第20話
曖昧な目覚めを迎える度、一連の出来事がやはり夢であればいい、と何度も思った。祈っていた、と表現しても大げさではないだろう。
しかし、意識がはっきりするようになって二日。受け入れがたい状況は、受け入れざるを得ない状況になりつつあった。
「…………」
横になるアルスの目の前の椅子には、湯気が立ち上るマグカップで片手の塞がった人間が一人。
色味の濃い金髪に、深い緑地の着流し。そこそこに整った顔はそれなりに若々しいものの、覇気のなさがバランスを取っているおかげで、正しく三十代半ばに見える見目。
顔色は悪いが生気はあるので、恐らく幽霊の類では無し。
『何、どしたの? あ、飲み物要る?』
「…………」
『ああでもココアや紅茶はまだ駄目だよ。あと数日我慢して』
「…………」
『ちなみにこれはオレのコーヒーだけど、頼まれても飲まないでしょ?』
「シトラス」
『ん? 何?』
シトラスは首を傾げつつ、自分で作ったらしいコーヒーに唇を付けている。と、その顔が軽く歪んだ。不味かったのだろう。
相変わらずだと思いかけて、アルスは小さく息を吐いた。呼吸するだけで全身が軋む上、未だ満足に腕一つ上げることすらも出来ないが、この際それらはどうでもいい。
「僕は、あんたと関わり合いになるつもりはない」
宣言に、シトラスは軽く眉を上げた。
『とりあえず、起きれるようになってから考えれば?』
「……うるさい」
抵抗と拒絶を露わに睨んでも、薄く微笑まれるだけだ。腹立たしいことこの上ないが、自分が今ろくに動けない状態なのは事実である。アルスは苦々しい思いで顔を逸らした。
この状況に対してアルスがシトラスから聞いているのは、ここがサラノの町にほど近い山の中であることと、一緒にいた連中は現在それぞれ出かけているがその内戻ってくるだろう、という適当な説明だけだった。邪魔だったから追い出した、ともシトラスは言ったが、それが真実かどうかはかなり疑わしかった。そもそも彼らがアルスの回復を待ち、ここに留まる理由もないのだから。
倒れる前の記憶は、曖昧なものの一応残っている。
その中に浮かぶククの様子を掬う限り、恐らく彼女は思い出したのだろう。自分が何者なのか。どうしてすべてを忘れていたのか。思い出した彼女は、再びここに――僕の前に戻ってくるだろうか。
(分からない)
考えても無駄なことだ。起きているだけで消耗が激しい状態で余計なことに頭を使うのも馬鹿馬鹿しい。
ただ、ククに対する懸念とは別に、一つだけはっきりさせておきたいことがあった。
「……あんたは、どうして僕を助けた」
『どうして、って』
マグカップを持ったままぼんやりしていたシトラスは、軽く瞬いた後、曖昧な笑みを浮かべた。
『お姫さ……いや、魔女だっけ。アレが突然連絡してきたんだよ。んで、とりあえず荷物と一緒に飛ばしてもらったんだけど、いやーやっぱり転移魔法は負荷が』
「そうじゃない」
相手がわざと本質から外れた回答をしていることは分かっていた。
「あんたが、僕を助ける理由は無い」
こちらに向けられたシトラスの顔は青白く、微笑みでは隠しきれない疲れが滲んでいた。
(原因は、僕だ)
右腕に繫がれたチューブ。血液から濾過され、流し込まれる他人の魔力。だが、そこまでしてシトラスに助けられる理由が、アルスにはない。
あってはいけない。
「僕は……あんたのことが嫌いだ。関わりたくない」
そう線を引くように宣言すれば、頷いたシトラスがつと笑う。
『分かってるよ』
返された言葉は肯定でこそあったが、拒絶の容認とは異なっていた。本当のことは知っているから大丈夫。そんな意味合いの微笑。
それは、これまでも幾度となく示されてきた態度だった。
『そろそろ休んでおきな。オレも飯食ってくるよ』
穏やかな調子のままそう言うと、シトラスはおもむろに立ち上がり、部屋を出ていった。
残されたアルスは天井を仰ぐ。
苦くて重いものが胸に広がっていくのを感じたが、それとは別種の感情も小さな声を上げていた。気付くべきではない。そう思えば思うほど、声は次第に強くなる。
病んだ体を幸いと、眠りの中に逃げこむために瞼を閉ざせば、やがて声は掻き消えて――懐かしい光景が広がった。
***
強く、重い風が吹いていた。
灰色に煙った空は低く、今にも剥がれ落ちそうに見えた。
一つの町が壊れていた。
原因は複雑なようで単純だ。町の暗部に根を張ったいくつかの勢力が、長年保たれてきた微妙な均衡を失った結果、自分たちの力を行使して潰し合った。ただそれだけのこと。
争いの炎は瞬く間に舞台ごと役者たちを呑み込んで、一つの町の終焉でもって幕を下ろした。よくある話、とまでは言えなくとも、陳腐で退屈な話だ。
そんな黒煙を上げる町並みの残骸を、アルスは当て所なく歩いていた。
別段、この地に対する思い入れは無かった。
家を自らの手で焼き尽くして以来、アルスはあちこちを彷徨って生きてきた。空腹で倒れていたところを宗教家気取りの男に拾われたのは、一年前。そうやって拾われてきた子供はアルスの他にも大勢いたが、拾った男が遊び飽きれば生きたまま売られるかバラバラにされて売られるかのどちらかで、顔を覚える間もなく消えていくのが常だった。
