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refrain  作者: 水幸
第六章 闇への反旗
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第27話

 時間が過ぎていく。ただ、過ぎていく。

 アルスはベッドの傍らに座り込み、ただただ時が通り過ぎるに任せていた。選ぶことも進むことも、何もかもをも放棄して。


 時折意識が空ろの中に漕ぎ出でると、あらゆる懐かしい音を聴いた。「父」の怒りで震える低い声。頭の上を過ぎていく男たちの耳障りな呼吸。城を行き交う喧騒や足音。「妹」の、か細い泣き声。

 その何もかもがお前は間違っているのだとアルスに教えてくれた。お前さえ生きていなければよかったのだと、内に囁きを吹き込んだ。

 かつてその声を払った光は、今はもうここには届かない。

 一生、届くことはない。


「…………」


 ローブの袖口から覗く剥き出しの腕には黒い文様が刻まれている。半ば見慣れたものだが、それは以前より確実に密度を増して肌の上をひしめいていた。


(……呪いが、広がっている)


 この身を覆う諦念がこれを育んでいるのだろうか。ならば、食い破られるのも時間の問題なのかもしれないが、それももうどうでもよかった。終わるなら終わればいい。もうそれでいい。


 ただ価値のないまま続いている命を抱え、誰かが勝手に与えてくれるであろう終止符を待っていると、ふと指先に軽い痺れが走るのを感じた。


 外界からの干渉を遮断する結界があっさり瓦解する感覚と同時に、二階の窓が外から開く。そこから滑り込むように室内に入ってきたのは、青く輝く髪と瞳を持つ女。魔女だった。


「こんな紙細工みたいな結界、陛下ご自慢の魔法使いが聞いて呆れるわね。五勇の名折れよ、アルス」


 白いワンピースを纏う女は、鼻に皺を寄せて吐き捨てた。


「……リティア」


 アルスは魔女たる女の名を呼んだ。ここに現れるべきではない存在に対して、しかしそれ以上の興味は湧いてこなかったが、相手は構わず喋り始めた。


「それにしてもこの町、なんて空気が悪いの。おかげで長居は出来ないから用向きだけ伝えるわ。シトラスは、国葬にすることが決まったから」


 女はアルスの反応を窺うように言葉を切った。だが、何の返答もないと知ると、再び話し出す。


「あと、あなたには興味がないかもしれないけれど、ロストベルも亡くなったわ。医療班が頑張ったけど、手遅れだった」


「……そう」


 ロストベル。彼があの地で何をしようとしたのか大体の予想はついていた。そしてアルスがそれを察していることに、女も気付いているのだろう。

 女はゆるく首を振って、言葉を続けた。


「……ロストベルがシトラスを狙ったのは、シトラスを倒せば五勇入り出来るって思ったからよ。でも、陛下はそんな約束なんてしてない。陛下もシトラスの処遇についてはずっと悩んでいたし、本人が望む以上、除名して新しい人間を迎え入れた方がいいかもしれないとは思っていたみたいだけど、そうするにしたって相応の手順は踏むつもりだったはずよ。それをロストベルが勝手に先走って行動しただけ」


 黙っているアルスに、女が窺うように首を傾げた。


「ねえ、もしかして私が陛下を庇ってるって思ってる?」 


「……違う。どうでもいい」


 そう、と魔女は頷いた。青い髪がさらさらと肩を流れている。

 ややあって沈黙を破ったのは、またしても彼女の方だった。


「……私だってシトラスのことは残念だわ。だけど、仕方ないとも思ってる。だってシトラスは普通の死に方が出来ないような生き方を選んだんだから。たとえ五勇の名を捨てたって、それは本人もちゃんと理解していたはずよ。で、あなたはどうなの? いつまでそうしているつもり?」


 考えるのも答えるのも面倒だった。

 会話する気などないのに、女はしつこかった。


「そもそも私たちみたいな『選ばれた側の人間』が普通の人間のように死にたいなんて高望みだわ。自分が特別な存在として生きる道を選択したのなら、待っているのがどんなに他人より残酷で理不尽な運命でも受け入れる覚悟を持つべきよ。そうしていつか避けられない死を迎えるなら、せめてそれまでは矜持を持って生きてみようとか、そういう風には思わない?」


