第21話
暗い室内。ごろごろと足元に転がってきた男の首を、ヴィヴィリアは大事に抱えて歩き出した。
偉いおじさんらしいけど、べたべたしてるし、ちょっと臭う。やだな。でも、まあいいか。
これで、今日の仕事はおしまい。首を持って帰ってこいなんて言われてないけど、ちゃんと役目を果たした証明になるし、もしかしたら喜んでもらえるかもしれないし。だから、持って帰るのだ。
開いた窓から外に出て、眠りについた町の中を進む。
事前に教えられた道を行くと、すぐに木々のざわめきが近付いてきた。足下には隣町まで続く舗装路が伸びているはずだが、そちらは選ばず音の方、木立の奥へ向かう。
このあたりまで来れば、もう誰にも見つからないだろう。
「おい」
「きゃ!」
突然背後から声を掛けられて、ヴィヴィリアは思わずすくみ上がった。が、すぐに聞き覚えのある声だったと思い直す。
「……黒ちゃん。驚かさないでよお」
「うお、お前なんつーもん持ってんだよ! ま、いいけどな」
「ヴィヴィに何の用?」
わざわざ黒塚が現れたということは、きっとまた仕事を頼まれるのだろう。必要とされるのは嬉しいけれど、だとすればまた、まだ、クレストに会えなくなる。
「そんな嫌そうな顔すんなよな。って、お前が考えてる通り、仕事なんだけどさ」
「やっぱり……」
「だけど喜べ! 今度のが終わったら、またクレストと組ませてやるってよ」
「本当!?」
「ほんとほんと。ユイージナお姉様の言うことだからな。しっかし、お前は本当にクレストが好きだよなあ」
黒塚は呆れた声で笑うが、そんなのちっとも構わない。だって、ヴィヴィリアは本当にクレストのことが大好きだから。
(だけど、どうして? 何でクレストが好きなの?)
頭の中の声に首を振る。そんなの知らない。理由なんて分からなくても、それでもヴィヴィはクレストが好き。だから、頑張る。それでいいじゃない。
「黒ちゃん、ヴィヴィは何をすればいいの?」
「おっ、流石恋する乙女。やる気だな」
笑った後、黒塚はわずかに声を低くした。
「今度は大物だぞ、ヴィヴィ」
アストリア王の五本の腕を減らしてこい。
黒塚は、そう言った。
***
町は真夏の陽気だった。
夏空は絵に描いたように青く、膨らんだ雲はそれを切り抜いたように白い。うるさいほど鮮やかな空模様に対して、地上、町外れの広場は意外にも静かなものだった。片隅で四、五人の子供たちが大人しく遊んでいる他は、時々通りかかる人がいる程度。
杏里はそんな人々の中に溶け込むことも浮くこともなく、木陰のベンチに座っていた。
「暇ねえ……」
一人でこんなにぼんやり過ごす時間は、里を出てからは初めてだろうか。
思えば、故郷から随分離れた場所までやってきたものだ。実感がないとまでは言わないが、妙な感覚ではある。
(あたしは、これからどうやって生きていくんだろう)
当面、ククについていくつもりなのは変わらない。彼女がクレストを止めたいと言うのなら、その力になりたいと思う。でも、その後は?
(ククと、ずっと一緒にいられるんだろうか)
(一緒にいられたとして、あたし自身はどう生きるの?)
