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refrain  作者: 水幸
第六章 闇への反旗
26/75

第26話

 気の滅入りそうな曇天が続いてた。

 町中の賑わいも裏びれた古宿までは届かない。閉めきった窓を震わせるのは、どこかの民家から上がる子供の激しい泣き声ばかりだ。

 ラウンジとは名ばかりの狭い休憩所には昼夜を問わず人気がなく、覆いの破れたソファにディオンが一日中寝そべっていても、文句を言ったり邪魔をしてくる者など誰もいなかった。


「ディオ、そんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ」


 ……ただし、例外というものはある。

 ディオンが上体を起こして振り向くと、二階へ続く階段からククが下りてくるところだった。両手に食器の乗った盆を抱えている。


「駄目だったか」


「うん、駄目だったよ」


 隣の食堂に盆を片付けに行ったククは、戻ってくるとディオンの向かいのソファに腰を下ろした。思わしくない表情の原因は他でもない、彼女の兄のことだろう。


 サラノにほど近いこの町に宿をとってからというものの、アルスは一人で部屋を占領し、ご丁寧に障壁まで張ってそこから一切出てこない。ククが食事を差し入れれば数回に一度は受け取るらしいが、それも手付かずで返ってくるだけだという。


 この町へ至る道中、アルスは別行動の間に何があったのかについて淡々と皆に報告した。ロストベルという男の登場、そしてヴィヴィリアの襲撃について。後者はおそらくアルスを狙ったものだと思われたが、結果として別の人間――あの薬師が命を落としたことも。


