第24話
闇の中に、小さな背中がしゃがみ込んでいた。
どうして彼女がこんなところにいるのだろう。
こんなに寒くて、昏いところに。
疑念と共に歩み寄りながら、クレストは少女に告げた。
「帰るぞ」
しかしヴィヴィリアは立ち上がることも振り返ることもしない。こちらを見ないまま、ゆるゆると首だけを振った。
「おい、ヴィヴィ……」
「来ちゃ駄目だよ」
穏やかなのに有無を言わせない声が、更に歩み寄ろうとするクレストを留めた。
不穏な気配に周囲を見回せば、いつしか周囲の闇が少しずつ密度を増しながら、少女の姿を呑み込み始めている。
「ヴィヴィリア……?」
「ごめんね、クレスト」
ヴィヴィリアが囁くような声で呟いた。
「力になれなくて、ごめんなさい」
纏わりつく闇で、少女の輪郭はもう曖昧にしか捉えられない。
「ヴィヴィ、お前は何を……」
伸ばしたクレストの手は、空を掻いただけだった。
「お目覚めのようだな」
軽薄な声に、重い体を起こす。
何か夢を見ていたような気がするが、思い出せなかった。
「…………」
それにしても、どいつもこいつも何故人の部屋に勝手に侵入してくるのか。クレストが睨み据えると、壁に寄りかかっている若い男はとりなすような笑みを浮かべた。
「いやあ、ひっどい顔色だな。悪い夢でも見てたのか?」
「何の用だ、黒塚」
黒塚はにやついたまま、測るような目付きで答えた。
「報告だ。ヴィヴィが死んだ」
「……ヴィヴィリアが?」
「そ。任務に失敗してな。死体は木っ端微塵、回収不可能」
軽すぎる報告だが、黒塚が嘘を吐く理由もないので真実なのだろう。しかし感情が追いつかない。と言うよりは、そもそもどんな反応をすればいいのか分からなかった。
ヴィヴィリアとはこれまで度々仕事でパートナーを組んできた。だから仲間意識がないとは言わないが、その死を悲しむような関係だったかと問われれば、分からない。
クレストは、ふと思いついて黒塚に尋ねた。
「……あの女はどうした」
「ああ、ユイお姉様な。今は落ち着いてるが、ちょっと前までは凄かったぞー。っつーか自分がけしかけたようなもんだってのに、よくもああ泣き喚けるもんだよ。連絡係の俺が悪者かっての」
意味が分からない。何のことだと問えば、黒塚は軽く肩を竦めてから、ふっと口の端に笑みを乗せた。
「そういやお前もそろそろ真実を知りたいんじゃないか? と言っても俺が直接手伝いをするのは禁止されてるからな。……だから、これはあくまでちょっとしたヒントの提供だ」
黒塚が扉を押し開き、薄暗い部屋に光が差し込む。手のひらをひらひらと躍らせた男の、誘うような甘い声がクレストの耳朶を打った。
「すべてを知りたきゃヴィヴィの部屋に行ってみな。今なら遺品の取り放題だ。中には面白いものも見つかるだろうよ」
どういうことだと問えど返事はない。男の言葉に従う理由などなかったが、少し逡巡した後、結局クレストは廊下へ出た。
黒塚は後を追っては来ない。一人で行けということだろう。
あれの思惑に乗るのは癪だったが、仕方ない。クレストは舌打ちして、ヴィヴィリアの部屋に向かった。
彼女の私室もクレストの部屋同様、鍵は取り付けられておらず、一見重そうな扉は手を添えると音もなく開いた。
初めて踏み入れる室内は、予想に反して物が少なかった。これもクレストの部屋と同じ簡素な家具がある他に、私物の類いはほとんど見られない。
(あいつに謀られたのか?)
