同級生キャンディーの巻
【その1】
担任の青木先生から出された宿題を前に、小学校4年生の葛城美衣子は椅子の上にあぐらをかいていた。そして、腕組みをしながら今日46度目の溜め息をついた。
「あー疲れた。休憩っ!」
みいこはさっきから休憩ばかりしている。前の休憩の時などは親友のカナコと電話で四十分も話して
いた。その時も二人の話題は青木先生の悪口ばっかり。
「ホント、超むかつくよね青木バアは」
「そうだね。特にみーこは勉強が嫌いだかんね」
「そんなの好きな奴なんてどうかしてるんだよ」
「でもまあ勉強するのが私たちの仕事みたいなもんだからね」
カナコはいつも、母親の口癖をまるで自分の意見のように口にする。
「カナは出来がいいからそんな簡単に言えるんだよ。あたしなんか毎日汗タラタラもんで
こなしてるんだからね。まったく先生は気楽でいいよ。自分で考えた宿題をみんなにやらせるだけ
なんだから。先生にはストレス解消になって、生徒にはストレスの元になるなんてほんっと不公平よ」
そんな会話を延々40分も続けていたのだ。ようやくカナコとの電話を切ってからまた宿題にとりかか
り、まだ18分しか経っていない。
「ちょっと気分転換のお散歩にいって行ってこようっと」
みいこはお母さんに出かけてくると一言声をかけて表に飛び出した。
近くのコンビニへ行って大好きなキャンディーを買うつもりなのだ。本当は一人で買い食いしたら
お母さんに叱られるのだが(今日はストレスが溜まってるからいいの)なんて勝手に決めて、お小遣い
を少しポケットに入れてきたみいこであった。
家を出てまっすぐに坂を下ると商店街の通りに出る。それを左に曲がって三分くらい歩くと左手に
いつも行くコンビニがある。
途中で顔見知りの八百屋のおばさんや、魚屋のおじさんが声をかけたが、みいこは脇目もふらずに
コンビニを目指してズンズンと歩いていく。なんといっても今日のみいこにはストレスがいっぱい
溜まっているのだ。
タバコ屋を通り過ぎてコンビニが見えてきた時に、そんなみいこがピタリと足を止めた。
目の前に全身灰色で目だけが金色のネコがみいこを見上げてちょこんと座っていたのだ。
ネコが大好きな彼女は思わず立ち止まってしまった。どうやらストレスよりもネコの方が強かった
ようだ。みいこは最近たまに見かけるその灰色ネコを抱き上げようとネコの前にかがみこんだ。
するとそのネコが『おいでおいで』という具合に右の前足をクリクリッっと動かすと、背中を見せて
歩きだした。もしかしたら灰色ネコはただ顔をこすっただけかも知れないが、みいこの目にはカモーン!って見えた。
ネコはコンビニの手前の路地をトントンと左に曲がって行く。みいこもその後に続く。
路地に入ってから気付いたのだが、みいこは今までこの路地に来た事がなかった。両側には家の裏側
らしい塀が続いている。あんまりキョロキョロするとネコを見失うので、みいこは周りを見るのをやめて
ネコを追いかけた。
少し行くと2メートルくらい先を歩いていたネコが右側の塀のはずれをスッと曲がって見えなくなった
ので、みいこはあわててその場所まで駈けていった。ネコが消えたと思った場所には一軒の小さな店が
あるだけで道はなかった。ネコはその店に入ったらしい。
店はちょうどみいこが二人並んで両手を広げたくらいしか間口のない小さなお菓子屋さんだった。
ずいぶん古ぼけたお菓子屋さんで、誰もお客さんはいない。外に比べると店の中はずいぶん暗くて
奥の方がよく見えなかった。
みいこが恐る恐るお店の奥を覗き込むと、店の奥の暗いところにネコの金色の目が一対キラリと光った。だがその目はずいぶん高い位置にある。みいこが不思議に思って見ていると、おばあさんが一人、
さっきの灰色ネコを抱いて奥から出てきた。
おばあさんが抱いていたからネコの目の位置がずいぶん高い所にあったのだ。
「いらっしゃい、みいこちゃん」
おばあさんが自分の名前を呼んだのでみいこは驚いた。
「おばあちゃん、どうして私の名前を知ってるの? 前に会った事あったっけ?」
「いいやないよ。でもわしにはわかるんじゃ」
「うっそー、誰かに聞いたんでしょ」
おばあさんはニコニコして何も答えない。
「そう、僕が教えたんだよ」
男の子の声が聞えたのでみいこは驚いてまわりを見回した。
「なにきょろきょろしてんだよ。僕はここだよここ」
なんとおばあさんの抱いた灰色ネコが前足で自分の鼻を指差して話しているではないか。
「なんだ、あんたネコじゃない。ネコのくせにしゃべったらダメよ。だまってなさい」
「い、いやそう言われても…」
「だめだよ。ネコのくせに口をきくなんて生意気よ」
「そんなひどい事言わなくてもいいじゃないか。僕だって話したいんだからさぁ」
「うるさいっ」
「チェッ、なんだかがっかりだな、驚くと思ったのに」
「ネコがしゃべるのにいちいち驚いてたらディズニーランドなんか行けないわよ。ネズミだって
しゃべるんだから。それにねずみのくせに犬をペットにしてるんだよ」
みいこたちの会話を聞いていたおばあさんはおかしくなってクスクスと笑いだした。
「ねっ、おばあちゃんもそう思うでしょ?」
みいこは同意を求めるようにおばあさんを見た。
「おばあちゃん何とか言ってやってよ。ホント可愛いくせに気が強いんだから」
灰色ネコはそう言うと、困ったような顔をして前足の裏のプヨプヨした部分でおばあさんのほっぺたを
ペタペタとたたいている。
「あはは、お前の負けじゃよ慎之介」
「でもさぁ…」
「驚かしてすまなかったなみいこちゃん。こいつは慎之介っていう名前でな。まあ今はネコをやっとる
が、もともとは人間をやっとったんじゃ」
「ふうん、人間やってたから生意気なんだね。最初っからネコやってればよかったのに」
「んもぅ…」
「まあまあ、そうせめてやるな。こいつにもいろいろ事情があってな」
おばあさんは苦笑した。
「ねえ、ネコの慎之介。あんた私のこと呼んだでしょ。ついて来いって」
「ああ呼んだよ。君にお願いしたい事があったんだ」
慎之介と呼ばれたネコは少しふてくされている。
「なに? 背中のノミでも取れっていうの?」
「違うって、僕を助けて欲しいんだよ」
「助けるって、あなたを何からどうやって助けるのよ」
「キャンディーを食べて欲しいんだよ」
「キャンディー? そりゃああたしはキャンディーが大好きだけど、どういう事よ?」
「ただのキャンディーじゃないんだ。このおばあちゃんの特別製のキャンディーなんだよ」
「なによあんた、このお店の広告キャラかなんかなの?」
「違うよぅ。おばあちゃん特別の魔法のキャンディーなんだよ」
「魔法のキャンディー? そういえばこのお店、お菓子屋さんみたいだけどキャンディーしか
置いてないのね」
みいこはさっきから思っていた事を口に出した。
「ああ、昔からキャンディーしか置いてない。全部わしの手作りじゃ」
店に並んでいるのはいろいろな色や形の大きなキャンディーだった。キャンディー好きのみいこも
見たことがない種類のものばかりだ。どこのお菓子屋さんでもコンビニでも売っていないだろう
どれもキラキラと輝いてとてもきれいだ。
美味しそう、とみいこは思わず口にしていた。
みいこは、ネコの慎之介が人間だったという事や魔法のキャンディーを作る不思議なおばあさんの
事をよく考えてみた。 慎之介を助けるという事の意味も考えてみた。
しばらく考えた末、 頭にポーンと電気がついたみたいに、突然彼女には事情がわかった。
「あっ、わかった。おばあちゃんは魔女でしょ? それもいい魔女なんだ。それで慎之介は本当は
どっかの王子様で悪い奴にネコにされちゃったんだ。それを助けるには近所で一番人気者で可愛い
女の子に魔法のキャンディーを食べさせて、それから、え~と、それを食べると魔法の国へ行けて、
慎之介と一緒に悪い魔法使いをやっつけるんでしょ。そうしたら慎之介も元の王子様に戻ってめでたし
めでたしってそういう話でしょ?」
一気に話し終えたみいこは自信満々の顔で両足を肩の幅くらい開き、腰に両手を当ててえらそうに
立っている。
