第14話
「クレスト」
砂糖菓子のような声で呼ばれて、クレストは振り返った。
薄暗い部屋の戸口で、小柄な少女が廊下からこちらを覗き込んでいた。と言っても、その両目は眼帯に覆われているが、薄く開いた唇を見れば何か不安を抱えているのは瞭然だった。
クレストがテトラの村での長期任務から戻って以来、彼女は時々こういう顔をする。理由は分からない。
「何だ、ヴィヴィ」
昨晩から続く頭痛に辟易としながら、クレストもまた少女の名を呼んだ。途端、唇をほころばせたヴィヴィリアが猫の子のように部屋に入ってくるのを見て、こうしてお互いの存在を許し合っているようだ、とふと思う。
「どうしたの? クレスト、元気ないね」
「いや、問題無い」
頭の痛みで気が塞いでいるからだ、とは言わない。
ヴィヴィリアは、クレストが腰掛けるベッドの傍らに座って、枝のように細い足をぱたぱたと揺らした。
「あの剣なら心配ないよ。黒ちゃん、返してくれるって言ってたんでしょ? だったら、大丈夫だよ」
剣のことも気にならないと言えば嘘にはなるが、今は優先度が高くない。今の問題は原因不明のこの頭痛――否、その頭痛を呼び起こす、胸の奥の雑音にある。
そうか、とだけクレストが答えると、ヴィヴィリアも自身の勘違いを察したのか、眼帯の上の眉をわずかにひそめた。
「クレストが悲しいのは、剣のことじゃなかったの?」
「……っ」
心に直接触られたのなら、こんな感じがするのだろうか。
唐突に名を与えられた感情は、驚くほど自然に胸に馴染んだ。
悲しい。悲しい。俺は悲しかったのか。
何が? 分からない。それでも。それでも、悲しい。
「クレスト?」
ヴィヴィリアの小さな掌が、指先に仄かな迷いも絡めながら、クレストの頬に寄り添った。
「……俺は平気だ」
柔らかい、春のような温もりは振り払うには惜しかったが、クレストは努めて素早く立ち上がった。
心に澱む感情の名を理解したせいで、じっとしているとますます身動きが取れなくなりそうな焦燥感があった。何でもいい、何か役目を負って動いていれば、きっとこの焦りも、痛みも、少しはましになるだろう。
「クレスト、これ」
クレストの隣で、ヴィヴィリアも立ち上がった。
こちらに差し出された手に握られているものを見て、クレストは彼女の顔に視線を移した。
「ちゃんと持ってた方がいいよ」
それはあの男――黒塚から寄越された短剣だった。投げ捨てておいたのを、ヴィヴィリアが勝手に拾ったのだろう。
こんなものは必要ない。
そう拒絶しようと口を開くのを、しかし明るい声が遮った。
「これ、すっごく綺麗な剣だよね。クレストにとってもよく似合う! だから、絶対持ってた方がいいよ」
クレストの目には相変わらず装飾過多で悪趣味な装具としか映らなかったが、どこまでも屈託のない声で言われるとわざわざ撥ねつけるのも躊躇われた。
「……分かった」
クレストは応じて、彼女から剣を受け取った。
部屋を出て廊下を進むと、当たり前のようにヴィヴィリアも後をついてきた。
屋敷の中は今日も葬式のさなかのように暗く静まり返っている。奥へ向かっても、聞こえてくるのは二人分の足音ばかりだ。
目覚めた時、この屋敷がクレストの家であり、唯一の居場所だった。
あれは一年前――いや、もっと前だっただろうか。気が付いた時には、クレストはクレストだった。過去は持たず、あるのは与えられた名前と役目だけ。それで十分だった。
今も、きっと。それだけで。
長い廊下の果て、床から天井近くまである扉は開け放たれ、虚のような闇の中、女はいつも通り微笑んでいた。
「二人とも、ちょうど良かった」
遠慮なく室内に踏み込むクレストと妙に怯えを滲ませたヴィヴィリアに、女は祈るように組んでいた指を解いて、西日色の瞳を細めた。
「クレスト、ヴィヴィ。あなたたちに新しい仕事があるわ」
宣告する女の足下には、黒塚に回収されたあの黒い剣が影のように横たえられていた。
どうやら自ら仕事を求めるまでもなかったようだ。
クレストは与えられる役目を享受するため、虚の奥へと踏み出した。
***
「杏里ちゃん、お」
「クークー!」
おかえりも言いきれないまま抱きしめられて、ククはよろよろと後ずさった。隣の部屋から壁を蹴るような音がしたが、夜明けと共に宿に帰ってきた杏里は、構わずククの頭に頬をすり寄せてくる。