 それらを説明する間、アルスは終始感情を表に出さなかった。

 普段から無表情な人間ではあるが、それともまた異なって、重要な何かが剥落したかのような声は、ククはもといディオンでさえもかすかな不安を覚えるほどだった。


 しかし、今まさに対面から向けられている、ククの「どうしよう?」とでも言いたげな顔に、ディオンは首を振った。


「あいつのことはしばらく放っといた方がいい」


「でも……」


「でもも何もないだろ」


 とは言え、ククが暗い顔をするのも無理はないと内心では思う。アルスとは実の兄妹だというのだから、当然心配だろう。

 だが、彼女が下手に行動したところでアルスの様子が好転するとも思えなかった。勿論、放っておけば解決するという保証も出来ないのだが――。


「あら、二人とも」


 声に振り向くと、今度は杏里が二階から下りてきた。二人を交互に見比べてから、やや神妙な顔をする。


「あんたたち、ライック見てない?」


「いや、今日は一度も。俺が起きた時には部屋に居なかった」


「わたしも見てないよ」


 などと言っている内に、


「なになに? おれがどうかしたの?」


 話題の人物が玄関に続く戸口からひょっこり顔を覗かせて、三人の元へと近付いてきた。


「ああ、こいつが用があるって……」


「ないわよ、そんなもの!」


 耳元で声高く叫ばれて、ディオンは顔をしかめた。


「訊いてきたのはお前だろ」


「訊いたけど別に用があるなんて言ってないわよ。ただ、姿が見えないからどこで油を売ってるのかって思ったの……!」


「少し町の中を覗きたくて。結局特に収穫はないんだけどね」


 ライックはおっとりと報告しながら、空いているスツールに腰掛けた。


「……それより、アルス君の様子は変わらず?」


「だな。放置するしかないだろって話してたとこだ。これと」


 ククを指差しつつ告げる。

 ライックはいつも通りの困った顔で「そっか」と短く頷いただけで、それ以上コメントしようとはしなかった。

 ディオンは肩を竦めた。


「ま、当面休息だな。幸いと言えるのかは知らんが、あれからクレストも現れねえし」


「そうね……。ねえクク、これから買い物にでも行かない?」


「わたしは……」


 眉を下げるククの両手を掴んで、杏里は励ますように軽く腕を振った。


「アルスが心配でしょうけど、このままだとあんたまで参っちゃうわ。気分転換に何か甘いものでも食べましょ? ほら!」


 微笑みを向けられたククは、少し迷った後で小さく頷いた。

 決まりね、と笑った杏里に視線を向けられて、ディオンは眉を寄せた。


「……俺は行かないぞ」


「連れてかないって言おうとしたのよ! ま、精々ライックと親睦でも深めておくのね」


「精々おれってひどいよぉ!」


「うるさいわねえ。クク、さっさと行きましょ」


「ディオ、ライ君、行ってくるね」


 二人がばたばたと外出すると、周囲に静けさが戻ってきた。

 ディオンは再び昼寝でもしようかとソファに寝転んだが、視線を感じて首を捻った。


「……何だよ」


「えーと、折角なので親睦を」


「深めない」


「だよねー。……いや、この状況でも君は落ち着いてて偉いなって思ってさ」


「所詮他人事だからな。お前だってそうだろ」


 ライックは俯き、微苦笑した。


「おれは正直あんまり落ち着かないよ。ククちゃんは無理してるみたいだし、杏里ちゃんはそんなククちゃんに気を遣ってる。二人の元気がないと空気も重いし……おれに何か出来ることがあればいいんだけどね」


「放っておけよ」


 今日はこればかり言ってるなと思いながら、ディオンは繰り返した。


「俺らが手なり口なりを出したとこで状況は変わらないだろ。精々外敵が来るまで体力を温存してた方がまだマシだ」


「そうかもしれないね」

 ライックは頭を掻いた。

「……うん、おれもちょっと外の空気を吸ってこようかな」


「勝手にしろ。おれは寝る」


 会話に満足したらしいライックを手を振って追いやる。ディオンはソファに全身を預け、今度こそ手に入れた静かな環境で目を閉じた……が、悲しいかな、再度眠気が降りてくることはなかった。


「……」


 ライックにはああ言ったものの、あるいは自分もこの蔓延する薄暗い雰囲気に呑まれかけているのかもしれない。だからと言って誰かに何かをしてやるつもりはないが、時間を持て余しているというのも確かであった。

