第17話
今度は夢も見なかった。
けれど、その代わりに目覚めの状況はもっと悪かった。
「いっ……たぁ……」
目を開いたククがまず認識したのは、全身の軋むような痛みだった。次いで身じろぎしてみても、湿った体は全く動かない。何やら後ろ手に縛られているようだ。
「どうして……?」
頭を動かして確かめれば、太い柱に背中がぴったりくっつくよう、体が括りつけられている。
完璧な捕縛である。
(ここは、どこ?)
薄暗い室内だ。窓は無いが壁が大きくひび割れていて、そこから外の光が差し込んでいる。調度らしい調度もなく、部屋と言うよりは廃墟という呼び方の方が相応しいかもしれない。一方の壁には重そうな金属の扉があるが、施錠されているかどうかまでは分からなかった。
視線を移していくと、厚く埃の積もった床の上、ククから離れたところに桃色と緑色の髪が見えた。二人はククと異なり柱に括られているわけではなかったが、それぞれ手足を縄で縛られ、自由を奪われているのは同じだった。
「杏里ちゃん! ライ君!」
澱んだ空気に咳き込みながら呼びかける。返事は無い。不安に駆られつつ更に見回す。と、今更ながら背中越しに人の存在を感じた。柱に誰かもう一人拘束されている。
この気配は、きっと。
「ディオ! ディオだよね!」
ばたばたと足を鳴らして呼び掛ければ、
「う……っせえな……」
不機嫌に唸る声が返ってきた。やっぱりディオンだ。
「どこだ、ここ?」
どうやらディオンの意識も戻ったらしい。顔は見えないが、辺りを窺っているようだ。
「分からないけど、気が付いたらここにいて……。杏里ちゃんとライ君もわたしの前にいるんだけど、呼んでも起きないの」
「あのクソガキはどうした。俺の見える範囲にはいないぞ」
アルスの姿はない。どこか別の場所にいるのだろうか。
何が起きているのかさっぱり分からないが、まずはここから出なければ。
ククが縛めを引き千切るべく腕に力を込めていると、金属が擦れる耳障りな音がして、唯一の扉が開かれた。
「あなたは……」
入ってきたのは独特な雰囲気の人物だった。年頃はここにいる誰よりも上、大体三十代半ばくらいだろうか。濃緑の服は、桜花の里で見た「着物」のようだ。腰には帯を締めている。
金髪を緩く結んだその人物は、冷静そうとも眠たそうとも見える表情でのんびり室内を見回した後、手に持った紙束に鉛筆を走らせて、これまたのんびりとククに向かって掲げてみせた。
そこには、綺麗に整った手書きの文字が並んでいた。
(えっと、君らは……)
「おい、どうなってるんだ!」
そういえば、ディオンは背中を向けているから状況が分からないのだった。ククは、紙片に書かれた文章を読み上げた。
「『君らはあの魔法使いの敵? 味方?』」
「は? 何言ってんだ?」
「って、書いてあるの。この人のメモに」
「この人って誰だよ! 状況を正しく説明しろ!」
そうこう言っている内に、相手がまた何か書いて、こちらに見せてきた。
「えーと、『ちなみに敵だと答えた場合は、即時夜空のお星様になってもらうのでご了承ください』、えっ、やだなあ」
「はあ?」
ディオンのことはさておきメモの内容を考えると、あの魔法使い、とはきっとアルスのことだろう。だとすれば敵か味方かなんて、問われるまでもない。
「アッ君は……」
「っつーか、あのクソガキについて訊いてるんなら、味方だと思ったことは一度もねえよ」
「ディーオー!」
「うるせえな」
ディオンが唸る。
「あの協調性の無さ、あの横柄な態度。味方感皆無だろうが」
「……じゃあ、ディオはアッ君を敵だって思ってるの?」
問うと、しばらく間があった。
「……別にんなこと言ってねえだろ。味方じゃないってだけの話だ。……まあ、そりゃ敵対した覚えもないがな」
黙ったままディオンの言葉を聞いていた相手が、またまた新たなメッセージを出してくる。
「『それが君たちの総意?』、だって」
「知らん。俺の意見だ」
ディオンのにべもない返事に、金髪の人物は少し悩むような表情を見せた後、おもむろに扉の方へ戻ろうとした。
「待って、アッ君は? あと、あなたは……」
