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refrain  作者: 水幸
第四章 水晶の孤島
15/75

第15話

(一体何が起きてるの……?)


 眩しいほど明るい空間で、杏里は呆然と立ち尽くしていた。

 四方を取り囲む壁はついさっきまで進んでいた洞窟と同じ材質に見えるが、こんな場所を歩いていた覚えはない。

 大体、ここには入り口も出口も見当たらなかった。

 どうして、あたしはこんなところにいるのだろう?


(とにかく、ククを……みんなを探さないと)


 恐慌に囚われそうになる心を叱咤し、もう一度周囲を見回しかけて、杏里は息を止めた。


 目の前に、巨大な蜘蛛が出現していた。


「なっ……」


 思わず後ずさったが、恐怖はすぐに怒りへと変質した。


「何でこんなのとばっかり縁があるのよ……!」


 襲われる前に仕留めなくちゃ。

 腕を振りかぶると、蜘蛛も無数の足の一本を持ち上げた。あたしと同じ腹づもりか。杏里が攻撃を止め、間合いを稼ごうと後ろに跳び退ると、敵もずるずると後退する。

 相手の出方を窺う杏里に対して、蜘蛛もまた、沈黙を選んだ。


(……? これじゃ、まるで……)


 写し鏡のようだ。

 悪寒を感じながら、杏里は片腕を掲げる。蜘蛛もそれに追従する。腕を下ろす。蜘蛛も、同じ動作を選んだ。

 向かい合い、まるで親しい友人のように、いや、いっそ誰よりも近しい自分自身のように、蜘蛛は杏里を見下ろしていた。


「違う……! これはあたしじゃない……」


 桜花で襲ってきたあの蜘蛛だって杏里を飲み込もうとしただけだ。杏里自身の姿ではない。ないはずだ。なのに、どうして。


「あたしは、こんな化け物なんかじゃない……!」


 あたしは人間だ。みんなと変わらない。ただ、人より少しだけ目の色が珍しかっただけ。人より少しだけ違っただけ。それだけで何も変わらない。変わらない。


 本当に?


「杏里」


 懐かしさを伴う声が、杏里の名を呼んだ。


「あ……」


 振り返り、杏里はその場に膝をついた。

 折り重なるようにして倒れている、二つの人影。

 片方の顔は記憶の彼方から無理やり引っ張り出してきたかのようにぼやけ、滲んでいるが、もう一方の人影と合わせれば誰なのか理解するのは容易かった。


「おじいさま……お父様……」


「私たちは、お前のせいで不幸だったよ」


 そう言ってきたのは、どちらなのだろう。あるいは二人ともだろうか。優しささえ感じさせる声が、杏里の胸に穴を穿った。どんな想いも願いも、すべてそこに呑み込まれて、縮んで、消えてしまう。


「私たちを不幸に陥れたお前が、化け物でないはずがない」


「お前のせいだ。お前が存在しているから悪いんだ」


「許さない」


 許さない。声は反響する。許さない。許さない。その声は父のものか。祖父のものか。疎まれ蔑まれ殺された、数多の同胞たちのものなのか。


(……違う)


 これは、他でもない、あたしの声だ。


「違う! あたしは誰も憎んでいない!」


(あたしを遠ざけたまわりの人間も、あたしを捨てた父様も、おじいさまも。きちんとあたしを殺してくれなかった母様も、みんな大嫌い)


「違う! 違うの……」


(許さない。許したくない。あたしを傷付けた者たちを許すくらいなら、あたしは化け物だって構わない)


「やめて!」


 蜘蛛からも、倒れ伏す家族の幻影からも目を逸らし、杏里は壁際に駆け寄った。拳で力一杯叩いても、何の反応も返らない。それでも叩いた。何度も。


「出して! お願い! 開いてよ!」


 どこでもいい。ここから逃げ出す出口が欲しい。ここにいたくない。怖い。怖くてたまらない。

 叩きつけた拳から血が滲み、壁が汚れる。皮膚が、骨が、びりびりと痺れるように痛んだが、構ってなんかいられない。


 再び振り上げた杏里の腕を、背後から誰かの手が掴んだ。


「っ、きゃあああ! やめて! 離してっ!」


 悲鳴を上げながら杏里は暴れた。めちゃくちゃに腕を振り回し、半分泣きながら、叫びながら、とにかくがむしゃらに暴れ続ける。抵抗する。


「杏里ちゃん!」


 振り上げた両手を、心地よく冷えた手のひらが包んだ。


「……っ」


 泣きながら顔を上げた杏里の前で、顔にひっかき傷を作ったライックが、優しい瞳で笑っていた。


「大丈夫、大丈夫だから……ね?」


 寄り添うような声に、全身から力が抜けた。崩れ落ちかけた体を支えられ、そのままゆっくり腰を下ろす。


「怖がらせてごめんね。あの後みんなを追いかけてたら杏里ちゃんの姿が見えたから……。えっと、大丈夫?」


 問う声に、杏里は辛うじて頷いた。

 横目で周囲を確認すると、左右に長い通路が続いている。周辺にライック以外の姿は見当たらなかった。少なくとも、もうあの幻影だらけの空間ではないようだ。

 思わずほっとしかけたが、すぐに杏里はぶるりと震えた。

 一緒に洞窟に入ったククたちは無事だろうか。


「……あたし、行かなきゃ。みんなを探さないと」


「おれが先に行って見てくるよ。杏里ちゃんはここで……」


「嫌よ!」


 反射的に叫んでから、その勢いの強さに自分で怯んだ。

 目の前のライックは人の好さそうな顔で少し困ったように微笑んでいる。その右頬に走る引っ掻き傷が、熱を持ち始めているのか、赤く腫れていた。

 杏里は床に目を落とした。


「……怒鳴って悪かったわ。それに、その顔……怪我させてごめんなさい」


「怪我? ……ああ」

 ライックはにっこりした。

「大丈夫だよ、これくらい。男の子ですから」


「男の子って……大の大人が図々しいわね」


 思わず笑いが零れると、引っ張り上げられるように心が軽くなるのを感じた。


(……もう、大丈夫)


