幾何学的エレジー
高校二年生に進級し、数か月が経った頃。ようやく身体に合ってきた制服を身にまとう一年生の姿を見て、かつての自分もあんなだったのだろうか、と思いを馳せる。かたや教室で腕まくりをし、一心不乱に手元の参考書に向かっている三年生の姿を見て、あぁ受験生にはなりたくないな、など考える。そんないつもの放課後、変わり映えしない日々。
ある男子は、掃除当番であるはずなのに、もう姿はない。
ある女子は、廊下に陣取り、他のクラスの女子も含む数名のグループで何やら話している。
そして僕、半井蒼は毎日、行く当てもなく、校舎内をほっつき歩いていた。
女子でもあるまいし、トイレの個室にこもるのはおかしいだろう。図書室も考えたが、僕は本が好きじゃない。あんな文字の羅列は、見ているだけで頭が痛くなってくる。教室にいるのは論外だ。あんなに騒がしい場所にいられる方がどうかしている。では、生徒の大部分が教室を去り、そしてあたりが静かになるまでの、長いとも短いとも言い難いその空き時間に何をして過ごすか。考えた結果、校舎内をぶらぶら歩く、という結果に至ったのだ。満点とは言わないが、及第点は与えられる答えだと思う。
さて、そろそろ時間だろうか。僕は左手に巻いた腕時計を見る。いつもならもう教室へと向かい始めている時間。しかし、今日はもう少しだけこうしていたかった。
こういう日もあるものだ、と心の内で呟いた。
ぼーっとしていた僕は、こちらに向かってくるパタパタと上履きの駆ける軽い音で我に返った。その足音の主が脇を通り過ぎる。たった一人の駆け足さえ聞こえるほどの静寂なら、もう大丈夫だろう。そう思い僕は教室に戻る。
自分のロッカーにかけてある南京錠に鍵を差し込み、開ける。多くの生徒が、「使用しているロッカーには鍵をかけること」という校則を無視している中、それを律儀に守っている僕は異質なのだろうか。
この世では、道理というものは複雑に決まる。倫理観、価値観、力関係エトセトラ。だが、その点学生の世界は簡単だ。
多数決。
学生社会の法律は校則。しかしそれを大勢が無視するならそれは意味を成さない。
僕が何を言いたいのかと言うと、いくら教師が「校則を守れ」と言おうとも、僕を模範生と褒め称えようとも、学生の間でそれが「少数派」であるならそれは無意味だ。評価というよりレッテルになってしまう、ということだ。
僕も一学生なわけだから、社会的に見れば正しい人間でも、学生の間では「はずれもの」。犯罪者ほどの重さはないけれど「関わりたくない人」。そんなわけだから、誰も僕に話しかけない。見えてないんじゃないか? 透明人間にはなっていないだろうな。実は何年も前にここに通っていた生徒だったが、突然事件あるいは事故に巻き込まれ、自分でも死んだことに気づかず未だに学校に通い続けている地縛霊だった……。
などという空想を頭で繰り広げたこともある。しかし、残念ながら現実の僕は、人より少し影の薄いだけのごくごく一般的な生徒である。生徒、とりわけ同級生の目には映りにくい、という特徴があるが。
さて、そんな僕が放課後どうして教室に残るのか。どうしてこんな、僕を透明人間に変えてしまう学校に居残るのか。その答えはこのロッカーの中にある。僕が南京錠を使用しているのも、万一中を見られたらどうしようという不安からなので、これが無かったら僕も施錠なんて面倒なことをせず、もう少しは「多数派」に近づけたんだろうな。
そんな平行世界、想像できないけれど。
さて、ロッカーから取り出しましたのは、ありふれたスケッチブックと数本の鉛筆を含む画材を入れたペンケース。これらを机に広げまして。
まるでマジシャンが手品を始めるときのように、僕はそれらの道具を置いていく。スケッチブックの新しいページを開き、右手に鉛筆を持つ。4Bの真っ黒で柔らかいやつ。そして瞼を閉じる。外からは……、野球部だろうか? バットがボールに当たる小気味よい音と、テニス部と思しき、ボールとラケットの当たる音が聞こえる。チアリーディング部の声、吹奏楽部の演奏する曲など、様々な音が丸くて小さな粒となり、教室に、校舎、校庭に踊りだす。目をゆっくり開ける。
大丈夫、さっきの情景は心に焼き付いている。目の前に広がる白さには毎回緊張する。微かに高鳴る鼓動が心地よい。先ほどの情景を何度も思い浮かべながら鉛筆を走らせる。背景は学校の校庭、たくさんの粒がシャボン玉みたいに浮かんでいる様子……。
「ねぇねぇ、ここ、使ってる?」
集中が途切れた。教室の入り口の方を向くと、今まで話したことのない女の子がいた。いや、親し気な話しかけ方からするに、知り合いなのかもしれない。どことなく見覚えのある顔立ちだ。
彼女の手には、ずいぶん昔に習わされた、銀色で細長い楽器と、たくさんの紙で膨らんだクリアファイル。そして小さな機器や布など、細かいもの。
「……使っていますが」
見れば分かるだろう。先ほどまで保てていたイメージが少しずつ頭から消えていく。
「ここも駄目かー。どうしよ、時間あまり余裕無いんだけどなぁ」
そう言いながら彼女はこちらへ向かってくる。
「ね、私吹奏楽部で、どうしても個人練習する場所が必要なんだけど、本当に駄目?」
「……音が出るなら、駄目です」
きらきらと、彼女の持っている楽器が光を反射し輝く。それが目にちらついて眩しい。そのうっとうしい光から目を隠す。そのせいで彼女の動きも見えなかった。突然、僕の前から白が消える。
「えーっ、この絵すごい上手!」
「あっ」
彼女はあっさり僕のスケッチブックを奪い取っていた。
「か、返してください」
「もうちょっと見てからね」
ぺら、ぺら、と、本当にちゃんと見ているのか? と疑わしくなる速さで彼女はページを捲る。もともと大した枚数は書いてなかったから、彼女はすぐ見終わり、スケッチブックを閉じた。
