表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夏、散り際に君を想う

作者: Re:over

夏、散り際に君を想う



【脅威】



「急げ! 『やつ』が来るぞ!」


 仲間の誰かがそう叫ぶ。その声を聞いた瞬間、仲間全員が一斉に拠点へ向かう。


 迫り来る魔の手に怯えながら走り回る。後ろにいる仲間の生存すら確認できない状況になってしまった。


 そう『やつ』が来たのだ。『やつ』と対峙するなんて命を捨てるのと一緒だ。


 もう少しで着く。拠点に入りさえすれば……。


 小さな入り口に体をはめ込むように入る。そして、近くにあった穴から外の様子を伺った。


 外は全体的に茶色くとても広い空間になっており、目がくらむ。それと同時に煙が視界を遮る。少し空いた隙間から交際中である彼女が見えた。


 彼女は逃げ場を探すため辺りを見回している。背後に迫る恐ろしい魔の手に気づかないまま。


「おい! ここだ! 早くこい!」


 全力で叫ぶ声に反応してこちらへ走る彼女に向かって容赦無く煙は追いかけてくる。


 彼女はつまずきそうになりながらも懸命に進む。恐怖に涙しているが拭っている暇など無い。地を駆ける音も煙に掻き消され、走っている実感なんてなかっただろう。


 毒ガスが彼女の進行方向に立ち塞がった。気力、希望、その他諸々薄れた表情で拠点に着く。それでも恐怖から免れることはできない。


 『やつ』は拠点へ潜り込んで容赦無く攻撃を仕掛ける。と言っても『やつ』は大きすぎて体の一部しか入らない。彼女を引き連れて奥へ逃げる。


 迷路のように入り乱れた道を安全区へ向けて的確になぞる。たどり着いた安全区は狭く薄汚い部屋だ。


 ふぅ。と一息ついた隣で彼女が倒れる。だんだんと意識が薄れていく彼女を抱きしめた。彼女は今にも消えそうな声で呟く。


「好きだよ……」


 言い終わると同時に彼女の腕は力無く落ちた。


 復讐。その言葉がエネルギーとなり殺意へと変わる瞬間を見た周りにいた仲間達は固まった。


 流れる血、全てが沸騰する。溢れる涙は地を濡らし、瞳に映る感情は混沌の渦に飲み込まれていく。


 この辛さから解放されるには何度涙を流せばいいのか。『やつ』は家族、友達、恋人、全てを葬っても足りないらしい。


 彼女をその場に寝かせ、滴り落ちる涙を振り払い決意を固めた。


 止める者は誰もいなかった。立ち向かっても敵う相手ではないことも、どのような結果になるのかも仲間のみんなは知っている。だが、怒りを共感できるから止めなかったのだろう。


 一番近い通路から『やつ』の元へ。無防備な『やつ』に一矢報いる気持ちで飛びかかる。


 武器も道具も何も無い。あるのは殺された仲間達との思い出と、殺した者に対する怒り。


 仲間の思いを胸に今、拠点を飛び出した。


 煙の臭い匂いが鼻をかすめるが、脳内からは恐怖心が消えている。


 もうすぐ『やつ』に手が届く……と思った瞬間、甲高い叫びが聞こえる。それから何かで左半身を叩かれ、逃げ場の無い空間の隅っこへ飛ばされた。


 そろそろ煙が来るのではと思うと、恐怖心が芽生えてくる。もう、死ぬかもしれない。


 死にかけたことは何度もあった。しかし、ここまで絶望的な状況になったことはない。いつも仲間に助けられて生き長らえることが出来ていたのだ。


 ここに来てそれを思い知って、命が惜しくなり、死を拒みたくなった。


 逃げよう。


 そう決意すると体制を立て直し拠点へ向かって一直線に走り始めるが、それよりも先に『やつ』がその恐ろしいと共に現れた。


 拠点に入るのよりも早く煙が発射された。煙が広がるのはほんの数秒もかからないまま直撃。それでも足を止めることはなかった。


 縦横無尽に煙が飛び交う。煙を大量に吸ってしまっせいか、だんだん意識が朦朧として視界が歪み、思考も奪われた。


 入り口を目の前にして倒れ、仰向けの状態でのたうちまわり、必死になってもがいても『やつ』は容赦無く煙を吹きかける。


 仲間に謝らなければ、感謝しなければ。そう思っても、もう遅かった。


 みんな、ごめん……。


 最後の言葉を口にしようとしたが、口が動く事はなかった。


 痛みとは違う苦しみを抱いたまま意識が途切れた。


 遠のく記憶が走馬灯となって見えた時に声が聞こえる。それは、地を揺らし、耳を焦がすような大音量であった。


「ほんっと気持ち悪いわね、ゴキブリは……」



【失せモノ】



 揺れる。どこかへ向かって進んでいる。ここは……。


 目を開けるとそこは電車の中であった。立ち上がって前後の車両を確認したが、車内にいるのは僕一人だけだった。それから、記憶がなくなっていた。何も思い出せないまま電車に揺れる。


