第16話
仕事に失敗した。そう悟った瞬間訪れたのは、泣き出したくなるほどの恐怖だった。
「どうしよう……」
太陽を忘れた庭に蹲り、ヴィヴィリアは両手で顔を覆った。
あの孤島から帰ってきて後、クレストは不機嫌に去ったままヴィヴィリアの前に姿を現さない。ひとりぼっちだという状況が一層ヴィヴィリアの不安を煽っていた。
どうしよう。どうしよう。
指の合間から息を吐く。闇夜に咲く毒花たちのせいで吸い込んだ空気はキャンディのように甘ったるかったが、そのことはヴィヴィリアの気持ちを何ら明るくしてはくれなかった。
(言われてたのに……剣を奪えって言われてたのに……!)
それが、出来なかった。
怖かった。同じ役割を与えられていたクレストがこの失敗をどう捉えているのかは分からない。けれど、少なくともヴィヴィリアは、とてもとても怖かった。大好きなクレストの役に立てなかったことも悔しいけれど、その気持ち以上にもっと、逃げ出したいほど恐ろしかった。
(どうしてこんなことになったのかな……)
仕事を与えられて、それをこなして。それさえ出来れば、そしてクレストさえ傍に居てくれれば、ヴィヴィリアの世界は完璧だった。だけど、それだけのことがなかなかうまくいかない。叶わない。
それにテトラの村での長期任務から帰ってきてから、クレストの様子も何だか変だった。あの女の子に何かおかしなことを言われたんだろうか。
「私は……」
私は、どうしたらいいんだろう。仕事をしなければ罰せられる。(けれど何故?)クレストの傍にいられれば、幸せになれるのに。(彼とはどこで出会ったの?)ここで私はうまくやっていけるのに。(どうして、どうして、私はここにいるの?)
「…………どうして? ううん、分からない……」
頭が痛い。胸の底の方に奇妙な違和感があったけれど、そこに意識を向けようとすると頭痛と目眩が激しくなった。
だから、ヴィヴィリアは唇を噛み、祈った。
(忘れるから。こんな気持ちなんて忘れてしまうから。だから痛みを消して……! 何も思い出したりなんかしないから!)
「ヴィヴィ、ここにいたのね」
「……ユイ、ちゃん」
ヴィヴィリアはこちらへ近付いてくる人影を振り仰いだ。
元々視界は眼帯で塞がれているので、彼女の顔を見たことは一度も無い。それでも何故か、ヴィヴィリアは彼女が自分と同じオレンジ色の髪と目をしていることも、彼女の薄い唇がいつも微笑みを形作っていることも知っていた。
ユイちゃん。ユイージナ。
彼女は私たちの導き手だ。
「どうしたの、そんなに辛そうな顔をして。最近忙しかったから少し疲れているのかしら?」
声は甘やかに優しい。この庭園に根付く花と同じだ。
「大丈夫だよっ」
ヴィヴィリアが笑って立ち上がると、ユイージナも「良かったわ」と明るい声を出した。
しかしその直後、ヴィヴィリアの頬に温かな手のひらの感触が触れた。体を強張らせたヴィヴィリアに、ユイージナがくすくすと笑い声を漏らす。
「やっぱり怖がってるのね。でも安心して。今度のことで誰もあなたを咎めたりしないわ」
「本当に?」
「ええ。あなたは私の期待に応えてくれる。力になってくれる。今も、私はそう信じているもの」
目で見ることが出来なくても、ユイージナが浮かべている表情は想像出来た。綺麗で、可愛くて、自分が絶対に間違っていないことを確信している、「あの」笑顔だ。
(あれ……私、今……どうして……)
胸のざわめきに意識を向ける前に、頬から離れた手のひらが今度はヴィヴィリアの両手を取った。そのまま、ぎゅっと強く握られる。
「あなたに新しいお願いがあるの。今度はクレストと一緒ではないけれど、あなたならうまくやってくれるでしょう?」
「お願い……?」
ということは、まだ見捨てられてなかったのだ!