 ゆっくりと立ち上がり、杏里は深呼吸する。

 恐怖が完全に消えたわけじゃない。何が起きたのかもよく分からない。でも、ここでぐずぐずしているのは嫌だった。

 杏里は、遅れて立ち上がったライックを見上げた。


「っていうか、あんたこそ具合が悪いんでしょう? ここから先はあたしだけで……」


「ううん、おれも行くよ。この洞窟、妙に嫌な感じがするし、杏里ちゃんのことも、みんなのことも心配だから」


 そう言われてしまえば強く断る理由はない。それに本音を言うと、彼が同行してくれるのは心強かった。

 分かったと頷いた杏里はもう一度だけ深呼吸して、歩き出すと同時に付け加えた。


「……ありがと」


***


「ここ、どこだろう……」


 ククは独白した。

 気付けば一人、これまでとは違う場所に立っていた。まだ洞窟の内部のようだが、周囲を壁に囲まれ、出口が見当たらない。おーい、と声を上げてみるが、返ってくるのは反響した自分の声だけだ。冷たく輝く壁に手を触れてみて、壊せるかな、と検討を始めた、その時。


「可哀想」

「わっ」


 突然後ろから声を掛けられ、ククは思わず飛び上がった。


「……えーと」


 慌てて振り返ったはいいものの、目の前の光景は混乱を更に深めるだけのものだった。

 どこか人を窺うような空色の瞳。卑屈そうに微笑む唇。怯えと嘲りを浮かべて立っている少女は、ククと同じ姿をしていた。


「あなたは……?」


 わたしのふりをした誰かなの?

 そう真剣に問いかけたつもりだったが、相手はおかしそうに声を上げて笑った。


「もうすぐ分かるよ。もう、その時は迫っているから」


「その時?」


「可哀想に。わたしは、やっぱり逃げ切れなかったんだね」


 少女は笑っているが、その目には半ば本気で同情しているかのような奇妙な親しみが込められていた。その表情のまま腕を上げ、彼女はククの頭――髪飾りに手を触れようとする。


「っ、だめ!」


 取られる。そう察して、ククは体を引いた。

 背中が壁に勢いよくぶつかる。同じ顔をした少女の手が頬を引っ掻く。が、彼女はそれ以上追いかけてはこなかった。


「あなたは……」


 だらりと腕を垂れた少女の頭には、ククと同じ蝶の髪飾りが下がっている。

 同じものを持っているのに、どうして? そう訴えるククの視線に気付いたのか、少女は自分の髪飾りを引き千切るように外して、床に強く叩きつけた。

 硬い音が響き、少女の蝶は粉々になる。


「何をしてるの……?」


「こんなものがあるからいけないんだよ。気付かなかったの? 忘れてたから? ううん、違うよね」


 少女はまるで自身に言い聞かせるように、焦点の合わない瞳でぶつぶつと呟いている。


「……最初から逃げ通す自信なんてなかったんだよね? わたしには、居場所なんてないんだから……だから、これでいいんだよね……」


「ねえ……何を言ってるの?」


 お願いだから分かるように喋って欲しい。意思の疎通がしたい。そう思って肩に軽く手を触れると、少女は弾かれたように顔を上げた。壊れた髪飾りと同じ色の瞳でククを見る。


「それよりみんなを助けなくていいの? 今頃苦しんでるよ」


 え、と声を上げ、ククは固まる。しかし、確かにそうだ。みんなはどうしているだろう。わたしと同じように、こんなよく分からない空間に投げ出されているかもしれない。


 早くみんなと合流しなければ。……だけど、どうやって?


 気が付けば、ククは目の前の少女に縋る視線を向けていた。

 どうすればいいか、彼女なら答えを知っている。そんな気がして。


「…………」


 自分と同じ姿形をした少女は、ククの隣に歩み出て、壁に手のひらを押しつけた。視線で促され、ククも同じようにする。

 少女の唇が呪文を紡ぎ始めると、すぐにククの詠唱も重なった。二人分の同じ声は、やがてクク一人の声になる。

 いつしか少女の姿は掻き消えて、不安に怯え、それでも薄く笑みを浮かべずにはいられない、本物のクク一人の姿だけが残されていた。

 組み上げた呪文の結びは、祈りというより哀願だった。


「――開いて」


 壁が音もなく崩壊し、風に千々と吹かれて消えていく。


「……っ」


 先ほど少女に引っ掻かれた頬がじわりと痛んだ。触れた指先に流れた冷たい感触に、血まで出ていたのかと視線を向ける。

 だが、違った。

 それは、理由も分からないまま零れた涙の滴だった。


***


 アルスは心底うんざりしていた。

 目の前では何者かも知れない、もとい、何者でもない黒い人型の影に、自分と同じ姿をした幻影が折り重なっていた。

 幻影の肌を覆うのは、黒い文様のような痣だ。足首から腰、背中、腕に至るまで、悪趣味な入れ墨の如く纏わりついている。


 こうして改めて客観視してみると、つくづく救い難い、無様で醜い生き物だ。アルスは冷笑しようとしたが、意思とは裏腹に唇はかすかに歪んだだけだった。

 溜息と共に視線を逸らし、周囲を取り囲む壁と、その内部に構築されている魔法の展開式に目を向ける。


(自動発動型タイプで対象は無差別。取り込んだ獲物の記憶から嫌悪や恐怖を想起させる素材を選定し、幻影を展開。感情の変化を反映して幻覚症状を拡大させる……そんなところか)


