第22話
シトラス、というのは誕生の時に与えられた名ではない。今は亡き師、兼養父に拾われてしばらく経った頃に、自分の意思で……と言うほどのことでもなく、適当な気持ちで変えた名だ。
名前は元より、シトラスはあらゆることに対して執着が薄い性質で、人生の指針も、譲れないこだわりというのも、およそ持ち合わせてはいなかった。国に仕えることを決めたのも師の遺言でそうしろと言われたからで、それがなければ適当に旅にでも出て、適当にのたれ死んでいたことだろう。
面倒を見てくれた養父を若くして病で喪った後、ちょっとした仕事を得るつもりでアストリアの城に入ったシトラスは、何を間違ったか国王に興味を持たれた後、さして望んでもいない五勇の誉れを授受することになった。
五勇の拝命と共に与えられたものは色々あったが、一番不要だったのは医療塔の副主任という至極面倒な副業だった。名高き五勇様と言えど、王の勅命もない平時は単なる城の一役人、というわけである。むしろ滅多に召集されることのない五勇業の方を副業と呼んでも差し支えはないかもしれなかった。
逆に与えられて有用だったものも、一応それなりにはあった。
その最たるものが城の敷地内にある大きな屋敷だ。
五勇の他の面々もそれぞれ城内に邸宅を持っていたが、それらの中でも、部分的に桜花文化を取り入れたシトラスの自宅は一際異彩を放っていた。外観も内装も中途半端と言えば中途半端だったので亡父が見たら怒り出すかもしれなかったが、シトラス自身はその見目をなかなか気に入っていたし、住み心地もまあまあ悪くない。そう思っていた。
そんな屋敷で迎える朝は、今日も静かなものだった。
庭を一望する広々とした食卓も家族二人ではどうしても持て余しがちになるが、シトラスも同居人も騒々しいのは好まない。これくらいの静けさがお互いの性には合っていた。
『今日も陛下のとこ?』
普段より少し早く起き出した少年に合わせて、シトラスもまた眠い目を擦りながら席についた。悪い意味で奇跡的な味わいになったコーヒーに口を付けながら、向かいでパンとミルクの簡素な朝食を進めている少年――アルスに問う。
いつも通り声は出さなかったが、アルスは容易くシトラスの唇を読んで、頷いた。
「ん」
『……大丈夫?』
「別に」
淡々と答える少年の見目は十五歳という実年齢に対して随分幼いものだったが、可愛いと表現するには、妙な凄味と色気が併存していた。そのちぐはぐさはどうあっても人目を集め、そのせいで彼のまわりには大小のトラブルが常に絶えることがない。シトラスの今の悩みの一端である。
「ごちそうさま。行ってきます」
食事を終えたアルスが立ち上がった。
まだ色々話したいことや忠告しておきたいことは色々あったが、シトラスは諦めて手を振った。
『行ってらっしゃい。……気をつけて』
小さく頷き、アルスは部屋を出て行った。
(ほんと、気を付けてほしいんだけどなあ)
彼が向かう先は、アストリア国王の元だ。
そもそもシトラスにアルスを保護するよう命じたのは、アストリア王その人だった。
数年前、シトラスは王の命を受け、同僚と共にある悪名高き町の内乱を鎮めに行った。と言っても、到着した時には既に手遅れの様相で、町にはびこっていた犯罪組織の多くは瓦解。巻き込まれた一般人も多数死に、後に現王の治世最大の変事として語り継がれることになった凄惨な現場では、わずかな生き残りを救出することくらいしか仕事は残されていなかった。
アルスは、そこで拾った子供だった。
彼の華奢な体には一見して大きな特徴があった。下肢から胸元、腕に至るまで、全身が文様のような黒い痣に覆われているのである。
城に戻って書物を漁れば、それは同一の症状を持って生まれた少女の名を借りて、イサキ病と呼ばれる疾病であることが判明した。器質的疾患のようだが詳細は不明。原因および治療方法も不明。分かっているのは、この痣を宿した人間が規格外の魔力を有していることと、魔力を使う度に痣が少しずつ広がること、膨大な力を抱えるせいで暴走状態に陥りやすく、数少ない症例が全員短命で死んでいる、ということくらいだった。