思わず溜息を吐きかけた時、広場の入り口の方から見慣れた姿が駆け寄ってくるのが見えた。
「杏里ちゃん、お待たせ」
「……待ってないわよ」
あんたなんか、という悪態は一応呑み込んだ。
「別にやることもなかったし、のんびりしてただけよ」
「それなら良かった。これ、飲み物。お好きな方をどうぞ」
杏里の隣に果物ジュースらしき液体が入った透明なカップが二つ置かれた。カップを挟んで、ライックもベンチに座る。
「……じゃあ、こっち」
片方のカップを手に、杏里は横目でライックを窺った。
なんとなく気弱そうなその横顔と、先日目にした犬……いや、狼の姿。その二つを杏里は未だにうまく結び付けることが出来なかった。
かといって、別人のようだと言うのではない。実際どちらも間違いなくライックであることは認識出来る。それがまた不思議なのだ。それに、そうした彼の二面性のようなものに嫌悪感や恐怖があるかと問われれば、そうでもない。むしろ――。
「そっ、それより! 船のことは大丈夫だったの?」
「ああ、うん。許してもらえたよ」
ライックはあっさりと頷いた。
「もう使ってなかったものだから気にしないって。むしろ処分する手間が省けたって感謝されちゃったよ」
「それなら良かったわ」
杏里はほっとした。
このサラノの町にやってきた最大の目的は、ライックが借りてきた船を孤島に置いてきてしまったことに伴う、持ち主への謝罪だった。ここまでついてきた以上、無論杏里も一緒に行くつもりだったのだが、直前になって、ライックに面倒なことになるといけないからと同行は断られてしまった。
だからここで待っている間、彼一人がひどく怒られていないかと不安だったのだ。
「心配してくれてありがとう」
「別にそんなんじゃないわよ! で、これからどうするのよ」
もう目的は果たしたので、このままシトラスたちのところに戻っても良いのだが、アルスはまだ当分回復しないだろう。役に立てることが無いのにあの家に居座るというのも気が引けた。
ディオンの言っていたように、どこかのギルドで仕事でも探してみようか。そんなことを考えつつ何気なく視線を前方に向けて、杏里は奇妙な人影に気が付いた。
真っ先に感じた印象は、白。
よく人混みで頭が飛び出るライックよりも更に背が高い、中年の男だ。黒い瞳と派手な形の首飾り以外は、肌も、髪も、身にまとうローブ風の服も、とにかくすべてが白かった。
真っ直ぐ歩いてきた男は、杏里たちの前で立ち止まった。彫りの深い印象的な顔を崩して微笑みかけてくる。
「やあ、突然すまないね。少し訊きたいことがあるんだが」
歌うようなおどけた声に、何故か体が強ばった。
「おや? そんなに警戒しないでくれたまえ」
「何の用ですか?」
答えたのはライックの固い声だ。腰を浮かせて、珍しく険しい顔で男を見上げている。
「ああ、デートの邪魔をしたことは謝るよ! 一つ……たった一つだけ、私の疑問に答えてくれればいいんだ。どうか答えてくれるね?」
男は、浮かべた笑みをゆっくり消して杏里を見た。
「最近、この町の外れでおかしなことがあったようなんだ。どうもアストリアの五勇様が関わってたらしくてね。心当たりはあるかな?」
「……知らないわ」
「本当に? 失礼。だが嘘を吐かれるとお互いに損をするだけだからね」
「知りません。というか、なんでおれたちに訊くんです?」
ライックの問いに、男は再び微笑んだ。
「君たちから匂うからさ。私の探しているものの匂いがね」
杏里は男から視線を外してライックを見た。
視線が交わる――それで十分だった。
「行くわよ!」
杏里は叫ぶと同時に荷物を掴み、駆け出した。
周囲に身を隠すものは何もない。追跡は覚悟の上で広場を突っ切り、背の低い植え込みを飛び越える。
足を止めないまま振り返ると、白い男が全力でもなく、かと言ってはなから諦めているようにも見えない微妙な速度で二人を追いかけてきていた。
「杏里ちゃん、こっち!」
ライックが指したのは広場を回り込む道だった。進むと、大通りに出る。人通りはそれなりにあるが、追いかけてくる人物の目から逃れるのは難しそうだ。