 規模は大きいがそれほど複雑な構成ではないし、精神崩壊へ導くほどの強制力もない。加えて式自体の防衛力は低く、破壊するのは容易だった。

 早速壁に手を当てると、背後で上がる声が大きくなった。幻影を引きずり倒し、息の根を止めてやりたい衝動を抑えて、手のひらに意識を集中させる。普段であれば魔法の発動にあたって呪文を使うことはほとんど無いが、さすがにこの規模の術式を破るには詠唱による補助が必要だろう。


 しかし、アルスが声を発する直前、目前の壁が大きく揺れた。


(……誰かが式を破った? ……ああ)


 すぐに状況を理解する。心当たりは一人しかいなかったが、推測が正しければ、これは「彼女」にとって歓迎すべき事態ではないはずだ。

 アルスが少しの力を加えると、それだけで水晶の壁は崩れ、周囲は再び狭い洞窟の内部に取って代わった。

 まだどこかで魔法は作用しているようだったが、そちらは誰かが何とかするだろう。たとえば、あの馬鹿そうな紫とか。

 ともあれ、アルスは多少の憂鬱を抱えて歩き出した。


***


 夜明け前の雨音は、太陽の訪れを拒むかのように激しい。

 足下はぬかるみきって、泥を被ったブーツが重かった。


「……くっだらねえな」


 ディオンは深く溜息を吐いた。

 目前に広がるのは遠い日の光景だったが、感想は下らないの一言に尽きた。ここまで真に迫って見せられることには多少感動しないでもないが、それでも幻が幻であるのには違いない。

 足掻いても、もがいても、失ったものはけして戻らない。自明の理だ。


 ディオンからほんの数歩の距離を経て、血と泥に塗れた男が一人、濡れた地面に膝をついていた。空に向かって悲鳴とも怒号ともつかない声を上げながら、涙を流している。

 声にならない声が何を叫んでいるのか。男が何を思うのか。

 それも分かりきっていた。


「世界など、終わってしまえば良かった」


 男は呪う。

 己に課せられた理不尽な運命を。その元凶たる女の存在を。そんな女を取り上げたこの世界を。何より自分自身を、呪う。それが何ら意味を持たないことだと、この時はまだ気付かずに。


 雨は少しずつ弱まっていく。東の空の雲間から金色の光が零れ出し、薄い霧が周囲を包んだ。

 曖昧な色の夜明けが世界に広がっていく。

 泣くことも叫ぶことも手放した男はその場に蹲り、動こうとしない。動けない。今はまだ。


 ディオンは視線を外し、周囲を見回した。


「で、俺にどうしろって?」


 問いかけに応じるように視界の端で何かが光った。


「……出てきたか」


 水を吸い、ぬかるみきった荒野に一振りの大剣が突き刺さり、その剥き出しの刀身から赤い光を放っていた。


「…………」


 邂逅を予期していなかったわけではない。むしろ目的のものに他ならなかったが、剣に近付くディオンの足取りは重かった。

 それでも剣の傍らに立ち、柄に手を伸ばそうとした時、耳元を甘い吐息が掠めた。


――どうして剣を手放したの? 


 気のせいだ。頭を振って、耳朶にこびりつく声を振り払う。

 しかし、無駄だった。


――これは、罪の証だから?


――だから見たくなかったの?


――だから見えないところに捨てようとしたの?


「違う……」


 無意味だとは知りつつ否定する。

 甘い声は、そして、目の前で展開される幻影のすべては、この剣が齎しているものだ。本来制御されているはずの力だが、長くディオンの手を離れていたことで暴走しているのだろう。

 暴走を止め、幻影を完全に沈黙させるには、とにかくディオンが剣を取るしかない。そう分かってはいたが、踏み切るまでには躊躇いがあった。

 甘く囁かれる言葉は事実だったから。


「くそっ」


 迷っていても仕方ない。

 ディオンは舌打ちし、手を伸ばす。

 柄を握ると、赤い光の軌跡が砕けるように散らばった。そのまま勢いをつけて重い泥の中から引き上げると、一瞬、視界を塗り潰すほど強い輝きが放たれ、後には燃え盛るような朱色の刀身だけが残った。