安堵と勇気が胸をひたひたと満たしていくのを感じて、ヴィヴィリアは大きく頷いた。
「分かった! ヴィヴィに何でも任せてっ!」
「ありがとう。私の、可愛いヴィヴィ」
もし……本当にもしも、再び失敗したのなら。きっとユイージナはもうこんな風には笑ってくれない。今度こそこの屋敷にヴィヴィリアの居場所はなくなってしまう。そうなればクレストとももう二度と一緒に居られなくなってしまうだろう。他に何も分からなくても、それだけは分かる。
だから。
だから絶対に、そんな未来は回避しなければならなかった。
***
これが夢だということは、すぐに分かった。
広く明るい部屋。飴色に輝く調度たちに、かえって歩き辛い、床に敷かれた分厚い絨毯。苦手な場所だから。嫌いな光景だから。だからこそ、目の前に広がる景色が本物でないことは、すぐに察せられた。
「クク」
温かくも冷たくもない、静かな声。窓から差し込む光で銀糸の髪はきらきら光って見えるけど、その下の瞳は海底のように暗かった。
「これを」
差し出されたのは青い蝶だった。白い掌の上で、しゃらり、と涼しい音を立てている。
(こんなもの、要らない)
心からそう思うのに、開いた口は全く別の言葉を放った。
「わあ、綺麗。いいの?」
(要らない、そんなもの)
「大事にするね」
(違う! 受け取らないで……それは……)
手の上で輝く蝶を、何も知らない「クク」が嬉しそうに眺めている。どうせすぐにそれが何なのか気付くのに。どうせ捨ててしまうものなのに。すべてを知っているククは愚かなククの中に閉じ込められて、真実を伝えることは叶わない。
景色が滲んでいく。
(ああ、そうか……わたしは)
あっけなく崩れていく夢の最後に、理解した。
(やっぱり、逃げ切れなかったんだ)
「クク! 分かる? ククってば!」
明るい光に目が眩む。
何度か瞬きを繰り返すと、少しずつ世界の輪郭がはっきりしてきた。見えたのは、桃色の鮮やかな髪。泣き出しそうな顔。
杏里ちゃん、と呟く自分の声は少し掠れていた。
「ああ、良かった……!」
「わ、ちょっと待って! 今起きるから!」
勢いよく覆い被さられて、ククはわたわたと手を振った。
「なによう、心配したのよ」
唇を尖らせる杏里に手を借りて、ククはその場に起き上がった。
どうも見覚えのある部屋のベッドの上だ。夕方なのだろう、窓から差し込む光で室内はほんのり赤く染まっている。
しかし、少しの間考えてみても、ここがどこなのかまでは思い出せなかった。
「ここは……」
「サラノよ」
杏里が素早く答えた。
「島でのことは覚えてるわよね? その前にいた、港町。分かる?」
「うん……。えっと……」
少しずつ記憶が蘇ってきた。港から船を使って島に渡り、ディオンの剣を回収して。……クレストたちと戦い、島が崩れそうになって。それで、それから。
「確か、アッ君が何かしようとしてて……」
思い出せたのは、そこまでだった。
答えを求めて杏里を見ると、何だか怒った顔をしている。
「……転移魔法よ。あの島からこの町の港まで、あたしたち、それで帰ってきたの」
「転移魔法ってそんな簡単に出来るものなの?」
「出来ないから怒ってるの!」
何故かククに雷が落ちてきた。
「転移なんて猛烈に負担の掛かる上に成功率の低い魔法、普通の魔法使いならまず使わないわよ。それを一度に五人とか……無茶も無茶なんだから! 大体あの子、島に向かう前にこの町にこっそり転移補助の魔方陣作ってたのよ! あたしたちに何の相談もなく準備してたってわけ! あり得ないわよ、もう」
勢いよくまくし立ててから、杏里は悲しそうな顔で俯いた。
「……ほんとに、あの子はなんでああなのかしら」
彼女の表情に、ククはにわかに不安になってきた。