「どうしよう……宿まで戻った方がいいかしら」
「いや……あの人はおれたちのことを分かってて近付いてきたみたいだし、それなら宿ももう特定されてるかもしれない」
こちらは相手を知らない。けれど、相手は確実に何らかの意図を持って杏里たちに接触してきた。
まるで意味が分からないし、気味が悪かった。
「とにかく今は逃げるしかないよ。一旦町を出て……」
ライックが言葉を切る。
彼の視線の先を追って、杏里は呻いた。
「うそでしょ」
大通りのど真ん中を、獅子に似た大型の獣がこちらに駆けてくる。輝く毛並みは、純白だった。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中、獣が跳躍した。民家の壁を蹴り、一気に距離を詰めてくる。
「杏里ちゃん!」
声の方を向けば、いつの間にかライックも狼の姿になっていた。悲鳴が増えたが構ってなどいられない。杏里はライックの背に飛び乗った。
「走るよ。しっかり掴まって!」
杏里が伏せると同時に、ライックは弾けるように駆け出した。
「……!」
初めて彼の背に乗った時とは比べものにならないほどスピードが早い。人々を飛び越え、石畳を蹴りつけ、町の中を疾走し、通用門を飛び越える。町を出ても足を止めず、背の高い草が生い茂る平原を走り続ける。
揺れる背にしがみついたまま、杏里は恐る恐る振り返った。
後方の視界は開けているが、追跡者の姿は見えなかった。しばらく走っても、追いかけてくる気配は無い。
「……もう大丈夫かな?」
ライックが足を止めたのは、木々が生い茂る一角だった。
「逃げ切ったのかしら……」
「みたいだね……」
全力疾走のせいで、ライックは流石に少し苦しげだった。
「それにしても、一体何だったんだろう」
「分からないわ。クレストの仲間とか?」他には思いつかないが、それにしては接触の仕方が妙だった気もする。「敵じゃない可能性も無くはないけど……」
「でも、怪しいよ。関わるべきじゃないと思う」
「……そうね」
ライックの言葉に杏里も同意した。後でククたちと合流したときに改めて相談した方がいいだろう。
「それより、これからどうしようか?」
問われて杏里は逡巡した。
この一件でシトラスの元へ戻るという選択肢はなくなった。あの不審者を完全に撒いたと確信出来ない内は、身を遠ざけておくべきだ。
「とにかく、ここで悩んでても仕方ないわ。一旦別の町に移動してから考えない?」
「そうだね。……っ」
「きゃあ!」
突然ライックの体勢が崩れて、杏里は地面に投げ出された。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ!」
ライックは前足を崩して地面に伏せている。ごめんと小さく謝るばかりで、なかなか起き上がろうとしない。
「あんた、もしかして怪我してるの?」
「いや、怪我ってほどじゃ……」
「いいから! どこなの!」
強く言うと右前足が軽く動いた。近付いてそっと手を触れると、頭上から呻き声が上がる。指先に血が付くも、長い毛に覆われて傷口は見えなかった。
「これじゃ応急処置も出来ないわ。すぐ人間の姿に戻れる?」
「え、戻れる、けど」
「けど、じゃないわよ。早く! こんな泥だらけのところで、菌でも入ったら大変じゃない!」
ライックは沈黙した後で、あのお、と小さな声を出した。
「その、せめて後ろを向いててもらえないかな」
「はあ? いいから戻れるならさっさと戻りなさいよ! ぐずぐずしてると怒るわよ!」
「ひいい! もう怒ってるじゃないか……!」
情けない声を上げたライックの輪郭が、不意に大きく歪んだ。体全体が一瞬で縮み、次いでそこに現れたのは人間の姿に戻ったライックだった。だったのだが。
「なっ」
杏里はすっかり忘れていた。獣の時の彼は服を着ておらず、衣類は他の荷物とまとめて首から下げていることを。その状態で元に戻れば、当然、生まれたままの姿であることを。