 直後、頭上からガラスが割れるような高い音が響き渡った。


「……っ!」


 目の前の夜明けの景色が歪み、ばらばらに崩れていく。

 闇に覆われた視界は、しかしすぐに光を取り戻した。


「……終わったか」


 ディオンの目の前には洞窟の狭い通路が続いていた。

 道は少し進んだところで途切れ、奥の方から更に強い光が零れている。それまで持っていた剣をその場に捨て置き、赤い剣を背負ってとりあえずそちらへ進んでいく。


 不意に、潮風が頬を撫でた。

 通路の先は開けた空間だった。天井はなく、頭上には曇り空が広がっている。周囲は通路同様、輝く奇怪な壁に囲まれているが、出入口らしい横穴がいくつも開いていた。

 その場所には、見知った者たちの姿もあった。


「ディオ!」


 広場のような空間のちょうど中央で、ディオンは再びクク、アルス、杏里、そしてライックと対面した。


「良かった、ディオも無事だったんだね」


「ここに着いてもあんたの姿だけ見えないから心配……してはないけど、気がかりだったのよ」


「あ、その剣。それがディオが探してた剣?」


 少女二人が喧しい。ディオンは顔をしかめた。


「話は後だ。目的は果たしたから、さっさとここを出るぞ」


「えーと、それだけど……出口はどっちだろう?」


 困惑した声はライックのものだ。


「おれと杏里ちゃんはあっちの通路からここに出てきたんだけど、ククちゃんとアルス君はそれぞれ別のところから出てきたよね? それに、ディオン君も」


「大体、はぐれる前はずっと一本道だったはずよね……。どこから分岐したのかしら……というか、こんな変なところなら、出口に続いてる道が無い可能性もあるわよね……」


「縁起でもないこと言うなよ」


 とは言え、横穴は無数に開いている。しらみつぶしに出口を探そうとすれば、時間も労力も大きく消費するだろう。

 うんざりしかけたディオンは、ふとこのやりとりに加わらない存在を思い出して顔を向けた。

 アルスは離れた壁際に手を付き、何か考え込んでいるようだ。


「おい、もしかして出口が分かるのか?」


 一縷の望みを託して大声で問いかけるも、案の定返事はない。おい、と再び呼びかけると、「違う」と呟く声が返った。


「は?」


 振り返ったアルスは、珍しく表情に困惑を滲ませていた。


「内部で新しい魔法が展開してる。まだ、何か――」


 言葉を切ったアルスの視線の先を追い、ディオンも絶句した。それはまるで最初から存在していたかの如く自然に、しかしそれでいて恐ろしく異様な存在感と威圧感を発しながら、広場の隅に姿を現していた。


「な……に、あれ……」


 杏里がじりじりと後ずさりながら呻く。


「化け物、だな」


 と言うより他にない。

 その生物の外観は、一見桃色の巨大な肉の塊そのものだった。恐ろしく大きな動物の内臓を一つ取り出してそこに置いたら、きっとこんな感じだろうか。


 しかし、それはただの肉塊という言葉だけでは済ませ難い、露悪的な特徴を得てもいた。


 顔。

 肉塊の表面には人間の顔らしきものが無数に浮かび上がっていた。目鼻や唇の輪郭が薄膜に覆われた皮膚を内部から押し上げ、潰れて皺になった部分からは様々な色の毛髪がぞろりと無造作にはみ出している。また、その巨躯を動かしているのは、桃色の皮膚を突き破って飛び出している、いくつもの人間の手足だった。


 悪意の塊のようなその生き物が、不意に鳴き声を上げた。

 アーアー、という壊れた楽器のような大音声は、そのまま耳にし続ければ頭がおかしくなりそうだった。


「わ、うわあ……ディオン君、ど、どうする……?」


「黙らせるしかないだろ……!」


 取り戻したばかりの剣を構え、ディオンは走り出す。肉塊もこちらに向かって前進してくるが、その動きは大した速さではない。


 間合いに入ったディオンは大きく剣を振り――その赤い刃があっさり弾かれたことに瞠目した。


「!」


 肉塊から伸びてきた腕に突かれて、浮いた体が後方に飛ぶ。

 が、すぐに空中で勢いが殺され、そのまま地面や壁にぶつかることはなかった。膝をつくと、ディオンの体を受け止めた細い糸がはらはらと脆く崩れて消えていく。

 背後を顧みれば、蒼白な顔の杏里が腕をかざした姿勢のまま、呆れたように眉を上げた。


「何いきなり一人で突進してんのよ、バカ。こちとら吐きそうで仕方な……」


 杏里の声を遮るように、嘔吐の音が聞こえてくる。蹲るライックに、杏里が青筋を立てながら振り返った。


「そう言ってるそばから吐くんじゃないわよ! こっちまで色々危なくなるでしょうが!」


「だ、だって……」


「うるせえな、っ!」


 そうこう言っている内に化け物がまた動き出した。耳障りな鳴き声を上げたまま、こちらへ向かってくるが、その動きは相変わらず遅かった。


「放置して逃げるか?」


 誰にともなく呟くと、


「それは徒労に終わると思うけど」


 答えたアルスが化け物を見据えたまま、軽く腕を振った。

 途端、低空に出現した無数の火球が化け物に向かって殺到したが、その皮膚に届く直前で掻き消える。

 アルスは小さく舌打ちし、氷の瞳をディオンに向けた。


「洞窟全体にまだ魔力が働いてる。逃げたところで、さっきの二の舞ではぐれるか、良くてこの場所に戻ってくることになるだろうね」


「は? そんなはずは……」


 洞窟内部で幻覚を見せてきた犯人――赤い刀身の魔剣は既に回収し、ディオンの手の中で単なる武器として沈黙している。

 であれば、もう不可思議な現象に見舞われる理由もないはずだが、目の前で得体の知れない怪物が動いているのもまた事実だった。これは、一体どういうことだ。

 内心訝るディオンに、アルスが軽く眉を寄せた。


「……あんたは、その剣がこの洞窟に不思議な力を与えてたと考えてるわけ?」


「そうだ。力が暴走して……いや」


 不意に、疑問が過ぎる。

 そもそも剣は何故この地で力を暴走させていたのだろう。主たるディオンの手を離れていたからだと勝手に思っていたが、もし、もしも原因が他にあるのだとしたら?