しばらく沈黙が流れた。
みいこは自分が言った事がズバリだったのでおばあさん達は驚いて何も言えないのだろうと確信した。
と突然、沈黙を吹き飛ばすような大きな笑い声が響いた。
「ウワッハッハ、何だそれ、ア~おっかしい、キャハハハ」
慎之介は笑い転げておばあさんの手から地面に落ちてしまった。でもそこはネコの事、ストンと着地すると再び地べたでお腹を抱えて笑いつづけている。おばあさんも声には出さないが肩がヒクヒクと動いているので笑っている事がわかった。
「何よ、二人とも失礼ね! 人が一生懸命考えたのに」
「ククッ、いやあ悪い悪い、あんまりさあ、よくあるファンタジーやおとぎ話みたいな事を言うからさぁ。おかしくなっちゃって。ごめんごめん」
慎之介はそう言いながらまだ笑っている。
「何よ失礼な奴だなあ。違うって言うの?」
みいこの顔が少し赤くなった。そこへおばあさんが口をはさんだ。
「いや、まったくはずれている訳でもないんじゃ。これ以上みいこちゃんをいじめても仕方ないから事情
を説明しよう。まあ中へ入りなさい」
おばあさんはそう言うとお菓子屋さんの奥の部屋にみいこを誘った。
奥の部屋は床が板張りになっていて真ん中には丸いテーブルがひとつと椅子が四脚置いてある。
どうやら隣の部屋がキャンディーを作る部屋のようだった。甘いいい香りが漂ってくる。
椅子に腰掛けたみいこにおばあさんは温かいココアを出してくれた。とってもおいしいココアだった。
ココアを飲んで一息ついた後におばあさんが話し始めた。
「実はな、みいこちゃん。さっきお前さんが言った事はまんざらはずれている訳でもないんじゃ。
この慎之介はな、さっき人間をやっていたと言った通り、13歳の男の子だった。だがある日、交通事故
で大きなダンプカーに潰されて死んでしまった。生きている時はとても優しくていい子だったので、
死後は天使になる機会を神様から与えられたのじゃ。そのためには天使養成学校に通わなくてはなら
ない。そこで天使になるための勉強をして、いろいろな訓練を受ける。そしてその学校をよい成績で
卒業できた者だけが天使になる資格を与えられる。むろん天使になってからも修行は続くがな」
「ダンプに轢かれたんだ…痛かったろうね…」
テーブルの下でお皿に入ったミルクをふてくされながら飲んでいた慎之介が、ふとみいこの方を
見上げると、みいこは目の玉が落っこちたんじゃないかと思えるくらい大きな涙をテーブルの上に
ポタリとこぼしている。
慎之介は自分のために泣いてくれている彼女を見て少し機嫌がなおったようだ。
「でもどうして天使になるはずの慎之介がネコになっているの?」
「それなんじゃ問題は。実はな、慎之介が養成学校をもう少しで卒業という時に、天使の採用試験に
合格した事が先生から伝えられた。それでこいつは嬉しくって実習室中を走り回ってはしゃいでな、
その時に教室にあった標本のビンを落として割ってしまったんじゃ」
「何の標本? 理科室にあるようなトカゲとかのホルマリン漬けのやつ?」
「いいや、慎之介がこわしたビンにはな、特殊な薬で漬けた不幸の種が入っておった」
「不幸の種?」
「そう、不幸の種」
テーブルの上にスルリと登ってきた慎之介が口をはさんだ。
「その中には五種類の不幸の種が入っていた。不幸の種っていうのは小さくて丸くてちょうどピンポン玉
くらいの大きさなんだよ。それがビンが割れた拍子にはずんでドアの隙間から2個飛び出しちゃったん
だ。僕はとっさにその種を拾おうとしてドアの隙間に入れるようにネコに変身した。これは天使には
必要ない術なんだけど一応学校で習うんだよ。それでとっさにネコになってドアの隙間をすり抜けた、
それが失敗だったんだ。そのまんま雲の隙間から人間界にまっさかさまさ。たまたまネコだったから
大きなケガはしなかったけど、ちょっと足をくじいちゃったんだよ。僕が人間界に落っこちた事を知った
校長先生がその後すぐに連絡して、僕を助けてくれたのがこのおばあちゃん。おばあちゃんも昔は天使
だったんだよ。今は引退してキャンディー作ってるけどね」
「あはっ変なの、天使でも引退なんかするの?」
「そりゃそうさ。世の中にあるものにはすべて寿命というものがある。神様だって天使だってそうさ。
みんな神様は不滅だとか思ってるけどそんな事はない。ただ人間より寿命が長いだけさ」
「ふうん、そうなんだ。それで慎之介はその不幸の種を見つけたの?」
「それがまだなんだ。でも人間界にはいっぱい不幸の種があるからそれを2つ持って帰ればいいって
校長先生に言われた。でもそれには一つ条件があってさ、月食の夜に外へ出て、月が完全に隠れた後、
一番最初に出会った人間とかかわりのある誰かから不幸の種を取ってこなくてはならないんだ。
その出会った人と協力して種を取ってこなければならないって言うんだよ。いろいろと注文が多いだろ」
慎之介は一気に話したので喉が渇いたのか、みいこのココアをペロペロと舐めた。
みいこがちょっと嫌そうな顔をしたが、慎之介は気にせずに話を続けた。
「それでこの前の月食の夜、僕は表に出て月が隠れるのを待っていた。そして月が完全に隠れてあたりが暗くなった時に角から曲がってきたみいこと鉢合わせしたって訳さ」
「月食の日の夜って私どこにいたっけ? あっそうだお母さんと清水さんのおばさんちに行ってて、帰りに駅前のファミレスでハンバーグ食べてきたんだ。お母さんはなんかお魚のムニエルみたいなのを食べて、それでデザートはケーキがいい? ってお母さんが聞いたから私は、いやプリンのバナナボートがいいって言って、それから…」
「ちょっとみいこ。まだ話が終わってないんだけど」
「あっそっか、ごめんね慎之介。いいよ続けて。それでどうしたの?」
「調子狂っちゃうなあ。それでね、僕はみいこの力を借りなくちゃならないって事になったから、その
あと君の事をちょっと調査したんだ。学校に行ってる時とか友達と遊んでる時とか。みいこには絶対わかんないように見張ってた」
「きゃはは、ネコの慎之介隠れるのヘタだなあ。しっかりあんたの事見えてたよ。なんか変なネコだなあって思ってたんだ。なるほどそれでわかった」
みいこは一人で納得したように首を何度も縦に振った。
「ちぇっ、隠れて損したな。まあいいや、とにかくみいこの家には不幸の種はないんだよ」
「本当? よかった。でも自分ちだけ無いからって喜んじゃいけないんだけどね」
「なかなかいい事を言うねみいこちゃん」
おばあさんが口を挟んだ。まあね、とみいこは自慢気に鼻をピクピクッと動かした。
「それで今度はみいこと関わりのある人たちの不幸の種を探したんだ。そうすると驚くほどたくさん
あった。いろいろな不幸を背負っている人がいっぱいいるんだなって僕は驚かされたよ。
学校では習ったけど、いざ自分の目で見ると、本当に天使の役目って大変なんだなと思った。だから僕は絶対に立派な天使になってみんなの不幸の種を全部取り除いてやるって心に決めた。今まで僕は天使に
なる事を簡単に考えすぎていたと実感したからね。だからそのためにまずは天使になるために、みいこの
協力がどうしても必要なんだ」
慎之介は真剣な眼をしてみいこを見つめた。慎之介の話を神妙に聞いていたみいこはしばらく考え込んでいた。
おばあさんが入れてくれた3杯目のココアを飲み干すと、みいこは右手の甲で口についたココアを拭い、慎之介に向かってニッコリと微笑んだ。
「慎之介、ドーンだよ」
「何だよ、ドーンって?」
「ドーンと任しといて。慎之介を早くお空の上へ帰してあげるよ」
みいこは小さな右手のこぶしで自分の胸をどんとたたいた。
「本当?」
慎之介はテーブルの上をみいこの方まで近づいてくるとテーブルの上に置かれた彼女の左手を自分の
両前足で押さえてぎゅっと握った。
「いてて、痛いって慎之介」
「アッごめんごめん、うれしくてつい爪を立てちゃった」
「もう~気をつけてよ」
みいこは引っかかれた手の甲をさすりながらおばあさんに話し掛けた。
「ねえおばあちゃん。じゃあ最初は誰の不幸の種を取るの?」