 外は真っ黒な靄に包まれていて、恐怖と不安が込み上げてくる。


『次の駅は公園。公園です。各駅にて失せものを探している方がいらっしゃいますので、探し出してから再度ご乗車お願いいたします。足元にご注意の上、お降りください』


 アナウンスが流れた。そうして、電車はゆっくりと速度を落とし、止まる。


『扉が開きます。ご注意ください』


 扉が開くと公園の遊具が目の前に広がった。滑り台、ブランコ、鉄棒、砂場、どれも懐かしさを感じるものばかりである。


 電車から降りると、滑り台の隣で男の子が泣いているのが見えた。どうしたのだろうかと思って近づこうとすると、男の子と一緒にいた女の子が僕に気がつき、こちらに向かって走ってきた。


「すいません、あの子のぬいぐるみ探すのを手伝ってくれませんか?」


 女の子は泣いている男の子を指して言う。そして、僕は電車内でのアナウンスを思い出した。公園を見渡す限り、この2人と僕以外は誰もいないようであった。


「いいよ。一緒に探そうか」


 遊具の間や下に落ちていないかと調べる。滑り台の下……ない。鉄棒の隣に生えている雑草を掻き分けて探す。何もない。公衆トイレの中……ない。


 思いつく限りの場所を全て探した。しかし、ぬいぐるみどころかゴミ一つ出てこない。まるで空想の中の世界、あるいは細かいことを知らない世界のようだ。


 よく考えてみれば、この公園は絵に描いたようようなものばかりであった。どれも鮮明でないというか、ぼやけているというか、曖昧というか。それは、この二人の子供たちにも言えることであった。


 その上、公園の外は真っ白な煙に包まれていて、空もやけに青い。ここは本当にどこなのか。そして、僕は何者なのか。


 相変わらず泣いている男の子とそれを宥める女の子を眺めていると、僕の無力さを突きつけられているような気がして胸が痛む。


 自分の弱さを自覚すると、ふっと脳裏にくまのぬいぐるみが浮かび上がる。妙だと思ったのは、そのくまのぬいぐるみが砂まみれであったことだ。ぬいぐるみが砂場に落ちているということを示唆しているのだろうか。


 しかし、砂場にぬいぐるみなんて落ちていなかった。では、さっきフラッシュバックしたぬいぐるみは何だったのか。他に手がかりもないので、とりあえず砂を掻いてみる。見えないものをあてもなく探すように。


 掘り進めるうちに楽しくなってきた。童心とやらを思い出したのだろうか。


 夢中になって砂を掻いていると、明らかに砂以外のものに触れた。ゆっくり引き上げると、フラッシュバックした時に見えたぬいぐるみと同じものが出てきた。やはり、あれは失せものがある場所のヒントだったのだ。


 砂まみれになったぬいぐるみを叩いて砂を軽く落とした。それでも砂は残っていて、どうしようかと悩んでいるところに女の子がやってきた。


「見つけてくれてありがとうございます!」


 女の子はぬいぐるみを受け取ると、男の子の元へ駆けて行った。


「ほら、ぬいぐるみ、見つけたよ」


「う、うん……」


 既視感があったが、そのソースを思い出せなかった。とにかく、男の子の失せものを見つけ出したので、電車に戻ろうとすると、女の子に呼び止められた。


「これ、さっき落ちていたの」


 そう言って、幸せそうに笑う男女のツーショット写真を渡された。写真の裏には、写っている二人の名前と思われるものがハートマークで結ばれている。僕はそれを曲がらないように胸ポケットにしまった。