「原因は、剣じゃなくて洞窟なんじゃないかな」


 突然、後ろで声がした。


「剣の力が暴走したせいで洞窟がおかしくなったわけじゃなくて、この洞窟がおかしいから剣が暴走したんじゃないかな」


 いつの間にかククが真後ろに立っていた。こちらはいつも通りの顔色をしている。


「恐らくは」


 ククの言葉に、アルスがあっさり同意した。


「なら、あの化け物が洞窟の親玉ってことか?」


「多分違う」

 アルスは首を振った。

「あれも洞窟内部に張られた式の産物でしかない。ついでに体の表面に障壁が張られてるから、大元の原因をどうにかしないと攻撃もまともに通らないし、仮に倒せたとしても同じものが出てくるだけだ」


「なんだそりゃ……。それじゃ、どうすればいいんだよ?」


「洞窟内部にある力の大元……核を壊す」


「核?」


 疑問符を繰り返すディオンに、アルスがうんざりした目付きになった。


「言っておくけど、どんなものか訊かれても答えようがない。詳細は不明。ただ、ここには無い」


「んな情報で、どうしろっつーんだよ」


 ディオンは頭を抱えたくなった。離れた場所で杏里とライックも不安げな表情を浮かべている。


「……その核って、兵器のことなんじゃないかな?」


 またしてもククの声が上がった。アルスに視線で促されて、先を続ける。


「えっと、この近くの海底に昔の兵器が沈んでるせいで、潮の流れが歪んでて、島になかなか辿り着けなかったんだよね? 海流に影響が出るほど強力な兵器が、もし一つだけじゃなかったとしたら?」


「……ここにそれがあるってことか?」


「確証はないけど、流れ着いてても不思議ではないかなって」


 ククの言葉を、風を切る音が遮った。

 ディオンたちが飛び退くと、振り下ろされた異形の拳で、間の地面が砕け散った。


「くそ……めんどくせえな」


 それでも挙動が遅いのだけが救いだろうか。ぼやきながら再び肉塊から距離を取ると、他の面々も遅れて近付いてきた。


「で、これからどうする?」


 クク、とアルスが少女の名を呼んだ。


「その兵器の位置は?」


 ククは戸惑ったように瞬き、ディオンも困惑した。

 わざわざ彼女に尋ねるくらいだから、アルスには特定出来ないのだろう。しかしアルスに分からないものを、この少女に分かるわけが――


「あっち、だと思う」


 そう言ってククが横穴の一つを指差した。言葉こそ頼りないが、彼女の横顔に不安そうな色は無い。


「お前……」


 どうして分かるのか。

 そう問う前に、アルスの視線がディオンの剣に向けられた。


「その剣が本当にあんたの言うような力を持っているのなら、核の破壊にちょうどいい」


 疑ってかかるような言い方は気に食わないが、今は無視することにした。確かにその通りだ、と言うより、この場において他に使えそうなものもない。

 あえて無理やり挙げるとするなら、目の前のこの少年だが、


「お前が自分で壊したらどうだ?」


「無駄な労力を使う気は無い」


 予想通りだ。

 ディオンはククに視線を戻した。


「場所が分かるなら案内しろ」


「うん、分かった。でも、みんなは……」


「あたしは残るわ。またはぐれたりしたら面倒だもの」


「お、おれも残るよ……!」


 返事をしないアルスは放っておく。


「こっちだよ!」


「分かった」


 ディオンはククが指し示した方角に走る。

 再び狭い通路に踏み込もうかという時、隣から伸びてきた手がディオンの手首を掴んだ。


「……何だ?」


 足は止めず、手を掴んだまま隣を駆けるククに問う。


「迷子対策!」


 ぐい、と引っ張られる。向かうべき方向を把握しているのはククだから、彼女が先導するのは当たり前と言えば当たり前だが……何となく嫌だ。


「はぐれたら大変だから離さないでね!」


「…………っ、はぁああ……」


 抗議したいのは山々だったが、物凄く山々だったが、未だ得体の知れない力が蠢く洞窟の中、これもまた目的のためなら仕方ない――そう自分に言い聞かせ、ディオンは妙に力の強い少女に引っ張られながら、ただ洞窟の奥へと走り続けた。



 道幅の狭い通路は途中いくつかの分岐点を有していたが、ククの足取りに迷いはなかった。走り、曲がり、また走り……ふと、道が途絶えた。進んできた道よりは多少広い場所に出たが、先ほどまでいた広場ほどの面積はない。


 水晶の壁が目映い以外は殺風景な空間の中央に、妙なものが置かれていた。


「…………」


 ククが黙ったまま手を離す。

 彼女の横に並び立ち、ディオンは言葉を失った。

 それは傷だらけの四角い箱、いや、容器だった。何かから無理に引き剥がしたように全体が大きく歪んでいるが、辛うじて箱型の形は保っている。黒く塗られた側面に対して、天板の部分だけが透明な硝子のような素材で出来ており、中が見えるようになっていた。

 箱の中に収められているのは人間の脳だった。それも一つではない。仕切りで四つに区切られた内の三部屋に一つずつ。薄く黄色がかった液体に浸され、三人分の脳が収容されている。それぞれの脳には細いケーブルが無数に突き刺さり、ケースの中央に据えられた黒い球状の物体に繋がっていた。

 唯一脳が入っていない部屋には、脈打つ人間の心臓が、同じく球体に繋がれた状態で収められている。


「……これが、核になってる兵器か」


 こんなもの、かつて剣を捨てに来た時には無かったはずだ。見つけたならば、きっと放っておかなかった。


 これが「兵器」だと?