突然、視界が暗くなった。
「ごごごごめん……! とりあえず今服を……いたっ」
「ああ、もう。いいわよ! いや、良くはないけど、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
杏里は目の前を覆うライックの手のひらを押し退けた。あたふたしている手首を掴んで腕を見ると、骨ばった右肩に真新しい裂傷が出来ていた。
「その、草むらに何か落ちてたのを引っかけただけなんだ。大したことはないんだけど……」
実際傷口自体は小さいものの、けして浅くはなさそうだった。ここに体重を掛けて走るのはかなり痛かったことだろう。
「いいから、あんたは座ってなさい」
杏里はおどおどするライックを制して、荷物から取り出した水で傷口を洗い、消毒液を振った。上から薬草を貼り付けた後、落ちないように包帯を巻く。これでとりあえずの処置はおしまいだ。だが、念のため後で毒消しも飲ませておかなければ。
「しばらく休んだら歩ける? 今日は野宿するにしても、もう少し開けた場所を見つけないと……」
「あの、杏里ちゃん」
「何よ?」
「ありがとう」
無防備な格好の男に無防備に礼を言われて、杏里は面食らう。思わず悪態が浮かんだものの、何とか唇が動く前に留まった。
代わりに、言い慣れない言葉を発音してみる。
「どーいたしまして」
「杏里ちゃんって優しいね」
「っ、優しくなんかないわよ!」
今度こそ杏里は怒鳴った。
「馬鹿なんじゃない、あんた」
「ううん、優しいよ」
まだ言うか、と睨むと、ライックは両目を穏やかに細めた。
「それはおれが保証する」
「あんたに保証されたって嬉しくないんだけど」
「そ、そんなあ……信じてよ」
信じるものか。
まだ情けない声を上げているライックに杏里は溜息を吐いた。
「ほら、行くわよ」
どうやら、まだしばらくはこの男と行動するしかないようだ。
***
曖昧な眠りの境界線をまたいで、アルスは馴染みの薄い天井を仰いでいた。
体力の消耗は依然激しく頭も重いままだったが、ここ数日で体の自由は多少戻った。適切な治療の賜物か、と皮肉に思う。
固いベッドの上に上体を起こすと、その治療を行った張本人が部屋に入ってくるところだった。
『はい』
差しだされた湯のみをアルスは仕方なく受け取った。ついでに含んだ薬湯の苦みに閉口していると、小さく笑う気配がした。
『昔はどうしても飲まなかったのにね。あっちゃんが熱を出す度、大変だったよ』
「……覚えてない」
『じゃあ、風邪ひいて医療塔前の地獄段から落ちたのも?』
「それは僕じゃない。あんただ」
『そうだっけ? あ、そうだった。風邪ひいたあっちゃんを背負って歩こうとして、頭から落ちたんだっけ』
「……地獄段がとうとう死人を出したって話題になりかけた」
『そうそう。首もやっちゃってしばらく絶対安静だったから、死亡説が出たんだよね、オレ』
過去のこととは言え、いたって呑気な言い草にアルスは呆れて息を吐く。
馬鹿馬鹿しくて、鬱陶しくて、価値などないのに何故か切り捨てて忘れることの出来ないそれらは、確かに「過去」であり、もしかしたら「思い出」とも呼べるものなのかもしれない。どうしても片付けられない部屋のように、心の片隅に散らかったままの一角があって、そこにいくらでもそんなものが詰まっている。この、シトラスとの間には。
「……?」
突然強い音がして、アルスは隣を見やった。
シトラスがテーブルにカップを置いた音だ。注意を向かせるためだったのだろう、表情に強い感情はない――と、思ったが。
『さて、そろそろ説教しても問題ないくらいには回復したかな。アルス』
向けられた表情で、何を言われるか大体の想像はついた。
『薬、最近飲んでなかったでしょ。なんで?』
「……別に、あんたには関係ない」
『あのさ。そりゃ気休めみたいなもんだけど、飲んどけば暴走自体は止められなくても、後の回復が多少は早くなるんだよ。今の処方なら副作用もほとんど無いはずだと思うんだけど』