「それはまずこの子からじゃ」
おばあさんはそう言いながらテーブルクロスの下に入れてあった写真を一枚みいこの前に置いた。
「どれどれ、あっこれタエじゃない。どうして? ねえどうしてなの?」
「どうしてって、その子、君の同級生のタエって子が不幸の種を持ってるからじゃん」
「でも慎之介、タエは学校で一番お金持ちのお嬢さんでとっても明るくていい子なんだよ。みんなにも好かれてるし。あの子に不幸の種なんて関係ないと思うんだけど」
「みいこわかってないなあ。いいかい、お金持ちだから幸せだとか、貧乏だから不幸だとかそういう問題じゃないんだよ。不幸の種を持った人はその状況や環境がどうであれ不幸になっていくんだよ。特にタエっていう子の家にある不幸の種は自分では取り返す事の出来ない奴の手に渡っちゃってるんだよ。
欲鬼っていう名の鬼にね」
「よっき?」
「そう、人間の欲望に付け込む鬼。たちが悪いんだこいつは」
「でもタエはそんなに欲張りじゃないよ」
「ああ知ってる。その鬼はタエの両親に取り付いたんだよ」
【その2】
おばあさんのお菓子屋さんを出たみいこはすっかりコンビニに行く事を忘れてしまって、そのまま家に向かって歩いていた。慎之介もみいこと並んで歩く。商店街のさっき来た道を戻りながらみいこと慎之介は作戦を立てていた。
「ねえ慎之介、もし私が魔法のキャンディーを食べるとどうなるの? さっきおばあちゃんに聞くのを忘れちゃった」
みいこがおばあさんからお土産にもらった普通のキャンディーを一つ口にほうばりながら慎之介に聞い
た。キャンディーはすごく美味しくて、みいこの顔は知らない間にスマイルの絵文字のようになっていた。
「なんだ大切な事を忘れたんだなあ。あのね、おばあちゃんが作った魔法のキャンディーを食べると何にでも変身出来るようになるんだよ。でもね、ここが問題なんだけど、ただ自分がなりたいからっていう
理由で、たとえばアイドルの姫野モモに変身しても、もしそれが誰かのために役に立たなければそのまま
元の姿に戻れなくなってしまうんだ。みいこはそのあと一生、姫野モモとして生きていかなくてはならなくなる。もちろんお父さんやお母さんも姫野モモがみいこだとはわからない」
美味しいキャンディーを食べて絵文字になっていたみいこの顔が慎之介のその
言葉を聞いて、フッと真剣な顔に戻った。
「あたしが…あたしじゃ…なくなるの?」
慎之介は立ち止まると、みいこの方を見上げて静かに首を縦にふった。
「そんな、そんなのって…」
「ねえ、お嬢ちゃんどうかしたの? 迷子になったの?」
気が付くと商店街に買い物に来ていた知らないおばさんが心配そうにみいこを見ていた。
「あっ、ううん大丈夫、ありがとうおばさん」
みいこはそう言うとあわてて慎之介を抱きかかえて走り出した。
家のすぐそばまで来てみいこは慎之介を地面に下ろすと、ひざを曲げて顔を近づけ、小さな声でささやいた。
「慎之助、よく聞くんだよ。うちのお母さんはすっごいネコ嫌いだから。絶対にお母さんに見つからないようにしないとだめだよ。お母さん、キティーちゃんだって嫌いなくらいだから絶対だよ。あたしはとりあえず家に入るから慎之助は後からあたしの部屋の窓に来て。ホラ、二階のあの部屋ね」
みいこが指さす部屋を確認して慎之助は頷いた。
「あたしが部屋に行って窓を開けるからね。わかった?」
慎之助は二度目の頷きをみいこに返した。
「ただいまーっ!」
いつもより大きな声を出しながらみいこは家の玄関を開けた。
「あっ、おかえりみーこ。ねえ、ちょっとこれ手伝ってくれない?」
「ア、ウン。ちょっと待ってね。トイレ行ってからね」
あわててごまかしたみいこはパタパタッと階段を駆け上がると自分の部屋に駆け込んだ。
一目散に窓のところへ行くとガラガラッと窓を一気に開けた。開け放した窓の外を見る
と慎之助が窓のすぐ下の瓦の上に首を傾げてちょこんと座っているのが見えた。
「早く入って慎之助」
みいこは慎之助を部屋に入れて、これからお母さんのお手伝いをしなければならない事と、絶対に部屋
から出て家の中をうろうろしない事を言いつけて階段を降りていった。
夕食をいつもより早く食べ終えたみいこは自分の食器を流し台に出すふりをして、さっきお手伝いの
時にこっそり隠しておいたご飯とかつおぶしを服の下に隠すと、急いで二階の自分の部屋に入ってドアを
閉めた。
「慎之助っ、どこにいるの? 慎之助っ」
みいこは自分の机の上にご飯とかつおぶしを置くと周りを見回して慎之助を探した。
ふと自分のベッドの上を見ると、慎之助はみいこの枕に頭を乗せて首のところまでしっかりと布団を
かけて眠っていた。おしゃべりをする猫にしてはかわいい顔をして眠っている。みいこはその寝顔を
見てなんだか起こすのがかわいそうになり、そのまま歯を磨くために洗面所に向かってそっと歩いて
いったのだった。
今大人気の五人組男性ボーカルグループ『スコンブ』のボーカル、ケイ君のしなやかな掌がそっとみいこの頬を撫でている。いつもテレビで見る爽やかな笑顔で彼女の寝顔を覗き込んでいる。
「う、うん。おはようケイ君…むにゃむにゃ…」
ケイ君はまだ起きようとしないみいこを見つめながら微笑を口元に浮かべている。
「ケイって誰だよ?」
突然、ケイ君の声と全然違う無愛想な声がみいこの耳元で聞こえた。
驚いてベッドの上に上半身を起こしたみいこの首に灰色ネコの慎之助がぶら下がりながら、前足の
プニョプニョした部分でみいこのほっぺたをペタペタと叩いていた。
「てめぇ~、慎之助ッ!」
せっかくのケイ君とのひとときをじゃまされたみいこは慎之助を畳の上に投げ飛ばした。女子プロレス
を見て覚えたボディースラムの要領だ。きれいに決まった。ギュッという変な音がしたぞと思ったみいこ
はちょっとドキッとして慎之助の方を恐る恐る見てみた。
動かない…慎之助は背中を畳の上にくっつけて、つまり仰向けのまま大の字でお腹を見せていた。
「しん…の…すけっ」
みいこが声をかけても慎之助はピクリとも動かない。
みいこは慎之助を抱き上げた。小さな灰色ネコはだらりと両方の前足を身体の横にぶら下げたまま動か
なかった。死んだの?…みいこはどうすればいいかわからなくなった。ただ必死に慎之助の名前を呼ぶ事
しか出来ない。そしてもう一つみいこに出来る事はぐったりとした慎之介の身体を小さな手で撫でまわす
事だけであった。しばらくすると…
「ゥクッ、クックックッ」
息を詰まらせたような笑い声が腕の中から聞こえた。
(あれっ、こいつ生きてる、という事は…だまされた!このやろー)
みいこが気付いた時には慎之介は、お腹を抱えてみいこの腕の中で大笑いしていた。
「こらっ、慎之介っ!」
みいこの腕から飛び降りて部屋の中を逃げ回る慎之介をみいこは追いかけまわした。
「これ、みーこ何ガタガタやってんの。早く下りてきてご飯食べなさい」
お母さんの呼びかけにはーいと返事したみいこは仕方なく、部屋の隅っこで背中の毛を立てている
慎之介をギロリとひと睨みして階段を下りていった。
【その3】
家を出て学校に向かうみいこは歩きながらずっと考えていた。どうすればタエとタエのお父さん、
お母さんを助けられるのか。昨夜も顔を洗った後に慎之介と長い時間相談したのだがいい考えが浮かばな
かったのだ。
一人で考え事をしているみいこを塀の上を歩いている慎之介は心配そうに見守っていた。今朝投げ
飛ばされた時に打った背中がまだ痛む慎之介であった。
「こらっ!」
突然後ろから誰かに肩をつかまれたみいこは、驚いて70センチくらい飛び上がった。
着地してから後ろを見るとタエがニコニコして立っている。一瞬みいこはアッと思ったが、いつものタエ
と同じ様子なのでこわばりかけた顔をほぐしてニッコリと笑い返した。
「もうー、タエびっくりするじゃん」
「あはは、元気印のみーこが、何かお化けみたいにどんよりと歩いてるからさあ。気合を入れてやったん
だぞっ! あたしに感謝しろよっ、みーこっ!」
タエは大きな声で笑った。
(あんたの事を心配してどんよりしてたんだよ!)
