第25話
今から八十年以上前、ある一つの国の終焉と共に、長きに渡り大陸を苛んでいた戦乱の焔はようやく潰えることとなった。
勝利を掴んだのは、アストリア。朱き王が束ねる五つの潮騒と十二の塔の国が、この大陸に存在する唯一の国家となった。
アストリアに敗れ、滅びた国の者たちも、やがては新たな統治者を認め、呼ばれることのなくなった彼らの祖国の名は時の彼方に置き去られていった。
アストリアが掲げる永遠の安寧を、最後まで否定し続けた国。
荒野と陽光を抱く、その国の名はリバリティ。
最後の王の名を、ウィルクレストと言う。
***
光差す広間の片隅に、少年は佇んでいた。
見上げれば、広大な空間の上部を半球形の透明な天井が覆っている。外に見えるのは真夏の青空だ。ちぎれた入道雲の上からくっきりとした陽光が差し込んでいるが、屋内の調整装置の駆動によって、眩しすぎたり暑くて不快だということはない。
周囲は明るく、すべては輝きに満ちていた。
「……!」
不意にごうっと上がった音の塊が、少年の矮躯を打った。
広間の外から轟くそれは、遙か見下ろす城下町からの歓声だ。
声は、この国を、少年の父を讃えるものだった。
(父上……)
父王の姿は少年の遥か前方、招集された数多の側近や客人たちの向こうに聳える、巨大な銀の玉座の傍らにあった。
一身に数多の賞賛と祈りを受けながら、父である王の背は媚びるでも突き放すでもない。纏う式典用の正装は重々しく、静かに立つ影は突き立つ一振りの神剣のようだった。
少年は、その厳かな存在に竦んだ。
喉が干上がり、指先が冷えていく。「届かない」という焦燥は、絶望と大差がなかった。
(僕は、父上のようにはなれない)
その時、少年の冷えた肩をふっと優しい温もりが覆った。
振り返り、見上げた先には星のように輝く青い瞳があった。
「恐れてはなりません、クレスト」
「母上……」
肩から手を離し、母たる王妃が微笑む。
「いつかは、あなたがあの場所に立つのですよ。王子クレストではなく、ウィルクレスト王として。ねえ、ネーラ?」
振られた少年の従者は、少し恐縮した様子で「勿論です」と頷いた。長い睫毛を揺らして少年を見る。
「ネーラもその日を楽しみにしております、王子」
二人に示された目的地はあまりに遠く、あまりに目映い。母のように自らを無垢に信頼することは少年には出来なかった。
(だけど、僕は……)
向けられる期待に怯えはあったが、自分には無理だと投げ出すことも選びたくなかった。父のようになりたかった。母の誇りでありたかった。この国が大好きだったから、この国を護る剣になりたかった。
「母上、私は……」
しかし、唐突に落ちた闇が続くはずだった言葉を断ち切った。
いきなり緞帳を下ろしたような変容に、少年はただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
何も見えず、聞こえない。状況が全く分からない。
だが、帳はすぐに払われた。
少年の前には荒れた草原が広がっていた。
あれだけたくさん控えていたはずの兵や大臣たちの姿はもうどこにも見えない。代わりに、前方に立派な馬車が一台、横倒しに倒れていた。すぐ近くに誰かが倒れている。
慌てて駆け寄った少年は、その姿を認めて言葉を失った。
倒れている人影には、本来ついているべき頭が無かった。けれど立派な体格や夥しい血で濡れるマントには覚えがある。
「父上……」
ふらりと踏み出した少年の爪先が、硬い物体を蹴飛ばした。
恐る恐る視線を下げる。
足元に横たわり、こちらを見上げていたのは、唇を結んだ母のガラス玉のような瞳だった。
「あ」
崩れるように膝をつくと、影が落ちた。顔を上げれば夕日色の髪と目の女が、険しい、けれどどこか悼むような表情でこちらを見下ろしていた。
「ネーラ……」
「王子、早くこちらへ!」
急き立てるネーラに腕を掴まれ、少年は立ち上がった。
「一体、何が……どうして……」
「いいから早く! 今はとにかく逃げなくては……! だってあなたは……あなたは……」
(ああ、そうか)
彼女にこれから告げられる言葉を、少年は思い出した。
「あなたは、この国に残された最後の希望なのですから」
景色が崩れて、再び闇が訪れた。
再び開けた視界で、少年は城の大広間に立っていた。
もうそこには偉大なる父も優しい母もいない。かつて父が従えていた側近や大臣たちの姿は残っていたが、皆一様に不安そうな表情で立ち尽くすばかりだった。
やがて、意を決したのであろう誰かが声を上げた。
「こんな子供が我々の王になるのですか……?」
無礼だぞ。弁えろ。そんな怒号がいくつか上がったが、周囲の空気に呑まれるようにすぐ消えた。
困惑と不安を湛えた沈黙を背負い、その中央に佇む少年は目を閉じた。
こんな日がいつかは来るかもしれないと思っていた。
けれど、それはずっと遠い未来の想像のはずだった。
(それでも受け入れるしかない。受け入れてもらうしかない)
少年は息を吸い、目を開けた。
我こそはこの国の王だと、皆に宣言するために。
そして、また何も見えなくなった。