「……思わない」


「自分以外の誰かに生かされてここにいるとしても? 命がけで守られたとしても? それを全部ふいにして投げ出すわけ? それってすっごく馬鹿で、救い難いほど愚かよ」


 アルスの脳裏に金色の光がかすかに過ぎる。

 けれど、それが過ぎ去った後の景色は、前よりずっと暗かった。

 こんな思いをするのなら、灰色の景色のままで良かった。薄暗い世界で誰からも顧みられることなく壊れ、死んでいく存在でよかった。何も要らなかった。自分が何かを欲しがっていることにさえ気付かなかったのに。気付きたくなかったのに。


 答えないアルスに、とうとう女は諦めたようだった。


「……分かったわ。これ以上ここにいたら私にまでカビが生えそうだし、もう帰ることにします。さようなら」


 女は窓枠へ投げやりに腰を下ろすと、おもむろに腕を掲げた。開け放たれた窓の外、近くを舞っていた小さな白い蝶が、躊躇うような動きの後で差し出された指先に降り立つ。魔女が蝶の羽根に唇を寄せ、囁いた。


「何をする気か知らないけれど、あんまり身勝手なことをするつもりなら一片残らず灰にするから」


 女が手を振ると、蝶は乱れた気流に揉まれるように、ふらふらと室内に入り込んできた。

 魔女は既に蝶の存在など忘れたかのようにあっさり立ち上がり、アルスに向かって肩を竦めた。


「一応言っておくけど、このまま死のうなんて思わないことね。これ以上陛下の刃が減るのは迷惑なの。それじゃ」


 ぱちん、と。女の姿が水泡のように弾けて消える。窓から吹き込む潮風に、彼女が纏っていた砂糖菓子のような香りもすぐに霧散した。


 部屋には、軽やかに舞う蝶だけが残った。


 蝶はしばし室内を浮遊した後、ソファに音もなく止まったかと思うと、淡い光を散らしながら人の姿へと変化した。


「ふぅ、随分脅かされちゃいましたわ。勝手をする気なんてこれっぽちもありませんのに……。さておきアルス様、ごきげんよう。わたくしの名前はミナベル。どうか気安くミィ、もしくはミーナとでもお呼びくださいませ」


 白い髪に白い肌、白い服、唯一黒い瞳。

 突然現れたその異様に目立つ風体の女は、無駄に丁寧な口調で名乗ってから少し目を伏せた。


「実は初めまして、ではないんですけれど、城ですれ違うくらいでしたからアルス様の記憶にはないかもしれませんね。……わたくしが誰の血縁かは、見ての通りです」


 歳は「彼」よりもずっと若そうだから、妹か何かだろう。ロストベルとよく似た面影を持つミナベルは、困惑したような表情を浮かべて首を傾げた。


「……あの、これは敵対の沈黙ですか? それとも容認されてます?」


「……どちらでも。どうでもいい」


 アルスは軽く首を振る。実際に何でもよかった。仮に、目の前の女が何か逆恨みして自分の命を狙っているのだとしても、どうでもいい。


「投げやりなお返事ですね。あなたはわたくしを、いえ……わたくしの兄を、恨むだけの理由があるのに」


 ミナベルは視線を落とした。


「兄のロストは息絶える前、彼の地で何が起きたのかを語ってくれました。あなたの大切な人を傷つけたということも……。兄の行動のすべては、我々一族の行く末を案じるがためのものでした。それがあなたに赦していただける理由になるとも思っておりませんが……それでも……」


 苦いものを嚥下するように、女の顔が歪んだ。


「兄は後悔していました。シトラス様を傷付けたことを。地位を求めるあまり短絡的な手段を選んだことを……。だから……いえ、そうではありませんね」


 ミナベルは頭を振ってから、アルスに穏やかに微笑みかけた。


「少しお喋りが過ぎました。今更ですが、お土産をお渡しさせてくださいませ」


 そう言うなり布地を重ねた襟元に手を差し入れて、どこへそれだけの大きさを隠していたのか、白い布包みを取り出した。


「これは医療塔で見つけたものです」


 ミナベルがテーブルの上に丁寧に広げた包みの内には、ファイルに紙の束をまとめたものや、クリップで留められただけの何かの資料らしきものがいくつか収まっていた。

 その一番上に重ねられた紙。そこに連なる文字がアルスの目を奪った。


 癖のない綺麗な筆跡は若い頃にひどく厳しく躾けられたからだと、いつか少しばつが悪そうに教えられたことがある。


「これは……」


「恐らく魔女様はこれをご存知だったんでしょうね。黙っているなんて人が悪い……とは思いますが、きっとご本人から口外を禁じられていたのでしょう。見つけてくれと言わんばかりの場所に置いてありましたし、いつかアルス様ご自身に発見してほしかったのかもしれません」