「杏里ちゃん、アッ君はどこ? それにディオとライ君の姿も見えないけど……」
「ライックは医者を探しに行ってるわ。ディオンなら何か食べてくるって言ってたから、多分下の階じゃないかしら。その、アルスは……昨日転移した直後は意識があったんだけど、それから倒れて……って、クク!」
ベッドから下りたククの腕を、杏里が強く引っ張った。
「急に動いたら駄目よ! あんたもずっと意識がなかったのよ? 転移の影響かもだし、一回ちゃんと診てもらって……」
「わたしなら大丈夫だから!」
だから、アルスのところに行かなければ。
「なっ、ちょっと……! もう、分かったわ! 分かったから、走らないでったら……」
ククが部屋の入り口に向かうと、目の前で突然ドアが開いた。
「わわっ……!」
新緑の瞳を瞬かせ、ライックがククと杏里の間で視線を往復させた。
「ククちゃん、目が覚めたんだね! って、あああっ!」
「なっ、いきなり大声出すんじゃないわよ!」
「ご、ごめん……。だけど大変なんだ! アルス君がどこにもいなくって……」
「……!」
ククは言葉を失った。が、同時に心のどこかでこの事態にさして動揺していない自分にも気付いていた。
(とにかく、アッ君を探さなきゃ)
短く息を吐き、目を閉じる。
「クク……?」
杏里の声に答えることは出来なかった。意識を集中させるとすぐに、背中の方で冷たく強張った気配を感じた。外。距離は、少しある。
顔を上げたククは、部屋の隅に置かれた自身の剣を手に取り、西日を投げ込む窓辺に駆け寄った。開かれたカーテンの向こう側、夕空の片隅がわずかに青白く光って見える。
間違いない。
ククは窓を押し上げ、体を乗り出した。
「ククちゃん!」
「何やってるんだ、お前」
振り返ると、戸口にディオンもやってきていた。背には孤島で得たあの剣を背負っている。全員無傷とは言えないものの、とりあえずは無事そうな様子にククは少しだけほっとした。
「みんなはここにいて! わたしがアッ君を連れ戻すから」
「連れ戻すって……」
「心配しなくて大丈夫だよ」
言葉足らずなのは分かっているけれど、説明している時間が惜しい。だからなるべく明るく笑って、言い切った。
「だって、わたしはあの人の妹だから」
剣を握ったまま窓枠を蹴って、ククは二階から飛び下りた。
夏草に覆われた裏庭に着地すると衝撃で足が少し痛んだが、構わずそのまま走り出す。日暮れを前に人々が忙しなく行き交う町中を抜けて、港とは反対側、人気の薄い方へ。町の裏門を越えると、道は高台へと続いている。
開けているが勾配の強い丘の上――空に、魔方陣が浮かんでいた。式を構成する文字列の色は黒。陣は複雑に絡み合いながら、形を歪に変えていく。
不意に横薙ぎの南風が吹いたかと思うと、細やかな雨が降り出した。その勢いはすぐに激しくなり、遠くから雷鳴も近付いてくる。
土砂降りの丘の頂、鮮やかな緑を揺らす大木の傍らに、探し人の姿はあった。
「アッ君……」
ククは濡れた夏草を素足で踏みながら、しゃがみ込む人影へ近付いた。
見下ろした少年はククと同じくずぶ濡れになりながら、銀の髪を頬に張り付かせて顔を伏せている。肩から落ちかけたローブの裾が無造作に地面に広がり、泥で汚れていた。
「……思い出した?」
細い声がククに問う。
「うん、思い出したよ。全部」
ククは答える。
「でも今はその話をしに来たわけじゃないよ。アッ君を連れ戻しにきたの。具合が悪いんだよね? 暴走しそう、でしょ?」
アルスがようやく顔を上げた。その瞳に疑念が浮かんでいるのに気付いて、ククは補足する。
「聞いたことがあるから。昔、そういうことがあったって」
実際に見たことがあるわけじゃない。でも、過去に何度か「そういうこと」があったとは、話に聞いて知っていた。だから今回もそうだろうと思ったのだ。