そう言いたかったみいこだが、もちろんその言葉はごくりと飲み込んだ。
「よしっ、気合だあー!」
みいこが大きな声でそう言うとタエは面白そうにゲラゲラと笑い、手をつないだ二人は全速力で学校に
向かって駆けだした。
その様子を塀の上から見ていた慎之介は薄い眉毛の間にしわを寄せてその場に立ち止まった。絶対に助け
てあげなきゃ、慎之介はそう自分に言い聞かせた。
慎之介は学校の授業中みいこのそばにいるわけにもいかないので、昨夜みいこと相談した通り、タエの
家の様子を探りに行くことにした。家の場所はみいこから聞いて頭に入っている。学校からみいこの
家の方角に少し進むと慎之介は三叉路になった道路を右に曲がった。道に沿って進むと、大きなお屋敷が
道の両側に現われはじめた。
「うわあ、すっごい家ばっかりだなあ。僕も人間の時にこんな家に住みたかったな」
思わず声に出して独り言を言ってしまった慎之介は、前足で口を押さえて一人で苦笑いした。
バカだな俺って…慎之介は独り言をまた声に出すと顔をゆがめてさみしそうな笑い方をした。知らない人が見たらきっと変なネコだと思うだろう。
覚えていた番地には慎之介の三十倍くらいの高さの、まるでお父さんが好きだったテレビの水戸黄門に
出てくる代官屋敷のような大きな門が堂々と立っていた。泥棒でも戸惑うような高さの塀だったが、
慎之介にとっては全然問題ない。まだ羽はもらえないが、天使の勉強と厳しいトレーニングをこなして
きた慎之介のこと、ニャッと一声上げて飛び上がると次の瞬間には正門のすぐ横の塀の上に立っていた。ストンと塀の内側に降りた慎之介は足音も立てずに奥の母屋の方へ小走りで近づいていった。
建物の周りをぐるりと一回りした慎之介は、母屋の応接間からなにやら人の話し声が聞こえて来る事に
気付いた。話し声のする部屋の窓際まで行った慎之介はそっと壁に爪を立てて窓枠までよじ登った。
「にゃははっ、どうだいご主人、今度の契約もうまくいっただにゃー?」
聞いているだけで誰もがイライラするような甲高い笑い声が、窓に押し当てた慎之介の耳に聞こえて
きた。きっと欲鬼の声にちがいないと慎之介は思った。慎之介は前足に力を入れて部屋の中が覗けるよう
に身体を少し持ち上げた。
その部屋にはさまざまな外国の調度品が並んでおり部屋の真ん中には大きな革張りのソファーが向かい
合わせで置いてあった。一人掛けのソファの上にえらそうにふんぞり返っているのが欲鬼のようだが
背中を向けているので窓からは顔を見ることが出来ない。
「はいっ、おかげさまで二億円儲ける事が出来ました。これも欲鬼様のおかげです」
「ふむふむ、おみゃーらもでゃーぶお金様のありがたみがわかって来たよーだにゃ」
「はいっ、それはもちろん。家内もとても喜んでおります」
そういうと欲鬼と話していた背広姿のおじさんが、となりに座っていたきれいな色の洋服を着たおばさん
のほうを振り向いた。そのおばさんはきれいにお化粧をしていた。慎之介は二人を見てタエの両親だと
すぐにわかった。二人ともタエにそっくりだ。
「先生、本当にありがとうございました。これでタエを中学から名門の慶栄学園へ行かせる事も出来ま
す。この世の中はすべてお金です。私たちはいつも不安でした。仕事がうまく行かなくなったら
どうしようとか、そういう不安がいつも付きまとっていました。」
タエのお母さんが一息入れた時に、ふむふむと欲鬼は相づちをうった。
「しかし、先生がこの家にいらっしゃってから、私共は汗水たらして働く事のばからしさを教えていただきました。お金はどんな方法を使って手に入れてもお金に変わりはないのです。人をだましても、お金を手に入れた方がだまされた人間よりも優れているのです」
「ふむふむ、でゃーぶお母さんもわかったみたいだにゃ」
欲鬼が満足そうに笑っている。
「で、今度はどうするにゃ?もっと人を利用してお金様をためるにゃ?」
欲鬼は人差し指で鼻をほじりながら横柄な口調で二人にただした。そのことばを聞いて、口を開いたのは
お父さんの方だった。
「実は先生、お願いが一つあります。うちの娘のタエの事なんですが、どうも私どもが最近変わったと言って、あまり快く思っていないようなのです。お母さんたちは欲張りになったとか、お金のことばっかり言ってるとか反抗するのです、それで主人とも相談したのですが、タエにも先生のお教えを頂いた方が良いのではないかと思うのです」
「ふむふむ、なるほどにゃ。タエももう四年生だからにゃ。そろそろお金様のありがたみをわかる年頃
かもにゃ。…よし、今夜タエにお金様のありがたみがわかるように、わしが乗り移ってやろう。
そうすればおみゃーさんたちも将来安心だにゃ」
「ありがとうございます」
タエのお父さんとお母さんはテーブルに頭を擦りつけて欲鬼に何度もお礼を言った。
「だがにゃ!」
ひと時の間があって欲鬼が口を開いた。
「今夜は絶対にタエの友達が家に来ないようにするんにゃ、いいにゃっ! この前来ていたマサルとか
いうガキ、あいつにゃんかぜーったい、遊びに来させるんじゃにゃーぞ。見ているだけで腹が立つからに
ゃ」
「よっしゃー!」
何を思ったのか窓枠にかけていた両手を離してガッツポーズをとった慎之介はそのまま窓の下へ
まっさかさまに転がった。
「ふうーん、それでその欲鬼は、今夜タエにも乗り移るって言ったのね?」
「ああ、僕は驚いたよ。もう間に合わないのかなってあせってね」
慎之介は猫のくせに、みいこが持ってきたアイスクリームを舐めながら話していた。
二人いやみいこと一匹のネコはみいこの部屋で相談していた。
「でもね、みいこ。いい方法が見つかったんだよ」
真剣な顔をして慎之介が顔を上げてみいこに話しかけた。だがクリームがいっぱい口の周りに付いているので、あまり真剣な顔には見えなかった。
アイスクリームを食べるのに忙しくて慎之介の話を適当に聞いていたみいこがふと真面目な顔になって
慎之介の顔を覗き込んだ。みいこの顔もアイスクリームがいっぱい口の周りについているのであまり
真剣には見えない。
「マサルだよ。キーワードはマ・サ・ル」
「マサル?」
不思議そうな顔をするみいこの耳元で慎之介は何かヒソヒソと話し始めた。みいこの髪に慎之介の口の
周りのアイスクリームが付いたのにみいこは気付かなかった。
「ふうん、そうかあ、マサルが苦手なのかあ」
髪についたアイスクリームをティッシュペーパーで拭きながらみいこはつぶやいた。
アイスクリームを付けたので頭を一発叩かれた慎之介はおでこをさすりながら頷いた。
「なぜかすごく嫌がってるみたいだった。でもそのマサルっていう子はどんな子なの?」
「マサルは酒屋の息子ですごく太ってて、いつも汗をかいてるんだけど運動は得意な子だよ。
あだ名は横綱。時々家で配達の手伝いとかしてなかなかいい子だよ」
「そうか、でもそれだけじゃどうして欲鬼が嫌ってるのかわからないなあ」
「まあいいんじゃないの。欲鬼が嫌っている事はわかったんだから。やっぱりマサルに登場してもらった
方が何か役に立つと思うんだけど。そう思わない慎之介?」
それから五分後、みいこはダダダッと階段を駆け下りた。慎之介を見たお母さんが驚いて青い顔を
しているのも気にせずに、慎之介を肩に担いだままおばあさんのお菓子やさんまで一度も休まずに
駈けて行った。
どたどたとお店の奥に駆け込んだみいこは大声で叫んだ。
「おばあちゃん、作戦は決まったよ。早くキャンディー作って! 同級生キャンディー」