 言葉はさらさらと耳を流れ、意味を捉えることが難しかった。手を触れることも出来ず、わずかにも動けないアルスを見かねたように、ミナベルが一つファイルを取って大きく開いた。


 カルテだ、とはアルスにもすぐに察せられた。検査、投薬、経過観察の記録。定期的に組まれた城での検診予定。対象の内にある力が暴れないよう、つつがなく過ごせるよう記されたその内容はこれ以上ないほど丁寧で細かく、書き直されている箇所や追記の量も多かった。


「どこのどなたの記録かは存じ上げませんが、この方、この検診表通りに生きたとしたら、百歳以上の大往生ですわね」


 ミナベルの言う通り、以後の検診予定として書き込まれた日付は彼方の未来にまで伸びている。


「……っ」


 アルスは冊子を手に取った。薬の調合方法やそれが改善されたものが何枚も何枚も綴じられている。古い紙はすっかり変色してしまっているが、比較的新しい一冊、一番上に重ねられた資料は、つい最近、アルスが城を出る直前の日付のものだった。


 声が、蘇った。


――そりゃ気休めみたいなもんだけどさ、飲んでおけば暴走自体は止められなくても、後の回復が多少は早くなるんだよ。今の処方なら副作用もほとんど無いはずだと思うんだけど。


――暴走そのものを無くすような薬じゃなきゃ意味ないって思うのも仕方ないと思うよ? でも今はまだそこまで研究が進んでないからね。もう少し魔法医学の発展を待っててよ。


「どうして……」


 アルスはこれまで、シトラスが城を出て後、シトラスが行っていたアルスの健康管理は医療塔が勝手に引き継いだものだと思っていた。いや、思おうとしていた。

 無意味な期待や希望を抱きたくなかったから、全ての繋がりは絶たれたのだと、絶つことをシトラスが選んだのだと、そう思って生きてきた。

 しかし、それならここに綴られた言葉は誰のためのものだろう。白紙の未来は誰が誰のために遺したものだというのだろう。


「アルス様、あなたは生きているのではない」ミナベルが静かだがはっきりとした声音で言った。「生かされているのです」


「違う……」


 認めない、認めたくない。そう思って首を振るのに、綺麗な文字が、沢山の言葉が、目に映って消えない。消えてくれない。


「僕は……」


 シトラスがどこかで生きていてくれれば、それで良かった。憎まれても忘れられても、構わなかった。ただ、生きていてほしかった。


 それなのに、もうあの人はどこにもいない。


「……僕は、赦されない。赦されたら駄目だ」


「いいえ……いいえ、違います。離れてなお、あなたのために紡がれた未来がここにあります。これほどの祈りが、想いが、ここにあるんです。見えているでしょう? アルス様」


 しゃがみこんだミナベルが、両手でアルスの手を掴んだ。


「顔を上げてください。声を出してください。もがき、苦しみながら、あなたが呼吸を続ける理由はなんですか? 勝手に生かされているからですか? 死ぬのが面倒だからですか? 本当に、ただそれだけですか?」


「僕は……」


 答えようとする声を遮って、轟音が響き渡った。

 窓の外から風に乗って悲鳴が届く。離れていても体にまとわりつく嫌な気配は魔獣のものだろう。襲撃か。

 押し寄せる悪意が町に危害を及ぼそうとしている。


 どうでもいい、と。思おうとした。

 けれど、目を伏せようとすると散らばった書類が視界に入る。瞼を閉ざせば、その残像が淡い光となってちらついた。


 だから、アルスは仕方なく顔を上げる。

 世界は灰色のままだったが、立ち上がった体は自分で思うよりずっと淀みなく動いた。


「アルス様、わたくしも……」


「……いい。邪魔だから」


 まだ何か言いたげなミナベルは放置して、アルスは宿を出た。




 外に出てまず視界に入ったのは、魔物に埋め尽くされた暗い空だった。地上にも獣の気配があるが、ひとまず周囲の路地に姿は見えない。どこか開けた、状況の分かる場所に出なければ。そう判断して走り出す。

 錯綜する人々の合間を縫うのは骨が折れたが、アルスは何とか町の中央部へと行き着いた。


 商店に囲まれるようにして建設された時計塔は、既に上部が破壊され足下に瓦礫の山を為していた。辺りには犬型の魔獣がうろうろしている。周囲には兵士や自警団の者らしき姿もちらほらと見えるが、まともに戦えている人間は少なかった。

