。他にも見知った顔がいくつもあったが、皆一様に険しい顔をして、ククの行く手を遮るように立っていた。
「わたしはさっきまで森にいたんだけど……」
「それより、あの紫の髪の旅人はどこへ行った?」
「クレストはどうした! 一緒だったんだろ!」
「あんた、魔物と戦ったってのは本当なのか?」
「何を知ってるんだ、教えろ!」
「あの、ちょっと待って!」
そう声を上げても、ざわめきは一向に止まらない。
どころか、騒ぎを聞いて人がどんどん集まってくる。
「みんな、待って! わたしの話を聞いて!」
戸惑いと共に周囲を見回して、ククはようやく気が付いた。
怯え。戸惑い。緊張。非難。嫌悪。不審。
村人たちの顔に浮かべられた、それらの強い感情に。
「おい、あんた、何か答えろ!」
若い男に腕を掴まれた瞬間、ククの頭に声が響いた。
――捕まえろ! こいつは化け物だ!
「……っ!」
ククは腕を引き、男の手から逃れた。
(今のは?)
あまりに剣呑な周囲の様子に幻聴が聞こえたのだろうか。けれど、このままでは実際同じ言葉が上がるのも時間の問題のように感じられた。
何とかしなければ。でもどうしたらいい?
「……何が起きたのか、わたしにも分からないよ。分からないからクレストを追いかけたの。それにディオはもうここから出ていくって……」
「逃げたんだ!」
大声を上げた男の顔を見る。
(この人たちは、誤解してる)
違う、と訴えようとした声は罵声に掻き消された。四方から人に押されて体が揺れる。
(ディオは、こうなることが分かって止めてくれたんだ)
今更になって理解する。だけどそれを振り切ってまで、ここへ戻ってきたのはクク自身だった。
「わたしもディオも何もしてない!」
精一杯の大声を上げると、ざわめきが少しだけ静かになった。
「……わたしはみんなに危害を加えようなんて思ってないよ」
ククは村人たちから距離を取ろうと後ずさった。反発され、押さえ込まれるかとも思ったが、取り囲む者の何人かはむしろ怯えたように身を怯ませた。
行くなら、今しかない。
人垣の綻びに向かって、ククは突進した。
「ごめんなさい……どいて!」
包囲が崩れ、大声が上がる。追い縋り、伸びてくる手を躱してククは走った。民家の間を縫い、なるべく人の視線から逃れられそうな場所へ。とにかく走る。
何度目かの角を曲がって振り返ると追手の姿はなかったが、肌に伝わる不穏な空気は更に強まっているように感じられた。
こうなることを察して、ディオンは予め忠告してくれたのだ。それを理解しなかったのも、自分一人でもこの地へ戻ろうと決めたのもわたし自身だ。
だから仕方ない。今更後悔すべきでない。そう頭では考えられるのに、村人たちの猜疑に満ちた眼差しを思い出すと、どうしても心が揺れるのを止められなかった。
重い足取りで、ククはガルベラの食堂へ向かった。
いつもなら扉を開ける前から賑やかな気配を感じる食堂は、入り口に休業を示す札を下げ、ひっそりと静まりかえっていた。
扉はいくら押してもぴくりとも動かない。鍵など、これまで掛けたことなどなかったのに。
「ガルベラさん、ルーナさん」
古いが分厚い扉を叩き、呼びかける。一度、二度。返事はない。五度目にして、ようやく鍵が外れる音がした。
扉は開け放たれることはなく、細く開いた隙間から、ガルベラのやつれた顔がククを見た。
「……あんた、何処にいたの」
放たれたのは、冷水を浴びせるような声だった。
「わたし、クレストを追いかけて……」
「そう。友達が心配だったんだね」
「ガルベラさん……わたしは……」
ガルベラの顔が苦しげに歪んだ。
「ルーナは大怪我だよ。顔にも傷が残るだろうし、今もひどい熱が出てる。だけどあの時、あんたは余所者を追いかけることを選んだんだ。あたしたちやこの村のことを捨てて」
「違うよ……! わたしはただ、クレストにどうしてあんなことをしたのか確かめたくて……」
「だとしても、あんたを信じる術なんかない!」
ガルベラは叫んだ。
「あんたはクレストと同じ余所者だ。余所者がこの村をめちゃくちゃにしたんだよ! あんたたちみたいな素性の分からない人間を、この村に迎え入れるべきじゃなかったんだ……!」
「ガルベラさん……」
歩み寄ろうとした足に何かがぶつかった。
見下ろすと、それは室内から押し出されたククの荷物だった。
「たとえ……」
掠れた声が発せられる。顔を上げると、ガルベラは知らないものを映す目で、ククを見下ろしていた。
「たとえ、あんたに本当に悪意はなかったんだとしても……。魔物を躊躇いなく斬れる人間なんて、うちには要らない。もう、置いておけないよ」
「ガルベラさん……」
重い音を立てて閉ざされた扉は、二度と開くことはなかった。