抑制薬。そう言い出したのは、医療塔の誰かだったか。かつてシトラスが開発に携わっていたその薬は、今はアストリア城内にある医療塔の研究員が後を引き継いで改良を重ね、アルスへと定期的に送られてくる。シトラスの言う通り、明確な効果が見えない代わりに厄介な副作用もないが、どちらにせよアルスにとってはさして興味のないものだった。
つまり、単に面倒だから服用しなかった。ただそれだけだ。
シトラスもその理由にもならない理由を察しているのだろう。呆れた顔で息を吐いた。
『まあ、暴走そのものを無くすような薬じゃなきゃ意味ないって思うのも仕方ないと思うよ? でも今はまだそこまで研究が進んでないからね。もう少し魔法医学の発展を待っててよ』
それも、どうでもいい。アルスは答えなかったが、シトラスの表情と言葉選びからこの件に関してこれ以上くだくだと言われる可能性は低いだろうと見積もっていた。
実際、シトラスは一度は諦めたように肩を落としたが、一転、説教は別のところに飛び火した。
『それはそれとして、あのさ、もういい加減にしろよ』
「……何が」
『分かってるだろ。そういうことを、だよ』
言って、顔を歪める。元々気の抜けた面立ちなので、さほどきつい表情にはならないが、赤い瞳には淡々とした怒りがあった。
『お前が殴られたら殴り返す主義だって言うならいいよ。その考え方自体は嫌いじゃない。でも殴り方を考えないと結局お前の手がもう一回痛むだけだ』
アルスは眉をひそめた。
どうやらシトラスはアルスが行っていることを復讐と捉えているらしい。が、アルスは他人に対して復讐心を抱いたことなど一度も無い。ただこの顔が――散々女のようだと嗤われ、嬲られてきたこの顔が、道具にも商品にもなることを知っているだけ。自分の持っている物を利用して見返りを得ているだけだ。
それの何が悪い?
言葉を返さないアルスに、シトラスの表情が険しくなった。
『復讐じゃないって言うんなら、自分が楽な道を選んでるつもりか? なら尚更その先がどこにも続いてないっていうのは分かるだろ? お前が相手する連中はお前をけして救ってはくれない。そこに何かの益があったとして、お前が自分の心と体を削ってまで手に入れる価値があるものなんて絶対に無いんだよ。オレの言いたいこと、分かる?』
分からない。分かりたくもない。たとえシトラスの言葉が正しかったとしても、それを、差し向けられた優しい怒りを、受け入れることなど出来なかった。
だから言った。
「僕が何をしようと、どう生きようと、あんたには関係ない」
そう、関係ない。突然始まった奇妙な日々に翻弄されて、愚かにも忘れかけていた。思い出話になど、乗るべきではなかったのだ。
閉ざされた窓の向こうで明るい日差しが揺れている。正面から交わる視線は、それでも重なることはない。
まるで悪い冗談のような時の中、シトラスが悲しそうに微笑んだ。
『関係ないなんて、寂しいこと言うなよ』
柔らかな眼差し、穏やかな「声」が、アルスの存在を許容する。けれどそうして受け入れられれば受け入れられるほど、アルスは自分が赦されないことを自覚する。だから。
「あんただって、忘れてなんかないはずだ」
今、罪を取り出して掲げてみせる。
「あんたの人生を、僕が壊した」
たとえば、アルスさえいなければ。シトラスは今も普通に声を発することが出来ただろう。冬の日に数多の古傷が痛むこともなかったし、得体の知れない子供を拾ったことで他人から後ろ指を指されることもなかった。それだけじゃない。
「僕はあんたから……」
『アルス』
唇の動きが言葉を遮る。
『大丈夫だから。もういいよ』
シトラスが立ち上がり、素早く背を向けた。
「いいわけないだろ!」
声を振り絞っても振り返らない。こっちの声は聞こえているくせに、そうやって逃げる。自分から喧嘩を売ったくせに、いなくなる。いつも、そうやって。
僕だけを残して。
何もかもお前のせいだ。そう言われる瞬間をアルスはずっと待っている。そうでなければ、救いに値しないと知りながら、それでも最後に残った執着を手放せないから。