しかし次に訪れるであろう景色には察しがついていた。
(……ああ、やはり)
それは、あちこちで火の手が上がり、赤く染まる城内の光景だった。悲鳴や逃げ惑う足音は聞こえない。それらの喧騒は、とっくに過ぎ去った後だから。
倒れている人々の手が揺れる炎に照らされて、傷付いた防具を纏う少年を誘うように、ゆらゆらと赤く蠢いて見えた。
少年の手にもう武器はない。護身用の宝剣すら、何も。
恐怖は感じなかったが悲しさと後悔はいくらでも湧いてきた。
息絶えた人の中には、長く父に仕えてきた兵も、母と親しくしていた侍女も、少年の大事な友もいた。彼らを守るのが少年の役目だった。でも、それを果たせなかった。
「…………」
少年の前方、炎の向こうから一人の男が現れた。瞳に厳しさと、どこか悲しげな色を浮かべて、それでも決然と歩いてくる。
緋色の王。
最悪の侵略者にして皆の仇に他ならない存在を前にして、しかし少年は何故か相手を憎めなかった。
確かにこの男は敵だ。けれど、この国が滅んだのは――。
(……私の力が至らなかったせいだ)
私は目の前の侵略者に負けたのではない。自分が背負うべき国や人々の重みに負けたのだ。そう思えばこそ、男に対して憎悪を抱いたところで何も得るものはないだろう。
少年の目の前で立ち止まった男は、何も言わなかった。
少年も何も伝えなかった。
終わる者と終わらせる者の間に言葉は必要ない。
そして――男の手によって振り下ろされた剣の一閃で、少年の意識は今度こそ深い、底のない夜へと落ちていった。
***
手から滑り落ちたヴィヴィリアの絵本が、床に当たって乾いた音を立てた。拾い上げようと屈んだものの、クレストは再び立ち上がる力を失って、なすすべもなく顔を覆った。
早鐘を打つ鼓動を抱えて思うのは、このまま意識を手放し、何もかもなかったことにしてしまいたいという一念だった。
突如巡った景色の中には、女と男がいた。母と父がいた。
何の説明もなく与えられた面影や光景のすべてをクレストの心は知っていた。それはずっと昔から確かに胸にあったはずの、持ち続けていなければいけなかったはずの「記憶」だった。
白昼夢に見た場所がどこかなど、誰に尋ねる必要もない。
(あれは、俺の故郷だ)
クレストは息を吐き、体に残ったすべての力を掻き集めて立ち上がった。振り向けば、いつ現れたのか黒塚が腕組みをしながら立っている。
「よお。その顔は思い出したみたいだな」
「……ユイージナはどこだ?」
「いつも通り礼拝堂だろうよ」
クレストは部屋を飛び出し、人気のない冷えた廊下を走った。
(記憶は、既にここにある)
しかし、それは完全なものとは言えなかった。なぜ自分がここにいるのか、それが一体いつからなのか、肝心なことが分からない。
自分が誰とも、どこから来た存在であるかも知らないまま、クレストはこの屋敷で暮らしてきた。ユイージナに仕事を与えられ、彼女の言葉に従ってきた。傀儡のように。
(いや……実際、傀儡なのかもしれない)
何故なら、この身は一度死を迎えたはずなのだから。遠い昔、今はもう存在しない国で、クレストは死んだ。
(……俺は本来ここに在るべきものではない)
それが何故ここに存在し、こうして思考を可能としているのか。その理由を、すべての事情を、彼女に――ユイージナに吐かせなければならなかった。
屋敷の最奥、「礼拝堂」と呼ばれる部屋に続く巨大な扉は、いつも通り開け放たれていた。
これもまたいつも通り、調度も何もない暗い室内の中央に、ユイージナが跪いていた。
祭壇も祈りを向ける偶像も持たない部屋で、ユイージナは常に祈りを捧げている。それゆえにこそ、ここは礼拝堂と呼ばれているのだ。
ぶらぶら後をついてきていた黒塚は何を言うわけでもない。こちらも構うことはせず、クレストは室内に踏み込んだ。
「……ようやく思い出してくれたのね、クレスト」
ユイージナはクレストを待っていたかのように振り返った。
その声に込められた親しさが、クレストの全身を粟立たせた。
「どういうことだ、どういうつもりだ。俺は……」
「私は、ずっとあなたの目覚めを待っていた」
クレストの言葉を遮って、ユイージナが微笑みを深くした。
「不完全な状態で無理に思い出させては壊れてしまうかもしれない、そう思ってこれまで随分耐え続けたわ。だけど本当は、ずっと、ずっと思い出してほしかった。あなたの記憶がない内は、私は自分の役目を果たせないままだから」
「役目?」
「あなたを復活させ、滅びたリバリティ国を再建することよ」
さらりと言われた言葉に理解が追いつかない。
絶句するクレストに、ユイージナは笑みを消さなかった。
「改めて自己紹介するわ。私の名前はユイージナ・ヘルバイル。私の家系は代々リバリティの主君に仕えてきたの。祖母の名はネーラ・ヘルバイル。そう言えば思い出してもらえるかしら」
「ネーラ……」
夕焼けによく似た色の髪、朗らかな笑顔と甘やかな声が蘇る。
十歳年上のネーラは、クレストが王の子として生まれた時から常に傍にいた従者だった。主従の関係を超えて姉のようでもあり、何より一番の理解者でいてくれる存在だった。
(彼女の、孫だと……?)