「はい」
そして、僕の方へ差し出す。
「え?」
「だから、はい。返す」
少し拍子抜け。
「それを返してほしかったら別の教室行け、とか言われるものかと……」
「いやー、私もそんな意地悪はしないよ。っていうか、どこのいじめっ子? 典型的かつ現実味のない脅迫だね」
彼女はひとしきり一人で笑う。
何。何なんだ、この人。よく分からない。教室に入ろうとしたところまでは普通だったが、そこから先がマイペース過ぎる。空気読めないのか? それとも、単に自由奔放なのか? それで勝手にスケッチブック取ったと思ったらすぐ返すし……。
「ねぇねぇ」
「うわっ」
距離をつめられた。相手の瞳に、自分の姿が映って見える。今まで家族ともこんなに顔を近づけたことなんてないのに。
「どうして、人を描かないの?」
純粋な興味に溢れた瞳。意外とちゃんと見ていたことに驚いた。質問が来るとは思っていなかったのに率直に聞かれたため、普段なら適当に濁しただろうそれに、反射的に自分の正直な答えを言っていた。
「分からないから、です」
「人が分からない……、いやいや、君も人でしょ?」
「自分のことも、よく分からないんです」
僕は、足元に落とされた自分の影を見つめ、そう言葉を吐いた。
「何を描いても嘘っぽい。死んだような表情や不自然な体。活き活きとしている一瞬を描いたんじゃなくて、人工的に作り上げたような絵になってしまうんです」
「色がないのも、同じ理由?」
どうして僕は、こんな名前もクラスも……、それどころか学年すらも分からない人と会話をしているのだろう。授業中の発言と事務的な用事を除けば、口を開くことなんてほとんどないのに。
「そかそか。そうねー」
僕の無言を、彼女は肯定と受け取ったようだ。
黒と白、そしてその二色の間の色。それが僕の世界を彩る全て。白黒で表すのは出来るのに、思い浮かぶ色をそのまま塗ろうとしても、自分の思うようにはいかなくて、結局嘘になってしまう。
「私にはよく分からないなぁ。絵はへたくそだから」
そういうと、すちゃっと楽器を構える。
「ここで練習しないでください」
「するよ。時間なくなっちゃう。あと一週間しかないからね」
何が? という言葉は続かなかった。僕がこの人に構う義理なんてないだろう?
すぅっ、と大きく息を吸う音、おなかが膨らむのが見えた。そして広がる音。
色が、形が、情景が、あっという間に世界が塗り替えられる。
胸が、どきどきした。衝動が沸き上がる。――描きたい。
スケッチブックをひっつかみ、鉛筆を手に取る。この音がどのくらい続くのか分からないから、短時間で大体の形を描くクロッキーで。頭、胴体、手と足の大体の位置を描き、重心や体重のバランスを表す線を引く。まだ演奏は終わらなさそうなので、ざっくり描いたパーツなどに肉をつけ細かいところを修正し、徐々に人間として完成させていく。制服にも、しわやスカートのプリーツなどを描き足していった。描くのに慣れていない楽器は、残念ながら雑な線を重ねただけの物体と化していたが、彼女だけは立派に「生きていた」。
「ふー……」
同じところを繰り返したり、ゆっくり吹いたりするのをやめた彼女は、ふと僕の視線に気づいたのか近づいてきた。
「うわ、すごっ。これ、さっき私が練習している時間だけで描いたの?」
はい。
手放しで称賛されるのが恥ずかしくて、返事は声に出せなかった。
「あ、でも楽器は難しかったみたいだね」
絵の中の彼女が手に持つ線の集合を見て、小さく笑う。
「楽器なんてそう見ないものですし」
「まーね。吹奏楽部で楽器見慣れている私でも、その絵を描けって言われたら無理だろうなぁ」
ほんの少しの悪戯心が芽生える。僕は、スケッチブックのページを捲り、まっさらな白紙の紙を破り取ると、彼女に渡した。絵がうまくない彼女に対する、少しの皮肉。
「あの、これ」
「んー?」
そんな指示代名詞だけじゃ意味分からないよ。彼女は小さく笑う。そんなこと言われたって、僕だって何を言えばいいのか分からない。
「真っ白だけど……。もらえばいいのかな?」
こくん、と僕は頷く。彼女は左手を差し出すと、それを受け取ってにっこりと笑った。
「ありがとう」
その一枚は、他の紙の束……、楽譜や、ルーズリーフ、数枚のプリントと同じように大切にクリアファイルにしまわれた。教室の端にある時計を見ると慌てたような顔をした彼女は、顔の前で手刀を切る。
「じゃ、楽しかったけどそろそろ時間だからごめんね。また会おうね!」
言うが早いか、彼女は楽器、クリアファイルといくつかのものをまとめて持つと教室を出る。
「あ……」
さようなら。そんな短い別れの言葉さえも言えなかった。はぁ、と小さなため息。そして気づく。
「名前、聞いていないんですけれど」
これじゃ、「また会おうね」も無いだろう。同意するかのように、野球のヒットの音が響いた。
家に着くのはいつも夜、夕食の匂いが漂う時間帯。僕は鞄から鍵を出すと、家のドアを開ける。おかえりー、と台所にいる母の声が届いた。それに対し、僕も大声でただいま、と返す。あまり意識していないのだが、どうやら僕の声は人より小さめだというからだ。トン、トンと階段を上り、自分の部屋へ。鞄をベッドの上に投げ出し、自分もそこへダイブする。一瞬、ぼふっと体が沈みこんだが、低反発のマットレスがゆっくりとその形を戻していくにつれ、体も少しずつ上がっていった。ごろんと転がり仰向けになると、ベッドのヘッドボード側の壁に貼った肖像画が目に入った。毎日見ている、僕にとってはもはや家族とすら言える存在。彼女の顔は、いつもよりほんの少しだけ親し気に見えた。
父の高校時代の友人は趣味で絵を描いていた人で、その人が初めて個展を開いたとき、父はなぜか僕も連れて行った。当時の僕は絵の良しあしなんて分からないほど幼かったから、正直退屈だったけれど、この絵だけは別だった。高校生くらいの少女が楽器を演奏している絵。