 冗談じゃない。


 ククを見ると、彼女は無表情で黙したまま、自身の剣の柄を固く握り締めていた。


「おい、お前……」


「わたし……」


 ククの視線は足元の箱に落とされたままだった。


「わたしには、これについてどうこう言う資格はないよ。これがなんだか分からないし、分かりたくもない。……だけど、わたしはこれを終わらせたい……わたしの勝手でも、それでも、こんなのは……」


 一瞬ククは泣き出しそうに顔を歪めたが、短く息を吐いた後、すぐに感情の凪いだ、いつも通りの表情を取り戻した。


「……ううん。とにかくこれを壊さないと、わたしたちは外に出られない。だから、壊さなきゃ」


 まるで自分自身に押しつけるようにそう言って、ククが自らの細い剣を振り下ろす――が、その切っ先はあえなく弾かれた。単なる硝子かと思われた透明な外殻には小さな傷さえ刻まれていない。何度試しても結果はことごとく同じだったが、ククはなかなか諦めず、躍起になったかのように何度も剣を打ちつけてから、ようやくディオンを振り返った。


「……ディオ。嫌かも知れないけど」


 彼女が何を言うか大体の察しはついていたが、続けられた言葉はディオンの予想とは少々異なるものだった。


「ディオの剣を借りてもいいかな」


 ククはあくまでも自分の手で決着をつけるつもりらしい。

 しかし、ディオンは首を振った。


「お前は下がってろ」


「だけど……」


「これは俺の剣だ。他人に貸し出すつもりはない」


 ククを押し退け、剣を構える。

 所有権を主張する割に、随分長く手放していた剣だ。クレストの存在がなければ、こうして回収に来ることもなかっただろう。だが、それでも、これは俺の剣だ。

 息を吸い込み、手元に意識を集めると、刀身が赤く輝きを帯びていくのが目に入る。

 それに応じるように、箱入りの核にも異変が起きた。黒い壁面にディオンには解読不可能な金色の文字の羅列が浮き上がっていく。どうやら自分に向けられた攻撃の意志を察して、魔法による防衛態勢に入ったようだ。


(無駄だ)


 ディオンは重い刀身を打ち下ろす。

 槽が天板もろとも砕け、内部に満ちていた液体が足元に飛散した。剣先は中央の黒い球体を押し潰し、引っ張られたケーブルの幾本かが脳から抜けて舞い踊る。

 もう一度球体を叩くか、それとも収められた脳そのものを破壊すべきか。逡巡しながら腕を引くと、ごう、と頭上で強風が抜けるような音がして、周囲がいきなり暗くなった。

 すぐに右腕の携帯灯を起動させるも、灯った光は弱々しい。


「おい、大丈夫か?」


「うん。……多分、終わったんだと思う」


 そういうことかと納得する。力の核を破壊したことで洞窟の機能が停止したらしい。

 見下ろせば、濡れた地面に無数に散らばる透明な破片と、外気に触れて沈黙する穴だらけの脳が薄闇に横たわっていた。その傍らに落ちている心臓も、既に動きを止めている。これ以上破壊する必要はなさそうだ。

 安堵と罪悪感を振り切って、ディオンは足を踏み出した。


「行くぞ」


「ディオ、助けてくれてありがとう」


 出し抜けな感謝に、ディオンは眉根を寄せた。


「お前を助けた覚えはないんだが」


「あ、うん。あれ……でも……」

 言いさして、しかしククは首を振った。

「ううん、それより早く行こう。ディオ」


 来た時と同じようにククが先を歩き出し、ディオンもその後に続いた。もう迷子防止に腕を引かれる必要もなく、二人でただ黙々と歩いていると、やがて前方に明かりが見えてきた。

 先ほどの広場だ。

 今度こそほっとしつつ、光の先へ進みかけたククとディオンの元へ、いきなり人間が飛んできた。


「わ!」

「っ……!?」


 咄嗟にククを突き飛ばしたが、ディオン自身は避け損なった。

 ぶつかってきた人間もろとも通路の奥に勢いよく吹き飛ばされ、直後、背中に強い衝撃を受けた。崩れた壁に飲み込まれ、視界が闇に包まれる。


「ディオ! アッ君!」


「……っ、クソが……」


 ディオンは石塊を蹴飛ばして瓦礫の山から這い出した。ついでにぶつかってきた人間――アルスも腕を掴んで引き摺り出す。


「生きてるか? 死んでるんなら嬉しいんだが」


「…………昨今のクッション材は喋れるんだね」


 悪態をつく余裕はあるのかと呆れるべきか、悪態すら弱々しい状態を案じるべきかは微妙なところだった。

 見る限り、アルスの負傷はなかなかのものだった。着込んでいる厚いローブの胸から腹が大きく裂けている。加えて、瓦礫に突っ込んできた際の傷か、それともそれ以前についたものなのか、頬や額が擦り切れ、血が滲んでいた。

 しかし、魔法使いたるこの少年が、あの肉塊相手にそこまで苦戦するとも思えない。

 アルスを置き去ったまま再び広場に踏み出して、ディオンはその原因を理解した。


 向かいの壁際には、あの巨大な肉塊の姿がある。だが、力の核たる兵器を破壊したためだろう、肉塊に生えていた腕も浮かんでいた顔も一片残らず消えていた。

 問題は、別のところにあった。


「探し物の手間が省けた礼を言おう」


 広場の中央で不遜な声を上げたクレストに、ディオンは深々と溜息を吐いた。


「……礼を言われてここまで悪い気分になるとはな。わざわざこんなところまで追いかけて来てもらって悪いんだが、お前に渡せる物は小石一つ無いぞ」


「そうなの? なら、その剣は殺してでも譲ってもらうねっ」


 返答したのは、クレストの隣に並んだ少女だ。確か以前ヴィヴィリアと呼ばれていただろうか。ゲート26で対峙した時同様、両目を眼帯で覆い、その下の唇に不自然に明るい笑みを浮かべている。

