第19話
昔、ある夫妻に子が生まれた。
誕生したばかりの息子を前に、夫は罵声を、若い妻は悲鳴を上げた。その子が父親にも母親にも似ていない、闇色の瞳と髪を持っていたから――だけではない。それだけならまだしも、取り上げられた赤子の全身に、痣という言葉では追いつかない、不気味な黒い文様が刻み込まれていたからだ。
子は産後に心を病んでしまった母親から隔離され、生家の離れで実業家の父が雇う使用人たちに世話をされて育った。
成長した少年は異様な痣にさえ目を瞑れば人並外れて整った容姿をしていたため、その内、使用人の中には趣味の悪い行動に出る者も現れるようになった。その人数は時の流れと共に増えていき、時折我が子の生死を確認するため離れを訪れる父親もそこでなされていたことには当然気付いていただろうが、彼が皆に、息子に、何かを言うことは無かった。
呪われた子がこの世に生まれ落ちて十年目の朝。錯乱から己を取り戻すことなく屋根から身を投じた女の頭が、夫たる彼の目の前で砕けるまでは。
居室と言うよりは地下牢と呼んだ方が近しいその部屋の床は、乾ききらない汗と排泄物と体液が混ざり合って常にひどい悪臭を放っていた。
掃除係だった男も既にその役目を放棄して久しく、部屋に一人残された少年の手足には誰かが持ち込んだ銀の鎖が絡みつき、ろくに動くことも叶わない状態だった。
誰かが耐えかねて片付けるまで、この環境はしばらく変わらないだろう。そう、少年は虚ろに思考する。
だが、突然階上から激しい足音と罵声が聞こえてきた。
ドアが乱暴に開けられる音がして、声が、足音が近くなり、少年の前に大きな男が立った。読み書きを知らない少年にも、彼が自分の父親であるというくらいの認識は出来ていた。
男は背後に怯える使用人たちを従えながら、少年に向かって絶叫した。
「お前のせいだ! なにもかも!」
拳が降り注ぎ、鎖ごと体を引きずり起こされる。常のように痛みはあまり感じなかったし、首を絞めてくる人間も初めてではなかったので、少年は「またか」と思っただけだった。放っておけば行為は終わる。
けれど。
「お前のせいだ……! すべて、お前のせいだ!」
同じ言葉を繰り返し叫ぶ男の目には、他の男たちが浮かべるような喜悦がなかった。ただの暗い穴が少年を映していた。
やがて自分の首の骨が軋む音で、少年は理解する。
この男は本気で僕を殺そうとしている。
けれど、それならそれで構わなかった。元々この体と命に、価値などない。生かすも殺すも他人の自由だ。
そう本気で思っていたからこそ、少年は次に訪れた景色をすぐに理解することが出来なかった。
「ぐアっあアアッ!」
頭上の絶叫と共に少年の体は解放され、床に投げ出された。咳き込みながら見上げれば、先ほどまで少年の首を締めていた男が巨大な炎に包まれながら凄まじい悲鳴を上げていた。
少年を囲むように低空に拳大ほどの火球がいくつも生まれ、四方へ飛散する。直撃を受けた壁紙が燃え上がり、大きな鍵が付けられた頑丈な扉が嫌な音を立てて吹き飛んだ。
一体、何が起きた?