みいこのあまりの勢いに驚いたおばあさんは、ふたりを落ち着かせて話をじっくりと聞くと、わかったと一言つぶやいて隣の部屋に入っていった。そしてしばらくしてから出て来たおばあさんの手には大粒の
茶色いキャンディーがキラキラと光りながら乗っていた。
「ハイみいこちゃん、おばあちゃん特製の同級生キャンディーだよ」
みいこは大きく頷くと、慎之介の方をちらりと見た。みいこの足元で前足を真っ直ぐに伸ばして座って
いた慎之介はみいこの目を真っ直ぐに見つめると、大きく頷いた。
みいこは慎之介にニッコリと微笑みかけると、大きな同級生キャンディーを口の中にぽいっと放り込ん
だ。慎之介とおばあちゃんの顔を交互に見るみいこは不安で今にも泣き出しそうな顔をしていた。
【その4】
みいこは電話もせずに突然友達の家に行くことを少しためらっていた。それもみいこ自身が行くのでは
なくて、あの暑苦しい汗っかきで太った同級生のマサルが一人でタエの家に行くことをためらったの
だった。もちろん、このマサルはみいこがおばあさんの魔法のキャンディーを食べて変身したにせものの
マサルだった。だがタエを助けるためにはどうしても今日タエの家に行かなくてはならない。そう決心
したみいこのマサルはタエの家の門の前に立った。
大きな門の横のボタンを押すと、上品なチャイムが家の奥から小さく聞こえてきた。マサルはもう額から
汗をタラタラと流している。
「ねえ、慎之介」
「なに?」
「あたしさあ、すっごく暑いんだけど。マサルっていつもこんなに暑いのかな?」
「まあ、それだけ太ってれば真冬の雪の中でも暑いと思うよ」
みいこがかわいそうだと言うような口ぶりであったが、口元がニヤリと笑っている。
「慎之介おぼえときなさいよ」
ゴクリとつばを飲み込む音が慎之介の喉から聞こえた。
みいこのマサルが顔の汗を、持ってきた小さなタオルで拭い終わった時、門に向かって誰かが歩いてくる
音が聞こえた。 下駄をはいているのかカラコロという音が近づいてくる。
「どちら様ですか?」
門の内側から女の人の声が聞こえた。みいこはその声を聞いてお手伝いさんのサエさんだとわかった。
何度か遊びに来た時にお菓子を出してくれたやさしそうなお手伝いさんだ。
「は、はい、あたし、いや僕はタエちゃんの同級生のマサルです。塩崎マサルです。タエちゃんは
いらっしゃいますか?」
「あっ、あのう、今日はちょっと立てこんでおりまして…」
門の横の木戸を開けて顔を出したサエさんは困ったような顔をしている。きっと欲鬼に言いつけられた
お父さんかお母さんが友達は断るようにとサエさんに命令したに違いない。
このままでは家に入れてもらえないと思ったマサルは突然大きな声で叫んだ。
「タエちゃん、あーそぼ!」
「あっ、マサル君、今日はタエさんは都合が悪くて」
サエさんはあわててマサルに向かって声を張り上げた。その時だった、誰かが駈けてくる足音が門に
近づいたと思うと、ギイッと大きな門が内側に開いた。
「何よサエさん。私別に都合悪くないわよ。さあはいっておいでよマサル君」
門の内側にタエがニコニコして立っている。
「マサル君今日は一人なの? 裕二たちは塾?」
などと言いながら嬉しそうに家の方にマサルを誘った。困った顔をしているサエさんを見て申し訳ないな
と思いながらみいこのマサルはタエの後について歩いた。
「ねえ、あれマサル君のネコ?」
タエはマサルの後からトコトコと付いて来る慎之介に気付いて指差した。
「あっ、うん慎之介っていうんだ」
「かわいー。おいで慎之介」
タエが呼ぶと、のどをゴロゴロ鳴らしながら慎之介がタエの足元にまとわり付いた。タエが抱き上げると、慎之介はうれしそうにタエのほっぺに頭をこすりつけている。それを見たみいこのマサルはちょっと
むっとした顔をして慎之介を睨みつけた。
「そのネコあんまり利口じゃないから気をつけてね。すぐおしっこするし」
マサルは少し怒った声でタエに言うと太った身体でのしのしと歩き始めた。
タエは慎之介を抱いたまま勝手口から家に入り、マサルもこんにちはと言いながら家に上がらせてもらった。タエの両親は出かけているらしく、家の中はひっそりとしている。
「お母さんはどこか行ったの?」
「ああ、たぶん出かけてるんでしょ。最近ほとんど家にいないから。いいんだ別に。パパもママも家に
いなくたって、別にいいんだ」
タエは何かを思い出したように天井を見上げてひとり言のようにつぶやいた。
「パパもママも最近変なんだよ。お金儲けの事ばっかり考えてる。お金があれば何でも出来ると思ってる
んだよ。うちは結構裕福だし、もうお金なんて要らないのにバカみたい」
「でも前はタエちゃんのお母さんやさしかったじゃないか。遊びに来ると美味しいケーキとか焼いてくれ
てさ」
マサルの言葉に答えずにタエはフッとさみしそうな顔をした。
「さあ、そんなつまんない事より遊ぼうよ。新しいゲーム買ったんだよ」
「ほんとっ、じゃあ勝負だ」
これ以上わかっている事を聞いてタエを苦しませたくなかったマサルは、はしゃいだふりをしてテレビの
ある部屋へドスドスと駈けて行くのだった。
みいこのマサルとタエはそれから40分くらいゲームをして遊んだ。初めてのゲームだけあってマサルは
タエに一度も勝つ事が出来なかった。それでも一生懸命やったので汗だけはタエの十倍くらいかいていた。
「ふう、暑い。休憩休憩」
マサルはコントローラーを持ったままごろりとあおむけに寝転がった。その姿がまるでダルマの置物が
転んだようだったのでタエは朗らかに笑った。
「だーるまさーんこーろんだっ」
タエがそういってマサルをからかった時、玄関の方からただいまと言う声が聞こえて来た。天井を見て
いたマサルは額の汗がすっとひいていくのを感じた。
いよいよ来たな。マサルは真剣な顔になってそのまま身体を起こす。どうやらタエは玄関の方に駈けて
行ったようで部屋にはいなくなっていた。さっきまで窓際で丸くなって眠っていた慎之介が近くに寄って
来たのを確認するとマサルは立ち上がった。
「おかえりなさいおかあさん。あのねマサル君が遊びにきてるんだよ」
「えっ、ダメじゃないタエ。今日は誰とも遊んじゃダメだって言ってあったでしょ」
「でも、宿題も終わったし、せっかく来てくれたんだから…」
「キィー、ダメッたらダメなの。もうすぐお父さんも先生と一緒に帰ってくるんだから」
お母さんは急に大きな声で叫びだした。
「ちゃんとお母さんの言うことを聞きなさい。先生はうちにとって大切な人なんだからね。
だからお友達には帰ってもらいなさい。今日は先生からお前に話がある大切な日なのよ」
タエはお母さんのキツネのようにきつくなった顔を見て、キンキンした声を聞くと涙が出そうになった。
「お母さんなんかだいっ嫌い。何が先生よ。あんな奴うちに来なきゃいいんだ。あいつが来てからお母
さんたちはおかしくなっちゃったんだ。あんな奴いなくなりゃいいんだ!」
「タエっ、先生になんて事を…」
お母さんのキンキン声を最後まで聞かずにタエはテレビの部屋へ駈け戻った。
【その5】
タエが部屋に戻るとマサルの姿はどこにもなかった。きっと今の会話を耳にして、気を使って勝手口
から帰ったに違いないとタエは思った。タエは味方がいなくなったようで悲しくなって両手で顔を覆うと
その場に泣き崩れていた。
7.8分たっただろうか、玄関の方からお父さんの声と、タエの嫌いな『先生』の声が聞こえてきた。