 まして、地上の敵のみならいざ知らず、上空から襲いかかってくる獣に対して、彼らはあまりに無防備すぎた。

 空を舞う魔物たちは集団で巨大な腕の形を形成し、その拳を地表へと振り下ろしていた。標的はこの近くではないが、役場でもある方だろうか。そちらの被害状況を想像するだけで暗澹たる思いがした。


 しかしまずは、この広場の敵の始末だ。

 アルスは左腕を掲げた。


(……この面倒なものを、消せ)


 魔力を地表に滑らせて、氷の刃を現出させる。

 射出された刃が獣の半数を貫くのを確かめて、アルスは上げたままの腕を振った。残っていた獣に冷気が絡みつき、そのまま心臓の動きを停止させる。

 次々に倒れる獣も指先に走る痛みも無視して、もう一度、今度は強めに腕を振ると、大地を割って出現した氷の壁が広場一帯を取り囲んだ。


 とりあえず、広場にいる人間はこれで守れるだろう。だが、障壁の外には未だ魔物がうろついている。効率を考えれば地上の混乱を収束させるより上空の魔物に集中すべきだが、その選択は壁の外の人間を見捨てるということに相違なかった。


 それで、本当にいいのだろうか?


「おらあ!」


 突如、どこかから勇ましい声が聞こえてきた。見れば、彼岸を透かす壁の向こうに白い姿が舞っている。振り回される大鎌が地を駆ける獣の頭を次々と吹き飛ばしていた。


 そうして辺りの敵を一掃した後、全身を朱に染めたミナベルがアルスを振り返った。


「こちらはお任せください。可能な限り多くを助けます」


 自信過剰な心得顔は不愉快だったが、余計な仕事が減ったのは歓迎すべきことだろう。アルスが軽く頷くと、ミナベルの姿はどこかへ消えた。


 障壁の内側の人々は皆不安そうな様子でアルスを遠巻きに眺めるばかりだったが、それで一向に構わなかった。

 邪魔をされなければ、それでいい。

 アルスは腕を掲げて、再び意識を集中させた。


 今度の目標は、蝙蝠型の魔物が乱舞する空だ。


(一匹ずつ叩いてもキリがない)


(それなら、殴り方を変えればいい)


 宙に指を滑らせて、意思を形に変えていく。

 アルスが上空で腕の形を為す獣たちと地表の狭間に展開したのは、魔法式で組み上げた巨大な結界だった。

 範囲は町全域。半円型の防壁は獣の侵入を完全に阻んでいた。


「っ……」


 掲げたままの左腕と全身に痛みが走る。皮膚に刻まれた黒い痣が魔力の酷使に反応しているのが伝わってきたが、今は暴走しないことを祈るより他にない。

 突然進路を防壁に阻まれた魔獣は、しかしまだ完全に統制を失ってはいなかった。腕型の集合体から分散して、礫の如く次々と結界にぶつかってくる。

 愚直な体当たりとは言え、相手は膨大な数だ。攻撃を受け止めた式が軋みを上げて、結界に沿って組まれた文字列に無数のヒビが走るのが見てとれた。


(……まだだ)


 腕を掲げたまま、左手の指先を強く握り込む。結界の傷が修復される代わりに、体の内側でみしりと何かが軋む音が聞こえたが、今はそれどころではない。構わない。


 やがて式の破壊を諦めた獣たちが、再び不気味なほど統制のとれた動きで一つの形を作り始めた。

 遥か高みで築かれたそれは、巨大な「槍」だった。


「は……」


 アルスは呆れとも感嘆ともつかない息を漏らした。

 広範囲攻撃が無駄だと知って、当初の一点集中に立ち戻る。それだけならまだしも、今度向けられているのは拳ではなく槍先だ。結界にわずかでも穴が空けば終わりだということを読まれたか? こんな、たかが魔獣風情に。

 しかし、悪態を重ねている暇はなかった。一度大きく引かれた槍がとうとう結界に直撃し、壁面に先ほどとは比べようもない決定的な亀裂が放射線状に広がった。


 このままでは、壊れる――。


 なおも掲げようとした腕が不意に弾かれ、体勢が崩れた。

 その場に膝をついたアルスはすぐに立ち上がろうとして、再びバランスを失った。視線を落とし、ああ、と理解する。


 左腕に刻まれた痣が、皮膚から分離し地面に広がっていた。剥がれかけた紋様が腕と地面を繋ぎ止め、アルスの自由を阻む鎖になっている。力が暴走しかけているのは理解出来たが、こんな現象は初めてだった。