 一つ溜息を零して、ディオンは立ち上がった。




 剣を背に外に出ると、秋の冷たい風が顔を撫でた。

 まだ昼過ぎだが、空は厚い雲に覆われ、太陽の光は鈍い。


 別段何か目的があるわけではないし、杏里たちのように大通りで買い物という気もしない。

 適当にぶらぶら歩いている内に、町外れにある無人の公園に辿り着いた。鮮やかな空色のベンチを一つ占領し、ディオンは持ってきた剣を膝に乗せた。


 刃に鞘代わりに巻いていた布を解く。露わになった刀身は、今はうっすらと赤みを帯びて暗く沈んだ色だった。見ようによっては、錆びているようにさえ見えるかもしれない。


「…………さて」


 ディオンは柄を持ち直し、隣に座る相手の首に抜き身の刃を突きつけた。


「旧友の来訪に随分な挨拶だな、ディオン」


「黒塚」


 名の通り、闇色の似合う男だった。首筋まで伸びた黒髪に長い手足。若さの残る細面は、世間的には美丈夫と評されるものだろう。

 だが、男の持つ最大の特質――息が詰まるほどの死臭とその痩身から滲む説明のつかない不吉さによって、他人が彼に好意的な感情を持つ可能性は限りなく低かった。

 人外の男は、それでもいやに俗っぽく笑う。


「おいおい、そんなに怖い顔するなって。久しぶりに友人の顔を見にきただけだってのによ」


 ディオンは立ち上がり、座ったままの男から距離をとった。剣の構えは解かないが、いくら刃を向けてみたところで、それが男への牽制になどならないことは知っていた。


「……黒塚、お前に聞きたいことがある」


「ま、あるだろうな。色々と」


 黒塚は気楽な表情を崩さず、促すように片手を泳がせた。


「何故クレストに剣を渡した? お前の……お前たちの目的は何だ」


 ディオンの問いに、黒塚は軽く首を傾げた。


「それは興味か?」


「確認だ」


「どっちにしたって一緒だろ、っと」


 目前の刃などまるで意に介さず、黒塚が軽く勢いをつけて立ち上がった。

 向かい合う二人の間に、まだ殺気は介在しない。容認とも対立ともつかない距離が保たれている。


 ディオンのすべきことは簡単だ。この剣に、力に、害なすものを阻む。それがクレストならばクレストを。そうでなければ、その者を。


「答えろ、黒塚」


「だから睨むなってば。俺が悪党でないことくらい、お前なら知ってるだろ?」


 飄々とした声に、ディオンは「知っている」と呻いた。


「お前が自分のためなら平気で他人を傷付けられることもな。もう一度訊く。お前は何故クレストに力を貸す?」


「俺は俺自身の願いを叶えたいだけだ。あいつらに協力すれば、それが可能だと踏んだんだよ。どうだ、シンプルだろ?」


「あいつらがお前の願いを叶えられると?」


「ああ、その通りさ! もちろん根拠もあるぜ」


 黒塚は無邪気に破顔すると、地面を一蹴りし、蛇のように音もなくディオンの剣の間合いに滑り込んできた。


「俺に勝ったら教えてやるよ。どうせ俺と戦うつもりなんだろ、勇者様」


 耳障りな呼び名が、体内の血を瞬時に沸騰させるのを感じた。

 目の前の胸ぐらを掴みたい衝動を何とか呑み込んで、ディオンはその場に踏み止まった。


「それはお前の行動次第だ、黒塚」


 黒塚が肩を揺らして笑う。嘲るように、誘うように伸ばされた腕が、ディオンの鼻先でゆらゆらと揺れた。


「俺が人間様に害をなすのがそんなに嫌かよ。さっすが、人間ごっこのプロは正義感が違うねえ」


「どういう意味だ」


「言葉の通りだよ。お前はいつだって人間の味方だろ?」


 平静を保とうとする意思の隙間から、封された感情が軋む音がする。黒塚が放つ言の葉が、ディオンの理性の壁を瓦解させつつあった。


「俺たちには関係ない、化け物には届かない、人の世界とやら。そこに身を置き人のふりをして生きるのはさぞ楽しいだろうな。お前は正義の味方ごっこがしたいんだろう? 俺が悪の手先になれば満足かい?」


「黙れ!」


 闇雲に振った刃は風を切る。崩れた体勢で顔を上げると、黒塚はとっくに剣の間合いから外れた場所に立っていた。


「そこのお嬢さん方も、こいつが死んだところは見ただろう? この化け物のことをどう思うよ?」


 ディオンとて背後にある二人分の「人間」の気配にはとうに気付いていたが、そちらを見ることはしなかった。


「このお嬢さんたちは、首を刎ねられ、心臓を刻まれても再生するお前のことを自分と同じ生き物であると心から肯定してくれるだろうか? そしてお前は、時の中で老いて朽ちる彼女たちを自分と同じものだと主張し続けることが出来るのか?」


 歌うような声を引き取り、突如轟音が地面を揺らした。


「……っ!」


 巻き上がる風と共に、頭上に雲霞が形成されていく。

 空を暗く染めるのは、幾千、幾万もの蝙蝠の群れだった。激しい羽音の間から、人々の悲鳴が聞こえてくる。


 押し寄せる悪意を奏者のように背負って、黒塚は告げた。


「ディオン、人の夢を抱いた哀れな俺の同胞よ。人間の世界はお前をけして受け入れない。お前を理解出来るのはこの空の下でただ一人、同じ願いを掲げる俺だけだ」


 ディオンは後ずさった。

 慈しむように伸ばされた黒塚の腕を前に、胸の奥から沸き上がるのは嫌悪と恐怖だ。足が竦むのを感じながら、それでもディオンは目を逸らせない。


 同じ願い、と黒塚は言う。


 その言葉を退けるほどの強い意思は、もうディオンに残されてはいなかった。


***


 町の中央広場に建つ古い時計塔は、関係者以外立ち入り禁止にも関わらず地元の住民の間ではデートスポットとして有名で、今日も今日とてそこには若い恋人たちが忍び込んでいた。


 美人だが気の強いことで有名な商店の娘は、そこにやってくる多くの者がそうするように、文字盤へ続く扉を勝手に開け放つと、外に広がる景色を堪能するため身を乗り出した。

 その後ろで塔内を何とはなしに眺めていた男は、女が驚嘆の声を上げたきり動かなくなるのを見て、思わず苦笑した。

 彼女には伝えていないが、男がここに来たのは初めてではない。以前塔から見下ろした町並みは確かに美しかった記憶があるが、そこまで大げさに驚くものでもないだろう。


 とは言え、それをそのまま相手に伝えて機嫌を損ねる道理もない。精々一緒に喜んでやろうと彼女の背中を抱え込みながら外気に半身を晒した男は、視界の端にそれを発見すると同時に、彼女が凍りついている理由をようやく正しく理解した。


