第1話
強い風に背中を押され、少女――ククは思わず振り返った。
緩やかなのぼり坂の上には、春の淡い晴れ空が素知らぬ顔で広がっている。道の両脇に連なる雑草だけが、逃げ去った風の行方を歌うようにさざめき合っていた。
「竜が通ったような風だったなあ」
「竜……?」
こちらへ歩いてくるのは、切り揃えた木材を両脇に抱えた男だった。普段は村の数少ない商店で近隣の町から仕入れた食料品や薬草などを売っていて、ククも何度か世話になったことがある。
「竜がいるの?」
尋ねると、男は一瞬ぽかんとした後、声を上げて笑った。
「何百年も前ならな。この辺にゃ、大昔に故郷を失くした竜の夫婦が住んでたって言い伝えがあるんだよ。んで、そいつらが飛び回る度に凄まじい風が吹いたってんで、今もそういう言い方をするんだ。ま、田舎の風習みたいなもんだな」
いや、そんなに大層なもんでもないか。そう重ねて、男は笑いながら去っていく。
その後ろ姿をぼんやりと見送って、ククは我に返った。腕に抱いた紙袋を見下ろせば、先ほど顔なじみの農家に売ってもらったばかりの新鮮な野菜たちがそれぞれの色彩を主張していた。どれも今晩の料理に使うものだ。
(……急いで帰らなきゃ)
ククは坂道を駆け下りた。
広々とした畑地と民家を通り過ぎた先に待っているのは、ささやかな村の中心部だ。数人の村人とすれ違い、小さな店の並ぶ一角へと辿り着く。
木のプレートが下がった扉を開くと、楽しげな話し声と温かいスープの匂いがククを優しく出迎えた。
「おかえり、クク」
入ってすぐのカウンターの内側で、若い女性がにっこりした。
「ただいま、ルーナさん」
ククがルーナに野菜いっぱいの紙袋を手渡そうと近付くと、彼女の肩越しにもう一つ顔が現れた。
「クク、随分早かったねぇ。びっくりしたよ」
そう言うのは、ルーナの母にしてこの食堂兼酒場の女主人だ。
「ガルベラさんもただいま。野菜、すぐ使うかと思って」
「急いでくれてありがとうね。助かるよ」
どうやらお使いは間に合ったらしい。ほっとしながら店内を見渡すと、顔馴染みの客たちの向こう、奥の席に初めて見る顔があった。
若い男性だ。歳はククより一回りくらい上、二十代後半に見える。ククの地味なこげ茶の髪や、ぼやっとした水色の瞳とは全然違う、宝石みたいに鮮やかな紫色の髪と、同じくらい鮮烈な印象の赤い目が、落ち着いた色合いの店内でよく目立っていた。
彼の隣の椅子にはいかにも重そうな大きな荷物が置いてあり、更にそのすぐ近くの壁には、彼自身に負けぬほど強い存在感を放つ巨大な剣が、刀身を革の鞘に納めた状態で立てかけられていた。
見慣れぬ青年は他の客からの露骨な視線にも動じず、声を掛けられれば淡々と何かを答えている。きっと旅慣れしているのだろう。彼を取り囲む地元民たちの方がむしろ緊張しているようだった。
「ね、クク」
カウンターから出てきたルーナが、ククの耳元に唇を寄せた。
「あの人、外からのお客さんなんだけど、みんなに絡まれて疲れてるみたいなの。さっき宿の場所を訊かれたんだけど、私の代わりに案内してあげてくれる? 戻ってきたばっかりで悪いんだけど……」
ルーナもガルベラも食堂が混み始めるこれからが一日で一番忙しい時間帯だ。対してククは常に遊撃隊。「もちろん任せて」と頷くと、ルーナはほっとした顔でカウンターへと戻っていった。
ひしめく椅子の合間を縫って、ククは男の傍らに立った。
「初めまして。わたし、ククっていうんだ」
「……どうも」
怪訝な視線に付随する低い声は、ひどく億劫そうだった。なるほど、確かにこれは疲れ切っているみたい。
男の前に置かれたいくつかの皿は既にすべて空だった。宿に案内すると伝えると、彼は迷わず頷いて、席を立った。
夕刻を迎えて、春とは言え周囲を深い森に囲まれた村の空気は肌寒かった。吹き渡る風に乗って広場の方角から作業の物音や人々の大声が届いてくるが、それもじきにお開きになる頃だろう。
村唯一の宿屋は、西の外れにある。昔は中心部にもいくつか宿があったらしいが、客も跡継ぎもいなくて潰れてしまったと以前ガルベラが教えてくれた。
だからククも同じことを男に説明したのだが、返ってきたのは無関心な相槌だけだった。
歩幅が大きく、歩くペースも早い相手に合わせて少し早足になりながら、ククは男の顔を覗き込んだ。