(……ここまでか)


 大地に縫い止められながら諦観を抱いたその時、か細い泣き声が耳に入った。声のする方に顔を向けると、氷の壁の内側で母親らしき女に抱かれた幼い少女が泣いていた。そのまま周囲を見回せば、怯え、あるいは呆然とした様子で座り込んでいる数多の人々が目に映る。

 彼らを助ける義理も理由もアルスにはない。

 けれど、自分を鼓舞するために、あえて口にした。


「……死なせない」


 手を地面から無理やり引き剥がす。皮膚が削げ、血が滴ったが、どうでもいい。もう知ったことではない。

 再び腕を掲げ、壊れかけた障壁の修復に集中するも、上空の敵の数に対応が追いつくはずもなかった。今にも瓦解しそうな魔法式は、いくら直そうとも次々食い千切られていく。


 腕を流れる血が、顔に、唇に落ちてくる。全身を苛む苦痛を無視して、アルスは魔法を展開する。展開し続ける。

 耳の奥に、先ほどのミナベルの声が蘇った。


――もがき、苦しみながら、あなたが呼吸を続ける理由はなんですか?


――勝手に生かされているからですか?死ぬのが面倒だからですか?


――本当に、ただそれだけですか?


「僕は……」


 こんな命に意味はない、死んでもいいと思いながら、息を止めることが選べなかった。赦されるべきではないと知りながら、続いていく時を断ち切ることが出来なかった。


 ずっと。ずっと。


 滅びを待っていたのは、救いを信じていたからだ。

 胸の内にある声にも、本当はずっと気付いていた。

 その望みは、祈りは、ただ一つ。

 たとえ世界中に否定され、呪われようとも。

 この命は、僕のものだ。


 瞬間、上空の結界がとうとう瓦解した。


 砕けていく黒色の文字列は、けれど消える一瞬、金色の色彩に変化して地表を照らし出す。

 夕日のようなその色に包まれて、アルスの右腕に触れる手のひらがあった。


 同時に、確かに声が聞こえた。

 掠れて聞き取りづらい、でも温かい声。


――おまえのすべてを、ゆるしているよ。


 驚きより早く、優しい痛みが込み上げる。


(……ああ、そうだった)


 あの時確かに、あの人は僕にそう言った。

 最後に僕に伝える言葉に、あの人は、それを選んだ。

 それならば。


(あなたが僕を赦すなら――)


 他の誰に赦してもらえなくても、あなたのその思いだけを信じて生きていく。僕は、あなたが赦した僕を赦す。

 それがどんなに無様でも、僕は僕として生きていく。


「だから、まずはお前たちを黙らせる……!」


 立ち上がり、両腕を掲げれば、生まれた突風が黄金の光を拡散させた。

 空を染めるのは、もはや夕日の色ではない。夜明けの金色だ。吹き抜ける光を受けた魔物が、一匹、また一匹と消えていく。

 だが、アルスに残された力ではすべての敵を葬ることは出来なかった。滅ぼしきれなかった悪意が、まだ点々と空に残っている。


「まったく、世話が焼けるわね」


 突然、アルスの前に青い女が立った。

 女が両腕を広げると、上空に青い光が無数に生まれた。光は巨大な魚群に姿を変えて、宙を舞う獣を捕食し共に消えていく。


「早く手伝って。言ったでしょ、ここは空気が悪いって」


 振り向かないままの女に請われて、アルスも再び力を放った。

 今度こそ、地上を這う狼も空を舞う蝙蝠も、悪意抱く獣たちの悉くが光と風に煽られ、魚に呑まれ、消えていく。


 すべてが終わった後、女がアルスを振り返り、笑んだ。


「私の助っ人料は高いわよ。精々長生きして体で返して頂戴ね」


 再び水泡が弾けるように、魔女の姿が掻き消える。ようやく彼方に帰ったのだと、アルスには分かった。



 かすかに熱を持った地面にアルスは座り込んだ。

 濡れた頬を拭うと手のひらが赤い血でべたりと汚れた。ひどく早く脈打つ鼓動を土埃まみれの疲れた体が抱えていた。

 今、この世界で間違いなくアルスは生きていた。

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