 町外れの空から、黒い影が広がっていた。


 雲にしては低い位置にあるそれは、巨大な獣の唸りのような音を伴っていた。目を凝らしてよく見れば、影は一個の塊ではなく、密集した小さな生き物の群れのようだ。

 眼下の人々もすぐに異変に気が付いた。あちこちから悲鳴が上がり、逃げ惑う姿が見える。役場の方からこれまで聞いたことのない、切迫した強い鐘の音が響き始めていた。


 そうしている間にも、得体の知れない生き物の群れはどんどんこちらに接近してくる。

 男は女を抱えてその場に崩れた。女の体は震えていたが、それ以上に男の体も震えていた。


 そして、男が乱れた息を吐きだした瞬間、爆音と共に獣の群れが時計塔に突っ込んだ。

 外壁が吹き飛ぶ。大破した文字盤が瓦礫と一緒に飛散して、下界の悲鳴を大きくする。だが、それはもう時計塔の二人の知るところではなかった。


***


 黒塚が腕を振ると、応じて黒い花が虚空に咲いた。一瞬で散開する花びらは蝙蝠に姿を変じると、そのまま先に舞い踊る仲間たちに加わっていく。

 敵の姿はそれだけではない。今や花壇や木々の裏、ベンチの下の暗闇から這い出てくる無数の影があった。続々と姿を見せる野犬に似た獣たちは、ディオンの姿を見つけると迷うことなく襲い掛かってくる。


「……くっ……」


 個々を斬り捨てるのにさほど苦労はなかったが、魔物は絶え間なく増え続けている。これではキリがない。


「きゃっ」


 悲鳴のした方に視線をやれば、ククと杏里が魔物に囲まれていた。どうにか対応しているようだが、後から後から増える敵に二人も分断されつつある。


(まずいな……)


 既に、あちこちで悲鳴が上がっていた。

 公園に避難場所を求めてやってきた人々は、ここにも獣が徘徊しているのを見て取るや、泡を食って逃げていく。どこかから鐘の音も聞こえてくるが、狂ったように打ち鳴らされる耳障りな響きはかえって皆を余計パニックに陥らせるだけだろう。


 また一匹。ディオンは肉薄してきた獣を斬り伏せた。足元に転がる死体はすぐに泥のように溶けて形をなくしていくが、同時にすぐ新たな獣が現れる。


 ディオンは理解していた。魔獣の血肉を形成するのが黒塚の魔力であるということを。

 いくら獣を産み落とし大群を作り続けても、黒塚の人ならざる力は底を突くということがない。魔獣の増援を防ぐのであれば黒塚を止めるより他になく、黒塚を止めたいのであれば、力技で黙らせるしか道は無かった。


 歯噛みし、ディオンは駆け出した。体に組み付いてくる獣を空いた腕で無理やり引き剥がし、投げ捨てる。一匹、二匹。同方向からぶつかってきた獣に地面に引き倒されながら、全力で腕を、剣を振った。


 標的は獣ではない、黒塚だ。


 一閃。剣の放った風の刃は、しかし黒塚の腕の一振りによって消滅した。


「ぬるいな。俺は手ぶらだぞ? もっと本気でやれよ」


 倒れ、獣にのしかかられたディオンを見下ろして黒塚が笑う。

 直後、獣の牙がディオンの腕を貫いた。


「っ、ガ……ァッ」


 筋繊維が千切れ、痛みに息が漏れる。剣が手から離れて転がった。起き上がろうともがく体が崩れ、腕に、足に、獣が食らいついてくる。肉が食い破られる感覚に、言葉にならない叫びが喉を灼いた。


「ディオン!」


 杏里の声が響くと同時に、放たれた糸がディオンの傍らを鞭のように穿った。驚いた獣が散開し、立ち上がれないディオンだけがその場に残る。


「おいおい、どこまで腑抜けるよ」


 投げかけられる嘲笑にディオンは何とか頭を上げた。腕の失血がひどく、激しい耳鳴りと頭痛がする。だが、まだ死なない。


(……いや、死ねない、か)


