第18話
人の気配を察したクレストは、読んでいた魔導書から目を上げ、戸口に立つ女を確かめた。
何の用だ。そう問うと女はゆるゆると首を振った。
「邪魔をしてごめんなさい。何でもないの」
勝手に人の部屋に入ってきておいて、何でもないということはないだろう。クレストは苛立ちながら体を起こす。
廊下の明かりを背負って、女の表情は分からなかった。
「役目があるなら、言え」
女――ユイージナから与えられる命令に従うために、クレストはここにいる。……だというのに、最近失敗が続いていることはクレスト自身が一番よく分かっているが、命を下す立場のこの女はそれについて全く言及しようとしなかった。
己の不始末についてただの一言も責められないことはかえって居心地悪く、クレストの胸中を不穏にざわつかせていた。
「いいえ、あなたに今頼むことはないわ」
女はまたしても首を振る。
あなたに、という言い方が少し引っかかった。
「……ヴィヴィリアはどこだ?」
思えば、ここしばらく彼女の姿を見ていない。いつもなら鬱陶しいくらい頻繁に顔を見せてくるのに、声を聞かなくなってどれくらい経つ? 二日か三日、いや、もっとだろうか。
「ヴィヴィなら心配ないわ。少しお使いに出てもらってるの」
それより、と続けた女の声は固かった。
「あなたには自分のことをもっと気にしてもらいたいわ」
「どういう意味だ?」
「……やはり、まだその時ではないみたいね」
意味が分からない。クレストが答えを求めて踏み出せば、対する女は体を引いた。影が動いて、ユイージナの顔に浮かべられた悲哀があらわになる。哀れむような眼差しに撫でられて、馴染みのある感覚がクレストの足を掴んだ。深い穴の縁に立たされているような、不安感。
今日もまた自問が宿る。
「俺は……何なのだ……」
「その疑問に答えが出る日を、私も待ってる」
微笑んだ女は静かに背を向け去っていく。
後を追い、問いを重ねることも可能だったが、そうしたところで無駄だとも分かっていた。どんなに問うたところで女は何も語らない。ただ憂いながら、何かを待ち続けるだけだ。
その何か、の正体すら分からないクレストは、暗い部屋で立ち尽くすより他にない。
太陽が早く帰ってくればいい。痛む頭の片隅で、そんなことを考えながら。
***
強烈な日差しに煽られて、虫たちの鳴き声が頭上から絶えず降り注ぐ。全身全霊でぶつかってくる暑さはいっそ清々しく、命豊かな森の中には色濃い夏が鮮やかに撒き散らされていた。
鏡のような水面を蹴って、杏里は川から立ち上がった。岸辺に戻り、広げておいた麻布で体を拭ってからシトラスに借りた無地の浴衣に袖を通す。少しサイズが大きいが、何とか着れないことはなかった。細帯を結び、早くも乾き始めている髪を無造作にまとめた後、自分の着物を抱えて来た道を戻る。
雑草の生い茂る裏口から家に入ると、すぐ脇の台所でライックが料理をしている最中だった。
「ああ、杏里ちゃん。おかえり」
「……ただいま」
と言うのも、妙に変な感じだ。杏里は違和感から目を逸らし、ライックの手元に視線を向けた。鍋の中で野菜や香草が煮えている。いい匂いだった。
「そろそろ出来そうだから、あの人を呼んできてくれる?」
杏里が答えるより早く、廊下の扉が開いて本人が顔を出した。
やってくる薬師を振り返って、ライックが問う。
「あ、コーヒーでいいですよね?」
頷く薬師の喉元には大きな傷跡があった。色こそ目立たないため出会ってすぐは分からなかったが、どうやらそれが筆談の原因らしい。
食事の用意が整ったテーブルを囲み、ライックが慣れた手つきでポットから飲み物を注ぐ。三人で食事を始めるとすぐ、緑の頭と黒耳がそわそわと落ち着きなく揺れ出した。
「……何よ?」
「えーと、その、おいしい? シトラスさんも」
食器の狭間に置かれた紙片に、シトラスが鉛筆を滑らせる。
『さあ』
「さあ、って」
『味はよく分からない。栄養はあると思う。感謝』
並べられた料理を淡々と口に運ぶシトラスは、三日前、初めて会った時よりも随分顔色が悪かった。眠そうな表情は変わらずだが、目の下の浅黒い隈が顔を合わせる度に濃くなっている。