心当たりがないわけでもなかったが、確信が欲しかった。
肉付きの薄い背中が戸口で立ち止まる。
答えが返ってくるまで、今度は少し時間がかかった。曰く。
『オレの名前はシトラス。職業は薬師。君たちの起床は予想より早かったけど、あと二時間もすれば残りのお仲間も目を覚ますと思うよ。じゃ、お大事に』
ひらり、と手が振られる。大事なことを教えてもらっていないとククが気付く前に、扉はあっさり閉ざされた。
***
結論。とりあえず、彼らは生かしておいても問題なさそうだ。まあ、薄々そんな気はしてたけど。
外の空気を一身に浴びて、シトラスは軽く体を伸ばした。
しかし、それで全身にのしかかる疲労感が和らぐこともない。この先しばらく続くであろう不眠不休の日々と、それに立ち向かう自分の年齢および体力について考えると軽く目眩がしてくるが、今更それを言ってもどうしようもないだろう。
一旦拠点に戻ろうかとも思ったが、どうせ彼らが全員目覚める頃にまた一仕事しなければならない。それならこの場で時間を潰そうと決めて、シトラスは廃墟の前に置いた木箱に腰を下ろした。
箱の中に制御魔法と一緒に詰め込んでおいた薬剤は完全に使い切ってしまったが、横にはもう一つ未開封の同じ木箱がある。中身は先に開けた箱よりも数百倍強力な薬剤――まあ、つまりは死に至る毒薬が入っているが、どうやら無用の長物だったらしい。積極的に殺人者になりたいわけではないので、使用の機会が失われたことは何よりだった。
(……あの子の味方、か)
空を仰げば、雲がゆっくりと流れている。
元いた場所でも、暇だからと空ばかり眺めて暮らしていた。景色は多少違っても空はどこでも似たようなものだな、と働かない頭でぼんやり思う。
淡々と眠り続けるような日々がこれからどう変わるかは分からなかったが、今はひととき、シトラスは穏やかな日差しの下で曖昧な休息を甘受していた。
***
シトラスと名乗った人物が再び室内に現れたのは、ククの目覚めからおよそ三時間後のことだった。
去り際の言葉通り、一時間ほど前には杏里とライックも目を覚ましたのだが、やはり二人とも身動きが取れない状態だった。
だから当然と言うべきか、その犯人と思しきシトラスの再登場と共に、室内では猛烈な抗議が始まった。
「あんた何なの!? さっさとこれを解きなさいよ!」
「あ、杏里ちゃん、足がおれの顔に当たって……ッ! あ、あのー、とりあえず解放してもらえると有り難いんですが……」
「ちょっとあんたは何で下手に出てるのよ! こっちは被害者なのよ、被害者! もっと堂々と文句言いなさいよ!」
「いだっ! だから杏里ちゃいだだだちょっと待って待って靴の先が! 口に!」
シトラスは暴れている杏里とライックをぼんやりした表情で見守っている。その姿から悪意は感じないが、かと言って友好的とも言い難かった。それに、まだ肝心なことが聞けていない。
「アッ君はどこにいるの?」
ククは覚えていなかったが、先ほどディオンに聞いた話では、ククたちが意識を失う直前、あの丘の上にマスクを被った何者かが現れたという。それがきっとこの人なのだろう。
「…………」
シトラスなる薬師は、またしても無言で紙片に何事か書きつけた後、それをククたちに向かって差し出した。
『知りたいなら案内するよ。君たちがオレにふん縛られてた恨みを忘れて、大人しくついてきてくれるんならね』
声には出さずに文字を読み、ククは返答した。
「分かりました。案内してください」
「クク……!」
杏里の声が飛んでくる。が、彼女もとにかくこの状況からは脱したかったのだろう。それ以上、反対の声は上がらなかった。
『それじゃ、決まりってことで』
シトラスは服の袂から小刀を取り出すと、一人ずつ順番に縄を切って回った。それが終わると、数時間ぶりに体を動かす一同に構うことなく早速扉から出ていってしまう。
慌てて後を追いかけようとするククの前に、しかし同じくらい慌てた顔のライックが飛び出した。
「ククちゃん、本当にあの人についてくつもりかい? その……罠かもしれないよ……?」
「えっと……多分、大丈夫だと思うよ」
「何でだよ」
「それは……」