また、その症例がごく少ないのは、単純に発病が珍しいからというのと患者の寿命が短い状況に加えて、更にもう一つ別の理由があると思われた。外見にはっきりと現れる先天性の病であるが故に、「なかったこと」にされる可能性の高さだ。
シトラスにはおよそ理解しがたい愚かな理由ではあるが、それはそれとして、アルスがそんな珍しい病を抱えて生き抜いてきた貴重なケースであることには違いない。
今後数十年は現れないかもしれない生き資料の面倒を見つつ病の解析をしろというのが、アストリア王からシトラスに与えられた命題だった。
もっとも、病状の克服を目指せというよりは、「強大な魔力を生む痣を研究しろ」という本音も言外に感じられたが、それについてどうこう言うつもりはシトラスには無かった。
ともあれ、そんな経緯を経てアルスはシトラスの管理下に置かれることになったのだが、当初は全くの無関心だったアストリア本人が何故か今になってアルスに興味を持ち始めたらしい。最近ではこともあろうに自らの膝元に少年を呼び寄せ、執務の手伝いをさせているというのだから、シトラスは頭が痛かった。
(あの人も何考えてるんだかな……)
少年と自分の食器を片付けつつ、シトラスは一人溜息を吐く。
アストリア自身に害意はなくとも、権力者の常として王の周囲に不穏の種子が絶えることはない。加えてアルス自身があの性質と性格だ。いつ厄介なことに巻き込まれるかと気が気ではないが、かと言って本人が受け入れている状況を表だって反対することも躊躇われた。
仕方ない、問題が起きたら助けてやればいいと今日も無理に自分を納得させて、シトラスはそろそろ頃合いかと顔を上げた。
予感は正しく、軽やかな足音が廊下をこちらに近付いてきた。
「おはよ、今日も警備が手薄だね。もう少し人を雇ったら?」
勝ち気な顔を覗かせたのは、恋人のノア・アルクレットだ。
町を歩けば二人に一人が振り返る美人は、しかし並みの男など容易く打ち負かす豪腕の剣士であり、シトラスの本業の同僚――つまり五勇の一角だった。
『おはよ。うちは門兵だけで十分だよ』
「その門兵が、何にも言わなかったわよ」
ノアもまた、シトラスの唇を読み解いて返答する。
『言うわけないって。ノアは顔なじみなんだから』
「私が変装した暗殺者だったらどうするのよ」
『もしかして、また何か変な小説でも読んでる?』
「ええ。都に渦巻く陰謀と情愛の殺戮物語よ」
ノアの不敵な笑みは、しかし一瞬のものだった。たちまち凍えた表情の理由は薄々察しつつ、シトラスは儀礼的に訊ねた。
『何かあった?』
「さっきあの子とすれ違ったの。本当にいい趣味してるわね、陛下も、あなたも」
ああ、やっぱり。
『仲良くしろとは言わないけど、もう少し何とか……』
「ならないわね。あんな危険因子を放っておくことなんてあり得ない。五勇としてもあなたの恋人としても、容認出来るはずがないでしょ」
『あの子は……アルスは危険因子なんかじゃないよ』
ノアはアルスの暴走のことを言っているのだ。
その身に内包する力の大きさ故に、彼は時々それを抑えられなくなる。暴走状態が厄介なことには頷かざるを得ないものの、しかし最近ではその頻度も減っていた。状態は少しずつ改善されている。ノアにも、そう何度も説明してきたはずだったが。
「散々怪我させられて、よくもまだそんなことが言えるわね。本人の悪意の有る無しじゃない。あの子は存在が危険なのよ」
『あの力は本人が望んだものじゃない』
「だから言ってるでしょ、悪意の有る無しじゃないって。ねえ、あなたはある日突然恋人が死にかけてるって告げられる人間の気持ちを考えたことがある? それも、何度もよ」
答えられず、シトラスは黙った。
ノアはいつも通り怒っている。だが、そうやってシトラスに感情をぶつけてくる裏で、彼女がそれよりももっとずっと多くの時間を費やして一人泣いているのも知っていた。
しかし、ノアの言い分を呑みこんでアルスを手放すつもりはシトラスにはなかった。そんなこと、出来るわけがない。
(ノアのことは嫌いじゃない)
自分の意志を持って堂々としているところも腕っぷしが強いところも、美しい見目もすべて、好きだと思う。