衝撃を受けた。引き込まれた。魅せられた。静かなその場所では、父とその友人の、音量を下げた会話も大きく聞こえたものだが、それでさえも耳から消え、世界に自分とその絵だけになったような感覚。楽器を練習している少女の表情に目が奪われ離せなくなった。微かに頬を染め、まっすぐ前を見据えながら一生懸命に楽器を演奏しているその表情。僕の初恋と言っても過言でないくらいだ――相手は生き物ですらないが。
父が挨拶を終え、さぁ帰るよと声をかけても、僕はまだその絵から目を離せずにいた。帰りたくない、まだこの絵を見ていたい。滅多に聞かない僕のわがままに、父は血走らせた目で僕を見た。普段は温和な父が、あんな顔をするなんて思わなかったから、とても怖いと感じたことをまだ覚えている。父の友人は、そんな僕に近づき、ひざまずいて僕と目線を合わせこう言った。中性的な顔立ちと、短いが綺麗な髪がとても美しいと感じた。
「初めまして。私は相楽紫苑という名前で画家をやっている、君のお父さんの友人だ。名前を教えてくれるかな」
僕は、何の疑問もなく「蒼」と答えた。その人は、「いい名前だね」と返してくれた。そして、こう言った。
「そんなに気に入ってくれたなら、この絵を君にあげよう」
思ってもいない提案だった。慌てて父は断ったが、父の友人は続けた。絵を描いても売れないのだし、いずれ処分しなければいけないのだから。それなら、少しでも大事にしてくれる人に譲る方が私としても嬉しいのだと。
「これは、私の妹なんだ。私とは違って音楽をやっていてね、吹奏楽部でソロをやるんだって意気込んで練習していた時の様子を描いたんだ」
優しいけれど、どこか、強い感情を押し殺したような声だった。
「たった一歳年下なだけだが、私にとってはとても大切な子だったよ。私個人としては一緒に絵を習いたかったけれど、どうにも妹には美術センスがなかったようで……」
僕の父とは逆だった。父は音楽が好きで、高校時代も吹奏楽部で指揮者をやっていたらしい。僕に何とかっていう楽器を習わせようとしていたが、全然うまくならないから、僕はすぐやめてしまったのだ。
だから、と紫苑さんは言葉を繋げた。
「私と約束してくれるかな。有名にならなくても、これからはずっと絵を描き続けることを」
その人が小指を出して見せたので、僕も自分の小指を出して絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます。指切った!」
そう歌うと、その人は立ち上がり、額縁に手をかけ取り外した。
「約束、忘れないでくれよ」
こういった経緯を経て、その絵は今ここにある。母からすると、毎朝目が覚めるときにこんな肖像画が目に入ったら驚くだろうと言われたが、他の壁の面は、その他の家具の配置を考えるとどうしても一部は隠れてしまうため無理だった。あまり重くない額縁にしたが、当たったら多少けがはするだろうから、念入りに補強して壁にかけてある。
幼い頃無邪気に、そして無責任に交わした約束を、僕は律儀に守り続けた。小学校の図画工作の授業はもちろん、親に頼んで絵画教室に通わせてもらったこともある。中学校では、当然だが美術部に入った。
僕は中学三年生になり、蒸し暑い美術室で絵を描いていた。僕の部活は、ある程度時期を区切って、それぞれの期間で顧問から出された課題に取り組む形式をとっており、その頃は、秋にある体育祭のポスターにする絵を描くように言われていた。
どこの美術部も同じだと思うが、絵を描いている最中も、ちらほらと雑談は続いていた。キャンバスに絵の具を塗り、筆を洗ったときバケツの中の濁った水が目に入った。そろそろ変えようか。そう思って席を立ち、水道へ向かう。ふと横を見ると、ついこの前の春に入部したばかりの一年生の絵が目に入った。彼はまだ絵の具で塗るところまでいっていなく、色鉛筆でだいたいの完成予想図を描いているところだった。まだ小学生から抜けきらない幼い容姿、稚拙な筆遣い。けれど、彼の絵には、何か自分の絵には存在しないみずみずしさや鮮やかさを感じたのだ。
「半井先輩?」
「……あぁ、ごめん」
硬直した僕に、彼は不安そうに声をかけてくれたが、僕の返事はかすれていた。
そのあとだ、異変に気付いたのは。パレットと筆を持ち、絵の具をすくいとる。先ほどの彼が描いていたように、僕も色鉛筆で描いた完成図を持っていた。それを見ながら、色を混ぜていく。しかし、いつまで経っても想像していた色ができない。どうしてなんだ、焦れば焦るほど頭から色彩が抜け落ちていく。部活動終了のチャイムが聞こえたとき、僕の目には全てが灰色に見え、自分の描いた人物は皆、仮面を貼り付けたマネキン人形のように思えた。
次の日も、その次の日も、目に映るものを絵に描き起こそうとすると、どうしても色が抜け落ちてしまう。当然ながら、課題の進行は滞ってしまった。
「スランプじゃない? また絵が描けるようになるまで休んみなよ」
友人はそう言った。美術室に行っても、絵を完成することは難しいだろう。加えて、またあの一年の絵を見てしまったら、今度こそ自分の中の何かが崩れ去る予感がしていた。その言葉に甘え、僕はその日から美術室に足を運ぶのをやめた。
けれど、あの約束はもはや呪縛といえるほどに僕を縛っていた。放課後、終業のチャイムが鳴った後に美術室に行かないと、とても不安を感じて、今からでもすぐに引き返したくなった。家に帰り部屋に行くと、あの日もらった絵の少女が、約束破りだと責めるかのような目つきをしていた。
それ以来結局、僕は卒業のその日を迎えたあとも、あの美術室には行けていない。まだ僕の絵は残っているんだろうか?