引き返そうかと思ったその時、クレストはそれを発見した。
ほぼ空に近しい本棚の中に、古そうな絵本が一冊、立てかけられている。
手に取り、読み込まれてぼろぼろになっている表紙を目にした瞬間、クレストの頭に刺すような痛みが走った。
本のタイトルは箔押しが剥がれて読めなかったが、表紙には王冠を被り、彼方を見つめる少年が褪せた色彩で描かれていた。
「これは……」
俺だ。
直感的に、そう思った。
***
「そろそろ戻るか」
あくびを噛み殺しながらの声に、ククは視線を上げた。
テーブルを挟んで正面に座るディオンの姿は、彼が広げた新聞紙によって隠れている。
ククから見える一面には、「ティ城に霊の」「に続いて二件目か。失踪した医師の遺」「殺人事」と、まあまあ物騒な文字ばかりが並んでいるのが目に付いた。主にこの周辺一帯の時事を扱う地方紙のようだが、少し頭を傾けると「アストリア王」の文字も見てとれる。いくら首都から離れてるとは言え、この地もアストリア王国の領土であるのには違いないということか。
「お前、聞いてんのか」
新聞が動いて、ディオンの訝しむような顔が覗いた。
「あ、ごめん。戻るの、いいと思う」
「適当かよ」
「そういうわけじゃないけど」
考えてみれば、皆と別れてから既にひと月近くが経っている。そろそろ戻るべきかも、とはククも考えていたところだ。
(……それにしても)
カップに残った温かい牛乳を飲み干す。数日前まで「なんでそんな甘いもので飯が食えるんだよ。味覚がおかしいのか? 頭がおかしいのか?」などと言ってしきりに顔をしかめていたディオンも、流石に慣れたのか、もう反応してくることはなかった。
さておき、改めてククは思う。
(ディオ、本当に何も聞いてこなかったなあ)
面倒だから。その言葉がすべてなのだろうが、それでも有り難いことには変わりなかった。おかげで、気持ちの整理もついたから。
と、ディオンが新聞を脇に寄せ、こちらを見ていることに気が付いた。なあに、と尋ねれば、眉間に新しい皺がまた一つ。
「いや……」
「あっ、もしかして……お腹とか痛いの?」
「痛くねえ。痛かったとしてお前に報告しねえし。ただ……」
「ただ?」
「お前全然詮索しねえのな、って、思っただけだ。何となく」
いや、別にどうでもいいんだが、とか何とか。ディオンはもそもそ何かを言っている。
どうやら、お互い様だったみたいだ。
「おい、何ニヤニヤしてんだよ」
「ううん、何でもない」
きっとディオンが言っているのは、彼の剣のことや、孤島で起きた出来事――死んだはずの彼が蘇ったことについてだろう。
確かに気にならないと言えば嘘になる。でも、聞いてほしくないという彼の思いもまた、何となく伝わってくるから。
「わたしがディオを詮索しないのはね……」
ククは精一杯のしかめっ面で胸を張った。
「興味がねえから、だよ!」
「うるせえよ」
向かいから、容赦のないチョップが降ってきた。
何はともあれ、帰ると決まれば後は行動するだけだ。宿とギルドでそれぞれ清算を終えたククとディオンは、荷物を抱えて町の入り口へと向かった。
この地もまた高い外壁に周囲を守られ、人の出入りする場所は限られている。町の外へ繋がる門の付近は馬車や商人たちが集まるため常に賑わっているのだが、今日はまだ大混雑までには至っていないようだった。
「とりあえずサラノまで戻って、そっから歩きだな」
ディオンの言葉に同意して、サラノへ向かう乗合馬車を二人で探していると、不意に門の周りがどよめきだした。
「どうしたんだろう……? あ」
思わず言葉を失って、ククはディオンの袖を引いた。
「んだよ……。おい、嘘だろ」
文句を言いつつ振り返ったディオンも硬直する。
そんな中。
「どういうことよ、こいつが怪しいって……! まあ怪しいけど、だからってどうしてあたしまで疑われなきゃなんないわけ? 引っ張ってくなら、こいつだけにしなさいよ!」
「ちょっと杏里ちゃん! ひどいよ!」
門の傍らに立つ番兵に向かって大騒ぎする声が、ディオンとククの元まで届いてきた。
見慣れた一人は杏里だったが、彼女の隣には黒い大きな犬のような狼のような生き物が控えていた。その外見に見覚えは無いものの、あわあわと人語を喋る姿には若干心当たりがある。