「あんた、大丈夫? 寝てないんじゃないの?」
『寝てるよ。ただ、回復が追いついていないだけで。歳だね』
そうは言うが、原因は年齢だけではないだろう。この顔色に対して思い当たる点は睡眠不足の他にもあった。採血だ。
未だ目を覚まさないアルスに魔力を与えるため、シトラスは日に何度も自身から血液を抜いているようだ。一度代わろうかと申し出たのだが、色々検査するのが面倒と一蹴されただけで、杏里たちは手出しさせてもらえない状況だ。
どうしてシトラスがアルスのため、そこまで自分の身を削っているのかは不明だったが、ともあれ今はこの薬師に頼る他なかった。
食事を進める杏里は、縋るような視線に気が付いた。
「それで、その……杏里ちゃんはどう? おいしいと思う?」
若干どころか、かなり鬱陶しかったが、焼きたてのパンにも熱いスープにも罪はない。と言うか、美味しい。
「まあ、悪くないわよ」
「ああ、良かった! 杏里ちゃんだけでもそう言ってくれると救われるよ」
無防備にニコニコされると落ち着かない気持ちになる。間を持たせたくて隣を見ても、そこには無関心なシトラスの顔があるだけで、ククもディオンもここにはいないのだった。
ふとこの家を去る間際のククの顔を思い出して、杏里は唇を噛んだ。
(……あたし、自分勝手だったな)
ククがディオンについていくと宣言した時。いや、それだけじゃない。記憶を取り戻したという彼女が自分の話をするのを躊躇った時、気持ちを抑えられなくて責めるような言葉を投げてしまった。あの時の彼女の、怯えたような瞳が離れない。
(あたしは、不安だったんだ)
冷静になった今ならそれが分かる。記憶を取り戻したククが急に遠くに行ってしまった気がして、不安だった。その不安を自分で消化しないまま、彼女にぶつけてしまったと。ただの身勝手だ。
「ねえ、杏里ちゃん」
呼びかける声に、杏里は顔を上げてライックを見た。
「おれ、一旦サラノへ戻ろうと思うんだ。借りてた船を置いてきちゃったことも、まだ報告してないし……」
先ほどから落ち着きがなかったのは、これを言おうとしていたというのもあるのだろう。
「そう。っていうかあんた、そもそもあたしたちと一緒にいて大丈夫なの?」
「え! め、迷惑だったかな?」
「そういう意味じゃないわよ。でも……」
元々ライックはサラノで船を用意したついでに島まで同行してくれただけで、クレストたちとの関わりはない。自分の意思でククと一緒にいる杏里とも違って、これ以上巻き込まれる義理はないはずだ。
「ええっと」
杏里の心中が伝わったのか、ライックはへろりと笑って頭を掻いた。
「もし迷惑じゃないなら、おれはもう少しみんなと一緒にいたいな。あ、今はバラバラだけど」
「物好きねぇ……」
お人好し、と呼ぶべきか。
呆れていると横からメモが割り込んできた。
『一緒に行ってきたら?』
杏里はシトラスを見たものの、ぼんやりした顔から相手の意図や感情を読み取ることは難しかった。仕方なく、提案された内容について考える。
答えはすぐに出た。
「分かった。あたしもあんたと一緒に行くわ」
「え、いいの?」
「ま、暇だしね。ここにいても役立たずみたいだし」
言った後で皮肉っぽかったかなと焦ったが、シトラスが気にした様子もないのでほっとした。
シトラスという人間について、初めて会った時は胡散臭い人間だと思ったが、その印象もここ数日で多少は変わっていた。薬師は多くを語ることはないが、少なくとも自分の健康を害してまでアルスを回復させようとしているのは確かだ。完全な味方とまでは思えないものの、わざわざ気分を害する理由もなかった。
食事が終わると、杏里はシトラスに呼ばれて部屋へ向かった。
窓辺のベッドには未だ意識の戻らないアルスが眠っている。そこから少し距離を取り、散らかった物を押しのけるようにして二脚の椅子が並べられていた。
シトラスがその片方に腰掛ける。
「何、話って」
『腹と背中と足、怪我してるでしょ。診るよ』
「大した怪我じゃないわ。もう治ってる」