高校では、美術部には入らなかった……、いや、入れなかった。色を塗れない、人も描けない。そんな僕が美術部に入って活動を楽しめる道理なんてあるだろうか? しかし、何もせずに家に帰ったら、またあの少女の非難するような顔を見ることになるのだ。これ以上はもう精神が耐えられない。
そう考えた僕は、美術部に入らず、けれど美術との関係を保つ方法として、「放課後、一人で教室に居残り空想画を描く」という考えを出した。
一人で居残る、というのは重要な部分だ。客観的に見ても、僕の絵は上手い部類に入る。もし、クラスメートが僕の絵を見たら真っ先に「どうして美術部に入らないのか」と聞くだろう。僕ばその質問に、彼らの納得のいくような答えは出せないだろう。なら、そもそも質問させなければいい。その習慣が、二年生に進級した今もなお続いている、というわけだ。これのおかげで、僕は絵の少女の顔を直視できるようになった。
母の呼ぶ声が聞こえて、僕は食卓についた。母と二人きりの食事はにぎやかだ。といっても、テレビから流れる音と、母の一方的な話し声が重なっているだけで、決して仲睦まじく会話をしているわけではないのだが。
食事を終わらせたあと、一度部屋に戻った。机にノートと教科書を広げ、復習を兼ねて今日の宿題をやる。どちらかと言えば好きな教科である数学だが、今日はどこか上の空なまま時間が過ぎていった。そのあとは風呂に入り、予習……、というほどでもないが、ぱらぱらと教科書をめくり、明日やる内容を見ていく。そうしている間に、気づけば時計は十一時を指していた。洗面台に行き歯を磨き、帰宅直後と同じようにベッドにダイブした。
普段は布団にもぐりこむなり眠りにつくのだが、今日は何故だか眠れない。頭に浮かぶのはあの謎の吹奏楽部部員。人の安眠妨害しやがって、次会った時何て文句を言ってやろうか。
あぁ、そう言えば彼女は、あと一週間で何かがあるって言っていたな。今日描いた絵、もっと丁寧に仕上げして、一週間後のその日にプレゼントしよう。驚くだろうな。喜んでくれるだろうか。自分でも意識せず、口の端が持ち上がって弧を描いた。
モノクロームで幾何学的だった日々に、予想しなかったパターンが表れた。
翌日も、普段通り目覚まし時計のアラームで目を覚ました。静かに朝食を食べ準備を済ませ家を出る。僕の家から高校までは徒歩三十分ほどだが、早朝の空気が気に入っている僕はこうして、朝練に行く生徒と同じくらいの時間に家を出る。学校に着き、靴箱で靴を履き替える。階段を上って教室へ行き、自分の席に着く。上半身を机にもたれかけ、静かに目を閉じる。
放課後、様々な部活動の音や掛け声が響くなか絵を描くのもいいが、始業前にうつらうつらとまどろんでいるのも悪くない。そのとき、数人の女子生徒が教室に入ってくる音がした。薄く目を開けて、時計を見る。まだ、生徒が登校してくるには早すぎる。朝練が早くに終わったのだろうか?