何から説明したものか。迷っていると閉まったばかりの扉が開いた。渦中の薬師が、来ないのかと問いたげな顔を覗かせている。
真っ先に溜息を吐いたのは杏里だった。
「……まあ、ここでこうしてたって仕方ないわね。罠から出てまた別の罠にかかるのも、まあまあ面白いんじゃない?」
シトラスの後を追って建物の外に出ると、周囲は全く人気のない、夏の鮮やかな緑に溢れた場所だった。どこかの森らしいが、どこの森かは分からない。ついでに言えばククたちがどうやってここまで運ばれてきたのかも分からなかったが、今はそれを詮索している場合ではなかった。
慣れた足取りで進んでいくシトラスに必死でついていく内に、風の声に混じって水の流れる音が聞こえてくるようになった。
せせらぎは進むほどに近付き、やがて木立を抜けた先に一軒の家屋が現れた。
先ほどククたちが後にした廃屋と比べれば、随分大きい家だ。何よりこちらは建材こそ古そうだが、人の手によって整えられ、今も家屋として使われている形跡があった。
家のすぐ横手には小川が流れ、その上にせり出す形で広いテラスが据えられている。二つ並んだ物干しには、洗濯物が揺れていた。
「ここ、あんたの家なの?」
杏里の問いには答えず、シトラスはさっさと家の中へ入っていく。何も言われないのをいいことに、ククたちも後に続き、屋内へ進んだ。
中はやはり普通の家屋らしく、玄関の正面は短い廊下になっていた。そこを曲がると、奥の方、左側にある扉が大きく開いている。シトラスの背中を追って部屋に入ると、中は雑然と物が散らばり、お世辞にも片付いているとは言い難かった。
しかし、そんなことはどうでもいい。
窓辺のベッドの上に少年の姿を見つけ、ククは駆け寄った。
「アッ君……」
眠っているだけ。そう思いたかったが、瞼を閉ざしたその顔は、恐怖を感じるほど白かった。ぴくりとも動かない。
「…………」
部屋の隅で何事か作業していたシトラスが、立ち竦むククの横を通ってベッドの傍らの椅子に座った。その手に注射器と青い液体の入った袋状の何かを持っている。
シトラスは注射器の針をおもむろに自分に突き立てたかと思うと、抜き取った血液を液体の入った袋に混入し、それを何の迷いも無くアルスの右腕に繋ぎ始めた。
「あ、あんた! 何してんのよ!」
「杏里ちゃん、ストップ!」
飛びかかろうとする杏里をライックが必死で押さえ込む。
当然ククも混乱していたが、薬師がサイドテーブルの上に広げた白い紙にまた何か書いているのを見て、とりあえず言葉を呑み込んだ。
ほどなくして、少し長い文章がククたちの前に差し出された。
『何をしているか? こいつが自分の魔力を一気に消耗して不安定になってるから、減り過ぎた分の魔力をオレの血液から抽出して流し込んでるだけ。理由、こいつを回復させるため。他の方法がないこともないけど、これが一番早いし確実だから』
紙片に綴られた言葉を裏付けるかのように、透明な袋とアルスの腕とを結ぶ細い管の中には、赤い血液ではなく青い光彩が流れていた。可視化された魔力は血液とはほど遠い色ではあるものの、ククの目にはそれが有害なものとは映らなかった。
「でも、あなたの魔力がアルス君に合わなかったら、逆に容体が悪化するんじゃ……」
不安そうな声を発したのはライックだった。だが、その懸念も当然だ。個人が体内に有する魔力というものは、全く同じ人間が存在しないのと同様にそれぞれが微妙に異なった性質を持っている。自身のそれとあまりに乖離した特徴の魔力が体内に混じった場合、拒否反応が出るのは勿論、最悪の場合、死に至る可能性すら考えられた。
しかし、シトラスの答えは明快だった。
『それは大丈夫』
こちらに向けたメモをひっくり返して、すぐにまたククたちの方へ示してみせる。
『悪い影響は出ないよ。保証する。っていうか、この作業は昨日から何回もやってるから、今更止めたところで手遅れだよ』
その表情に緊張したり嘘を吐いている色は無い。どころか、気が抜けきっているようにすら見えた。
黙り込んだ杏里とライックに代わるように、それまで言葉を挟まなかったディオンが、もたれていた壁から背中を離した。