肉の焼ける匂いが鼻を突く。焦げついた物体に変じた男は、もう悲鳴を上げることもなく、床に崩れた姿勢のまま灰色の煙を上げていた。
頭に鋭い痛みが走って、少年は己の体を見下ろした。
「……?」
肌の上に広がる痣が、熱を持って鳴動している。自分の意思の及ばない体の内側、奥の方で得体の知れない力が蠢いているのを感じた。
少年が湧き上がる衝動のまま手のひらを握り締めると、たったそれだけで手足に固く絡んでいた鎖が砂塵のように崩れて消えた。
これで、動ける。驚きや喜びはなく、ただ与えられた状況だけを呑み込んで少年は部屋を後にした。
燃え盛る炎は離れだけに留まらず、狭い廊下も、そこから繫がる本館も、既に一帯が火の海となっていた。
煙の向こうから沢山の悲鳴が聞こえてくる。あちこちに倒れて動かない人間がいる。だが、少年には何の影響もない。炎も煙も、少年を避けるように流れていく。
廊下の突き当たりでは、少年の背よりずっと大きな鏡が砕けて破片がそこらじゅうに散乱していた。
近付いて見下ろせば、黒い髪と瞳が映る。
顔を上げると、鏡の残骸の中に女性の肖像が映り込んでいた。廊下の一角、少年の背後で今まさに炎に包まれながら、女性は額縁の中で穏やかな微笑みを浮かべている。
見覚えのないはずのその面影に、何故か心が揺さぶられた。
淡い光が揺らめき、消える。
そこにはもう黒い少年はいなかった。肖像と同じ、銀の髪、青い瞳を得た少年は、けれど気付いてしまう。体中に這う黒い痣はそのままだ。何一つ変わることも消えることもなく、この身は醜いままだった。
「……っ」
少年は、手を振りかざす。
炎の爆ぜる轟音が耳を貫き、視界に一面の赤が広がった。
――――。
徐々に焦点を結ぶ視界。体は自分のものでないかのように重く、脈打つ鼓動は鈍い。
目覚めたアルスは、冷え切った石のように働かない頭を傾け、状況の把握に努めた。
薄いカーテン越しに明るい光が差している。裏に川でもあるのか、水音が近かった。しかし町中にしては静かすぎる。
全く見覚えのない部屋は、何故か懐かしい匂いがした。
そっと、目を転じる。
『おかえり』
見知った顔が紡ぐ言葉に声は要らない。唇の動きを見れば、思いは簡単に読めるから。
「あんたが……」
様々な疑問は、感情を伴う前に薄れて消えた。
「……ここに、いるわけがない。悪い夢だ」
「ゆめ、じゃ、ないよ」
掠れた声が告げる。
その必要が無いのにわざわざ空気を震わせて音にしたのは、これが現実だということを証明するためなのだろう。だとしたら、これ以上のものはない。
アルスは穏やかな微笑から顔を背け、瞼を閉ざした。
「…………僕は、あんたに会いたくなかった」
この無意味な現実に、いつまでも目を塞いでいたかった。
***
(残り、一匹)
砂原の中央で、馬ほどの大きさもある大トカゲが砂塵を散らして逃げ惑う。その灰色の背を追って、ククは跳んだ。
「でぇいっ」
手にした剣を投擲すると、トカゲの背中に刃が突き立つ。
のけぞる巨躯に着地して、ククは剣を引き抜いた。
「ごめんね!」
腕を振り、眼下の首に一閃を躍らせる。頭を落とすことは叶わなかったが、それはトカゲの動き――否、生命活動を停止させるには十分な一撃だった。
「と、ととと……」
吹き上がった血で滑りそうになり、慌てて地面に飛び下りる。
ククは手にしていた片手剣を腰に下げ、短剣を取り出した。鞘を払い、目の前の躯に刺し込めば、硬そうに見えたトカゲの体は意外とすんなり刃を飲んだ。
全身ベタベタになりながら目的の心臓を得るため解体を進めていると、同じく血まみれのディオンが革袋を担いで近付いてきた。
「終わったか? ……って、お前は相変わらずおっかねえな」
「? そうかな?」
「やめろ、無邪気に首を傾げるな。余計怖い」
「そうかなあ」