もちろんその『先生』が欲鬼だという事をタエが知る由もなかった。そして今夜タエにその欲鬼が乗り
移って両親のように強欲な人間に変えてしまわれるなどこれっぽっちもタエの頭の中にはなかった。
タエは廊下の方へ顔を少し出して玄関の様子をうかがった。えらそうにふんぞり返った『先生』はいつも
のように真っ黒な背広を着てサングラスをかけている。痩せていて、紫色の唇をした顔色の悪い顔は
いつ見ても不気味だった。背はお母さんよりも小さいのだが、応接間に案内するお父さんとお母さんが
まるで召使いのように腰をかがめているので大きく見える。その姿を見ると気分が悪くなるのでタエは
廊下の反対側にある自分の部屋にそっと足を向けた。
タエがお母さんを迎えに玄関に行っている間にそっと部屋を出たマサルと慎之介は勝手口から表に出て
家の裏側から庭に廻り、応接間の見える木立にかがみこんで様子をうかがっていた。隠れてすぐタエの
お父さんが真っ黒なベンツで欲鬼と一緒に帰ってきた。
「あいつが欲鬼か」
「そうだよ。この前は背中を向けてたから顔が見えなかったけどなんか不気味な奴だな」
黒ずくめの欲鬼を見てマサルと慎之介はささやきあった。いよいよ欲鬼の手から不幸の種を取り返す
時が来たのだ。二人が隠れていた木立からは応接間の様子がよく見えた。応接間ではこの前慎之介が見たときのように欲鬼が窓に背を向けてソファに座り、その前にタエの両親が座って何やら話してこんでいた。十五分ほどするとどうやら話が終わったらしく、お母さんが部屋を出るのが見えた。部屋に残ったお父さんと欲鬼は笑いながらまだ何か話している。
しばらくすると応接間のドアが開いてお母さんが戻ってきた。お母さんの後ろにはふくれっ面のタエ
が従っている。隠れていた二人は緊張で一瞬身体を硬くした。タエはお父さんの横に座らされた。
タエが嫌がっているのは窓の外から見ているマサルたちの目にも明らかだった。ソファに腰掛けたタエは
フンという感じで横を向いている。少しの間お父さんが何か話していたが、急に立ち上がるとお母さんと
二人で応接間を出て行ってしまった。応接間にはタエと欲鬼が二人っきりで残された。
「よしっ、慎之介行くよっ!」
音も立てずにすばやく窓から応接間に飛び込めればよかったのだがなにぶんマサルの巨体だ。
二人は庭に出たときに窓から飛び込むのは無理だと思って作戦を変更していた。
マサルたちはさっき出て来た勝手口に戻るとそっと家の中に入りこんだ。おそらくタエの両親は居間に
いるに違いないと予測しての作戦だった。居間は応接間の向こうなので応接間に行くまでに見つかる
心配はないはずだ。
応接間のドアの前に無事にたどり着いたマサルと慎之介はドアに耳を当てて中の様子をうかがった。キンキン耳に響く欲鬼の声は聞こえるのだが、ドア越しなので何を言っているのかよく聞き取れない。
だんだんとマサルと慎之介はあせってきた。
マサルは慎之介を抱き上げるとそっと耳元で何かささやいた。慎之介はウンというように頷くと、廊下に音も立てずに飛び降りた。マサルは慎之介がドアの前に顔を近づけた時、そっとドアノブに手をかけた。慎之介を見下ろすと、慎之介はマサルのほうを見てオーケーというふうに首を縦にふった。マサルは
つかんでいたドアノブをゆっくりと回し慎之介が入れるくらいの隙間が出来るようにドアをそっと押し開けた。すばやく慎之介が部屋の中に入る。
【その6】
「ニャ~」
慎之介は部屋に入るとすぐに駆け足で、ソファに座っているタエの所へ擦り寄った。
「あれっ、慎之介じゃない。もう帰ったと思ってた。マサル君はどうしたの?」
タエは慎之介をひざの上に抱き上げた。
「にゃんだ、そのネコは?」
「あっこれ? これは私の友達のマサル君が連れてきたネコで慎之介っていうんです」
「にゃんだとっ! マサルがいるのか。あの太ったマサルがこの家にいるのか?」
マサルという言葉を聞いた欲鬼は急にあわてだした。その様子をドアの隙間からうかがっていたみいこ
のマサルは、うんっと一息気合を入れると、握っていたドアノブを思い切り内側に押した。
ドアが全開になった応接間では欲鬼があわてて立ち上がっていた。
「マサルッ、 早く出て行くにゃ。 おみゃーはじゃまだから早く出て行くにゃ!」
キンキン声をさらに高くして欲鬼が怒鳴った。
マサルは興奮していたので、その顔はさっき走った時の汗に加えてさらに汗をかき、まるで頭から水をかぶったようになっている。
マサルはみいこの得意なポーズ、つまり両足を肩幅くらいに開いて腰に手を当てるポーズを取ると、
大きく息を吸い込んで欲鬼に怒鳴り返した。
「うるさい!この欲鬼めっ! お前はタエちゃんに乗り移ろうとしただろう。偶然手に入れた不幸の種を
使ってお前は自分の力をパワーアップしてタエちゃんの両親をお金の亡者にした。そのうちにそのお金を
取り上げて不幸のどん底に落としいれようとしているんだ。お前の悪巧みはこのマサルと元気美人の
みいこと天使の見習い慎之介が許さないぞっ!」
すらすらとはいかなかったが一応さっきから考えていたセリフをちゃんと言えた。
「なんだよそれ?」
慎之介は天使見習いというのがちょっと気にさわったらしくふてくされてつぶやいた。
「にゃんだこの猫はっ! 言葉をしゃべったぞっ」
欲鬼は慎之介が急に人間の言葉をしゃべったので驚いて飛び上がった。タエもおどろいて大きな口を
ポカンと開けている。
欲鬼がどんな力を持っているかわからないマサルたちは注意しながら欲鬼に近づいた。
「おみゃーらっ!」
欲鬼が急にソファの上に立ち上がった。驚いたマサルと慎之介が歩みを止める。
「ち、近づくでにゃー!」
欲鬼はあと三歩くらい近くまで寄ってきていたマサルに向かって背広の内ポケットから取り出した
ナイフを投げつけた。危ないっ、と思ったマサルはナイフを見た瞬間すばやく身体を横にひねって投げら
れたナイフから身をかわした。ナイフは壁に突き刺さった。
その拍子に顔いっぱいにかいていた汗がはじけ飛んで欲鬼の足に少しかかった。
「ギャア~!」
突然欲鬼が大声で叫んだ。襲ってくるのかと思ったマサルは思わず欲鬼の方に体の正面を向けて身構え
た。しかしマサルが見たものは汗がかかったらしい部分を押さえて痛みにもがいている欲鬼の姿だった。汗がかかったズボンのひざの辺りからジュウジュウという音と共に白い煙が出ている。
「みいこ! 汗だっ、こいつは汗に弱いんだ。もっと汗をこいつにかけてやるんだ!」
慎之介はマサルの方を見て大声で叫んだ。それを聞いたみいこのマサルはムギュっと欲鬼に覆い被さる
と、両手で自分の顔をこすり、手のひらいっぱいに汗をなすりつけて、その両手を欲鬼の顔にペタリとくっつけた。
「グワァ~、ギヤア~」
欲鬼は絶叫した。マサルが手を離した両側の頬は真っ赤に腫れて白い煙をじりじりと上げている。
応接間の中に髪の毛が焦げたような悪臭がただよう。欲鬼の胸元にすばやく慎之介が飛びかかり、
顔をおおっている欲鬼の手の甲をガリガリと引っかいた。
応接間が騒々しいのであわてて飛んできたタエの両親がドアから中を覗き込んでいる。。
「こ、こらっ、先生に何をする。やめろ、やめなさい」
大きな声で叫んでいるが、欲鬼の焼け爛れた顔を見て恐がって中には入って来れない。
「このやろう、早く不幸の種を出すんだ。でないとマサルの汗をもっとつけてやるぞっ」
慎之介は両手をガリガリと引っかきながら欲鬼に向かって叫びつづけた。
「わ、わかった、わかった。種はこの服のポケットだ」