「花音、数学の教科書忘れて帰るとかありえないよ」
「数学の柳田先生、そういうの厳しいのに」
なるほど。そういえば昨日出された数学の宿題はかなり多かった。あの声は、たしか葦谷とかいうクラスメートのものだ。下の名前、花音っていうのか、と高校入学二年と数か月にして初めて知った事実に驚きつつその会話を盗み聞きする。
「本当ごめんね。今度何かおごるから」
「言ったね。絶対だよ、約束だから」
葦谷は、クラス内でもあまり勉強が得意そうに見えないタイプの人間だったな。テスト返却のとき、毎回、全ての教科担任から「普段から真面目に授業を受けろよ」という視線を浴びせられている。他二人は、たしか瀬川と近藤。女子生徒は例に漏れず苗字しか覚えていない。いいやつだな。普通、友人の危機だろうとこんな時間に登校しようなんて思わないぞ。
女子生徒三人は、僕の存在に気づいているだろうが、特に声もかけずにいた。瀬川と近藤が手伝う中、宿題を進めていく葦谷。十数分経った頃には雑談が聞こえてくるようになっていたが、時折入る瀬川の「ここ違う」という言葉から、まだ宿題は終えていないようだ。話す内容は、特に不思議でもない。芸能関連、恋愛関連、云々かんぬん。しかし、突然話題は思ってもいない方向へと変わった。
「アオイって、知っている?」
ぎくり、と体をこわばらせた。自分のことだろうか、と薄く目を開き、そちらの方へ向ける。話を切り出した近藤はそのまま話を続けた。
「誰のこと? 私の知り合いにはいないけれど」
「苗字か名前か、それともあだ名なのかも分からないの。ずっと昔にこの学校に通っていた生徒の名前だってことしか分からない」
近藤が、ゆるゆると首をふりながら答える。
「うーん……。部活で、ある先輩がそんな名前言っていたんだけど、部長がそれ聞いて怒っちゃって。だから、詳しいことは知らないな」
瀬川は知らないようだが、葦谷は名前だけ聞いたことあるらしい。それだけだと、自分のことなのか、そうではないのかよく分からない。それで、つい興味をもち、耳をそばだてて聞いてしまったのが駄目だったんだ。
「その『アオイ』って何者なの?」
近藤が、うーん、と小さく唸りながら答える。
「学校全体では有名じゃない噂話なんだけど……。さっきも言ったように、昔、この学校に『アオイ』っていう生徒がいたの。放課後になると、一人で教室に残っていることが多かったみたい。ある冬の日も同じようにアオイは一人で教室にいたんだけれど、何かの間違いで出られなくなってしまったの。運の悪いことに、その日アオイがいた教室は、普段からあまり使われていなかったらしくて、そのせいで、一週間経つまで発見されなかったみたい。けれど、そのあとも何人かの生徒が、死んだはずのアオイを見かけたって言って……。そのせいで、何かもめごとが起こって、二人の生徒が退学になったとか。今もね、放課後の静かな廊下を渡っていると、教室に一人たたずむ生徒の姿が見られるんだって。でも、もう何年も前の代だから、アオイの見た目とか分からなくなっているから、本物か分からないけれど」
「アオイはどうして教室に残っていたの?」
女子生徒は肩をすくめた。分からない、という意思表示だろう。
「アオイが発見されたその日にあった『何か』が理由らしいんだけど……」
アオイが死んだ日、居残っていた日から一週間後。その数字が耳に残る。それは、つい昨日耳にした言葉、そして心で呟いた言葉だからだ。
『あと一週間だからね』
『一週間後のその日に』
「アオイ」は彼女なのか?
それとも、僕が「アオイ」なのか?
放課後、僕は教室に残っていた、もちろん一人きりで。昨日、彼女は「また会おうね」と言っていた。もちろん、社交辞令みたいなもので大した意味はないのかもしれない。けれど、名前も学年も分からないことには探せない。吹奏楽部ということは分かっているが、この学校の吹奏楽部はかなり大規模なもので、演奏している楽器も分からないのに探すというのは難しい。なら、唯一のつながりともいえるこの教室で待つほかなかった。
がらりら。扉の開く音がすると、昨日と同じように彼女がこちらを覗いていた。
「お、おっすー」
聞こう。そう思っていたのだが、底抜けに陽気な彼女に僕はすっかりやる気をそがれてしまった。けれど、ここでまた、昨日のように過ごしてはいけない。僕か彼女、どちらがアオイにせよ、同じ世界に生きる人間じゃないのだから。
「昨日に続いて邪魔しちゃってごめんねー」
そう言って、彼女は今日も楽器を構える。その前に、僕は声をかけた。
「あの」
「ん?」
たった二文字。けれど、昨日の声色とは違う。それでも特に態度を変えない彼女に安心できるような、けれど腹ただしいような、真逆な気持ち。
「聞きそびれていたんですけれど」
声が震える。心の奥で、もう一人の自分が言う。やめろ、戻れなくなるぞ、と。その言葉に耳を貸してしまいそうになる。今ならまだ、何でもありませんで誤魔化せる。
それでいいのか? また違う自分が問いかけた。そうして逃げて、答えを保留して、それでいいのか?
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
ゆっくりでも、たどたどしくてもいいよ。うまくまとまらないなら、思ったこと全部そのまま口に出して。
最終的に、彼女の言葉に背中を押された。
「あなたの名前は、何ですか」
小さな声。聞こえただろうか、と思いながら、彼女の様子をうかがう。ちゃんと聞こえていたらしい。少しだけ顔がこわばっていた。小さな唇が開き、三文字の答えが発せられる。
「青井」
アオイ。彼女は確かに、そう答えた。
「あなたが、アオイなんですか?」
瞬間的に、僕は聞き返した。信じたくないような気持がまだあるから、それを徹底的になくすためにも。
「どのアオイのこと?」
とぼけているのか、あるいは本当に知らないのか彼女はそう聞き返す。後者の場合、僕の質問の仕方だと非常に困惑するだろう。前者の場合だとしても、言い逃れできないためにはっきり言わなければ。
「幽霊の、アオイ。この学校で、放課後誰もいない教室に出るって言われている……」
彼女は、心の底から何を言われているのか分からない、と言わんばかりの表情だったが、それを聞くなり、少し唇を尖らせる。しかし、すぐに胸を張って仁王立ちをし、謎の自信を見せた。
「私、足あるから幽霊じゃないよ」
「いや、幽霊には足がないって思っているのは日本人くらいなものです。理由は、諸説ありますが、円山応挙などの絵師が描いた足のない幽霊画がリアルだったからってだけで……」
僕の雑学に彼女は、ほへーとやや間抜けな相槌を打つ。同じくらい間の抜けた顔に、僕は思わず吹き出した。小さく頷いた彼女は口を開く。
「さすが、昔から絵を描いているだけあるね」
「いや、それほどでも……」
待てよ、昔から? 彼女はそう言ったのか?