「ありがとう。持ち主に渡しておくね」


 女の子は少し首を傾げた。しかし、すぐに何かを察したように無垢な笑顔を浮かべる。特に気にする必要はないと思い、僕は電車に乗った。


『それでは、次の駅に参ります。車内が揺れますのでご注意ください』


「じゃあ、またね」


 扉が閉まり、電車はゆっくりと動き始める。


 僕が手を振ると二人は天まで伸ばした腕を振って見送ってくれた。徐々に電車のスピードが上がり、二人の子供から離れていく。そして、その姿が見えなくなり、僕は座席に腰を下ろした。


 窓を眺めても白い靄が視界を遮り、外の様子は分からなかった。


『次の駅は学校。学校です。足元にご注意の上、お降りください』


 電車はゆっくりと速度を落とし、やがて止まった。扉が開くとそこは学校の校舎内のようで、目の前には靴箱がずらりと並んでいる。


 靴を脱いで校舎の中を歩いていると、3階にある新校舎と旧校舎の渡り廊下のところに学ランを着た男子生徒を見つけた。彼は廊下の窓から外に顔を出し、浮かない顔をしていた。おそらく、彼が失せものを探している人だろう。


「どうしたんですか?」


「あっ……その、大切なペンダントを失くしてしまって……。どこを探しても見つからないんです……」


 こちらに顔だけを向けて、その悲痛さを訴える。その顔に見覚えがあった。


「探すの手伝うから、そう落ち込まないで。きっと見つかるから」


 僕はそう言って彼を励ました。早速ペンダントを探しに、一階の教室から順序よく探していく。


 閑散とした教室に足音が響き、哀愁が漂う。それにしても随分と広い校舎だ。そこから小さなペンダントを見つけるなんて骨が折れる。


 各教室に置いてある机の引き出しを一つ一つ確認し、椅子や洗面所の下も探したが見つからない。


 十クラス分の教室を回っても見つからず、とうとう疲れてしまった。少し椅子に座って休憩しようと思ったら、いつの間にか寝ていた。




***




 彼女からもらったものを失くしてしまった。学校中を探したし、家も帰り道も全て探したが見つからなかった。


 失くしたことを黙っていても悪いので、正直に打ち明けようと思い、彼女を呼び出した。彼女はなんと言うだろうか。とりあえず、怒られて顔を引っ叩かれる覚悟をして待っていた。