「みいこ早く、早く種を取り上げてっ!」
慎之介の叫びを聞いたマサルは欲鬼のスーツのポケットを探った。そして上着の右ポケットに入っていた
小さな丸い玉をつかむと慎之助の方に手のひらを開いて見せた。その手のひらの上には黒い色をしたピンポン玉くらいの大きさの不幸の種が乗っていた。
「それだっ! ちゃんと持ってるんだよっ」
慎之介はそう言うと欲鬼の体からパッと身体を離した。慎之介から開放された欲鬼はまだうめいていたが
急におとなしくなった。着ていた背広は自然に剥がれ落ち、身体がだんだんと縮んでいく。そのうちに
半分くらいの大きさになったかと思うと、その姿は小さなやせこけた鬼の姿に変身していた。
人間の顔をしていた皮が全部むけてしまったのか、もう顔や足に痛みは感じないようだ。
「ふんっ、おみゃーら。好き勝手な事をしてくれたにゃ。今日のところはマサルの汗に負けたがこのまま
ではすまにゃーぞ。覚えておくにゃ」
そう言って窓の方へゆっくりと後ずさりして右手の指を前に突き出した。その人差し指と親指の間には
今取り上げた筈の不幸の種があるではないか。
「な、なにっ?!」
マサルと慎之介は同時に叫んだ。マサルはあわてて自分の手に握った種を確認した。そこにはちゃんと
不幸の種が一つある。
「にゃははっ、俺様はな、不幸の種を二つ持ってたんだ。この種をおみゃーたちへの復讐に使ってやる
からにゃ。楽しみに待ってるんだにゃ」
捨てぜりふをはいた欲鬼はそのままジャンプして庭に面したガラス窓をこなごなに割ると表に飛び出した。そしてものすごいスピードでどこかへ行ってしまった。
慎之介とマサルはどちらからともなく近づいてしっかりと抱き合った。
「やったね」
「ウン、ありがとうみいこ」
慎之介の目には涙が光っていた。
「でも、もう一つ持ってたんだねあの欲鬼」
「ああ、でもこれに懲りてしばらくは悪い事はしないと思う」
「だけど慎之介、どうして欲鬼はマサルの汗が嫌いだったんだろう?」
「そうだね。どうしてかなあ?」
「それは私が説明しましょう」
欲鬼との戦いですっかり忘れていたタエのお父さんが部屋に入ってきながら口を開いた。
お父さんの顔はさっきまでと違い、やさしい顔になっていた。
「欲鬼がいなくなって私たちも夢から覚めたようです。本当にどうかしていました。あの欲鬼が私達の
家に近づくようになってから私達はお金がすべてと思うようになって、だんだんと自分で働かずに、
誰かをだましたり、誰かを利用したりしてお金を稼ぐ事が一番正しい事だと思うようになってしまったのです。でもそれでタエを苦しめていた事にやっと気付きました。今まで本当にどうかしていたのです」
横で聞いていたお母さんもタエに駆け寄るとしっかりとタエを抱きしめて泣いている。
「タエ、ごめんね。本当にごめんね。お母さんたちを許してね」
タエもお母さんたちが元に戻ったうれしさと今目の前で起こった事の恐さで大声で泣きながらお母さんに
しがみついた。
「それで汗の話はどうなったの?」
慎之介がお父さんに問いただした。
「はい、それで欲鬼がマサル君の汗を嫌ったのはマサル君がおうちの仕事のお手伝いをいつもよくして、
一生懸命荷物を運んで汗をかいていたからなんです。先生、いやあの欲鬼は働く人間や一生懸命何かを
やっている人間の汗が大の苦手だったんです。マサル君が頑張り屋さんだという事を、この前遊びに来た
マサル君を見たときに直感で感じたんだと思います。それで今日も絶対にマサル君は家に入れるなと
命令されていたんです」
お父さんは息を一息つくとふと思い出したように話を続けた。
「あっ、でも君がマサル君だからその事はもう知っていたのかと思った」
「そうよ、それに慎之介さっきマサル君の事をみーことか呼んでたけど、どうして?」
タエも思い出したようにマサルに聞き質した。困ったマサルは慎之介にささやいた。
「慎之介、まずいね。そろそろあれ使うよ」
「ああ、仕方ないね。じゃあ出して」
慎之介のことばを聞いたマサルはポケットから小さな紙袋を出した。その中には小さな赤いキャンディー
がいくつか入っていた。
「うん、じゃあ僕が説明します。えっと、その前に気持ちを落ち着けるためにこのキャンディーをみんなで食べましょう。とっても美味しい特別製なんです」
そう言いながらマサルはキャンディーを一つずつタエの家族に配った。そして何事かと思って応接間の
前まで来ていたお手伝いのサエさんにも一つ手渡した。
「じゃあ、みんなで食べましょう」
マサルはそう言うと自分の口にもキャンディーを一つ放り込んだ。つられてみんなもキャンディーを口に入れた。だがマサルが食べたキャンディーだけがピンク色をしていたのには誰も気付かなかった。
「いやあ、疲れたね、慎之介」
「うん、でもうまくいってよかったよ。これで不幸の種を1つ取り戻せたし。あと一つ取り返しせば僕も天使の国へ帰れるよ。みいこ本当にありがとうね」
みいこのマサルと灰色ネコの慎之介はタエの家の前を歩きながら話していた。
「でもあの赤いキャンディー本当に効くね」
「ああ、おばあちゃんのキャンディーは強力だからね。タエちゃんも家の人も今まで欲鬼のせいで
起こった事は全部きれいに忘れちゃったものね。タエちゃんったら、アレッ? とか言っちゃって」
「みんなが気付く前に庭に出たからマサルが来た事も覚えてないしね」
「ああ、でないと明日本物のマサルが困っちゃうからね。汗いっぱいかいてさ」
二人は大声で笑った。笑い終わった時、急にマサルが足を止めた。その身体がくるくるとその場で回転し始めた。すごい速さで廻り始めたと思ったらぴたりとその回転が止まり、そこには元の姿のみいこが立っていた。
「おかえり、みいこ」
慎之介が笑いながらそう言うと、みいこもニッコリと笑って答えた。
「ただいま、やっぱりこっちの方が軽くていいや。慎之介もこっちの方がいいでしょ?」
「うん、やっぱりその方がかわいいよ」
そう言うと慎之介は何だか照れたようにトットットッと先に進んで歩き始めた。
これで一件落着と思った二人だった。 だがそれだけでこの事件は終わらなかったのだ。
【その7】
みいこと慎之介が家まで近づいた時、何か様子がおかしい事に二人は気付いた。大勢の人がみいこの
家を取り囲んでいる。そして玄関の前には救急車の白いボディーとくるくる回る赤いランプが見えた。
パトカーもその近くに二台止まっている。
みいこは嫌な予感がしてあわてて家のほうに向かって駆け出した。慎之介もその後に続いた。
人ごみをかき分けて家の門のところまでみいこがたどり着いた時、家の中から誰かが救急隊員の持つ
タンカに乗せられて運び出されてきた。
タンカに乗った人の顔を見るなり、みいこは無我夢中でその横まで飛んでいった。止めようとする
警察官を振り切って、みいこはタンカの上の人にしがみついた。
「お、お母さんっ!、どうしたの、どうしたの?」
意識を失ったままのお母さんは何も答えず、ピクリとも動かない。
みいこは救急隊員の人にタンカから引き離され、お母さんの乗せられたタンカは救急車の中に運び込まれ
た。救急隊員の手を振り解くとみいこは救急車の運転席の窓に走り寄り、運転している救急隊員の人に
叫んだ。
「あたしも連れてってください。お母さんなんです。お願いします。お願いします」
運転席の窓が開いているのでみいこが叫ぶ声が聞こえているはずなのに、運転席の救急隊員は知らん顔を
している。みいこは何度も声が枯れるほど叫んだ。