僕は、いつから絵を描き始めたか話した記憶はない。彼女は、どんな確証をもって「昔から」などと言った?
「何か聞きたそうな顔しているね」
バレバレだよ、君は。そう言って少女は笑う。頭に、ちかりと閃光がよぎる。昨日、彼女がこの教室に来たときも思ったが、やはり彼女の顔はどこかで見覚えがある。どこだ? つい最近も見たあの顔……。
「……楽器を、構えてくれませんか?」
彼女は美しい姿勢で楽器を構えた。それで確信した。――幼い頃もらった、あの絵に描かれた少女だ。
いや、待て。それだとおかしい。あの画家は、あれを「妹」の肖像画だと言った。今でこそ目の前の少女、青井と、描かれた少女の年齢は同じくらいだが、描かれた当時、どんなに年上に見積もっても、青井は小学生のはずだ。あの絵は描けない。
あのころから年齢が変わっていない? そう仮定すると、やはり彼女が――?
「半井蒼くん」
青井が僕の名前を呼ぶ。どうして知っているんだ? 彼女に名前を尋ねておいてなんだが、僕は名乗っていない。
「どうして知っているんだ、って顔だね」
教えていないはずなのだから、当たり前だろう。
「私は、君を知っているんだよ。ずっと前、小学生の頃にね」
そういうと、彼女は別の名前を出した。僕が忘れることのない、あの人の名前を。
「相楽紫苑は画家としてのペンネーム。本名は青井明音。旧姓、相良明音は私の母――、そして、幽霊のアオイの姉」
それは、それはつまり。
彼女は、あの画家の娘。そして幽霊のアオイの姪。
「幽霊のアオイの本名は、相楽葵衣。吹奏楽部に所属していたあなたのお父さん、半井曙に好意を寄せていた女子生徒」
ぞっとするような冷たい目。今までの雰囲気とは真逆な彼女に、背筋が震えた。
「母はね、葵衣を死なせる原因となった半井曙を呪っていた。その暗い感情と同じくらいの深さで、私に葵衣の面影を重ねていたの。一度写真を見せてもらったけど、私もびっくりするくらい似ていた。だから、幼い頃から、葵衣も練習していたこの楽器――フルートを習わせていた」
きゅっ、と彼女は、指が白くなるほど強く、フルートを握った。
「それがすごい嫌だった。私は葵衣じゃない、って何度も思った」
個展を開いたのはそんな頃だった。彼女の母は、半井曙とその息子がやってきたのを見てとても驚いていたらしい。
「君のお父さんは、ずっと泣いていた。曙さんは、当時葵衣も所属していた吹奏楽部で指揮者をやっていた。葵衣は、君のお父さんに近づきたくて一生懸命練習していたのに、不幸な事故で亡くなってしまったこと。葵衣の気持ちに気づいていながら、彼女に中途半端な期待を抱かせていたまま彼女に謝れずにいたことを、ずっと悔やんでいたみたいだった」
あの日、僕は絵を見ていたから気づかなかったけど、やけに声が小さいなと思ったのはそういうことなのか。
「君のお父さん、私を見たらまた泣いちゃって。目、真っ赤になっていた」
わがままを言った僕を見た父の目がやたら赤かったのは怒りじゃない。涙を流したからだった。
「お母さんはね、あの日君の名前を聞いて、君の前では平静を装っていたけれど、帰るなりすごい怒り狂っていた。自分が殺したも同然な人の名前を息子につけるなんて、って。あの絵をあげたのも、復讐のためだったんだよ。自分が殺した相手が、自分の家にいる。これほど心を苛む方法はないだろうって。でもね、その翌日、今度は一人で来た曙さんはこういったの」
『相楽葵衣さんのことを忘れないために、自分の息子に蒼と名付けました。私は、息子の名を呼ぶたび彼女のことを思い出します。それで十分な償いになるかは分かりませんが』
「一生、罪の十字架を背負っていく、って覚悟した目を見て、お母さんはもう曙さんを許したの。絵を返してほしい、って言うほどに。もっとも、君が本当に気に入っちゃったみたいだから、断られたけれどね」
彼女は、澄んだ瞳でどこか遠くを見やりながら言う。
「それが、君との初対面。ううん、厳密に言うと、君と私は対面していないから、私が初めて君を知った日、だね」
でも、と彼女は表情を暗くさせた。
「お母さんが曙さんを許すことと、葵衣への執着がなくなることは別だったの。あれからも、私はフルートを続けていた。……ううん、続けなきゃいけなかった」
先ほどまで強く握りしめていた指をほどき、今度はいとおしそうにその楽器を撫で始めた。
「フルートを練習し続けることが嫌いだったわけじゃないよ。楽譜が読めるようになることも、新しい曲が吹けるようになるのも、それでお母さんが喜んでくれるのも、全部嬉しかった」
けれど、いくら自分がうまく演奏したところで、母が見ているのは自分ではない。葵衣なのだ。フルートをやめるという選択をすることも考えたけれど、そうしたら母はとても悲しむだろう。母を悲しませたくなかったから、その選択肢を頭から打ち消した。しかし、いくら続けようとも、母が自分自身を認めてくれる日は来ない。
それは、一体どれほどの苦痛を、目の前の少女に与えたのだろう。少なくとも、僕が迂闊に彼女の心境を理解できるかのような言葉をかけてはいけないのは確かだ。
「頑張っていたんだけれど、小学校を卒業する少し前に全部壊れちゃった。フルートを持とうとすると、動悸が早くなって手が震えてくる。その音を聴くだけで耳鳴りがしてくる。私はね、フルートを吹けなくなってしまったの」