「……名前」
「は?」
「名前、まだ聞いてなかったなって」
「……ディオンだ。ディオン・アンカー」
低いがよく通る綺麗な声なのに、まとわりつく小虫を振り払うようにぞんざいな話し方だった。その声音のまま、ディオンは続けた。
「宿はどこだ?」
「もう少し先進んだ先だよ。森に入る道の近くなんだけど静かなところなんだ。お隣には緑色の屋根の家があって……って、待って!」
ディオンは呼び止めるククに構わず、と言うよりは振り切ろうとするかのごとく、ぐんぐん先へ進んでいく。その背中を慌てて追いかけながら、ククは道の先から顔見知りの少年がやってくることに気が付いた。
「クレスト!」
呼びかけに応じて、鳶色の髪の少年――クレストが立ち止まり、ついでにディオンの足も止まった。
クレストの正確な年齢をククは知らない。だが見た目だけで判断するなら、ククと同じか、少し下の十四、五歳くらいだろう。身長もククと大差ないが、彼の常に冷静なところはその辺の大人よりよほど大人だと、他の村人の間でも評判だった。
クレストは金色の双眸をククに向けた後、ディオンとディオンの背負う大剣を束の間眺めて、再度ククに視線を戻した。
「誰だ?」
「この人はディオン。新しいお客さんだよ」
「そうか。……つまらん剣だな」
突然そんなことを言い出したクレストは、更に付け足した。
「妙なのは髪の色だけか」
そんな言葉を置いて何事もなかったかのように歩き出す。小柄だが凛とした背中はあっという間に見えなくなり、残されたディオンの不機嫌な視線が静かにククを見下ろした。
「……何なんだ、あの失礼なガキは」
「えっと、ちゃんと紹介できなくてごめんね。さっきのはクレスト。一月くらい前に来たディオと同じ旅人で……ちょっと無口だけど、いい人だよ。わたしの友達なの」
「ろくな友達じゃないな」
ディオンの声音は尖ったままだ。どうやら相当怒っているらしい。もしかしたら髪の色をあれこれ言われるのが嫌いなのかもしれないと、夕焼けを受けてきらきら光る紫色を眺めながら、ふとククは思った。
「……もういい」
「あ、だから待ってってば……!」
再び足早に進んでいくディオンの背中を追いかける。
やがて道の先に少し傾いた宿屋の建物と、そのすぐ隣に建つ緑色の屋根の民家が見えてきた。
民家にはクレストが一人で暮らしているのだが……その話は、今はディオンにはしない方が良さそうだった。
夜の食堂は今日も常連客たちで賑わい、最後のお客が帰ったのは日付が変わってしばらく経った頃だった。
ガルベラとルーナと三人がかりで手早く片付けを済ませて、ククは食堂の二階へと引き上げた。
二階は木造の階段を上がってすぐが居間になっていて、奥に浴室とガルベラの寝室、その手前にルーナの私室である屋根裏部屋への梯子がある。今はルーナの部屋の半分を衝立で区切って、ククの寝床にさせてもらっていた。
夕食はいつも通り食堂で簡単に済ませているので、これもまたいつもの流れでククはそのまま寝室に向かおうとしたのだが、不意に背後から両腕をがっちりと掴まれた。
「……で、どうだったの?」
「何のこと?」
右腕を抱くルーナに問われて首を傾げれば、何のことじゃないよ、と左腕を抱えるガルベラの呆れ声が上がった。
「あの旅人だよ。どんな話をしたんだい」
と、訊かれても。
「えーっと、話はほとんどしてないよ」
それしか答えようがなかった。結局あれからディオンはずっと不機嫌そうなまま、到着した宿にさっさと引っ込んでしまったから。
「えー。つまらないの」
ルーナが形のいい唇を尖らせた。
「まあでも不愛想な男だったものね。なーんか暗いっていうか」
「だけど顔はそこそこ整ってたんじゃないかい?」
「やだ、母さんってああいうのが好みなわけ?」
「まあね。それより、あの髪の色は地毛なのかねぇ?」
あの、輝くような紫色。両脇を賑やかな二人に挟まれながら、ククはなんとなく思ったことを口にした。
「きれいな色だよね。宝石みたいで」
そう言いつつ、本物の宝石を見たことはないけれど。
懐かしい、宝物みたいな色だった。
「ねえ、クク」
肘を軽く突つかれ、ククはルーナを見上げた。楽しげに光る大きな瞳が、こちらを覗き込んでいる。