何はともあれ、今日の仕事はこれでおしまいだ。取り出した心臓を加工を施した瓶に入れ、その他の使えそうな部位もまとめて保存袋に詰め込む。最後に全ての荷物を背負うと、かなりの重みが全身にかかった。遮るもののない日差しが首筋を焼いて、大量の汗が噴き出してくる。
「流石に五匹は多かったな」
ディオンが差し出してくれたタオルを礼を言って受け取る。
「だけど、この心臓が何かの薬になるんだっけ? 人の役に立てる仕事っていいよね」
「金さえもらえりゃどうでもいいだろ」
身も蓋もない言葉だが、確かに見返りあっての労働ではある。
これまでククたちの旅にかかる費用のほとんどはアルスが出してくれていた。と言うより、彼が金を出す素振りも見ないまま、いつの間にか支払いが終わっているのが常だった。
それに散々甘えておきながら今更こんなことを言う資格などないのは分かっている。それでも、今のククは極力アルスに頼りたくなかった。彼を頼るのも、頼っていると思われるのも、なるべく避けたかった。
だから、そういう意味でも報酬は必要なものだった。
「終わったんならさっさと帰るぞ」
「そうだね。……帰ろっか」
ディオンと二人、並んで帰路につく。
目の前には、砂塵に霞む町の影が待っていた。
砂漠に囲まれたその町は、廃都リバリティや港町サラノからは移動に日を跨ぐ程度に離れた場所にあった。面積は狭いが、周囲に珍しい生き物が多く生息していることもあって冒険者や研究者の出入りが多く、ギルドで請け負う仕事にも困らない、言ってしまえば部外者が働きやすい町だ。
シトラスの元を去った後、ディオンはククを供に真っ直ぐこの町へやってきた。と言うのも。
「ねえ、ディオ。確かめたいことって何?」
町へ戻り、依頼物である大トカゲの心臓をギルドに引き渡す頃には、辺りは既に暗くなり始めていた。店仕舞いに忙しない通りを横目に、ククはディオンの顔を見上げる。
ディオンがこの地を目的地に選んだのは、彼曰く「ここで確かめたいことがある」かららしいが、その詳細についてはまだ何も聞いていない。訊いたけれど、教えてもらっていないのだ。
しかし、この町に着いて、かれこれ三日だ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないだろうか。
「ああ、それか。お前には関係ないことだ」
素っ気ないディオンにククは首を傾げた。
「詮索しない方がいいってこと?」
「そういうわけじゃない……が」
言葉を切り、ディオンは珍しく困った顔でククを見た。
「……別に、大したことじゃない」
だったら尚更、教えてくれてもいいんじゃないだろうか?
「…………」
「…………」
沈黙の後で、ディオンが小さく息を吐いた。
「……気になるんなら付き合え。だけど文句は言うなよ」
宿は町の東側に確保していたが、ディオンが足を向けたのはそちらとは反対方向だった。
先導する背中についていくと、町の中央部からは少し外れたところにある一軒の小さな店に辿り着いた。無骨な木の看板には、ダイナミックな文字で「色々」と一言だけ書いてある。
迷わず中に入っていくディオンにククも続いた。
「らっしゃーい」
薄暗い店内では、どことなく熊に似た男性が細々した道具に囲まれながら店番をしていた。
「って、なんだディオンか」
顔を上げた男は鼻にしわを寄せた。
「こりゃまたすげー汚ねえな。うちは風呂屋じゃねえぞ」
「うるせえな。トカゲ退治の後なんだよ」
「だったら余計綺麗にしてから来いよ。売りもん汚したら承知しねえぞ」
二人は気安く言葉を交わしている。
ディオンがククを振り向いて、男に向かって顎をしゃくった。
「道具屋だ。ただの変わり者だから気にしなくていいぞ」