「もおおおおおやだああああああ」
「んんん……あ、杏里ちゃん、大丈夫?」
柔らかい胸元から顔を脱出させて振り仰ぐと、杏里の泣きそうな顔は泥だらけだった。慌てて「怪我したの?」と重ねれば、杏里はゆるゆると首を振る。
「してない。でも、大変だったのよ~!」
「わっ」
もう一度強く抱き締められ、数分。
満足した杏里が体を離して、ククはようやく解放された。
しかし改めて見れば、杏里の橙色の着物はあちこちが汚れ、手足には切り傷やかすり傷らしきものが出来ている。
次いで彼女の背後に視線を向ければ、同じように汚れた格好のディオンと、あまり汚れていないものの妙に所在なさそうなライックが立っていた。
「一体何があったの?」
困惑するククに杏里は事の顛末――廃都の地下に隠されていた研究所の探索行と、その最深部で遭遇した魔物との戦いについて語った後、最後にライックを思い切り睨んだ。
「別に魔物はなんとか倒せたからいいわよ。だけど一番むかつくのが、この馬鹿男が気絶してたことよ! あたしたちが戦ってる間! ずっと!」
「ご、ごめん……」
ライックはしょんぼりと俯いた。
「でも、おれ、蜘蛛がすごく嫌いで……」
「何ですって!」
「ひいいいごめんなさい!」
「と、とにかく、みんな無事に帰ってきてよかったよ。一緒に手伝えなくてごめんね」
「全くだな」
憮然と頷いたディオンが、ライックに顔を向けた。
「で、船は用意出来るんだろうな?」
「それは大丈夫! 今すぐ持ってくるから任せて!」
言うや否や、ライックはどたばたと部屋を走り出てしまった。
ぽかんとするククの横で、ディオンが頭を掻く。
「いや、別に今すぐじゃ……まあいいか」
「とりあえず、風呂よ……そして仮眠よ……」
疲れ果てた様子のディオンと杏里も出て行って、部屋にはクク一人が残された。アルスは深夜にふらりと外出して以来、相変わらずどこにいるのか分からない。しかし色々作っていたのはもう終わったようだし、きっとその内帰ってくるだろう。
開いた窓の外に目を向けると、潮風が頬を撫でた。
これからあの灰色の海を渡るのだ。そう思うと少し緊張するものの、立ち止まることは出来なかった。
ライックが用意してくれた船に向かったのは、杏里たちが城下から帰ってきた更に翌日の早朝だった。島に着くまで、また、上陸後にどれくらい時間を要するかはっきりしないので、日没まで十分な余裕を持って出立しようという話になったのだ。
「……で、これがその船と」
港に係留された船を前にして、ディオンが低く重い声を出す。
対して、答えるライックの声は小さかった。
「はい、その通りでございます……」
塗装が剥げた小型船は、五人で乗ったらぎゅうぎゅうだろうし、下手すればそのまま沈んでしまいそうだった。後部に魔力を燃料とする内燃機関が積んであるが、長く手入れされていないのか、表面が潮ですっかり錆びついている。
「で、でも大丈夫だよ! エンジンも一応動くらしいし! それにもう使わない船だから、万が一何かあれば沈めちゃってもいいって持ち主の人が……」
「いや、沈んだら死ぬだろ。俺らが」
「沈むならあんた一人で沈みなさいよ、バカ」
「うっ」
ディオンと杏里の反応に声を詰まらせたライックが、救いを求めるように振り返った。
「その、これで大丈夫ですよね……! アルス様!」
ライックの視線の先には、宿から抱えてきた荷物を足下に置こうとしているアルスがいた。
「…………」
一応顔は上げたものの特に言葉を発しようとしないアルスにライックは戸惑った表情を浮かべたが、ふと何かを決意したかのように凛々しい面差しになった。
「あの、ずっと気になってたんですけど」
「…………」
「アルス様って、その、五勇のアルス様なんですよね? ああいや、てっきりもっと怖い感じの方なのかと思ってたんですけど、まさかこんな小さくて可愛い方だとは! でもこれならあの噂も……」
立ち上がり、音もなくライックに近付いたアルスは、鎌首をもたげた蛇が獲物を捕食するように、相手の首元を素早く掴んで吐き捨てた。
「黙れ。そして死ね」
次の瞬間何が起こったのか、ククにはいまいちついていけなかったが、気が付けば大きな水柱が一つ、目の前の海面から上がっていた。