「リバリティの崩壊後、私の一族も処刑されたわ。あなたの父上の側近だったひいお祖父様や、その息子たちも、みんな。でもお祖母様……ネーラだけは唯一逃げ延びて、私の母を産み落とした。あなたが死んだ、ずっと後のことよ」
「……っ」
クレストは息を呑んだ。覚悟はあったが、実際に自分が死んだという事実を突きつけられると胸の底が冷えた。
だが、ユイージナはそんなクレストの表情には気付かず、恍惚と語り続けている。
「お祖母様は私が生まれる前に亡くなってしまったけれど、彼女の意思は母様に受け継がれ、やがて私に託された。幼い頃から母様に言い聞かされてきたわ。リバリティは滅びるべきではなかった、滅びるべきはアストリアだったと。だから、私はあなたを蘇らせた。誤った歴史を修正するために」
「お前は……一体何をした?」
「あなたはリバリティの地下に眠る施設を知っている?」
クレストは唐突な質問の意味が分からず、言葉に詰まった。
ユイージナはその反応をあらかじめ予想していたのだろう、小さく頷いただけだった。
「やっぱり教えられていなかったのね。無理はないわ。秘密を伝えるにはあなたは幼かった。次期王とは言え、あなたが知るには早すぎたもの」
顔を上げた彼女は、すべてを語り始めた。
ユイージナの話はそれほど長くはなかった。
だが、到底受け入れがたいものだった。
「……馬鹿な」
ただそれだけ呟いて、クレストは頭を抱えた。
「いいえ、真実よ。クレスト」
頭がおかしくなりそうだったが、唯一理解出来たこともある。
それは、やはり自分は遥か昔に死んでいて、今も死んでいるべき人間だったということだ。
もはや、ここに留まる理由はない。
「クレスト、どこに行くの?」
問う声を無視して、クレストは部屋を出た。
追ってくる気配はない。その代わりにと言うべきか、廊下の壁に寄りかかった黒塚の姿が視界に入った。
「……お前の相手をする気は無い」
「分かってるって、王様。ただ、これが必要になるんじゃないかと思ってな」
放り投げられたそれを、クレストは危うく受け取った。
元々自分のものではないのに、手に取った重みは驚くほど自然に体に馴染む。黒い魔剣を握ったまま、クレストはその正当な持ち主たる男を見上げた。
「ま、餞別代わりだ。出て行くなら、そっからがいいと思うぜ。無傷でってのは厳しくても、正面切って出ていくよりはマシだろうよ」
黒塚が指し示すのは背後の開いた窓だった。外にはべったりとした暗闇が広がっている。
「……どういうつもりだ?」
「別に理由はないさ。こっちはお前がどうなったところで損も得もしないしな。ほら、早くしないと追われるぞ?」
黒塚の言葉など信用できるはずもなかったが、ここで取れる選択肢も他にそう多くはなかった。短い躊躇を経て、クレストは廊下を横切り、窓枠に足を掛けた。
二階の廊下だが、一階が天井の高い構造のため、見下ろす地面にはそれなりの距離がある。木々の並ぶ庭の向こうには一層深い森が黒い影を横たえていて、その先は全く見えなかった。
庭先には番兵代わりの魔物がうろついているはずだが、今はその姿も見えない。
振り返ると、黒塚が促すように顎をしゃくった。
再び視線を外へと転じたクレストは、軽く勢いをつけて踏み切った。小さく詠唱し、生まれた風に体を乗せる。大きく弧を描きながら荒れた芝生に着地すると、間髪入れずに魔法を重ね、地面を蹴って加速した。
「オオォ……ッ」
庭木の狭間を縫うように、獣が吠える声がする。呼応して、あちこちで唸りや遠吠えが上がった。
「っ!」
背後からの気配に身を捩ると、頭のすぐ脇を雷撃の矢が駆け抜けていった。どうやら何者かに位置を捕捉されたらしい。
クレストの代わりに矢を受けて、進行方向の大木が白い光に包まれる。地を裂く轟音と共に前方一帯が切り刻まれ、残光と木っ端で視界を失った。