 あれは、たくさんの思い出が詰まっている大切なものだ。なのに、どうして失くしてしまったのだろうか。


「どうしたの? こんなところに呼び出して」


 少し不安げな彼女が来た。息をゆっくりと吸って、罪悪感と戦いながら話す。


「その……実は、君からもらったものを失くしたんだ……」


「私、それがある場所分かるよ」


 目元はぼやけて見えないが、にやけた口元がもったいぶった口調で言う。


「ほんとに⁉︎」


「もちろん。それよりも、正直に打ち明けてくれて嬉しいよ」


「どうして?」


「え、だって、将来結婚した時に何か困ったことがあった時、私に言えるでしょ? そしたら、私は君の手助けをすることができる。それなら安心だからね」


「なんだよそれ」


 二人して笑った。高校生なのに、結婚のことを考えているとは、どこか純粋な部分が垣間見える。それは僕にも言えることであった。


 「空」と言われれば上を見たし、「好き」と言われれば「好き」と返した。


 言葉だけではない。気持ちだって色鮮やかだった。ふわふわと宙に浮いてしまうほど明るくて、海のように雄大でキラキラしていた。


「ポケット。その学ランの内ポケット探ってみて」


 言われるがままにポケットへ手を入れる。硬くて滑らかな感触とチェーンが擦れ合う音が鳴った。それから、甘い青春の香りが弾けた――




***




 夢を見ていた。伏せていた顔を上げて辺りを見回す。依然として教室は不思議な明るさに包まれている。曖昧な意識が急に覚醒し、僕は立ち上がった。


 夢の通りならば、あの男子生徒の失せものは学ランの裏ポケットにある。走って男子生徒がいた渡り廊下まで行くしかない。


 教室を出て二階の廊下を走り、スタディルームを抜け、トイレを横切って階段を上がる。そのまま左へ曲がれば渡り廊下だ。走っている勢いでドアを開けて渡り廊下へ出た。


「君! ペンダントのある場所が分かったかもしれない!」


 男子生徒は驚いた表情でこちらを向いた。


「君の学ランの裏ポケット」


 僕は息を切らしながら早口で言う。


「裏ポケット?」


 どうして他人のポケット事情を知っているのかと疑問に思ったようだったが、素直に学ランの裏ポケットへ手を入れる。その瞬間、彼の顔が明るくなった。


「あ、ありました!」


 興奮した様子でペンダントを取り出して僕に見せた。僕も安堵して自然と笑みが溢れる。彼は早速と言わんばかりにペンダントのチェーンを首に巻いた。


「そういえば、学校の身なり点検の時に裏ポケットに隠したまま忘れてました。ありがとうございます」


「どういたしまして。これからは気をつけてね」


「はい。本当にありがとうございます。あれ、それは……」


「どうかした?」


「あ、いえ。なんでもありません」


 彼は僕の胸の辺りを見て何か言いかけた。気になって自分の胸元を見たが、普段と変わったところはなかった。


「じゃあ、そろそろ行こうかな」


「あ、待ってください。これ、きっと探してる人がいると思うので、その人に渡してもらえませんか?」


 差し出されたのは指輪だった。


「わかった。必ず持ち主に届ける。じゃあ、またね」


「よろしくお願いします。では、また」


 手を振り合って別れを告げる。指輪を写真と同じく胸ポケットに入れ、渡り廊下から出て玄関へ向かった。


 電車に乗ると扉が閉まり、アナウンスが流れる。


『それでは、次の駅に参ります。車内が揺れますのでご注意ください』


 学校はゆっくりと虹色の靄に飲み込まれていった。未だに何も思い出せないが、言葉にできない明るさを感じていた。しかし、それと同時に、その明るさがいつか消えてしまうのではないかという危機感があった。


『次の駅は家。家でございます。足元にご注意の上、お降りください』


 その危機感を拭えないまま次の駅に到着した。ブレーキをかけた時の甲高い音がやけに気になる。


 扉が開いて電車から降りると、とある一軒家の玄関先に出た。その家は新築なのか、すごく綺麗で鮮明だ。庭もあるが、そこまで広くはない。人がいるとしたら家の中だろうと思い、インターホンを鳴らす。


 いくら待っても出て来ないので、もう一度鳴らす……やはり出て来ない。試しにドアを開けてみると鍵がかかっておらず、すんなりと開いた。


「……お邪魔します」


 罪悪感もあったが、僕は家の中へ入った。靴を脱いで中へ入り、まずは一階に人がいないか探した。入ってすぐ右にあったトイレをノックするが、反応がないので、開けてみるとそこには便器があるだけ。


 続けてお風呂場を覗いても誰もいないし、キッチンは料理の良い匂いもしなければ、調理器具が外に並んでいるわけでもなかった。同じように、リビングも大きなテーブルと椅子が2つあるだけ。


 かくれんぼをしているわけではないので、クローゼットの中にいるわけがないと思いつつ開けてみる。そこには洋服がズラッと並んでいるだけであった。今は物置部屋として使っている部屋もくまのぬいぐるみがあるだけで誰もいなかった。


 二階の各部屋も探すが、誰もいない。庭にいるのだろうかと思い、外へ出て探してみても誰もいないので途方に暮れていた。


 リビングの椅子に座って大人しく待っていてもこの状況が変わることはなかった。


 今回ばかりはフラッシュバックや夢といったヒントも出て来ない。


 そろそろお腹が空いてきて、何かないかと冷蔵庫を開けてみる。豊富とは言えないが、この空腹を満たすには十分な量の食材が入っていた。そこで、何か作ろうと思い立ち、手を洗おうと流しの蛇口をひねる。しかし、水が出てくることはなかった。


 一つため息を溢す。ダメ元で洗面台へ行き、同じように蛇口をひねった。水は出ない。


 あまりやりたくはなかったが、空腹には勝てずに腹を括った。


「よしっ」


 顔を上げるとそこには鏡に映る自分がいた。自分の顔を見て驚くことが、こんなにも奇妙なことなのかと思い知らされた。


 動揺しながら慌てて胸ポケットから一枚の写真を取り出す。そして、そこに映る人物の顔と鏡に映る自分の顔とを見比べる。そこに差異はなかった。


 そうして写真をまじまじと見ていると、映っている男性が左手の薬指に結婚指輪を嵌めていることに気がついた。もちろん、その結婚指輪にも見覚えがあった。


 胸ポケットから結婚指輪を取り出す。よく見ると裏の方に名前が彫られていて、それは写真の裏に書かれている名前と同じであった。


 それから、物置部屋にあったくまのぬいぐるみと、今の今まで違和感なく付けていたこのペンダント。


 この駅で失せものを探しているのは僕自身なのかもしれない――


 記憶がゆっくりと蘇える。妻との出会い。妻との青春。妻との結婚。妻との喧嘩。思い出すことでようやく分かった。ここは自分自身の記憶の中であるということが。


 くまのぬいぐるみを失くして泣いている僕に、彼女が声をかけたことが全ての始まりだった。そして、僕は仕事の失敗を妻に打ち明けられずにイライラして、妻と喧嘩してしまったのだ。