 ディオンにとってギリギリ死なない程度の傷が何より堪えることを、「死」を迎えない限り抱えた痛みから楽にはなれないことを、黒塚は分かっている。だから、致命傷は与えられない。


「……黒塚、獣を、下げろ」


「お前がその剣を渡せば考えてやるよ」


「剣を得て何をするつもりだ……」


「俺には必要ないが、欲しがってるやつにくれてやるのさ。用途は知らん。世界征服にでも使うのかもな」


「ふざけるな……!」


「俺はいつだって大真面目だぜ?」


 遠くから聞こえてくる叫びや怒声を心地良さそうに受け止めながら、黒塚はディオンの傍らにしゃがみこんだ。

 転がったままの剣に伸ばされたその手を、ディオンは鮮血の流れる腕で振り払った。渡せない。渡すものか。


「いまいち分からないな」

 黒塚が首をひねった。

「お前はどうして頑なにこの剣を、人の世界を守るんだ?」


「……これは、他人を害するための道具じゃない」


「はぁ?」


 黒塚の顔に初めて苛立ちが差した。


「お前はどんだけ正義の味方ぶりたいんだよ。剣は斬るものだ。傷付けるものだ。戦うためのものだ。なのに、お前はいつも……」


 言葉が終わるのを待たず、ディオンは黒塚の喉を掴んだ。ぐらつく体で、力任せに押し倒す。


「……っ」


 組み敷かれた黒塚は、苦しげに呻きながらも抵抗しようとはしなかった。

 上空に舞う蝙蝠が、一匹、二匹と消えていく。徘徊する狼たちがどうと倒れて、地面の色に溶けていく。このまま黒塚の息の根を止めれば、それで状況は収束する。

 馬乗りになり、ディオンは黒塚の首を両手で締め上げた。首の骨が手の中で軋む。

 折れる、と確信した刹那。


 黒塚と目が合った。


「――ッ」


 その目は許容していた。ディオンの焦りを、嘆きを、恐怖を、迷いを、嘲りながら受け止めていた。


 腕から、力が抜けた。

 黒塚が焦点の合わない目で笑む。

 ディオンはその顔に向かって自分でも何が言いたいか分からないまま唇を開きかけたが、言葉を発するより早く、視界が激しく回転した。


 荒れ狂う獣に地面に引き倒されながら、ディオンは黒い影に覆われた空を仰ぐ。


(……あれは)


 蝙蝠たちの大群が、遙か上空で巨大な人間の腕の形を成していた。魔獣の隊列によって形成されたその拳は、今にも振り下ろされそうな状態で町の中央へと向けられている。

 立ち上がった黒塚が、悠然とディオンを見下ろした。


「ま、お前が剣を寄越そうと寄越すまいと、この町は俺の仲間から嫌われててな。潰してこいってのが命題だ。悪いが諦めてくれ」


 やめろという言葉が、声になったのかどうかは分からない。


 黒塚が腕を振り上げ、極大の拳が町に突き刺さる。世界が割れるような轟音を伴って、大地が揺れた。

 特攻した蝙蝠は戻らずとも、いくらでもいる残党が再び同じ形の隊伍を組む。二度、三度。町に、そこに住まう者たちの上に、使い捨ての生ける武器が、繰り返し繰り返し振り下ろされる。


「やめろ……」


 ディオンは呻いた。

 転がったままの剣が仄かに纏っていた赤い光を失して沈黙する。牙を立てず、じゃれるように纏わりつく獣の唾液が腕を濡らしたが、それに抗い立ち上がる力はもう残ってはいなかった。


「やっと諦めたか、ディオン」


 黒塚の哀れむような視線がディオンに優しく寄り添った。


「俺一人殺せないお前には、人の世界を守る力も資格もない。お前は結局、独りになるのが怖いだけだ」


「黒塚……もう、やめてくれ」


 項垂れるディオンに、黒塚はようやく満足そうに、そっと答えた。


「……そうだ。俺は、お前の『その』顔が見たかった」

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