救急車の後ろのドアがばたんと閉じられた時、運転席にいた救急隊員はエンジンをかけながらみいこの
方を見下ろした。そして一言こう言った。
「ダメだにゃー、お母さんはさよならだにゃー」
その声を聞いたみいこと慎之介はその場に呆然と立ちつくした。
キキッとタイヤを鳴らしながらものすごい勢いで救急車が発車した。一緒に乗るはずだった他の救急隊員も、おいてけぼりをくらって唖然としている。みいこは走り去る車を追いかけて猛然とダッシュした。
みいこは必死で走った。慎之介もみいこの横を手足がちぎれるくらい動かしながら走っている。
しかしスピードを上げた救急車と二人との距離はだんだんと開いていく。
(だめだ、お母さんが欲鬼に殺される)
そうみいこが思った時だった、みいこの洋服の襟が後ろから誰かにぎゅっとつかまれた。
同時に慎之介も首の後ろ側の皮を誰かにつかまれていた。あっという間もなく、みいこと慎之介の身体は
空中に浮いていた。そしてどんどん救急車との距離が縮まっていく。みいこと慎之介には何が起こったの
かわからなかった。電信柱より少し高い空中をみいこたちは滑るように飛んだ。下に見える救急車との
距離は20メートルくらいまで縮まった。救急車は道を右に左に曲がって近くを流れる大きな川の
土手道に入っていく。
あたりはすでに薄暗くなってきた。救急車はあとをつけられている事には気付いていないのか、国道が
通っている大きな橋の下まで行くと周りから目立たない橋の真下に停車した。それに合わせてみいこ達
の身体も地面に向かって降りていく。
上を見上げたみいこはそこにキャンディーやさんのおばあさんが飛んでいるのを見た。
おばあさんは片方の手でみいこの襟をもう片方の手で慎之介の首の皮をつかんでいた。おばあさんは
橋から少し手前の土手にみいこと慎之介を下ろした。そしてとても優雅なしぐさで右足のかかと、そして
左足のつま先を地面に下ろして着陸した。後ろ向けになったおばあさんの背中には真っ白な羽が生えて
いた。両足を地面にしっかりとつけたおばあさんは羽を内側にたたんで、みいこ達の方を振り返った。
おばあさんの体全体から光が出ていた。 眩しいというほどではないのだが、身体全体がぼんやりと
暖かい光に包まれている。
「おばあちゃん、どうしてここへ?」
慎之介が不思議そうに尋ねた。
「それは後で説明する。とにかく今はみいこちゃんのお母さんを助け出す事が先じゃ。欲鬼は命を
奪おうとしておる」
おばあさんが言い終わった時にはすでにみいこは救急車の近くまで駈けていた。車の後ろに飛びついた
みいこは両開きのドアを思いっきり引っ張った。バタンッという音と共に後ろのタンカ挿入口が開いて
中の様子が見えた。お母さんがタンカで固定されている枕もとには今にもナイフをお母さんののどに
付きたてようとしている欲鬼の姿が見えた。
「おかあさんっ!」
言うと同時にみいこは救急車に飛び乗り、欲鬼に向けて体当たりした。あわてて走ってきた慎之介も
ジャンプして救急車の後ろに乗り込んだ。みいこの体当たりで少し体勢を崩した欲鬼だったが、すぐに立ち直ってみいこを突き飛ばした。みいこは押された勢いで車の後ろから地面に落ちて気を失ってしまった。それを見てフゥッと背中の毛を逆立てた慎之介が欲鬼に飛びかかったその時、欲鬼は持っていた
ナイフを慎之助の方に向けて突き出した。ギャッという叫びを上げて慎之介の身体はそのナイフに吸い
込まれるようにかぶさった。
シュッと真っ赤な血があたりに散ったと思うと慎之介の身体はそのまま救急車の床に落ちて動かなく
なった。欲鬼はちょっと自分でも驚いた様子だったが、慎之介が床に倒れているのを見ると大声で笑い
出した。そして再び持っていたナイフをみいこのお母さんに向かって振り上げた。
ニヤリと笑ってそのナイフをお母さんののどへ振り下ろした時、救急車の中がピカッとまばゆいばかり
の閃光に包まれた。そしてナイフの刃先がお母さんののどへ刺さる直前に、欲鬼は後ろのドアから外に
弾き飛ばされた。
一瞬何が起こったかわからなくなった欲鬼はあたりをきょろきょろと見回した。見回した欲鬼の眼は、自分の前に立って腕を組んでいるおばあさんを捕えた。欲鬼はまるでおばけでも見たように驚いてしりもち
をついたままずるずると後ろへさがった。
「お前、まだ悪さしてるんだね。いいかげんやめる気にはならないのかい?」
「ひえっ、天使様、お許しください。どうかお許しください」
「お前は何の罪もない子供達を苦しめた。そして天使の卵の灰色ネコを殺してしまった。今回はもう許されないよ、消えておしまいっ!」
そう言うとおばあさんが両方の掌を欲鬼に向かって突き出した。ギャッという悲鳴と共に欲鬼の身体に
火がついた。メラメラと燃える欲鬼はそのまま灰になるまで燃え続けた。
「みいこちゃんや、しっかりして。目を覚ますんだよ」
みいこの頬を軽く叩きながらおばあさんはやさしく声をかけた。
うーんとうなりながら地面に倒れていたみいこが目を開けた。
「おばあちゃん、お母さんは? あの鬼は?」
「大丈夫じゃよ。もう鬼は死んでしまった。お母さんも大丈夫じゃ」
そう言うとおばあちゃんは救急車によいしょっと乗り込むとお母さんの口を左手でこじあけて右手の指を
口に突っ込んだ。指が口から抜かれた時、その指先には欲鬼が持っていた不幸の種がはさまれていた。種が取れて気付いたお母さんを見てみいこは体の力が全部抜けたようにその場に座り込んだ。そして、ふと
慎之介が見当たらない事に気付いた。
「おばあちゃん、慎之介は?」
と言いかけたが、その言葉を言い終わらないうちにおばあさんの足元に血まみれで倒れている灰色ネコに
気付き、言葉を失った。
フラフラと慎之介に近づいたみいこは冷たくなった慎之介の身体を抱き上げて号泣した。
「みいこちゃん、心配しなくてもいいよ。わしが天界に慎之介を連れて行く。きっと慎之介はその失敗を
許されて天使になれるじゃろう。わしからも校長によく頼んでくるから。今の校長はわしの教え子だった
からな」
そう言ってみいこから慎之介の身体を受け取ると、おばあちゃんは静かに救急車から降りて白い羽を
背中いっぱいに広げた。そして次の瞬間には空高くに浮かび上がり、そして見えなくなった。
【その8】
事件から一ヶ月が過ぎようとしていた。
「まったくあの青木バアさあ、あたしの事狙い撃ちにしてるんだよ。今日だって授業が終わった後に
あたしだけ呼び出しだよ。まいっちゃうよね。ほんっとムカツク」
部屋の畳の上に腹ばいになって、今日もみいこは親友のカナコと電話で青木先生の悪口をおしゃべりして
いる。電話を切るとみいこは、またいつもみたいに休憩休憩と言いながら机の引出しにある秘密の箱から
500円玉を取り出して、コンビニへ向かった。
みいこはあの事件の後、おばあさんのお店へ何度か行ってみたがいつも閉まっていた。慎之介が血まみれ
になった姿を思い出すとみいこの胸は今でもキリキリと痛んだ。
コンビニの手前まで来た時、ふとみいこは背中に視線を感じた。みいこは右後ろの塀の上を振り返った。 塀の上には一生懸命、前足で毛づくろいをしている小さな灰色ネコがいた。そのネコは金色の瞳をみいこに向けながら面倒くさそうに前足をクリックリッっと動かすと、みいこに向かって片目を閉じてウインクしたのだった。
同級生キャンディーの巻 完
無事にミッションを成功させた美衣子と慎之介のコンビには次の課題が与えられる。
果たしてこのデコボココンビに与えられる次の使命とは?まだまだ続きます。