 高校生の時はあんなにも素直で純粋だったのかと思うと自分に嫌気が差す。でも、あの頃の気持ちを思い出した今、多少は素直になれるのではないかと思った。


 そうして僕は失せモノを見つけた。


 電車に乗るといつものアナウンスが流れる。電車は星の輝く夜空を走り、僕はだんだんと眠くなっていった。


『次は現実。現実でございます。こちらが終点となりますので、失せモノをしっかりとお持ちになってお帰りください――』




***




 揺れる。どこかへ向かって進んでいる。ここは……。


 目を開けるとそこは電車の中であった。視界が埋まるほど乗客が多くて息苦しい。外は真っ暗で、気を緩めた瞬間にお腹が鳴った。


 妻と喧嘩して家を出てからふと電車に乗ろうと思い立ったが、乗ってすぐに寝てしまったことを思い出す。


 アナウンスが自宅付近の駅の名前を呼び、しばらくしてから電車が止まってドアが開いた。


 当分家には帰らないと決め、宣言したのにもかかわらず、僕はそのドアが開いたタイミングで降車した。


 迷うことなく家へ向かって歩き、十分程度で家の前まで来た。大きく息を吸い、ドアの鍵を開ける。ドアノブのゆっくり回して中に入る。


「ただいま」


 できる限りいつも通りを装って奥へ進む。


「当分帰って来ないんじゃなかったの?」


 椅子に座った妻が怒り口調で言う。分かっていたことではあるが、辛いものは辛い。


「その……ごめん。実は……」


 仕事の失敗と、そのせいでイライラしていて、つまらないことで怒ってしまったことを妻に伝えた。


「だから、ごめん。こういうことがあったら逐一報告するって約束だったのに、失敗したことが恥ずかしくて……」


「よかった、覚えてたのね。じゃあ話が早い。次から気をつけるようにね。今回は許してあげるから」


「ありがとう。それとさ――」


 ぐぅぅ……。


 タイミングよくお腹が鳴った。


「はいはい。お腹空いたのね。一緒に作ろうか」


 ――星の輝く夜空の下、とある家は甘い香りと幸せの声で満ちて、暖かい夜が広がった。



【死神】



 人は死ぬべき時が訪れると、その人のもとに死神が現れる。


 そんな話を思い出しながら、目の前にいる少女に目をやった。


「だーかーら、私、死神なの」


 セーラー服に身を包んだ少女は復唱する。


 改めてその言葉を聞いてもしっくりこない容姿である。それ以前に、彼女が僕を殺す瞬間を想像できない。それくらいに美しく整った顔立ちをしている。長くて綺麗な黒髪は窓から入ってくる風でなびく。本当に死神なのか疑っているのだ。


 たしかに、僕はいつ死んでもおかしくない状態にあり、死神が現れても納得できる。しかし、彼女は一向に僕を殺そうとしない。


「君はどうして僕を殺さないの?」


「一応、今日はお見舞いということできてるから」


 そう言って彼女は僕の隣にある椅子に腰掛けた。


 事故のせいで記憶は曖昧だが、歩きスマホしている僕は赤信号に気づかずに横断歩道に出た。その後は覚えていない。気がつけば病室にいた。


 憂鬱だった僕は気分を紛らわすため、スマホで癒しを求めていた。今となってはくだらない理由で死んでしまったことに後悔はなかった。


「痛いところとかない?」


「うん。大丈夫」


 怪我の心配するなんて、おかしな死神だ。


「ねぇ、どうして歩きスマホなんてしていたの?」


「それは……嫌なことがあったから。現実から目を背けたかったんだ」


 憂鬱だった理由にも繋がるが、僕は事故の直前に失恋をしていた。何年もの間想い続けた女子が告白されている場面を目撃してしまったのだ。


 その二人は周囲からお似合いだとか付き合っているのではないかと噂されていた。でも、彼女には好きな人がいるというだけで、決定的な証拠はなかった。それだけが、唯一の救いだったのに、その場面を目撃した瞬間、見えている景色が暗転した。