「どうでもいいが、お前は結局何なんだ?」
問いに、シトラスは鉛筆を取ろうとはせず、ククに向かって軽く首を傾げてみせた。あんたは察しているんだろう? そう言いたげに。
「……シトラスさん。あなたはアストリア王国の五勇で、アッ君のお師匠様……だよね?」
「え? 五勇?」
「師匠ってどういうことよ?」
顔を見合わせる杏里とライックをよそに、シトラスが返事を書き綴る。
『どっちも微妙にはずれだよ。五勇なのは『元』だし、師匠でもなく『元』保護者。ま、あんたとも初めましてだし、よく知らなくて当然か』
「待ってよ、状況が飲み込めないわ。……そうよ、それにクク、あんたアルスの妹って言ってたわよね? あれ、一体どういうことなの?」
ククは視線を落とした。
躊躇いが胸中を浸していくのを感じたが、それでも説明しないわけにはいかないだろう。
「あのね、わたし……思い出したの。自分のこと。わたしは、アッ君の妹なんだって。……と言っても、アッ君とは小さい頃は交流がなくて、一緒にお城で暮らすようになったのは三年くらい前なんだけど……」
みんな黙っている。説明を聞いて納得しているのではない。混乱によって言葉を失くしているのだとは分かっていたが、ククはそのまま話を続けた。
「それで、わたしがお城に来た時には、もうシトラスさんは居なかったんだけど、まわりの人から聞いたことがあったから。アッ君は前までシトラスさんと一緒に暮らしてたんだって。だから……」
「待って、待ってよ」
杏里が頭を抱えた。
「シトラス云々の前に、 あんたの事情が飲み込めないんだけど。アルスと兄妹だったっていうのは分かったわよ。でも、元々交流がなかったってどういうこと? それに、なんでこれまで記憶がなかったのよ?」
ククは再び目を伏せた。強く握った手のひらに汗がじわじわ滲み出す。窓から差し込む日は強く、足下には色濃い影が落ちていた。その影を見つめたまま、答えた。
「それは、今は話したくない……」
「どうして!」
「杏里ちゃん、ククちゃんにもきっと事情があるんだよ」
「でも……」
宥めるようなライックの声に首を振りながら、杏里が戸惑いを浮かべてククを見る。
「杏里ちゃん、ごめんね……」
杏里のことは好きだ。ううん、大好きだ。だから出来るだけ隠し事はしたくない。混乱させるようなこともしたくない。
だけど、今は何も話したくなかった。自分の中に還ってきた――還ってきてしまった記憶を言葉にして、目の前の現実に向き合うことが怖かったから。
「…………」
気まずい沈黙が場に落ちかけた時、椅子から立ち上がったシトラスが、眠たそうな表情を一切変えることなく一同に紙切れを差し出した。
『お取り込み中悪いんだけど、とにかくオレはこの子の敵じゃないから。本人の目が覚めたら言いたいことは百万個くらいあるけど、取って食おうとかは思ってないよ』
ククの背後で、ディオンの大きな溜息が聞こえた。
「……そもそも、こいつの状況はどうなってるんだ?」
『すごーく簡単に言うと、脳みその処理能力を無視した魔法を使ったせいで、神経がプッツンして暴走したって感じだね。水道がぶっ壊れて魔力が勝手にビシャビシャ出てる状態、みたいな? 今はそれを宥めすかして魔力の浪費を押さえつつ、投薬と外部からの魔力補給で修復してるところ』
「……それで、この子は大丈夫なの?」
『ここまで落ち着けば死にはしないだろうね。目が覚めるのには、しばらく時間がかかるけど』
「どれくらいかかるんだ?」
『経験則で言うと、意識が戻るのにあと数日。満足に動けるようになるまではひと月くらいかな』
そんなに、と顔を曇らせた杏里に、シトラスが薄く微笑んだ。
『これが普通の人間だったら、とっくに死ぬか廃人になってるよ。そのくらいで済んで御の字だと思ってもらいたいね』
皆が黙ると、外から聞こえる虫の鳴き声がいやに大きく感じられた。室内には、徐々に夕暮れの色が忍び込んでいる。
口を開いたのは、ディオンだった。
「俺はしばらく外す」
「外すって、どこかに行くってこと?」
「ああ」
「アルスやクレストのことはどうするのよ?」