「君は何も分かっていない」
アルスは薄く笑った。嘲けるように。自棄になったように。
ククはいくらかむっとして首を振った。
「分からないよ。でも、ほっとくわけにもいかないから。町に戻るのが危ないなら、どこか落ち着ける場所に……」
「それが無駄だから暴走と呼ぶんだ。……追いつかれた」
「アッ君?」
項垂れたアルスに、手を伸ばしかけた一拍後。
ククは視界の隅に赤い色彩を認識した。
「……っ!」
至近距離で攻撃を受けた右腕から鮮血が噴き出して、痺れに似た痛みが広がる。
アルスが構えた掌を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
羽織っていたローブが肩から落ち、包帯を巻いただけの上半身が雨を受ける。アルスの両腕には、空に広がっている魔法式にも似た黒い痣が刻まれていた。
再び、一切の詠唱無しに魔力を孕んだ光が収束する。
アルスの足元に、魔法陣が浮かび上がった。
「アッ君、やめて」
呼びかけるも、返事はない。その目にも、表情にも、感情らしい感情は欠片も見当たらなかった。
(これが暴走状態……)
杏里たちに心配しなくて大丈夫だと言ったのは、別に嘘ではない。が、根拠も特にない。きっと何とか出来る、そう思っていたし、今もそう思っている……けれど。
「厄介だなあ……」
とは言え、どうにかするしかない。そのためにも、まずは一旦距離を取った方が良さそうだ。
ぬかるみを蹴ってククは走った。
アルスが魔法を放ち、風の刃が四方から猛烈な速度で迫ってくる。降りしきる雨のせいで目視も満足にできない攻撃の矢をぎりぎりで避けると、上空で強い光が弾けた。
(来るっ!)
正面の大木に雷が落ちて、爆発音が耳を貫く。衝撃に吹き飛ばされそうになりながらも、ククはその場に踏み留まった。
雨粒に目を細めながら空を見上げると、遥か頭上には異様な速さで流れる厚い雲と、巨大な黒い魔法陣。陣はまだ不完全なもののようだが、刻々と密度と大きさを増していた。
あれが完成したらどうなるのかは不明だが、どう転んでも良い想像には繋がらなかった。
(何とか壊さないと……)
風に煽られた草木が掠れた悲鳴を上げる。
その中に混じった舌打ちの音に、ククは振り返った。
「ディオ、どうしてここに……?」
「どうしてもこうしてもあるか!」
大剣を背負ったディオンは、不機嫌の象徴のような顔だった。
「あんな意味深な台詞を残して去られたら気味悪いだろうが」
「そ、そうだったかな? もしかして杏里ちゃんたちも……」
「町でお前を絶賛捜索中だ」
「あちゃー……」
「あちゃーじゃねえよあちゃーじゃ!」
ディオンが怒鳴った。
「とにかく、この騒ぎをさっさと終わらせるぞ。っつーか、さっきから何なんだお前は」
最後の言葉はアルスに向けてのものだったが、やはり返事は……と言うより、反応そのものがなかった。
雨脚が一際強くなる。再び攻撃が始まる前にククは尋ねた。
「ディオの剣の力は、あれ……あの、空の魔方陣まで届く?」
「はあ? ……まあ、多分な」
「アッ君のことはわたしがどうにかするから、出来ればあれを壊してほしいの」
ディオンはククと魔方陣を見比べるように眺めて、大きな溜息を吐いた。
「意外と人使いが荒いな、お前。……まあいい。分かったからさっさとしろ」
「ありがとう! じゃあ、お願い……!」
ククは再び駆け出した。
アルスの姿は雷撃で崩壊した巨木の傍らにあった。その腕が振られると、再び圧縮された空気の刃が生み出され、ククに向かって飛んでくる。避けきれなかった一撃が足を掠めたが、構わずアルスへ近付き、踏み込み――腕を、掴んだ。
(無理やりにでも、止める!)