確かに先日孤島でクレストに襲われた際、吹き飛ばされて怪我をしたが、他の皆と比べたら大した負傷ではなかった。サラノへの転移直後にライックが応急処置をしてくれたこともあって、今も多少痛みは残るが我慢出来ないほどではない。
だが、シトラスは首を振った。
『いいから座って』
「嫌よ」
『無意識だろうけど、庇って歩くの、その内変な癖になるよ』
「だから、いいってば」
椅子に座らずシトラスを睨むと、小さく首を傾げられた。
『あんたがオレを信用しきれないのは、オレを桜花の人間だと思っているから?』
「どうして、そう思うの」
『あんたがしてる、その眼帯。目の色が原因かなと。鬼の目の子、だっけ?』
「直球ね」
眠そうな顔のくせに、鋭くて嫌になる。
『オレは桜花の人間じゃないよ』
音のない言葉は淡々と続けられていく。
『オレの師匠がそこの生まれだったから、影響されて真似してるってだけ。桜花の文化は好きだけど、慣習や信仰を全面的に支持しているわけじゃない。だから、あんたの目がどうであれどうとも思わないし、逆にあんたに憎まれる筋合いも全く無い。と言うと、あんたへの耳触りは悪いかもしれないけれど』
「……違うわ」
杏里は俯いた。
「別にあんたに限らず、他人が苦手なだけよ。桜花の人間であれば尚更だけど、そうでなくても他人は嫌い。狭い世界に閉じこもってたから、どう接したらいいか分からないの」
何を正直に言っているのだと冷静な自分が呆れている。でも、何故だろう。声と文字を介しての会話はいつもより気楽だった。
『じゃあ、この子も他人? それとも友人?』
差し出された文字に杏里は面食らった。シトラスを見れば、窓辺を指さしている。
ああ、と理解した。
あたしがククに抱く気持ちと同じくらい……いや、もしかしたらそれよりも強く、この人はこの子を大事に思っているんだろう。だから必死で助けようとしている。心配している。
それなら、この人間は信じてみてもいいかもしれない。
杏里は再び正直な思いを口にした。
「分からないわ。他人じゃないとは思うけど、お友達って感じでもないし。……だけど、アルスはあたしたちを助けたから、こうなった。そのことにお礼も文句も言えないのは嫌よ。この子が起きたら色々言ってやりたいのは、あたしも同じなの」
メモは返ってこなかったが、唇が動いた。そっか、と。疲れた目元に微笑が宿り、意外と綺麗な顔なのね、と杏里は思った。
「っていうか、この子の口から無理やり友達って呼ばせてみたいわね。嫌がる顔が浮かぶけど」
シトラスが今度ははっきり笑み、再びメモを差し出した。
『じゃあ、傷を見せて』
意外としつこいわね、と杏里は呻いた。
外に出ると、気温は相変わらず高いが吹き抜ける乾いた風が心地良かった。大きく息を吸い込むと、腹に貼られた薬草湿布の臭いが混じるのがやや気になるが……それは無視。
数日間世話になった家の前で、杏里たちは薬師と向き合った。
「色々お世話になりました、って、また戻ってくるんですけど。とりあえず、アルス君のこと、よろしくお願いします」
ライックの言葉にシトラスは頷いただけだった。まるきりの無表情というわけでもないが、どこかぼんやりした顔は感傷などとは縁遠く、そうなるともう他に交わすやりとりなどいくらもなかった。
「じゃあ……」
行ってくるわ、と告げようとした杏里の鼻先に、シトラスがいきなり左手を突きつけた。
「何?」
反射的に受け取って確かめれば、細長い紙だ。紙片には、杏里には読解できない古い文字と奇怪な文様が描かれている。裏返して、戻して、日に透かして、結論が出た。
「……魔符」
とは、魔法の術式が込められた特別な札だ。魔法の心得のない人間にも使用できる便利な道具だが、相応の設備と技術を費やして初めて完成されるものであり、その汎用性の高さとは裏腹に世にはほとんど出ないものだと言われている。実際、杏里の知識も本で得たものに過ぎなかった。
そんな希少な代物を数枚、握らされていた。
「これ……」
疑問の取捨選択に迷っていると、薬師が再び紙を突きつけた。
今度のそれは普通のメモだ。