「おい、どんな紹介の仕方だよ! 俺はレクだ。うちの親父が昔こいつと色々あってな。ま、適当な付き合いだ。よろしくな、嬢ちゃん」
明るい笑みを浮かべるレクに、ククも自己紹介した。
その間もディオンは妙に落ち着きがなかったが、ククの話が終わるとすぐに口を開いた。
「で、あれの正体は分かったか?」
「そう急くなよ。これだろ?」
レクがカウンターの上に取り出したのは、両手に乗るくらいの大きさの、黒い何かの破片だった。
ククは胸が騒ぐのを感じた。
「詳しく調べたわけじゃねえから断言は出来ん。出来んが……多分リバリティの遺物だろうな」
レクは指先で破片に触れ、憂鬱そうな顔をした。
「術式の痕跡はあるが、めちゃくちゃ複雑なのが分かるだけでこれっぽちも読めねえ。見た目はあまり劣化してないが、最近作られたものでもなさそうだ。お前が言ってた中身と合わせて考えると、リバリティの研究所で作られたものとしか思えん」
「研究所……」
低く呟いたディオンに、レクもまた声を潜めた。
「お前も噂くらいは知ってるだろ? リバリティの城下には、昔、地下にでかい研究施設があったんだよ。随分ろくでもねえもんがろくでもねえやり方で作られてたって話だが……」
「ああ、知ってる。っつーか、この間……」
「ねえ、ディオ。これ何?」
ククはとうとうディオンに尋ねた。ディオンはククに横顔を向けたまま、目の前のレクでもなく、更にその後ろの壁を睨むような顔つきでただ一言、
「あの島で拾った」
それだけでククも理解した。
孤島の洞窟の中で見つけた力の核。人間の脳が収められた、あの道具。これは、その一部だと。
「あー、嬢ちゃんも知ってんのか? これが何だったか」
「知ってるも何も、見つけた時に一緒だったんだよ」
「そうなのか……。いや、だからって、こんなもん調べるのに付き合わせてやるなよ。嬢ちゃん、こいつアホでごめんなぁ」
レクがククに向かって、とりなすように声を掛けた。
「ちょっと気になることがあると放っておけないタイプっつーか、こんな性格悪そうなツラのくせに意外とお人好しなんだよ。んで、たまにこういうよく分からんもんを拾ってくる。犬猫拾うガキと一緒だ」
「んなことねえだろ。少し気になっただけだ。っていうか、何だ性格の悪そうなツラって」
「その通りだろ。まあ、とにかくこれにはもう価値も使い道もねえだろうし、こっちで処分していいよな?」
「……分かった。後は勝手にしろ」
レクの手によってカウンター裏に片付けられる黒い破片から、ククは最後まで目を離せなかった。視界から消えても、頭から離れなかった。
リバリティの研究所、とレクは言っただろうか。ククは同行しなかったが、リバリティの城下町地下に元研究所の廃墟があったという話は杏里たちの口から聞いていた。孤島で見つけたあのおぞましい装置は、そこで作られたものだということなんだろうか。
どんな目的で? どうやって?
「……っ」
刺すような頭痛がして、ククは顔をしかめた。その顔を見て、レクが同意するように頷く。
「ああ、嬢ちゃんももう忘れた方がいい。リバリティも研究所も、もうこの世にゃ無いんだ。つついても嫌な虫が出るだけだよ。ディオン、お前もあんまヤバそうなもんに深入りすんな」
「うるせえな、だから違うって言ってるだろうが。もういい、行くぞ」
不機嫌に呻いたディオンが、大股で道具屋を出て行く。
「短気なのは変わらずだな」
レクが肩を竦めて苦笑した。
「嬢ちゃん、あいつのことよろしくな。あんたがどこまで知ってるかは知らねえけど……悪いやつじゃないんだよ」
ククは、はい、と短く頷いた。
レクに礼を言って店の外に出たものの、それが限界だった。
「う……」
目の前がチカチカして気持ち悪い。しゃがみこみ、吐くのは何とか堪えたが、全身から冷たい汗が出て止まらなかった。
「おい、大丈夫か」