蘇ったばかりの記憶を頼りに力を解放する。
掴んだ指先から流れ込んでくる感情は、混ざり合った黒い色。巨大な他人の意識に呑まれそうになるのを、クク自身の意志で押し戻す。白く。白く。流し込んで、塗り潰す。
他人に意識を侵食される負荷に耐えきれず、アルスがとうとうその場に膝をついた。
「……っ、う……」
「アッく……」
けれど、クク自身も限界だった。その場にへたり込むと、全身からどんどん力が抜けていく。アルスは動かなくなったものの、完全に制圧出来たかについては自信を持てなかった。だが、再び力を使おうにも想定外の疲労感にしばらくは立ち上がれそうもない。
「……ブランクを、考慮してなかったなあ……」
乱れる呼吸に肩を上下させながら空を仰ぐと、頭上にはまだ魔法陣が残っていた。
アルスを止めても消えないということは、展開されている力は既に術者から切り離されているのだろう。ならば、沈黙させるには陣そのものを破壊するしかない。
そこに一陣の風が吹き抜けた。
ディオンだ、と安堵混じりにククは思う。
それは巨大な生き物が駆けていくような、力強い風だった。
***
何が何だか分からないが、どうやらククとアルスの決着はついたようだ。
ディオンは上空の魔法陣に向かい、自らの剣を構えた。
眠っていた刀身が目を覚まし、深い朱色に輝き始める。そのまま巨大な刃を振り抜けば、赤みがかった強圧の刃が上空の陣へと食らいついた。
力と力がぶつかる。だがそれも一瞬だ。魔法陣が千切れ飛び、瓦解した式の断片が紅色の光に浸食されるように消えていく。
後にはもう何も残らない。
仕事を終えた刀身が元の暗い赤銅色へ戻っていくのを確かめてから、ディオンはククたちの元へと歩み寄り、膝をついた。
「大丈夫……ではなさそうだな」
暗い空の下、座り込んでいるククはまだしも、問題はアルスだ。倒れ込み、意識を失っている。
助け起こすべきか迷っていると、背後から人の声がした。
「ククちゃん! ディオン君!」
駆け寄ってくるのは、ディオン同様ククを探しに外に出たライックと杏里だった。
「一体何が……」
アルスを見下ろし、ライックがうろたえた声を出す。
ククが青白い顔を上げて答えた。
「アッ君には一時的に止まってもらったの。でも、完全に押さえ込めたかは分からない……。ううん、きっとまだ……」
「そんなことは後よ! 二人ともすぐに病院に……ライック、医者は?」
杏里に問われて、ライックが力無く首を振った。
「それが見つからなかったんだ……。先生が勝手にいなくなっちゃったみたいで……病院の中も大騒ぎしてて……」
「何それ……それなら、どうすればいいのよ……」
「今から移動する……? でも、間に合うのかな……」
ディオンは黙したままのククを見たが、その顔色を見れば彼女にも案が無いのはすぐ知れた。
訪れた沈黙を止まない雨音が埋めていた。濡れ切った体を自覚して、現状とは無関係の気鬱がディオンに寄りかかる。
このままここにいても仕方ない。医者を探して別の町に向かうにしろ、一度宿に戻って荷物を取ってくる必要があるだろう。
不快感にうんざりしながら、ディオンが口を開きかけた時。
「ああ、ここにいたんだ」
声と共に、どさり、と何か質量のある物体が落ちる音がした。
「……っ!」
慌てて振り返った途端、ディオンは甘い匂いに噎せ返りそうになる。息を吸うと、一瞬意識が白く途切れた。
(まずい、これは……)
ふらつきながら立ち上がると、正面に人影が見えた。けれど雨に滲んで、意識も歪んで、それ以上うまく視認出来ない。のしかかる倦怠感に抗えず、ディオンはその場に崩れ落ちた。
人影がこちらに近付いてくる。
ぐらつく視界と意識を必死に繋ぎ止めるも、すれ違う相手の黒いマスクに覆われた横顔を確認した途端、限界がきた。
(くそ……)
底無しの闇に呑まれていきながら、何故か、瞼の裏に太陽のような輝きが過ぎった気がした。