けれど、それ以上に――。
シトラスは軽く頭を振り、ノアと目を合わせた。
『ごめん、ノア』
「……もういい。そろそろ行くわ」
口論の締めくくりは、いつも変わらない。最後に交わされる口づけがもはや惰性だけで続いていることはお互いに何となく分かっている。だが、それでもノアは朝の出勤前には必ずここに立ち寄るし、シトラスはそれを出迎える。
そう、それはいつも通り、変わらない朝だった。
シトラスの職場であるアストリア城内の医療塔は、研究室と病院が合体した施設になっており、その内部は今日も城下から地方まで様々な場所からやってくる患者や来客で賑やかだった。
研究員として勤務しているシトラスが直接人を診ることはほとんど無かったが、新薬の研究開発や経過報告、そこから少し外れて病の流行調査や城内の人間の健康状態の管理など、やるべきことはいくらでも用意されていた。
シトラスが尽きない仕事に追われて廊下を行きつ戻りつしていると、その内、塔内に濡れ鼠になった人々の姿が散見されはじめた。窓の外に目をやれば、雨。それも随分な降りようだ。
(ああ、これは当分止まないかな)
そんなことを考えていると、背後が不意に騒がしくなった。
足を滑らせたお偉方でも運び込まれたのかと振り向くと、シトラスの前に現れたのは近衛の鎧姿だった。頭をすっぽり覆う黒い兜が、濡れて鋭い石のように光っている。
「シトラス様」
兵士は、その場に膝を折った。
「急ぎ、陛下の元へ向かってください」
城内の人間でも、限られた者にのみ通行を許された王城深部へ続く道。その半ばに設けられた王の私的な庭園へシトラスは駆けつけた。
生け垣の合間を縫って奥の広場へ辿り着くと既に見知った面々が雁首を揃えていたが、誰もが皆、目の前の光景に言葉を失っているようだった。
シトラスもまた、その場に立ち竦んで動けなくなった。
アルスとノアが刃を交えていた。
他者の干渉を拒む青い魔法障壁の内側で、雨と血の飛沫を散らしながら、それぞれに剣を持った二人は激しい戦闘を繰り広げていた。
「ノアが言い出したのよ」
青髪の女が、シトラスの隣に立った。
「……っ」
反射的に城の主の姿を探す。王は広場を見下ろすバルコニーの上に従者と共に立っていた。表情は険しいが、この状況を止める気はないようだ。
女に視線を戻し、シトラスは喉を震わせた。
「ノアが、何を」
「自分と五勇の地位を賭けて戦え、敗れたら城から出ていけと言ったのよ。城内で顔を合わせて諍いになったみたい」
剣戟の音が空気を裂く。剣を振るノアはどう見ても本気だった。一切の手加減がない。本気で、アルスを倒そうとしている。
だが、アルスもまた驚くほど自然に剣を操っていた。魔法を使っているのか、太刀筋の速さだけで言えばノアに勝っている。
「止めないと……」
「駄目よ。五勇の私闘に他者が介入することは許されない。たとえ同じ立場の我々でも」
だから古いルールに従い、こうして傍観していると?
シトラスは激しい怒りで笑い出しそうになった。
冗談じゃない。第一、アルスは五勇でも何でもない!
「――!」
鋭く響いた高音に振り返り、シトラスは瞠目した。
ノアが地面に沈んでいた。傍らには彼女の剣が落ちている。
泥にまみれながら体を起こしたノアの喉元に、濡れた切っ先が突きつけられた。アルスが、剣を構えたまま宣言する。
「僕の勝ちだ」
同時に、二人を覆っていた障壁が崩れるように消え去った。
「……っあ……!」
遅れて状況を理解したシトラスは、二人の元へ駆け出し、名を呼んだ。呼んでしまった。
「アルス!」
そこまでだ、とか、もうやめろ、とか。少年へ制止の言葉を続けるつもりだった。冷静に考えれば、障壁を消失させた時点で少年にもう戦闘の意思は無かったはずなのに。冷静に考えれば、真っ先にその名を呼ぶことが、彼女にどんな感情を与えるのか、理解が出来たはずなのに。
ノアは、わずかな間だけシトラスを振り返った。
真っ暗な虚の目で、彼女は空っぽの微笑みを浮かべていた。
「……!」
顔を戻したノアに剣先を素手で掴まれて、アルスがバランスを崩した。
「……っ、やめなさい!」