見下ろせば、水中で緑色の影がゆらゆら揺れている。
と、すぐに波を割って、びしょ濡れのライックが飛び出した。
「だ、誰かあああっ」
「ら、ライ君!」
「待ちなさい、クク」
慌てて駆け寄ろうとしたククを、後ろから白く柔らかな手が引き留めた。振り返ると、悲壮な顔をした杏里がふるふると首を振っている。
よく見ておきなさい、と彼女は言った。
「これが愚かで軽率で浅慮な者の行き着く最期の姿よ」
「た、助けてええ!」
「こうなると、もうあたしたちには救えないわ……」
「杏里ちゃん……そんな……!」
「悲しいけど、見送りましょう……」
「で、でも……」
「さよなら、えーっと……猫男」
「あ、ライ君だよ。杏里ちゃん」
「ちょっ、二人ともぉおおおお!」
「おい」
離れたところにいたディオンが杏里とククの傍らに歩み寄り、賑やかに飛沫を散らす水面を苦々しげに見下ろした。
「……いい加減行かないか?」
幸いにして、船は無事動いた。
荒波に揉まれながらも航行は続き、やがて薄霧の向こうに小さな島影が確認出来るようになったのは、出港からおよそ二時間が経った頃だった。
「あれが目的地?」
「多分そうだ」
ククの問いかけに、目を細めたディオンが頷く。
島はティーカップを伏せたような半円形で、横にも縦にも、けして大きくはなさそうだった。
ククは潮風にたなびく髪を押さえ、周囲を軽く見回した。
四方は当然海に囲まれているが、先ほどから船体にぶつかる波の力が少しずつ強くなっている気がする。ここまで真っ直ぐ進んでいた船も先ほどから頼りなく左右に頭を振るばかりで、進路が定まらない。このままでは島影を見失ってしまいそうだ。
海流が歪んでいる。
サラノの番屋にいた男は、確かそんなことを言っていた。それは妙な兵器が沈んでいる影響だとも。
「で、どうするんだ? 島に渡る手段はあるって言ったよな」
腕組みしたディオンが船の後部に声を投げる。
彼の視線の先、真っ青な顔のライックと真っ白な顔の杏里が仲良く船縁に寄りかかっている更に後ろで、アルスが箱形の機械を一つ、傍らに置いて座っていた。同じような形の機械は船の最前にももう一つ積まれていて、ただでさえ狭い船内を一層圧迫する原因になっていた。
「聞いてんのか? お前に言ってるんだ、クソガキ」
苛立った様子のディオンに、アルスはようやく顔を上げた。
「聞いてない。あんたが今すぐ海底に沈んでくれるなら、遺言くらいは聞いてやってもいいけど」
「何だと!」
「ディオ、アッ君!」
こんな狭いところで喧嘩されたら本当に船が沈みかねない。
立ち上がりかけたククを尻目に、アルスがつと腰を上げる。
傍らの箱――金属板で四方を覆われ、相当の重量がありそうなそれを、彼はおもむろに上空に掲げたかと思うと、何の躊躇いも見せずに海中に投げ込んだ。
「アッ君!?」
「なっ……何してんだ?」
飛沫が上がったのも束の間、箱は当然海深くへと沈んでいく。後を追うように船縁に身を乗り出したアルスは、しかし手のひらを海面に軽く浸しただけだった。
「クク」
「あっ、うん」
呼ばれたククは戸惑いつつも、事前に彼から受けた指示を思い出して、船の前方に置かれたもう一つの箱に向き直った。これも教えられた通り、箱の上部から飛び出たレバーを力を込めて引き倒す。と、目の前の機械そのものには変化がなかったが、船の真下から、ドン、と叩きつけるような衝撃が襲ってきた。
「なっ、なに?」
「きゃああ!」
船体が不安定に揺れ、ライックと杏里が悲鳴を上げる。
弾けた海水が床を濡らし、体が滑った。投げ出されないよう船縁を掴みながら、ククは水面に顔を向け、瞠目した。
鈍色の海の奥で、何か青い光が爆ぜている。
だが、それも一瞬のことだった。あっという間に光は失せて、何もかも嘘だったかのように周囲は沈黙した。波の揺れすら感じないほど、船は……いや、海そのものが静まりかえっている。
「なるほど、増幅器で海底の兵器を無効化させたんだね……」
興味深そうな声はライックのものだった。顔は変わらず青いが、何となく楽しそうな表情だ。
ククの視線に気付くと、彼は困ったように笑ってみせた。
「あ、そんなに詳しくはないんだけどね。自分じゃ魔法の一つも使えないし」