杏里の声、そして一同の視線を受け、ディオンは面倒そうな顔をしながらベッドを指した。
「こいつが回復するまで、ただ待ってたって仕方ないだろ。どこかで仕事でも探してた方が有意義だ。……クレストのことは知ったこっちゃねえが……仮にあいつがまだこの剣を諦めてねえんなら、余計俺がここにいない方がいいだろ」
ディオンの背には孤島で得たあの赤い剣がある。クレストがそれを諦めたかどうか、今後どう動くかの予想はついていない。
『それがいいんじゃない。この家、狭いからね』
シトラスが筆談で同意した。
『東の方に歩いてくと君たちがいた町の方に出るよ。あ、西には別の町もあるけど。どっちに行くにしろ、道は複雑だけど距離は大して無いかな。これ、地図』
「しばらく借りれるか? 後で返す」
『どーぞ。もう一枚あるし』
ククは少し意外だった。元々、ディオンはククたちと関わることに乗り気ではなかった。だからここでお別れだ、とか、解散だ、とか。今このタイミングで、そんな風に言われてもおかしくはないと思っていた。
しかし、彼の今の口振りからすると、どうやらアルスが目を覚ました後、再び一緒に行動してくれるつもりではいるらしい。
それはまだ仲間でいてくれる、ということだ。
ほっとしつつ、ククには別の思いも芽生えていた。
「……ディオ。それ、わたしも一緒に行ったら駄目かな?」
「クク! あんたまで何言ってるのよ!」
呆れられるのは分かっていた。内実はどうであれ、アルスはククの兄だ。その兄が倒れ、意識も戻らない今、彼を置いてどこかへ行こうとする自分は間違いなく妹失格なのだろう。
でも。だけど。
「ここにいなくていいのか?」
ディオンの声は責めるというより念押ししているように聞こえた。ククは、小さく頷いた。
「その、わたしも記憶が戻ったばかりで混乱してて……」
正直に言ってしまえば、ここにいたくなかった。逃げるべきでないことも逃げられないことも分かっていたけれど、今はどこかで感情を整理したかった。そうでなければ、また――「あの時」のように逃げ出してしまいそうだから。
「……勝手にしろ」
溜息交じりの声が、ククへと放られた。
「ディオン君、止めないんだね?」
驚きを滲ませて言うライックに、ディオンは今度こそはっきりと溜息を吐いた。
「……説得が面倒だからだ。あと、こいつの馬鹿力は金稼ぎの役に立たないとも言い切れねえし」
「ククちゃんに利用価値があるってこと?」
「まあそうだが……お前も随分はっきり言う奴だな……」
「もういいわよ、二人とも勝手にどこにでも行きなさいよ。あたしは行かないから」
「杏里ちゃん……」
ククが名を呼ぶと杏里はちらっとこちらを見て、また目を逸らした。横顔が苦しそうに歪んでいる。
「……ごめん、別に怒ってるわけじゃないの。あたしも疲れてるのかもね。……今あんたたちと一緒に行っても足を引っ張りそうだし、もう少しここで休んでくわ。別にいいでしょ?」
最後の問いはシトラスに向けてのものだった。
ぼんやり窓の外を眺めていたシトラスが、眩しそうに瞬きしながら杏里を見て、小さく頷く。いい、という意味らしい。
「じゃあ、おれももう少しここにいようかな。道具の手入れもしたいしね」
ライックの宣言に、ディオンが「分かった」と頷いた。
「じゃあ決まりだな」
「待って、もう行くの?」
早速部屋を出ようとするディオンをククは慌てて呼び止めた。
振り返ったディオンが眉根を寄せる。
「別に無理してご同行頂かなくても結構だぞ」
「う、ううん。わたしも行くから!」
廊下に出てから、ククは室内を振り返った。
「シトラスさん、アッ君のこと、お願いします」
座ったまま、シトラスが軽く手を振る。
「杏里ちゃん、ライ君も……」
呼びかけたはいいものの続く言葉が浮かばない。元気で、は大げさだし、気を付けて、だと妙に縁起が悪い。何よりこの空気で、何を言ったらいいかが分からなかった。
「……行ってらっしゃい」
杏里の柔らかい一言が、逡巡するククの心に寄り添った。ぎこちなく距離を測るような言葉は、だからこそ優しい響きを伴っていた。
「……うん、行ってきます」
答えて、ククはディオンを追いかけた。