青い魔女の声が響く。だが、間に合わない。シトラスが伸ばした腕も間に合わない。何も。何一つ。
少年を抱き込むように、ノアが体を躍らせて――彼女の胸を濡れた刃が貫いた。
打ち据えるような雨の中で。
***
アルスの姿は夜へと消えた。
冷えた軒先の馴染み深い静寂を前に、シトラスは立ち尽くしたまま後を追うことが出来ないでいた。
三年前、恋人だったノアが死に、彼女の地位がアルスへと渡された後、シトラスは少年を置いて城を出た。追っ手は早々に途絶えたが、人里で生きる気にはなれず、ちょうどこことよく似た山小屋のような場所でこれまで細々と暮らしてきた。
何もかもやり直しがきかないことは、誰よりも自分が一番よく分かっていた。ましてアルスと再び顔を合わせることなど、到底考えられなかった。
つい先日、あの青の魔女に彼の危機を告げられるまでは。
「…………」
息苦しさに耐えきれず、シトラスは空を仰いだ。
あの日、あの時、シトラスは最大の過ちを犯した。恋人を踏み躙り、自死に追いやり、アルスのことも傷付けた。
けれど、少年の元を離れたのは自責の念だけが原因ではない。
(オレは、あの子を)
ノアを追い詰め、命を捨てさせて。
それでも胸に過ぎった想いは。感情は。
――僕は、あんたの忘れたふりに付き合う気なんかない。
そう糾弾したアルスは、シトラスが自分のことを憎んでいると思っているのだろう。
けれど、シトラスはアルスを憎めなかった。当たり前だ、すべては彼のせいなどではない。
城を出たのは彼を恨んだからではない。シトラス自身のせいでノアが死んだからでもない。
この胸にある歪んだ感情が、恐ろしかったからだ。
かつてその手をとった、小さな子。
最初は興味なんてなかった。ただ、仕事だから世話をする、それだけだった。食事を出してやっても全然食べないものだから、嫌がらせのつもりで甘い菓子ばかり食卓に並べたら、いきなり全部平らげて腹が立つのを通り越して愉快になった。適当に日々の出来事を話していたら、だんだん後をついてくるようになって、面白いからあちこち散歩に連れ回した。お互いに眠れない夜は、瓦屋根に並んで煌々と輝く城を眺めていつまでも話した。
そんな無意味で些細な時間を重ねる内に、いつしか少年の存在はシトラスの人生に大きな意味を添えるものになっていた。
確かに彼の病を解明すれば、未来で傷付き、苦しむ人たちを減らすことが出来るかもしれない。けれど、それを叶えたところでアルス本人の過去は、傷は、消え去らない。ならばこれから生まれる百万の命が不幸に落ちても、この子一人が救われる方がずっといい。そう本気で思った。
幸福を無邪気に信じることも、いっそ諦めてしまうことも出来ずに、絶望と祈りの狭間で足掻くアルスが可哀そうで愛おしかった。壊したいのと同じくらい救いたくて、手放したくなるほど離れがたくて、守りたかった。他のすべてを犠牲にしても。
だからこそ、その想いの罪深さに耐えきれずに、手を離して逃げ出した。それが人殺しの汚名を着せられた彼を更に傷付けることは分かっていたのに。苦しめることも知っていたのに。
(オレは、いつだって身勝手だ)
もうアルスを追いかけるべきではないと分かっていた。
この手で救ってやることも、いっそ壊してしまうことも出来ないくせに、もうこれ以上あの子の人生に関わるべきではないと。分かっていた。分かっている。
けれど。
目の前には、晩夏の夜闇が横たわっている。周辺に魔物の巣などはなかったが、深夜に獣の遠吠えが聞こえてくることはたまにある。歩くことさえおぼつかない人間がこの荒れた道を町まで無事に進める保証はどこにもなかった。
「…………」
振り返ると、扉を開け放ったままの玄関先、上がり框の壁に桜花の刀が一振り、立てかけられているのが目に入る。
掴むべきか手放すべきか。既に答えは出ているはずなのに、手が、足が、動いていた。
シトラスは夜の森を走った。
獣道を進むのは慣れているはずなのに、焦りのせいか腕や頬が細枝で幾度も切れた。足首に絡まる着流しの裾が疎ましく、腰に佩いた刀がぐらぐらと揺れる。