 ディオンは素早く視線を動かし、状況を確認した。

 クレストとも肉塊とも離れた壁際に、倒れたライックと杏里の姿が見える。二人とも生きてはいるようだが、アルスと同じで無事とは言い難そうだ。


 となると、ディオンの他に残るまともな戦力はただ一人。


「クレスト……」


 怒りの滲んだ、彼女にしては低い声。

 少年に向けられるククの双眸に普段の柔和さはなかった。


「話し合いをするつもりはないと、やっと理解したようだな」


 笑うクレストに、ククは首を振る。


「理解出来ないよ。でも、みんなを傷付けるなら許さない」


 ククが剣を手にクレストへ近付いていく。しかし、その進路に立ち塞がる影があった。ヴィヴィリアだ。

 少女のナイフの一閃を、ククの剣が受け止める。

 鈍く、重い音が一帯に響き渡った。


「どいて!」


「どかないよ! あなたなんかにクレストとヴィヴィの邪魔はさせないもん!」


 ヴィヴィリアが両手に握った大振りの刃物を振り回す。ククは何とか対応しているが、じわじわと押され、クレストとの距離も少しずつ開いていく。

 となれば、クレストの相手をするのはディオンしかいない。

 体を向ければ、クレストもまたこちらを見ていた。

 クレストはディオンの剣を求め、ディオンはそれを拒絶する。二つの思惑が相反するのなら後は戦うより他にない。

 視線を交わし、互いへの歩み寄りが必要ないことを、それぞれが理解し合ったのを感じた。


 二人、同時に駆け出す。


 軽やかに躍る黒い剣先と、重く風を切る赤い刀身がぶつかった。火花が散って、武器が離れる。

 黒塚の剣は比較的細身ではあるものの、それでもクレストの華奢な体躯では釣り合いが取れていないように見えた。だが、クレストはそんな身体的な不利など物ともせずに、疾く、苛烈な攻撃をディオンに向かって仕掛けてくる。

 対してディオンの剣はその重さと大きさ故に、速さの面で若干相手に劣っていた。力を乗せて振り切ることでクレストの体を押しやるも、相手はまたすぐに肉薄してくる。

 一進一退の攻防が続いた。


(こいつは一体何なんだ……)


 剣を振りながら、ディオンは疑念を抱く。クレストの身体能力の高さは明らかに異常なものだった。手にした魔剣の影響もあるだろうが、それだけが原因とも思えない。


 だが、その答えに辿り着く前に、またしてもクレストの一閃が向かってきた。

 懐に入られると防戦一方になるのは目に見えている。

 距離を取ろうと後退すると、背中に何かがぶつかった。


「っ!」


 肩越しに振り返る。

 視界の端に桃色が映り、それまで意識の外にあった強い腐臭が鼻を突いた。あの巨大な肉塊だ。動力たる兵器を破壊したことで沈静化したそれは既に驚異でも何でも無かったが、再び視線を戻した時――クレストの不敵な笑みに嫌な予感がした。

 クレストの手の内で黒い剣が光を放つ。魔を、瘴気を司る力が、ディオンに、いや、ディオンの背後に向かって放たれた。


「ディオ!」


 クレストの意図を察した瞬間、遠くでククの悲鳴が聞こえた。

 落ちた影が、ディオンとクレストの間に境界線を作る。

 頭上を仰ぐと、高く伸び上がった化け物が形を崩し――


(ああ、ま)


 衝撃と共に、意識が途切れた。


***


 不意に復活した肉塊が、ディオンを頭上から叩き潰した。

 骨が折れる音も肉が潰れる音もその時確かに聞こえたが、冷えた大地が衝撃を吸収すると、その場に残されたのは飛び散った血の痕と静寂のみ。再び沈黙した肉塊に呑まれたまま、ディオンの姿はどこにも見えなくなっていた。