「……なんかごめんね。辛いこと思い出させちゃった」


「いやいや。いいんだよ。何があったにせよ、僕が悪いんだ。勝手に勘違いしてた僕が」


 彼女と仲良く話したり、一緒に帰ったりしていた。それを思い出そうとすると胸が痛み、彼女の顔がぼやける。


 初めての失恋は想像を絶する辛さで、今すぐにでも死んでしまいたい気分であった。胸が裂け、虚無感だけが僕を支配する。最悪だった。


「私、好きな人がいるんだ。怖がりで、運動もできなくて、よくからかわれてた。でもね、いつだって私のことを一番に考えてくれていて、辛い時は話も聞いてくれて。付き合ってもいないのに、彼氏みたいだった」


「そうなんだ……」


 一番辛いことは、僕にはどうすることもできないことであった。時間を止めることができないように、二人の恋を邪魔することはできなかった。


 直前の嫌な記憶だけが鮮明に残っているのも、死神のせいなのだろうか。


「最後に一つだけ、質問してもいい?」


 彼女は目線を落として言った。


「いいよ」


「あなたは好きな人がいる?」


「いる」


「どんな人だった?」


「それは……」


 本当は思い出したくなかった。全てを忘れ、何もなかったことにしたかった。彼女のことを思い出したら、辛い感情まで思い出しそうで怖かった。


「たしか……。黒くて長い髪に……綺麗に整った顔立ちで……手は小さいのに力強くて……」


 思い出していくたびにどこか引っかかるところがあった。彼女の手に触れたこともないのに、どうして彼女の手の感触を知っているのか。目の前の少女を凝視する。


「もしかして……」


「どうかした?」


 ぼやけていた彼女の顔が徐々に鮮明になり、目の前にいる少女の輪郭と重なった。完全に思い出した。僕の目の前にいる自称死神こそ、僕が好きだった女子である。


「君だよ。僕が好きな人は」


 もうすぐ死ぬのだから、これが最後のチャンスだ。フラれる不安も、今となっては意味がない。


「……本当に?」


 彼女は驚いた表情を浮かべる。


「間違いない。でも、おかしいよね。君は死神だし、僕とは初対面であるはずなのにね」


「実は私、死神じゃないんだ。でも、もうすぐ私は死んじゃう。だから、最後に自分の気持ちを伝えたくて……」


 頬を赤らめ、こちらを真っ直ぐに見つめる。その目には一切濁りがなく、透き通っていた。


「私……ずっと前からあなたのことが好きでした」


 熱がこちらにも伝わり、顔が熱くなっていく。動揺してるのがすぐにわかるほど唇が震え、心音が部屋に響きそうなほど心臓がバクバクしている。


「両想いだったのね……。もっと早く知りたかったな……」


 彼女はそう言って僕の手に指を絡め、一気に距離を詰めた。そして、動揺して震える唇にそっと唇を重ねた。柔らかくて、暖かくて、優しい。震えは収まり、体が軽くなった。そして、名残惜しそうに唇が離れる。


「これからは私のことを忘れて、しっかり前を向いて生きてね。死神さん」


 最後の言葉であの事故の真相を思い出した。僕は信号無視した後、車に轢かれそうになった。その瞬間、僕の背中を押す手があった。そのおかげで僕は軽傷で済んだのだ。おそらく、僕の背中を押したのは彼女だ。そして、彼女は……。