朽ちて倒れた大木を乗り越え、前方に目を呉れると、開けた空間に奇妙な光を帯びた一角があった。
細長い男の影が、発光する薄靄を纏って立っている。
短い髪も、裾の長い衣装も、何もかもが白い中、薄く笑みを浮かべた顔の瞳だけが黒だった。自分より遥かに年上に見える男の妙に彫りの深い顔を正面から見据えて、シトラスは痛む喉で低く問うた。
「……何、してる」
「なあに、危害を与えるものではないよ。病み上がりには少々堪えたようだがね」
こちらの思惑を見透かすような静かな微笑。穏やかな声音が示すのは、男の足元に横たわるアルスの姿だった。意識はない。少年の四肢に纏わりつく光の帯は、拘束型の魔法式だろう。
「あんたは誰だ」
「私はロストベル・クロロス・クロムツェル」
男は、どこかおどけた声音で名乗りを上げた。
「この度、あなたに代わって五勇の命を拝受いたします、陛下の新たな刃です」
男の顔に見覚えは無かったが、その言葉で大体の目的は察せられた。
「五勇の後釜に入りたきゃ勝手にすればいい。オレはとっくに引退してる」
「それは君の勝手な判断だろう? 陛下はまだ君が五勇であると言っているよ」
口調を崩したロストベルが肩を竦める。
シトラスは小さく舌打ちした。
城から出ていく際、シトラスはアストリアの王に対して、自らに与えられた五勇の立場を返上する意思を伝えている。
アストリア王は反対したが、その本音はノアが死んだことにアストリア自身が多少の罪悪感を覚えているからに違いなかった。彼の贖罪に付き合う義理もないので、そのまま振り切って隠居したのだが、非常に迷惑なことに鬱陶しい肩書きは未だ生き続けているらしい。
「それにしても悲しいね。五勇ともあろう人間がこんなところで親子ごっこをしてるとは。ああ、いや、恋人ごっこと言うべきかな?」
「……だったらなんだ?」
「おお怖い。獅子の素顔が覗いたな」
男の腕が宙を薙ぎ、空間に揺らぎが走った。次いで石膏のような指が掴んだのは、いずこから現れたものかも分からない黒い大鎌の柄だった。表情に余裕を灯したまま、ロストベルが滴る闇のような武器を構えた。
「ま、ともかくね。私が座りたい椅子にはまだ君の名前がこびりついてて困ってるんだ。それをどうにかしたくて、わざわざここまでやってきたのさ。匂いを追うのに苦労したよ」
「椅子でも机でも欲しければくれてやる。そう本人が言ってたと、あの王様に伝えればいい」
ロストベルは首を振った。
「それでは陛下は納得しないさ。それに、私もね」
「……だったら?」
「なあに、殺しやしないよ。二度と復帰出来ない程度にボコボコにすれば陛下も納得するだろう」
ああ、こいつとは話が通じない。シトラスは体を流れる血が震え、音を立て始めているのを感じた。
「誰が誰をボコボコにするって? 人を舐めるのも大概にしないと、ジジイだろうがブチ殺すぞ」
「おいおい、君は本当に地が荒んでるな」
ロストベルが声を上げて笑った。
「その『ジジイ』にボロ雑巾にされて泣きべそをかくなよ。五勇様」
放出される魔力にロストベルの白い衣がはためき、頭上の木の葉がざわざわと震えた。渦を為す風はシトラスの足元にも絡みつく。
しかし、シトラスはまだ鞘から刀を抜かなかった。
「……この状況で人質なんていらないだろ」
「ああ、彼かい? 別にそういうつもりじゃあない。ただ、水を差されたから困るからね。でも君がそういう顔をするんだったら、あえて意地悪に使うのもいいかもな」
下段に武器を構えたまま、ロストベルが軽く首を傾げる。
シトラスは挑発に乗らず、逆に笑い返した。
「安全策を持ち出すとは、俺の後釜が聞いて呆れるよ」
「……おっと、先ほどの意趣返しのつもりかね」
答えた男は、もはや笑っていなかった。
「まあいいさ、ここは先達たる君に敬意を払っておくとしよう。転移魔法で飛ばしてもいいが、今の彼には負担が大きいだろう。我々が場所を変えようか」
そう言って、白い背中が木立の奥へと歩き出す。アルスをこの場に置いていくことには抵抗があったが、迷った末、シトラスもその後を追った。
とにかく、今はこの男をぶちのめすことに集中しなければならない。
「この辺でいいかな」