大きな影がククを覆う。傍らにしゃがみこんだディオンの手のひらが、ククの肩にぎこちなく触れた。
「……具合が悪いのか?」
「へいき。ちょっと、目眩がするだけ」
頭の中が回らないよう、肩に触れる温かい感覚だけに集中し、目を閉じる。深呼吸すると、少しずつ波が引くように悪寒が薄らいでいくのを感じた。
「…………うん」
ククは慎重に立ち上がり、隣で同じく腰を上げたディオンを仰いだ。
「いきなりごめんね。暑かったからかなあ」
「もう大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
ディオンは黙ったままククを見ていたが、不意に背中の剣を外して、再びその場にしゃがみ込んだ。
まさかディオンも具合が悪くなったんだろうか。
焦るククに、冷静な顔が肩越しに振り返る。
「顔がまだ白い。宿まで乗れ。いや、病院か?」
「え? でも」
「いいから。っつーか暑いんだよここ。さっさと行くぞ」
ディオンの声は頑なで、これ以上何かを言ったら怒らせそうだ。それでも少し逡巡してから、ククはおずおずと目の前の背に乗った。
「……血と、砂の匂いがする」
「うるせえ、お前も似たようなもんだろ。で、病院行くか?」
「え、ううん! 平気だよ」
「じゃ、宿だな」
巨大な剣を小脇に軽々抱えて、ディオンが歩き出す。
硬くて温かい背の上は、不安定な揺動に反して不思議な安心感があった。
(……なんだか、懐かしい、みたいな……へんな気持ち)
ざらつく頭にそんな思いが過ぎって、消えた。
道行く人に何事かと振り向かれつつ、結局最後まで背負われたまま宿に着いてしまった。
ディオンはククを部屋に降ろすと、汗だくの顔を振り向けた。
「……おう、とりあえずは生きてるな」
勿論だ。ククは慌てて頷いた。
「もう全然大丈夫だよ。それより……ごめんね」
「別にいい。今日はさっさと休んどけ。ああ、あと」
ディオンが不機嫌そうに眉を寄せた顔で言った。
「夕飯は食えるか?」
「あ、うん、それは多分大丈夫。後で食べに行こうかな」
そうかと頷くと、ディオンは部屋を出ていってしまった。
(怒らせちゃったかな……)
勝手についてきて、勝手に具合を悪くして。これで怒るなと言う方が無理かもしれない。反省しながらも、いつまでも血まみれでいるわけにもいかず、ククは階下にある共有のシャワールームへ向かった。
軽く体を流した後、部屋に戻って剣の手入れをしていると、ノックの音がした。
「はーい。あれ、ディオ」
扉を開くと、ククと同じく水を浴びてきたのだろう、さっぱりした顔のディオンが何かを持って立っていた。これは――。
「ご飯?」
「ほら」
木のトレイを押しつけられて、ククは少しよろめいた。慌てて両手で受け取り、その上に乗ったものを確かめる。
柔らかそうな鶏肉ととりどりの野菜が入った湯気の立つスープが、大きめの皿にたっぷりと注がれていた。横に添えられた二つのパンの片方には金色の蜂蜜がたっぷりと掛かっていて、見ているだけで気持ちがふわりと膨らんだ。
「美味しそう。これ、もしかして」
「残飯だ。自分の飯ついでに拾ってきた」
はたき落とすに言った後、ディオンは足元に視線を落とした。
「悪かったな」
「え? 何が?」
「……気分のいいもんじゃねえのは分かってた。一緒に見つけた以上、お前にも知る権利はあると思ったんだが……やっぱ、付き合わせるべきじゃなかったな」
レクの店でのことを言っているのだと、すぐに分かった。
ククは首を振った。何度も、強く。
「違うよ、そうじゃない」
あの装置には抵抗があったし、レクの話に恐ろしさを感じたのも確かだ。でも、それらが気分が悪くなった直接の原因だとは思えなかった。もっと別のこと――記憶を取り戻してから絶えず襲ってくる不安感。最近ずっと落ち着かない気持ち。そちらの方が元凶だろう。