「こんなことして『忘れて』って、魂抜き取るのと変わらないんじゃない?」


「あはは、そうだよね。ごめん」


 お互いに涙を堪えて笑った。


「こっちこそごめん。それから……ありがとう」


 僕は彼女の手を強く握りしめ、後悔した。先入観や他人の意見に惑わされ、勝手な想像で物事を決めつけていた。


 漸次、少女の体は薄くなっていき、触れることすらもできなくなる。言いたいことがたくさんありすぎて、むしろ言葉が詰まった。


「好きだよ」


 僕の涙声はちゃんと届いたらしく、彼女は微笑んで、完全に見えなくなった。



【あなたに会いたい】



 ――あなたに会いたい


 薄汚れた部屋で一人、死んだ目でベットに横たわる。意識は北西、未知数離れたあなたのとなり。xはあなたの想いでyは僕の想い。y=10ならば−1<x<1なのだろう。


 挨拶した時の笑顔が忘れられない。メールのやり取りをすることによってあの笑顔が日常の一部になると思っていた。


 きっともう、あなたは振り向いてくれない。今だってそうだ。四十八時間表示されている未読の文字が何よりの証拠である。


 僕は知らぬ間にあなたの心へ土足で入っていたのかもしれない。もしくは彼氏でもできたのだろうか。


 夏休みなんていらない。不安が積もって喉の奥に異様な塊が引っかかる。眠たいが、目を閉じたら自分を保てなくなりそうで怖い。


 天井が霞むから寝返りをうち、唇を噛み締めた。心が潰れそうな苦しさを感じる。布団の中に蹲っているのにもかかわらず、外の肌寒い空気が全身を覆い、雪こそ降っていないが心が凍っていく。


 焦燥感が返信の催促をするべきだと言う。かろうじて生きている冷静は、そんなことしたらくどい人と思われて嫌われるかもしれないよと言う。


 今すぐにでもあなたに会いたい。そうすれば、返信なんて待たなくても答えが返ってくるから。そしてあわよくば、あの笑顔をもう一度見たい。純粋無垢な満面の笑み。汚れてしまった僕には眩しすぎるあの笑顔を、もう見ることはできないのかな……。


 たった二日間でも待ちきれずこんなにも憔悴してしまう僕が、あの笑顔を見ずに何日生き延びることができるだろうか。水すらも喉を通していないので、明日が限度だろうか。


 深くなっていく闇にいっそのこと目を瞑りたくなる。楽になりたい。それは甘えである。一時的に逃げることができるだけで、絶望が再度襲って来た時が寿命となる。


 一秒でも長く生きて可能性を信じることこそが僕の救われる唯一の確率。


 ここまで大袈裟な話をしておいてメールの内容のつまらなさに呆れる。内容について言い訳を並べて自分を肯定しつつ、膨らむ妄想が自らの首を絞めた。


 空想の中でひたすら過去に縋って現状をすり潰し、ご都合解釈を水で溶かして飲む。当たり前だが程良い甘さが口内に広がり幸福感に支配される。


 どう足掻いたって夜を超えることはできないが、明日なんていらない。ずっと今日がいい。そうであれば、無限の可能性を持ち続けることができる。


 心の奥底にある深い青を洗い流せたら闇夜に溶けることもないだろうに。しかし、僕自身が洗い流す方法はない。他力本願であるしかないのだ。


 言葉にできない感情なのに、こんな長々と文字にできるんだ。馬鹿みたい。


 深淵を知る者に問う。いっそのこと落ちてしまえば楽なのではないかと。苦しいなら逃げてしまえばいいのだと。そうして、マイナスになった気持ちをゼロに戻してしまえばいい。言うは易く行うは難しってか。


 なんならやってやろうじゃないか。何万、何十万の自殺志願者が成し得なかったことを。そして、やつらに苦しさの本意と限度というものを知らしめよう。


 さて、ベットから起き上がり部屋を出て玄関で草履を履き、家を出た。月光と街灯と店明かりに染められた街路を重い足取りで進む。漸次、心中が鬱鬱として黒いエネルギーが増幅し、視界も段々と通行人を映さなくなる。そして、たまに吹く風がなんだか痛い。


 ネオンで彩られた看板の数々を横目で一瞥し、鬱積していく。楽しそうな男女の笑い声と洒落た音楽が夜空に舞い上がる。どうしてこうも幸せそうな人がいるのだろうか。僕はこんなにも苦しんでいるのに。


 鬱憤を晴らすように彼らのことを罵倒した。思いつく限りの非を挙げ、少しばかり満足してしまった。自分の気持ちがガラクタ同然の価値しかないのかと呆れる。僕は世界にとってその程度なのだろうか。モブBにすらなれるか怪しいところ。


 階段を踏み締める音が虚空に消えていく。高層マンションの十階まで登り、行き先を見下ろす。何の変哲もない駐車場が広がっている。僅かに息を呑んだ。この一線を飛び越えればゼロは待っている。


 しかし、脳内シミュレーションをする度に自殺願望が薄れていく気がした。恐怖とはまたちょっと違う。まさかここまで来て僅かな可能性を信じているとは思わなかった。なんせ、スマホをしっかりも握っていたのだから。自殺にスマホなんていらないのに、だ。