「明日、あの人に朝ごはん運んであげてよ。宿の親父さんってば、どうせろくなもの用意してないだろうし。ね? 母さん」
「ああ、それがいい。頼んだよ、クク」
頼まれて断る理由もない。分かったと頷くククに、親子は何やら視線を交わして笑い合っている。
よく分からないが、軽やかに弾むような空気にククもつられて微笑んだ。楽しいことは、いいことだ。
翌朝、いつもより少し早めに目覚めたククは、ガルベラから預かった簡単な朝食入りのバスケットを手に、村外れの宿屋へ向かった。
朝の澄んだ空気に包まれて、見上げた二階建ての建物はひっそり静まり返っていた。施錠など当然していない正面の扉を開き、中を覗き込んではみたものの、薄暗い屋内に人の姿は見つからない。恐らくディオンも宿の主人もまだ眠っているのだろう。少し待っていれば、じきに起きてくるかもしれない。
そっと扉を閉めてから、ククは建物の裏手に回った。とりあえず庭先に置いてある長椅子で待たせてもらおうかと思ったのだが――そこには先客が寝そべっていた。
「ディオ」
仰向けに横たわる男に呼びかける。陽射しから顔を庇う右腕が動き、億劫そうに細められた赤い目がククを見上げた。
「お前か」
「どうして、ここで寝てるの?」
「このボロ宿、ネズミがうるせぇんだよ。おかげで寝不足だ」
ディオンの忌々しげな視線を追って、ククも背後の古い屋舎を仰いだ。ここの主人は先代の次男で、他の兄弟たちが村を出た今は一人で宿を切り盛りしているらしい。そういえば、ガルベラが嘆いていたことがある。あいつはそりゃあ偉いけど、それ以上にずぼらなんだよ、とかなんとか。
「……で、何の用だ」
「あ、そうそう! 朝ごはんを持ってきたよ」
ディオンはククが差し出したバスケットを睨みながら、のろのろと起き上がった。その拍子に、紫色の髪が朝日を反射してまたきらきらと煌いている。
(やっぱり、綺麗な色)
朝食を渡しつつ改めて感心していると、唸るような声がした。
「悪いな」
それ以上の言葉は特になかったが、早速パンやらチーズやらを広げているディオンは、昨日ほど不機嫌ではなさそうだった。長椅子の空いたスペースにククが座っても一瞬不可解そうな顔をしただけで、そのまま食事を続けている。
多めに入っていたはずのサンドイッチがどんどん減っていくのを見守りながら、ククは尋ねた。
「ディオはどこから来たの?」
「……北の方」
「ここには何か用事があるの?」
「ない。とにかく人のいる方に来ただけだ」
「じゃあ、またどこかに行くの?」
「だろうな。……っつーか、知りたがりのガキかお前は。……いや、まあガキだな」
ディオンは何やら一人で納得した後で、意志の強そうな眉を寄せてククを見下ろした。
「とにかく適当に旅をしているだけだ。お前に語る動機は特にない。田舎娘が喜びそうな素晴らしい冒険譚とかも特にないからな。覚えてねえし」
「覚えてないの?」
「ああ、全然」
「そっかあ。わたしと同じ、記憶喪失みたいだね」
「そこまで喪失してねえよ。……って、お前記憶ないのか?」
「あ、そうなの。ないんだよね」
かれこれ、もう半年近く前のことになるだろうか。
今ここでこうしているククの記憶は、不意にガルベラの家で目を覚ました時から始まっている。
運んでくれた村人たちの話では、このテトラの村の入り口、ちょうど森との境界付近に一人で倒れていたらしい。
目覚めた直後は、とにかくお腹が減っていて、ついでに喉が渇いていた。自分が自分の名前以外――これまでどこにいて何をしていた人間だったのか何一つ覚えていないことに気が付いたのは、ガルベラが作ってくれた美味しいご飯を食べ、ルーナの淹れてくれた温かい紅茶を飲んだ後のことだった。
行くあてのないククを心配して、ガルベラとルーナはここに住めばいいと言ってくれた。その言葉に甘えて、ククはこの村で食堂を営む二人の手伝いをしながら暮らすようになった。
不幸中の幸いは、普通に生きていける程度の一般常識や知識の類は不思議と頭に残っていたことだったが、それでもこの村の外に広がる世界がどんなものだったのかについては記憶も実感も伴わない。余所から来た人間であることは間違いがないのに、この村以外の世界をククは思い出せないのだった。
「だから、ディオみたいに旅をしてる人にはちょっと興味があるんだよね」