「あのね、ディオのせいじゃないから。お店でのことは、全然気にしてないよ。本当に」
言い募ると、ディオンが微妙な顔になった。
「いや、ちょっとは気にしておけよ」
「へ? あ……そうだよね」
「嘘だ。気にしてねえんなら、別にいい」
ククが持ったままのトレイから蜜の掛かっていない方のパンを取って、ディオンが部屋に入ってきた。ベッドに乱暴に腰掛けて、こちらを仰ぐ。
「邪魔するぞ。あと腹減ったから勝手に食うぞ」
「いいけど……ご飯、食べたんじゃなかったの?」
「…………育ち盛りだから腹が減るんだよ」
なるほど。
サイドテーブルにトレイを置いて、ククもベッドに腰掛けた。行儀が悪いが誰にも怒られないのをいいことにスープ皿を膝に乗せ、匙でひとすくい、口に含む。
「わあ、おいしい」
「そら何より」
返事はそっけなかったが、怒っているわけではなさそうだ。
ディオンと並んで食事をしていると、今度こそ体と心が本来の形を取り戻していく気がした。手足も、ぽかぽかと温かい。
ククはディオンに尋ねた。
「ディオは、どうしてあれを拾おうと思ったの?」
「だから言ったろ。別に理由はないって」
ディオンは残ったパンを口に放り、ククの方を見ずに答えた。
「何となく気になっただけだ」
違う、とククは思った。
きっと、ディオンはあれを可哀想だと思ったのだろう。だから、こんな顔をするのだ。
お人好しだとレクは言ったが、ククの感想は少し違った。
多分、この人は優しいんだ。
そして、気になることはもう一つあった。
「ディオは何も聞かないんだね。わたしの記憶のこととかも」
「それは当たり前だろ」
ディオンは欠伸をしつつ、今度はククの方を見た。
「話したいって言われても断るぞ。興味がねえからな。これ以上面倒に巻き込まれるのはごめんだ」
「そっか」
「……ただ、一つ気になることはあるが」
なあに、と問うと、ディオンは軽く顔をしかめた。
「お前がアルスの妹、ってのは本当なんだよな?」
「うん」
「いくつ違いだ? どう見ても同い歳くらいだろ」
そんなことか。ククは思わず笑ってしまったが、その裏にあまり笑えない事情があることを思い出して姿勢を正した。
「私は十六。アッ君は……確か今年で二十歳だったかな」
「嘘だろ」
「わたしもよく知らないけど、アッ君、体に痣があって……。それが原因みたい」
それ以上のことは分からない。アルスも話したがらないから。「納得した?」とディオンを見ると、まあな、と短く返された。
ククは、思いついて補足した。
「ちなみに、あのシトラスさんのことも本当にほとんど知らないんだよね。わたしがアッ君と暮らし始める前に、お城を出て行っちゃった人だから。何だか色々あったみたいだけど」
「ふーん」
ディオンは関心薄く応じて、立ち上がった。
「何だっていい。お前やあいつらが何者だろうが、俺の敵でないならそれで構わん。それ以上の興味はない」
「敵だったら、どうするの?」
「一度本気で戦ってみるか? 身をもって分かるぞ」
意地悪く笑ったディオンは、すぐに「冗談だ」と付け足した。
「じゃあな、俺は寝る」
「うん、おやすみ」
ディオンの寝室は隣の部屋だ。廊下に向かう背中をそのまま見送りかけて、しかしククは気が付いた。
慌ててベッドから立ち上がり、閉まりかけた扉を掴む。
「ディオ!」
「うおっ! 何でお前はいつもそんな珍獣的な動きなんだよ。野に帰すぞ!」
「ご飯、作ってくれてありがとう。すごく美味しかったよ」
「…………残飯だって言っただろ」
ディオンは何故か今日一番苦々しい顔になって、伸ばした腕でククを室内に押し戻した。
今度こそ閉まっていくドアの隙間から声がする。
「片付けは自分でしろよ」
それが照れ隠しらしいと理解したのは、少し時間が経った後だった。