ククは、異様な来訪者を遠巻きにする人々の合間を泳いで、一人と一匹の元へと近寄った。
「杏里ちゃん! ……と、ライ君、だよね?」
「……! やだ、ククじゃない! 良かった、作戦成功ね!」
「せ、成功ではないと思うんだけど……」
「作戦?」
何が何やらだが、門衛は不審そうな顔をしているし、人々の視線も増えている。とにかくどこかで落ち着いて話を……と、思ったものの、ククは宿からここまで来た目的を思い出した。
「わたしたち、アッ君たちのところに帰ろうと思ってたの」
「あら、そうなの? それならそれでちょうどいいわね」
頷いた杏里が勢いよく番兵を振り返り、唖然としているその顔に人差し指を突きつけた。
「そうと決まったら、もうこんな町に用はないわ! これで文句もないでしょ!」
「……いいからさっさと出て行け」
「言われなくてもそうするわよ!」
言うやいなや、杏里は開いた門から大股で出て行ってしまう。
しかし、すぐにククたちが追いかけてこないことに気付いて振り返った。
「ちょっと、クク。行かないの?」
「えーと……」
とりあえず、乗合馬車はやめておいた方が良さそうだ。
「で、作戦ってなんだったの?」
貸し切った馬車の中、ククが早速尋ねると、杏里はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに胸を張った。
「実は隣町であんたたちの噂を聞いたのよ。最近ギルドで暴れ回ってる、やたらでかい剣を持った紫髪の男と、子狸っぽい女の子がいるって」
「こ、子狸……」
「言い得て妙だな」
しかし、噂になっていたとは知らなかった。
(っていうか、暴れてたつもりもなかったけど……)
「で、あんたたちだって思ったから急いで来たんだけど、普通に見つけるのは大変そうだから考えたの。あたしたちもまわりに噂されるくらい目立てば、あんたたちの方からも動いてもらえるんじゃないかって」
「それで大騒ぎしてたのか……」
「いやあ……獣の姿でいれば目立つとは思ったんだけどね」
頭を掻くライックは、今は人間の姿に戻っている。どうやら彼は自在に変身出来るらしかった。姿が変わるところは、何故か木立に隠れて見せてもらえなかったけれど。
「まさか町に入れてすらもらえないとは……」
「あら、あたしはあんたが投獄されるところまでは予想してたけど?」
「だ、だったら止めてよ!」
「嫌よ、めんどくさい」
「でもタイミングが良かったね」
ククは笑った。
「わたしたち、ちょうど町から出ようと思ってたところだったから」
「下手すれば、もう少しで入れ違いになるところだったのね。こいつが捕まり損にならなくて良かったわ」
「ほんとだよ……! っていうかまだ捕まってないし!」
久しぶりの杏里とライックは前より仲良くなっている、というか、妙に息が合っている。そもそも二人で行動していたことも意外だった。勿論、悪い意味ではないけれど。
「杏里ちゃんとライ君は、最近何か変わったことはあった?」
「あったわ」
杏里はさらりと頷いた。
「サラノの町で変な奴に会った。っていうか、追いかけられた」
「変な奴?」
「とにかく白くて、変に丁寧に近付いてきて、あ、中年男なんだけど……とにかく白くて怪しかったから逃げてきたわ」
「全く要領を得ねえな……」
ディオンは呻いているが、杏里の言う特徴から、ククはある人物を連想した。
「……それ、多分ロストベルさんじゃないかな」
知り合いか、とディオンが尋ねる。
ククは首を捻った。
「喋ったことは全然ないけど……。ただ、わたしが元いたところ……アストリアのお城で何度か見かけたことがあって。どこかの名門の出らしいんだけど、詳しいことは分からないや」
「結局よく分からねえんじゃねえか」
「だけど身元ははっきりしてる奴だったってことよね。でもどうして急に現れてあたしたちに話しかけてきたのかしら? この前のアルスの暴走騒ぎを気にしてたみたいなんだけど……」
「アッ君を?」
ロストベルのことはよく知らないが、少なくともアルスと親しかった記憶はない。わざわざ様子を見に王都からやってくるような関係では無いだろう。
だけど、それならどうして彼は現れた?