迂回も停滞も危険と判断し、クレストは疾走を止めなかった。
いつの間にか、背後に複数の追っ手の気配が迫っていた。察せられるだけでも十は下らないだろう。こうしている間にもどんどん増え続けている。
(くそ……っ)
黒塚に嵌められたかとも思ったが、そもそも奴が信頼すべき人物でないことなど分かりきっていたはずだ。
(……俺が愚かなだけか)
クレストは己が見通しの甘さ、袋の鼠になりつつある状況、何より生き延びた先の当てのない彷徨を予感して自嘲する。ただ、足を止めることは選ばなかった。こうなればどこまででも逃げてやるつもりだった。
遁走を続ける内、目の前の闇に紛れるようにして、屋敷の敷地と外界を隔てる黒い門が見えてきた。
(あと少し……!)
格子の向こう側には漆黒の森が広がるばかりだ。道は分からない。どこに続いているのかも。だが、身を隠すことくらいは出来るだろう。
とうとう追いついてきた犬型の魔物を蹴り飛ばし、クレストは門に張りついた。予想に反して体重をかけた門扉は驚くほど容易く外側に開き、クレストは半ば投げ出されるように敷地の外へと到達した。
「くっ……」
地面に手をついた瞬間、何かがおかしい、と気が付いた。
顔を上げたクレストは愕然とした。
クレストが立っていたのは、光差す広い空間だった。あちこちが崩れ、廃墟然としているが、そこには確かに見覚えがある。
顔を上げれば、ぽっかりと口を開けた天窓の縁で鳥たちが羽根を休めているのが見て取れた。そこにはめ込まれていたはずのガラス窓は既に無く、穏やかに吹き込む風がクレストの髪を優しく揺らした。
「ここは……」
リバリティ王城の大広間だ。かつてクレストの世界でもっとも鮮やかだった場所。リバリティという国家がとうに滅びている今、その地が朽ちていること自体に不思議は無い。
(だが、何故俺はここにいる……?)
「この場所こそ、本来あなたが在るべき場所よ」
穏やかな声に振り返ると、微笑を浮かべたユイージナがごく当たり前のように佇んでいた。
その背の向こうにも、どこにも、屋敷は見えない。
切り捨てようとした彼女に再び疑問を投げるのは躊躇われたが、それでもクレストは問わずにはいられなかった。
「どういうことだ……屋敷は……」
「あの場所はこの地に重ねられた幻想よ。外敵からあなたを護り、あなたの目覚めを待つための箱庭。本来、どこにも存在し得ない場所なの」
「……魔法で作った空間だったということか?」
「ええ。私の力ではないけれど」
「……はっ」
クレストは笑った。笑うしかなかった。
考えてみれば、あの屋敷から外に出入りする時の記憶は常に曖昧だ。それも魔法の影響だったのだろうが、囚われていることにすら気付けずあの屋敷で過ごしていたと思うと、自分が愚かしくて余計に笑えた。それに、ヴィヴィリアが気付いていたかどうかは知らないが、あの男、黒塚が知らぬわけがない。
やはり、俺は踊らされたということらしい。
「馬鹿馬鹿しいな……」
意味が分からないことばかりだったが、また一つ理解出来たこともある。
結局、俺は逃げられなかったのだ。
「ユイージナ、お前は俺に何を望む?」
ここで彼女を振り切ったとして、傀儡であったことも――今も傀儡であることも、きっと変わらないのだろう。
この女の語る思想に対して理解も納得も出来ないが、それでも、彼女が自分を必要としていることは感じられた。
(……どうせこの世界に在るべきではない、この命だ)
ならばいっそ彼女の祈りを果たすための道具になるのも悪くないのかもしれない。
「私の望みはただ一つよ」
クレストの手に、ユイージナの手のひらが重なった。
「もう一度やり直したいの。あなたの、世界を」
遠い昔、未完成の王の死を最後に閉じられた世界。
クレストの故郷。
その国の名は、リバリティ。
そこにはもう、帰れない。