『昔師匠に貰ったやつ。オレが持ってても無駄になるからあげる。うっかり破ったりしたら爆発するから気をつけて』
「う、うそっ」
『ウソだよ』
あっさりした返事が返ってきた。
『よし、爆発させるぞ! と思って破らないと爆発しないから心配無用』
それでも十分物騒な気はするが。その危険性はともかくとして、興味がないかと問われれば、そんなこともなく。
「……でも、本当に貰っていいの? 大事なものなんじゃないの? 悪いわよ」
『どうぞどうぞ。でも気が引けるって言うんなら、一枚くらい取っておこうかな』
そう言って杏里の手の中から適当に一枚抜き取ると、もう伝えることはないと言わんばかりに、薬師はメモ帳と魔符を一緒くたに袖口に投げ込んでしまった。その表情は相変わらず凪いでいて、そこから感情や言葉を見つけ出すのは難しい。
杏里は残りの札を両手で包んだ。
「悪いわね。……感謝するわ」
ひらひらと掌を振られる。「分かった分かった」だろうか。それとも「早く行きなよ」だろうか。適当な見送りに苦笑して、杏里は後ろで待つライックと一緒に歩き出した。
二人の目的地は、先日まで滞在していた港町サラノだった。
シトラスのくれた地図を頼りにしばらく山中を進んでいくと、不意に先を歩いていたライックが振り返った。
「ちょっとこの辺で待ってて。すぐに戻ってくるから!」
そんなことを言って元来た道を駆け戻っていく。
仕方なく待っていると、程なくして背後の茂みが音を立てた。
「お待たせ~」
「なんなのよ、も……」
振り返った先には、黒い毛並みの大きな獣が座っていた。
「い、犬! 野犬……!?」
「違う違う」
腰を抜かしそうになる杏里に、獣がふるふると頭を振って、くぐもった声を出した。
「杏里ちゃん、おれ。おれだよ」
「……ら、ライック、なの……?」
「そう」
そう、と言われましても。
杏里は、目の前の自称ライックをしげしげと眺めた。
完全に犬だ。裸の、黒い、わりとシンプルな、犬だ。
「ほら、おれ、獣人だから」
そういえばそうだったが、人型のライックに生えていたのは猫のような形の耳と尻尾だったではないか。
「まさかあんたが犬だったなんて……」
「いや、犬じゃなくて狼って言ってもらいたいんだけど……。この辺は道も荒いし、こっちの姿の方が都合いいかなと思って。……あ、怖いかな?」
「ち、違うわよ!」
否定する声は裏返ったが、けして強がったわけではない。驚きこそあるものの、目の前の獣に対して不思議と恐怖は感じなかった。
「そっか。じゃあ良かったら、背中にどうぞ」
その声も普段よりはいくらか聞き取りづらいが、口調は穏やかなライックのままだった。
「そ、それじゃあ……お邪魔するわよ」
杏里は恐る恐るライックの背に乗った。
見た目よりずっと背中が広い。治りかけの傷が痛むかもと少し心配したが、シトラスの薬の効果かこの背の安定感のおかげか、とりあえず問題は無さそうだ。
肌に触れる体温に若干どぎまぎしながらも、杏里は思いついたことを口にした。
「あんた、荷物はどうしたのよ」
ああ、とライックが呑気な声を出す。
「この首のところに。あ、ここ掴んでもらうと安全かも」
確かに、首元の豊かな毛並みに覆われて布紐で荷物が括られている。杏里が掴んでも苦しくないのか、ライックはびくともしなかった。
「あ、あたしの荷物は持ったままで大丈夫? 重くない?」
「それは全然大丈夫だけど……杏里ちゃん、やっぱり何か緊張してない? 大丈夫?」
「してないわよ! ほら、準備出来たらさっさと行くわよ!」
「うん、じゃあしっかり掴まっててね」
ふわり、と陽だまりの匂いが立ち上る。次の瞬間にはもう、獣の足が地面を蹴り上げ、駆け出していた。
艶めく木々があっという間に流れ去る。
傾斜の激しい獣道でも、疾駆するライックは息切れ一つしなかった。
(何だか、信じられない)
驚きはあったが、しがみつく背が心地よく温かいせいだろう。少しずつ眠気が襲ってきた。しかし、本当に寝てしまったら振り落とされかねないので、杏里は欠伸を噛み殺す。
鳥たちの影が散らばる森にも、今のところ不穏な気配は見当たらなかった。