 あーあ、潰しちゃった。振り返り、手を止めたヴィヴィリアがそう言って唇を尖らせる。

 上手く動かせたな。呟いたクレストが自身の剣を腰に下げ、ディオンの手から離れた赤い大剣に歩み寄る。

 ククはその場に剣を取り落とし、呆然と立ち尽くしていた。


 胸の一部がぽっかりと口を開くのを感じる。

 頭の中に白い空白がいくつも浮かんで、何も、何も考えられなくなる。

 けれど、開いた穴からすぐに大きな、クク自身にも制御出来ない感情が流れ込んできた。


 こんなのは、嫌だ。嫌だ。嫌だ。


 クレストがディオンの剣に手を伸ばす。ディオンの剣を奪おうとしている。


「……っ!」


 弾かれたように立ち上がり、ククは走った。

 渡せない。渡さない。渡したら駄目だ。

 けれど、伸ばす手は到底間に合わない。届かない。

 クレストがディオンの剣に触れようかという、その瞬間――横から割り込んだ細い糸が、剣の柄に巻きついた。


「クク!」


 杏里の叫び声と共に、糸に引き上げられた赤い刀身が大きく弧を描いて投げ出される。


「クソッ……っ、!」


 舌打ちし、宙を舞う剣を掴もうと伸ばしたクレストの手に、一本の矢が突き刺さった。

 クレストが体勢を崩す。

 生まれた一瞬の隙を味方に、ククは落下する剣に飛びついた。凄まじい重量に負けそうになりながら何とか踏ん張り、握り直した柄を必死で振る。

 炎のように赤い切っ先は、クレストの喉元で止まった。


「……っ、これで、諦めて、クレスト……!」


「断る」


 クレストが手の甲に刺さった矢を引き抜き、投げ捨てる。矢尻が落下する乾いた音とは別に、どこかで何かが軋むような音がした。


「退いてください」


 ククに続いて訴えたのは、弓矢を構えたライックだった。膝をついた杏里を庇うように立っているが、その顔や腕は傷だらけだった。


「その矢尻には毒薬が塗ってあります。早く処置しないと、無事じゃ済まないですよ」


 優しい顔を歪めて低い声を出すライックに、クレストが喉を震わせて笑った。


「随分親切なことだな。忠告は痛み入るが、そんなつまらないものが俺に効くと思っているのか?」


「なっ……」


「俺はこの剣を手に入れる」


 己の血で染まる手を上げて、クレストが喉に突きつけられた剣先を掴む。矢傷に加えて手の内側からも鮮血が止めどなく流れ始めるが、まるで気にする様子もなく、強く力を込めてくる。


「……でなければ、破壊するまでだ」


 掴まれた刀身が、みしりと嫌な音を立てた。


「やめて、クレスト!」


 ククは腕を引こうとしたが、クレストの恐ろしいまでの力に負けて叶わない。更に、後ろから風を切る音が聞こえてきた。


「安心して! あなたのことも破壊するよっ」


 殺気を纏ったヴィヴィリアがこちらに向かって全速力で駆けてくる。剣を離すことは出来ないが、このままではその剣すらも守れない。


(だめ……!)


 思考が止まりかける中。


「悪いが、お前にそれは渡せない」


 どこか投げやりな、低い声がした。


 ククの握る柄の先、クレストの手の内で赤い光が零れ出す。

 刀身を包み込み、炎のように鳴動する朱色の魔力は、次の瞬間、爆発的に膨れ上がった。


「ッ……!」


 剣から手を離したクレストの背後。肉塊を裂いて現れた人影に、ククは掠れた声で呼びかけた。


「ディオ……」


 血まみれの彼はしかし確かに生きていた。顔を、足を、腕を赤く染めながら、それでも地面に立っている。


「何故だ……お前は、確かに……」


「さあな」


 呻くクレストにディオンが肩を竦めた。薄暗い笑みは、言葉とは裏腹に彼が自分に起こった事象のすべてを理解していることを匂わせていた。


「俺より自分の身を心配したらどうだ?」


 剣先を握っていたクレストの手は、今やどす黒い色へと変わりつつあった。こうしている間にも手首から肘にかけて、じわじわと変色が進んでいる。


「毒矢の影響か? だが、黒の剣の力があれば……」


 何かに気付いたように、クレストが言葉を切る。

 ディオンの笑みが深くなった。


「残念だが、当面その効果は期待出来ないぞ」


「……貴様、何をした……!」


「俺は、俺の剣の正しい使い方をしたまでだ」


 片腕を庇ったまま、クレストが表情に怒気を浮かべる。

 だが、彼が再び口を開くより早く、地面から唸り声のような音が上がった。


 直後、大地に無数の亀裂が走り、ばきばきと不穏な音を立てながら、地面が一気に沈み始めた。


「クレスト、危ない!」


「っ……!」


 クレストが崩れゆく足場を蹴って後退する。

 ククもまた彼とは反対側、ディオンの元へと駆け寄った。


「ディオ、何が起きてるの?」


「知るか! これは俺とは無関係だ!」


 ディオンも混乱しているようだ。

 となれば残る可能性は、あの兵器を壊した影響が今になって出てきたということだろうか。何にせよこうしている今も地面のひび割れはどんどん広がり、あちこちから海水と思われるものが勢いよく噴き出している。

 このままでは、島ごと沈みかねない。


「俺は、まだ諦めない……!」


 苦し気な声に顔を上げれば、クレストの金の眼差しが手負いの獣のような敵意を撒き散らしていた。


「っ……! なっ……!」


 突如、強風が巻き起こり、巨大な影が広場に落ちる。空を仰いだククの目に、何かが恐ろしいスピードでこちらに近付いてくるのが映った。


(あれは……魔獣?)


 舞い降りてきた巨大な怪鳥は、腕を押さえるクレストと、彼を支えるヴィヴィリアの傍らに着地した。


「クレスト……」


 ククは思わず踏み出したが、その腕を後ろから強く掴む手があった。


「ほっとけ。っつか、今はそれどころじゃねえだろ」


 ディオンが険しい顔で首を振る。

 風が唸る音に振り返ると、今まさにクレストとヴィヴィリアを乗せた巨影が上空へと飛び立つところだった。その姿はあっという間に小さくなり、曇天の彼方へ消えていく。

 後には、ククたちだけが取り残された。


「わたしたちも逃げなきゃ……」


 呟くそばから、壁面の一角がめりめりと音を立てて崩落した。

 急いで洞窟の内部を抜け、船まで戻る。逃げる手段はそれだけだ。到底可能とは思えなかったが、他に道は無い。


「みんな……」


 呼びかけようとしたククは、地面を擦る靴音と立ち上る魔力の気配に気が付いた。


「帰る。僕は……」


 紙のような顔色をしたアルスが、指先を宙に滑らせる。

 中空に青く輝く文字列が浮かび上がったかと思うと、広場一帯の地面が共鳴するように輝き出した。


「そんな……無茶だ……!」


 ライックが悲鳴を上げる。

 だが、アルスは彼にも、誰にも目を向けず、躊躇いもせず、ただ自身の指先が示す虚空を見据え、色の失せた唇を開いた。


「……僕たちは、帰る」


 魔法の引き金は、そんな些細な宣言だった。

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