シトラスに心から憎まれたかった。憎まれていると思っていたかった。それなのに、罪は今日も罰されない。
「だから……僕はあんたに会うのが嫌だった」
出て行く背中に、かろうじて告げた。
音を立てて閉まったドアを見つめて、アルスは今度こそ決断した。
ここに、いるべきではないと。
シトラスが部屋を出てから深い夜が満ちるまでの間は、永遠のように長く感じた。
家の中からあらゆる音が失せるのを待って、アルスは静かに身体を起こした。
冷たい床を数歩歩いただけで息が切れ、壁を伝っていかないと真っ直ぐに進むことさえままならなかったが、ここに留まる理由を一つずつ掃き捨て、ここから去る理由を掻き集めながら、無理やりに足を動かし続けた。
うんざりするほど時間をかけて、暗い廊下を進む。部屋の外に出るのは手洗いと風呂の時くらいでほとんどの時間はベッドの上で過ごしていたから、この家の正確な間取りは分からない。だが、玄関の位置くらいは検討がついていた。
さして長くない廊下を曲がると、外に向かって開かれた扉と、逆光の立ち姿が待っていた。
「……そんなことだろうと思ったよ」
戸口にもたれながら発せられた声は、掠れて聞き取りにくいが、間違いなくシトラスのものだった。
本人はそうとは言わないが、一度潰されかけた喉で音を発するのは、ひどく苦痛が伴うはずだ。だから普段、シトラスは声を出さない。自身の痛みと引き替えにしてまで、我を通そうとする時以外は。
「大人しく部屋に戻ってくれるよね?」
「出来ない」
「どうして?」
黙って歩き出すと、すれ違いざま腕を強く掴まれた。半ば予想はしていたが、重心がぶれ、アルスは軽くよろめいた。
「その手を……」
離せ。そう告げようとシトラスを仰いだが、声は出なかった。向けられた瞳が、想定外に昏い色を湛えていたからだ。
「……オレさ、誰もお前を救わないと言ったよね?」
瞳と同じ温度の声で、シトラスは昼間の応酬を蒸し返した。
「もし、お前がどうしてもオレの言うことを聞く気が無いのなら……このまま誰にも救われずどこかで勝手に壊れていくのなら……その前に、オレがお前を壊してしまおうか」
それは問いでも宣言でもなく、零れ落ちるような呟きだった。
シトラスのささくれだった細い指が、アルスの首に絡みつく。
アルスは逆らわず、シトラスを見上げた。
「オレも、後で一緒に壊れてあげるから」
指に力が込められる。ゆっくり、じわじわと。同時に焼けるような熱が首を伝って、唇から体内に流れ込む。酸素を求める喉は乾いた指に組み伏され、呼吸を塞ぐ熱がわずかに離れる度に、か細い喘ぎだけが弱い生き物の鳴き声のように零れた。
アルスは目を閉じる。
喜ぶべきではないと分かっていたが、全身を巡り広がっていくのが甘やかな喜悦であることは疑いようもなかった。
これで良かったのだという受容ではない。犯した罪に罰を与えられる安堵でもない。その底に横たわる、もっと醜く汚れた劣情が歓喜の叫びを上げている。
だが、その声に止めを刺す前に、指が、手が、熱が、離れた。
瞼を開けると、薄くぼやけた視界の向こうで、シトラスの苦しげな、泣き出しそうな表情が見えた。
(僕は、愚かだ)
死に損ないの喜びが腐臭を放つ。
足下に開いた穴から怨嗟の声がした。
お前は赦されるべきではない。分かっている。救いに値しない。分かっている。分かっている。分かっていた。ずっと!
アルスは後ずさり、シトラスの青白い相貌に向かって、出来うる限りの皮肉な笑みを刻んだ。
「……最初に僕から離れたのは、あんたの方だ」
ゆっくりと歩き出す。
それでもまだ、後を追う視線が首筋に絡んだ。
「アルス。オレは……」
しつこさに胸が焼ける。いや、これは半端に煽られた熱の名残か。どちらでもいい。そこにはどんな意味もない。
「僕は、あんたの忘れたふりに付き合う気なんかない」
立ち止まり、告げる。
消えない事実を。罪を。
「僕が全部傷付けたんだ。あんたの声も未来も、大事な人も」
告げて、今度こそその場を立ち去った。