変だよね。彼女はそう言って自虐的に笑った。一時期は、心の底からフルートをやめたいと思っていたのに、実際吹けなくなったら恋しくなるなんて。
「そんな折にね、また君に出会ったの。正確に言うと君自身ではないけれど――」
ふっ、と彼女はそこで微笑んだ。先ほどの、自嘲するようなものではない。気が緩んだような、そんな安らかさを帯びていた。
「君と私は同じ小学校に通っていたんだけれど、そこでは、年度末に作品展を行っていたのは覚えている? 各学年ごとに展示する作品は決まっていたけれど、例外として、学年から数人だけ、二つ目の作品を飾ることができる生徒がいたよね」
そこまで言われて、ようやく僕は思い出した。中学三年生の時のショックでその辺のことをすっかり忘れていたのだ。
小学六年生は伝統としてオルゴールを展示することになっていた。けれど、図画工作の先生は僕の絵をとても評価していて、一枚だけでも作品展に出さないか、と言ってくれたのだ。
「作品展を鑑賞していたとき、誰もオルゴールを鳴らしていないはずなのに、何か音が聞こえるような、そんな感覚がしたの。その音をたどって行ってみたら、君の絵に出会った」
半井蒼。なからいあおい。一年生でも作品名と名前が読めるように、漢字の上にひらがなでも名前が書かれていたのは幸運だった。あれがなければ、決して「なからい」とは読めなかった、そしてこの絵を描いた人があの半井曙の息子だとは気づかなかっただろう。
「当時、私と君は別のクラスだったんだよ。クラスごとの鑑賞の時間が終わるギリギリまでその絵を見ていたら、君のクラスの鑑賞の時間が来ちゃって。慌てて教室に戻るとき聞こえたんだ」
『なぁー、半井! お前、今回二つも展示しているんだろ? すっげーな!』
「君の、名前が」
その名前を呼ばれた人の顔は一瞬しか見えなかったけれど、でもこの目に焼き付いて、今でも夢に出てくる。
彼女はそう言って目を閉じた。きっと思い出しているのだろう、あの日の僕を。
そこからは想像に難くない。彼女は、彼女自身の生活の中心ともいえるフルートを取り戻したのだ。
彼女はゆっくりと目を開いた。その桜色をした唇が開く。
「中学校は、残念ながら私が引っ越しちゃったから、同じところには行けなかったけれど、高校でこうして出会えたのは、本当に奇跡だと思うよ。新入生名簿を見たとき、君の名前があって、本当にびっくりしたよ。また君に会いたくて、君と同じ中学校出身の人を探して、君のことを聞いたんだ」
そこで返されたのは、意外な返事だっただろう。運動部のエースのように目立つことはないから、見つけるのも一苦労だったろうに。
「君が絵を描けなくなってしまったことを知って、私は決めたの。前に、君の絵が私に音を返してくれたように、今度は私が、君に絵を返してあげようって」
彼女は、微かに頬を染めて、そう言った。
「でも、一つだけ謝るね。実は私、君に絵を返すために、嘘をついたの。昨日、この教室に来たあの時」
教室に来た時? 僕は、必死で記憶をたどる。
『ねぇねぇ、ここ、使ってる?』
そう声をかけて入ってきた。どうしてここに来たんだっけ……。あぁ、そうだ、一週間後に何かがあるから、そのための個人練習をする場所が必要なんだった。ここを選んだのは、他に使える教室が無かったからで……。
……使える教室が、無い?
「ひらめいたみたいだね」
彼女のその表情は、すでに「正解」と告げていた。
「あなたは、僕のいる教室を狙ってきたんですね」
確認などいらない。これ以外ありえないのだから。
よくよく考えれば、どうしてあのときに気づかなかったのだろう。僕みたいに、一人で教室に居残っている人が、あの日に限って全クラスにいた、なんてそうあるまい。僕は、上履きの音さえ聞こえるほど静かになってから、自分の教室へ向かった。それから彼女が訪れるまで、少し時間はあったかもしれない。その間に人が移動することもありえたかもしれない。だけれど部活動の声や音が響くくらいなのだから、あの日、少なくともこの階の教室は全て空いていたはずなのだ――僕のクラスを除いて。
「私は、君に恩返しができたかな?」
彼女は、少し潤んだ瞳で僕を見た。
「……さぁ」
確かに彼女の音は、絵を描く理由を気づかせてくれた。けれど、それで十分だ。
「あなたが僕に返す恩はありませんよ。僕はあなたを助けようと思ってあの絵を描いたわけじゃありません。あなたが勝手に助かって、それで勝手に僕に恩を感じているだけです」
僕の言葉に、彼女はきょとんとしたが、すぐにほころんだ。
「ずるいね、君。本当、そういうところ、ずるいよ」
彼女の目の端から、一筋の涙が流れ、きらりと夕日に反射する。
「……納得いきませんか?」
「うん、いかない」
目じりを拭い、きっぱりと言う。
「じゃあ、一週間後に答えを出しましょう。何かあるんですよね?」
一瞬の静寂。元々大きな彼女の目が、さらに大きく見開かれた。
「どうして、知っているの?」
「昨日、言っていたじゃないですか。『あと一週間しかない』と」
顎に手を当て、首をかしげる彼女。……どうやら、本当に覚えていないらしい。
「だから、その日まで待ってください。絶対に、守りますから」