「とにかく、これで島まで行けるんだな?」
「えーと、ですよね? アルス様」
一番海水を浴びる位置にいたはずなのに何故か全く濡れていないアルスは、ライックの確認に答えようともせず、もう自分の役割は終わったとでも言いたげに腰を下ろしている。
ともあれ再び前に進み出した船には、もう海流に翻弄される様子はなかった。問題ない、ということだろう。
遠かった島影が徐々に近付いてくる。
孤島の全容が明らかになってくると、ククは元より皆が同じように言葉を失った。
小さな島はわずかな砂浜と半円系の小山で構成されていたが、問題は山の方だった。
隆起した表面は硝子のようなつるりとした質感で覆われており、全体が虹色に近しい複雑な色彩で輝いている。更に近付けば、その麓の部分に人が通れそうな穴が開いているのが見て取れた。山ではなく洞窟なのかと認識を改めたところで、しかしそれがおよそ自然物に見えないことに変わりはない。
「ディオ、あれが目的地なんだよね?」
「……多分な」
尋ねるクク同様、ディオンも混乱した表情だった。
「だけど前はあんな状態じゃなかったはずだ。……もしかしたら、剣が……いや、とにかく行ってみれば分かるはずだ」
しばらく経って、船は孤島へ行き着いた。
島の外周はなだらかな砂地で囲まれ、停泊するのは難しくなかった。穏やかに揺れる船底から陸地へ足を下ろせば、柔らかな白砂がさらさらとつま先を撫でる。
辺りに生き物の姿は見当たらず、砂場には植物一つ生えていない。異様な輝きを放つ洞窟を見上げて、静かだな、とククは考えた。とても静かで、まるで生命の存在を拒むよう。
「ご、ごめん、おれちょっと無理だ……」
一番最後に下船したライックが、ふらふらと砂浜にしゃがみ込んだ。相当船酔いしてしまったらしい。
「申し訳ないけど、ここでみんなのことを待ってるよ……」
「うん、分かった」
元々ライックはこの島での剣探しには無関係な人だ。船を用意してくれただけでなく何も言わずここまでついてきてくれたのは、ひとえに彼の優しさだろう。それだけで有り難かったし、無理はしてほしくなかった。
頷いたククは、同じく顔色の悪い杏里に視線を移した。
「杏里ちゃんも、ライ君と一緒にここで待ってて」
「ううん……あたしも行くわ。ほら、いいから向かいましょ」
「あ、うん。杏里ちゃんが平気ならいいんだけど……」
逆に手を握られ、ククは不可思議な洞窟へと歩き出した。後ろからディオンとアルスもついてくる。
向かうと言っても、洞窟は海岸からは目と鼻の先で、入り口へはすぐに辿り着いた。ガラスの置物めいた外観を裏切らず、アーチ状に切り抜かれた入り口から覗く内部も、やはり作り物のように冷たい丸みと透明感を帯びている。灯りは見当たらなかったが、中は異様に明るく、進むのには困らなさそうだ。
「剣はこの先、かな?」
「ああ、多分な」
「多分多分って、これで無かったら許さないわよ」
話しつつ、奥へと進む。内部は一本道だったが、すぐに横幅が狭くなり、二人並んで歩くのも難しくなった。側面の壁には自分たちの姿が映り込み、遠近感が狂いそうだ。
そうこうしている内に、進行方向を誤ってククは思い切り壁にぶつかった。ゴン、と鈍い音が響く。
「い、いたた……」
「馬鹿。こうやって壁に手を付いて……」
前を歩いていたディオンが呆れた声を上げつつ振り返り、眉をひそめた。
「おい、後ろの連中はどうした?」
「え?」
ククも振り返る。すぐ後ろには杏里とアルスが続いていたはずだったが、二人とも姿が見えなかった。
「はぐれちゃったのかな?」
「まさか。一本道だし、大して進んでないだろ」
なら具合でも悪くなったのだろうか。ククは不安に駆られ、来た道を戻るべきか問おうと、再びディオンを振り返った。
しかし、
「……ディオ?」
今しがた話をしていた彼の姿がどこにもない。
「みんな……! どうしよう……」
得体の知れない恐怖に襲われながら、ククは進むべきか戻るべきか逡巡した。
洞窟には冷たい静謐と異様なほどの明るさが満ちている。だけどそれだけじゃない。この場所は、何かがおかしい。肌に纏わりつく、この感覚は――。
「魔力……」
視界が崩れるように滲む。
壁に手を付こうとした直後、闇がククに覆い被さってきた。