木々の途絶えた一角で、二人は向かい合う。
武器を構え直したロストベルに、シトラスも刀に手をかけた。
瞬間。薙いだ鎌の一閃が強風を生み、頭上の枝葉を引き千切る。大地から巻き上げられた大小の礫が、シトラスの身体の横を掠めていった。
その激しい嵐に紛れるように、魔力の衣をまとったロストベルが滑るような足取りで突っ込んできた。
「……っ」
後方に跳ぶことで敵の初撃を回避したシトラスは、着地するなり前方に進路を戻し、駆ける。空を斬る大鎌の懐に入って刀を振るが、切っ先は相手の頸に届かなかった。追撃を諦め、背後で引き戻される鎌の刃を横方向に跳躍して躱す。
刀を構え直す隙を突いて、ロストベルが再び肉薄してきた。
「――!」
大鎌の軌跡に注意していたシトラスは、突如広がった白煙にたたらを踏んだ。
足元の気配。防御も回避も間に合わず、鋭利な牙が横腹を抉る。咄嗟に蹴りを放つと、肉を打つ確かな感触と共に、叩きこんだ足首を柔らかな毛並みの感触が撫でた。
漏れ聞こえた苦痛の唸りは人間のそれではなかったが、濃霧を四散させながら地面に降り立ったのは、先ほどとそれほど違わぬ中年男の姿だった。異なっているのは、白一色だった装具に散るまだらな朱色と、同じ色で濡れた男の顔面だ。
「……意表を突いてみたつもりなんだが、少々失敗したな」
激しく流血する鼻面を袖口で乱暴に拭いながら、ロストベルはどこか楽しげだった。
シトラスもまた、疼く腹の傷口を押さえて笑う。
「……っ、クロムツェル一族の動物変化か」
「そうとも。愉快だったろう?」
「ああ、折角だしもう一度見てみたいね」
「いずれ機会があれば披露しよう」
しばし互いの荒れた息遣いだけが響いた後、
「君は本調子じゃないね」
ロストベルが小さく呟いた。
視線が交わる。ロストベルは薄く笑みを浮かべたが、すぐにそれを打ち消した。
「あの子がそんなに大切かい?」
「…………」
「自分の命よりも大切なものがあるというのは厄介なものだね。うっかり敵対してしまったが、君とはもっと違う形で話してみたかった気もするよ」
「……っ」
シトラスは肩で息を吐いた。目眩がするがまだ戦える。殺し合える。それで十分だ。最後まで戦う。戦いたい。もっと。
「……よく聞いてなかったけど、何? あんたをボコボコにさせてくれるって話だった?」
「いや。生憎そこまでの優しさの持ち合わせはなくてね」
視線を交わし、両者の間に横たわるこの距離が縮まることはないのだと、それぞれの胸中で了承し合う。
一歩、また一歩と歩が進む。互いを潰す、そのために。
あとほんの少しの距離、崩れかけた均衡を残して、しかし二人は足を止めた。それぞれの表情に同じ色の猜疑を見つけて、揃って視線を木立へ向ける。
「招かれざる客、か」
押し殺した声で呟くロストベルに、シトラスも浅く頷いた。
苦々しい表情はロストベルもまた同じで、どうやら彼の仲間ではないらしい。それが良いことなのか悪いことなのかの判断は出来なかった。
夏の夜に、生き物の声は聞こえない。
じっとりとした闇に月光だけが冷え冷えと眩しかった。
やがて木々の合間から影絵のように現れたのは、一人の少女だった。両目を眼帯で覆い、貧相な体に痩せこけた四肢をぶらさげ、妙な微笑みを浮かべながらふらふらと歩いてくる。
少女が両手に一本ずつ握った大振りのナイフには、乾いた血と獣の体毛がこびりついていた。
「こんばんは、素敵な夜だね。ねえ、あなたたち、アルス様がどこにいるか知らない?」
少女がいきなり話を切り出す。その声音と表情が抱えているのは、もう後のない明るさだった。
「どこの誰かは存じ上げぬが、素敵な夜に湧いたお邪魔虫は早々に退散願おうか」
皮肉気な微笑こそ浮かべているものの、ロストベルの殺気は鮮烈だった。
シトラスも黙ったまま刀を構え直す。アルスの名が出た以上、放っておける相手ではなかった。
「あれ? あなたたちも敵なの?」
二人に切っ先を向けられても、少女の顔から喜色は消えない。
むしろますます嬉しそうに、
「でもいいよ。ヴィヴィは二度と、失敗なんかしないから!」
いっそ泣きそうな声で、言った。