今度は、自分から誓おう。自由を束縛する鎖ではなく、空へ羽ばたく翼となる約束を。
「うん」
どちらからともなく小指を見せ、絡ませた。
あの日以降、彼女が僕の教室を訪れることはなくなった。そして、僕が彼女を訪れることもない。なぜか? 理由は簡単だ。結局、僕は彼女のフルネームとクラスを聞きそびれたのだ。ちらりと見えた、学年色の上履きは僕と同じ色だったから同学年なのは分かったのだが、肝心のクラスはすでにかすれて見えなくなっていた。これじゃあどうしようもないけれど、一人で集中できるようになっただろう、と自分を励ました。
そして迎えた一週間後のその日。僕は、手にあるものを持ち、吹奏楽部が活動している音楽室へ足を運んだ。実のところ、今日何が行われるのか僕は知らない。見つかったらまずいのかな、と思い、なるべく音を立てないよう静かに四つん這いでドア付近まで行く。そして床にしゃがみこむと、一部ガラスになっている部分をこっそり覗き込んだ。そこにいたのはフルートを持ち、横一列に並ぶ数名の生徒。僕と教室にいたときはふざけているように見えた彼女も、真剣な顔をして立っている。
端にいた生徒が一歩前に出て、フルートを構えた。完全防音の厚いドアだから音はほとんど聞こえない。それが非常にもどかしい。
端から順々に前に出てフルートを構える。一分も経たないうちに演奏をやめ、楽器を下ろすと後ろへ下がる。それが幾度か繰り返され、ついに彼女の番になった。思わず手に汗を握る。
ほとんど聞こえないはず、だったのに。信じられないことに、彼女の音だけは届いた。静かに、けれど切なさを感じられるその旋律。心からあふれた熱いものが、目尻から零れ落ちてきた。
言葉で伝えられない感情がある。僕は、それを絵で表す。
一週間前のあの日、初めて知った感情。それが欠けていたから、僕の絵は完成されなかった。僕の、乾いてひび割れた心に潤いを与えてくれたのは、紛れもなく君だ。
太陽が傾き、辺りを紅に染める。僕は校門に立っていた。傍らには目元を赤くした彼女がいる。
「……どうでしたか」
同学年なのに、なんで敬語なの。彼女は眦を下げて笑った。初めて会ったとき、あまりにも親し気に話しかけてくるから、もしかして先輩なのかもしれないと思ったんです。そう返したらもっと笑われた。
「同い年だって可能性は考えなかったの?」
「いいえ。あなたのように、違うクラスであろうと平気で入ってきて教室を使う生徒はいます。同じように、二年生の教室にいたとはいえ、僕がそのクラスに所属しているとは言えません。にも関わらずあなたが敬語を使わないのは、僕は絶対に先輩ではないから――言い換えれば、あなたが最高学年だから、と考えたまでです」
僕が敬語を使うのは、敬語であれば学年年齢問わず失礼にはならないからだけど。
くずした口調で、小さく言葉を付け加えた。
「なら、もう学年が分かっているんだし、敬語はやめてね?」
「そういえば、僕の質問に答えてもらっていませんが」
首をかしげて言う彼女を、分かりやすく無視する。それに対し彼女は、そっぽを向いて「不機嫌です」とアピールして見せた。しかし、すぐこちらの表情をうかがってくる。
「……駄目だった」
そうなのか。下手な慰めの言葉は意味ないだろうと思い、僕は黙っていた。その代わり、手に持っていた紙を渡す。
「……これ」
彼女に初めて会った日に描いたクロッキー。それを丁寧にスケッチし直し、色も塗った。父さんに頼んでフルートも見せてもらったから、ただの楕円形はもう存在しない。
「約束は、果たしたよ」
言葉はいらない。僕の平均以下の語彙力で伝えるよりも遥に雄弁に、絵は語ってくれる。
「……ありがとう」
彼女はそれを受け取った。彼女は鞄からクリアファイルを出し、それを大切にしまうと、今度は別の紙を中から出した。
「じゃあ、これは君に」
それは、手書きの楽譜だった。その紙は言うまでもなく見慣れた、一週間前のあの日に、僕がスケッチブックから破り取って渡した一枚の白紙だった。
「三人のアオイと、私の母、そして曙さんのために作曲したの。名前は決めていなかったけれど、今、決めた」
彼女はペンを取り出すと、楽譜の上部にある空白に、ある一文字を書き込む。
縁
「私たちの縁が切れませんように。そう願いを込めて」
「縁とは読まないんですか?」
こく、と彼女は頷いた。
「明音と曙。両方とも赤を連想させる名前でしょ? それに対して私たちはアオイ。赤と青を混ぜてできる色は?」
「紫」
「正解。紫って紫と読むこともできるから、音だけでも私たち全員に関係する言葉を入れたかったの」
なるほど。
「ついでに言うと、私の名前でもあるんだけどね」
さらりと付け加えられた情報。あまりに自然な流れで言われたため、僕は一瞬聞き流しそうになる。
「青井、ゆかりさん?」
「うん。そう言えば私たち、ちゃんと自己紹介していないよね」
彼女は、大きく一歩を踏み出し、僕と向かい合わせに立った。
「初めまして、半井蒼くん。私の名前は青井縁。フルートをやっています」
「初めまして、青井縁さん。僕は半井蒼。絵を描くことが好きです」
この空の色を作り出す、彼女の母親と僕の父親へ。
今日、僕たちは友達になりました。