だから自分もいずれ同じ道を辿ることになるだろうと思っていたのだが、アルスがその結末を迎えるより男の命運が尽きる方が先だった。
商談中に抗争に巻き込まれ負傷して帰ってきた男は、アルスと同じ、拾ってきた子供の一人に刺されて死んだ。
返り血で全身を染めた少女は、アルスに「あなたも逃げた方がいい」と伝えて姿を消した。
目的も意志も持たないアルスは、ただその言葉に従った。
蹂躙され、色を失くした町並みは、それでも何故か穏やかに見えて、あらゆる希望や可能性を失ったその骸をアルスは羨ましいとさえ思った。
方々で生き残った者たちが嘆き、泣き叫んでいるが、そこに加わる理由も無く、瓦礫の山の中を亡者のように歩み続けていると、一つの足音が耳に入った。
大方、この混乱に便乗して金品を物色にやってきた人間だろう。面倒を避けるのであれば姿を隠した方が賢明だったが、そうはしなかった。単純に、ただそれすらも面倒だったからだ。
火事場泥棒でも人攫いでも何でも構わない。拾われればついていくだけだし、殺されるならそれでいい。どうでもいい。
やがて、瓦礫の向こうに人影が現れた。
曇天の下でも輝く金の髪。歩く度に零れる光に縁取られた、穏やかで、少し眠たげな顔。
その持ち主はアルスが拒むことを忘れるほど、あまりにあっさりと距離を詰めてきた。
生き残りか、と小さく呟く。
「生きているなら、帰ろうか」
その台詞がアルスに向かって発せられたものだと気が付いたのは、手を取られ、歩き出した後のことだった。
そうして唐突にアルスの人生に関わってきたシトラスという人間は、この広大な大陸を統治するアストリア王国の、国王直属の部下だった。
五勇と呼ばれるその役職は、王自らが何らかの意思や単なる気まぐれでもって選出した人間に、出自や経歴の一切を無視して授与されるものである。言葉通り最大五名のその面々は、栄誉ある立場であると共に、異端共の集まりだとも評されていた。そんな変わり者の一人によって引き取られたアルスに与えられたのは、それまで縁のなかった、想像もしなかった生活だった。
もっとも、その形はいささか特殊なもので、住居がアストリア城の敷地内にあったり、外出に際して多少の制限はついたりするが、少なくともここでは意識が混濁するまで殴られたり、昼夜問わず犯されたりするということはない。
しかし、食べることや眠ることが当たり前のように許される環境を得てアルスが真っ先に感じたのは、突然茶番に放り込まれたようなかすかな不安と、はっきりとした嫌悪だった。
ここは自分の居場所ではない。居るべきではない。いや、大体こんなでたらめな日々など、どうせ長くは続くものか。いずれ壊れるものならば早くその時がくればいい。そう思っていた。
ある時、共に暮らすシトラスがいつも通り登城したのを見計らい、アルスは初めて一人で城下へ向かった。
外出に目的があったわけではない。ただ、広い屋敷の中に一人でいると、居心地の悪さに落ち着かなかったから。それだけの理由だった。
初めてまともに歩く城下町は騒々しいばかりで特別目を引くものはなかったが、一方、自分の存在があちこちで警戒されているのは実感出来た。
体中に這う呪いのような黒い痣は、今は衣服に隠されているが、たとえ痣が見えなくなったところで自分の見目が町中で目立つことは知っていた。その結果、どんなものを引き寄せるのかも。
疎ましい人目を避けながら歩く内、辿り着いた路地の奥。
はたしてアルスの目の前には、倒れ伏す男たちの姿があった。
経緯は覚えていなかった。相手が先に攻撃してきたのか、自分から敵意を向けたのかさえ分からない。
飛び散った血で汚れた顔を下げると、服の袖が破れて刺青のような黒痣が露わになり、皮膚から浮き上がるように律動しているのが見て取れた。いつものことか、と内心で思う。時折訪れるこの力の発露は、アルス自身に御すことが出来る類のものではなかった。
「ひぃ……!」
動かない仲間に混じり、まだ意識のある者がいた。怯えた顔の男は、怪我でもしているのか座り込んだまま動こうとしない。
悲鳴を上げる男に向かい、アルスの腕が意思を無視して掲げられ、踊る指先が式を紡いだ。
式は鋭利な刃を成形し、建物の外壁に爪痕を刻みながら、獲物を追う大蛇のように低空を滑っていく。
直後、叫び声と共に咲き誇るような血飛沫が上がった。男を切り裂いた刃――暴発したその力は勢いを失うことなく、アルスの元へ戻ってくる。
「アルス……!」
刃が爆ぜて、閃光が広がる。
同時に誰かに腕を引かれた。
「……っ」
凶暴な光が失せた後、立ち上る土煙を受けながら、アルスは振り返った。
そこにあったのは、苦しそうな、それでいて妙に穏やかな表情だった。青ざめた顔で首から激しく血を吹き散らしながら、シトラスは淡く微笑んだ。
「……大丈夫、お前は悪くないよ」
その優しい声を聞いた瞬間、理解した。
(僕は、ここに居たい)
(僕は、この人の傍に居たいんだ)
かくして、アルスの世界は鮮やかな色で動き始めた。