そう説明を締めくくると、ディオンは少し間を置いてから、微妙に複雑そうな顔をした。
「……状況の割に能天気だな」
「そうかなあ」
「そうだろ。普通もっと凹むと思うぞ」
呆れた顔のディオンがふと首を傾げた。
「そういえば、さっきから何の音だ。これ」
「音? ……あ! これはね……」
ここ数日当たり前のように聞こえていたから、すっかり意識の外だった。喧騒の正体を教えようとしたククは、何故かディオンの表情が強張っているのに気が付いて、彼が見ている方を振り返った。
庭先を突っ切って、こちらへ歩いてくるのはクレストだった。
「ここにいたか」
「おはよう、クレスト。何かあったの?」
「広場の人手が足りないそうだ。ルーナが探してるぞ」
「いけない!」
ククは慌てて立ち上がった。
「後で手伝うって言ってたの、すっかり忘れてた……! 行かなくちゃ」
クレストは既に来た道を戻り始めている。
その背を追いかける前に、ククはディオンに視線を戻した。
「明後日、お祭りがあるの。これはその準備の音」
何かを打ちつけるような作業の物音。屋外で働く人々の笑い声。たまに怒号。風に乗ってここまで聞こえてくるそれらは、村の人間にはもうお馴染みの音色だった。
「でかい祭りなのか?」
「そうみたい。わたしも詳しく知らないんだけど、色々屋台も出るし、神剣のお披露目もあるって聞いてるよ」
「神剣……?」
「って、何だろうね?」
「俺が知るかよ」
呻くディオンに、ククはそうだよね、と笑った。
「とにかく、折角だしディオンも見に来てね」
「気が向いたらな」
いかにも気乗り薄な返事なのが気になるが、それよりも今は広場に向かわなくては。
「じゃあ、またね。ディオ」
ディオンに手を振り、ククは駆け出した。
穏やかな陽光を浴びながら、畑と畑の間の見晴らしのいい小道を走っていくと、クレストにはすぐ追いついた。
ククは歩を緩めて、少年の隣を歩く。
「クレストも広場まで行くんだよね?」
「ああ。休憩所の設営を頼まれている」
口調こそそっけないが、クレストは人から頼まれたことは断らない。その上どんな仕事も手早く、しかも完璧にこなすから、村人たちからの評価は高かった。祭りの準備も佳境を迎えた今は、あちこちで引っ張りだこになっている。
「なんだ? にやにやして」
「クレストが村に馴染んでよかったなって思ったの。村に来た時は、ちょっと心配してたから」
クレストは、二月ほど前に一人でこの村にやってきた。
どこから来たのかも、何故ここを訪れたのかも語ることなく、村人たちに告げたのは「しばらく世話になる」という言葉だけ。そのまま淡々と村長に許可を取り、村外れの空き家で生活するようになった。
本人があまりに何も話さないので、何かわけありの人間なのではないか、近くの町から役人を呼んだ方がいいのではないか、などという話も挙がったらしいが、祭りの準備で皆それどころではなかったし、何よりその当人が村人たちの手伝いを請け負う姿を見せるようになると、いつの間にか非難の声は聞こえなくなっていた。最初は彼の愛想の無さに慄いていた村人たちも、今ではそんな態度に慣れ、あまり気にしなくなっている。
「……お前が俺を案じるのは、余所者同士の親近感か?」
声には純粋な疑問の色が乗せられていた。だから、ククも正直に頷いた。
「そうかも。迷惑?」
「いや。勝手にしたらいい」
それなら良かったと、ククはほっとした。自分のことを語らないクレストと、語ろうにも自分のことを知らないククでは事情はまったく異なるが、それでも余所からこの村にやってきて居着いている点では同じだ。だからクレストの言う通り、親近感を抱いているし、ここでの生活で何か困っていたら力になりたいとも思っている。――もっとも、しっかり者のクレストに、その心配は必要なさそうではあるのだが。
「お祭り、楽しみだね」
クレストが日に焼けた顔をククに向ける。
視線は、やがて静かにククから外された。
「……そうだな」
広場の喧騒が近付いてきた。見知った村人たちが、あちこちで小さな集まりを作っている。その内の一つから、ルーナがククに向かって手を振っていた。どこからかクレストを呼ぶ声も聞こえてくる。
「それじゃあね、クレスト」
「ああ」
それぞれ呼ばれる方へと歩き出すと、互いの影は遠く離れた。