「ククちゃん、どうかした?」
ライックの案じる声に、ククは顔を上げた。心配させないよう微笑んだつもりだったが、口元が少し引き攣ってしまった。
「とにかく、アッ君のところに戻ろう」
妙に嫌な予感がした。
その日はサラノの町で一泊し、シトラスの元を目指して山の中に分け入ったのは翌早朝だった。
獣道を進みながら周囲に気を配れども、あたりに害獣の気配はない。どころか風が木立を揺らす音の他には鳥の鳴き声一つ聞こえず、小さな獣の一匹も見かけなかった。
それがひと時のものであれば、さして気にはしなかっただろう。だが、緑の奥へ。更に奥へ。進み続けても生き物は見当たらない。まるであらゆる生命が息を潜めているようだった。
「……変だな」
ククの隣でディオンが声を上げると、前を歩いていた杏里が不思議そうな顔で振り返った。
「何がよ?」
「静かすぎて嫌な感じがしないか?」
ディオンの言う通りだ。何かがおかしかった。
「みんな、ちょっと待って」
言って、ククは足を止めた。
目を閉じると、暗闇に弱く瞬く光が見える。数が一つだけなのが気に掛かるが、この光の持ち主が誰なのかは知っていた。
「うん……アッ君は大丈夫だと思う」
目を開き、再び歩き出す。
もう場所は分かっているから、皆の先頭に立つことにした。
「どうして分かるんだよ」
追いついたディオンに問われたが、説明するのは難しかった。
「なんとなく、かなあ」
とりあえず、そう答える。ディオンは納得していない顔だったが、いつも通り、それ以上何かを訊いてくることはなかった。
山中を更に奥へと進んでいくと、景色はいよいよ異様な様相を明らかにしはじめた。
「これは……」
崖のような坂を上りきると、その先で地面が黒く焦げていた。一帯に雪のように降り積もり、吹く風に舞い上がるのは細かな煤だ。踏み出す度に、さりさりと音を立てて靴が埋もれる。
粉塵を吸い込まないよう腕で顔を庇いながら倒れた古木を乗り越えると、いきなり開けた場所に出た。
ククの目に映ったのは、大きく抉られた大地と、その中央に取り残されたように座り込む、見知った少年の後ろ姿だった。
「アッ君!」
駆け寄ろうとしたククは、すぐに立ち止まった。
「っ」
胸に息苦しいほど巨大な感情の波が押し寄せる。アルスのものだ――そう理解した瞬間、波は形を崩してククの胸から消え去った。その跡地に、空になった心の器だけを残して。
「どうして……」
ライックの声が背後から聞こえる。次いで、杏里の呼ぶ声も。
けれど、アルスは反応しなかった。腕に見慣れない、恐らく彼の大切な人のものであろう刀を抱えて、ただ、座っている。
ククは唇を噛んだ。竦みそうになる足に力を入れて今度こそアルスに歩み寄る。
事情は分からない。教えてくれなくても構わない。だけど。
「アッ君、行こう」
これで彼が腰を上げなければ、最悪引き摺ってでも連れて行くつもりではいたが――。
「……分かった」
アルスは静かに立ち上がった。
その目も、声も、心も、もはや何にも向けられていないことは明らかだったが、今のククに出来ることは一つもなかった。