 何度自分に呆れたらいいのだろうか。三度目の正直という言葉を信じるならばあと一回。


 覚悟を決めたはずなのに。僕は所詮数十万の内の一人に過ぎないのだろうか。きっとそうなのだろう。


 緩んだ心を刺激するようにスマホが鳴る。友達のくだらないメールだと自分に言い聞かせたが興味には勝てなかった。絶望した時のことも考えずにスマホを開き、メールの差出人を確認する。




 思わず出そうになった声を殺す。







 ――彼女であった。







 まだ信用はできない。メールの内容によっては――もう冷静ではなかった。考えに反して指は画面をタッチし、メールの内容が表示される。




『待って!』




 その言葉の意味を何度も咀嚼する。しかし、僕の送ったメールの返事としては不適切すぎる。それとも返事を待ってほしいということなのだろうか。




 勢いよく階段を駆け上がる音。荒い息に名前を呼ぶ声。覚えのある香水の香り。振り返る。――膝に手を当てて体を上下させる女性がいた。


 前に垂れて体と共に揺れる長い髪と華奢な体つき。まさかと思った。しかし、そのまさかであった。


 女性が顔を上げ、その顔が露わになると、僕の胸は吐きそうなほどに締め付けられる。


 曇った表情ではあるものの、あの笑顔を彷彿させるには十分であった。


 心拍数が上昇し、目を何度も疑い、全身が震える。急に冷静っぽくなった頭はこの場からの逃走を図ったのだが、体と心はそれぞれ別のことを考えていた。


 三位分体。自分が自分でなくなる。三方向に引っ張られ今にも自分という存在が引きちぎれそうだ。でも、落ちるという選択肢は不思議となかった。


 羞恥が芽生えた頃には何時間経過していただろうか。彼女は息も整っていて、僕に何かを語りかけていた。いや、もしかすると尋問を受けたのかもしれない。記憶は曖昧だが、それらしい言い訳で自尊心の防衛を試みた。おおよそ失敗していたに違いない。だから今、こうやって僕は彼女に肯定されているのだろう。こうやって慰められているのだろう。こうやって謝られているのだろう。こうやって、こうやって、こうやって……。


 そうして僕は彼女の温もりを全身に感じ、幸せをすり潰しそうなほど噛んで噛んで噛んで……。


 僕はプライドの高い子供のように声を押し殺して泣いていた。それも彼女の胸の内で。


 ――君に会いたかった



【青春に殺される】



 もう一度だけ。もう一度だけでいいんだ。

 あと一瞬だけ。あと一瞬だけでいいんだ。

 君の、本当の笑顔を見せて欲しい。


 どれほど懇願したって君は意味のない表情で、価値のない言葉を返すだけ。


 君もまた、僕と同じように被害者なのだ。


 その美しい容姿から、『人形みたい』だと形容できるけども、本当の人形になってしまったかのようで悲しい。


 こんなことなら、青春なんていらなかった。空を支配する青と、冬の息の根を止めた春。これらに取り憑かれた僕は、彼女と同じ道を歩むだろう。


 彼女もまた、この二つに取り憑かれ、恋をしていた。僕のように。しかし、いくら人形のような美少女でも失恋することがある。君は失恋してなお、相手のことを忘れられずに苦しんでいた。


 青春にがんじがらめにされ、動けなくなり、いずれ死ぬ。もう、彼女は歩く屍同然たった。それなのに、彼女の瞳は明らかに生きている。そのせいで、僕は彼女に吸い寄せられた。虚無に満ちた世界へ誘われたのだ。


 屋上へ向かう僕からしてみれば、マイナスがゼロになったようなものだった。だから、君に依存するしか生きる術はなかった。逆を言えば、君のせいで《・・・》生きている。


 ということは、君が灰になった今、僕が何をすればいいかは明白だ。生きる術は燃え尽きた。失恋したって、夕飯は残さず食べた。君がこちらを振り向かなくたって、僕は生きていけた。


 生きる術を失った僕は、彼女と同じように、また、前の自分と同じように階段を上るだけだ。




【君のせいだ】



 君のせいだ。君のせいで私は今、こんな状態になってしまったのだ。


 私は今、天国へ向かって垂直に落ちている。あと数秒もすれば私はただのタンパク質に成り下がってしまう。


 全部全部、君のせいだ。君がいなければ、私は焼け野原を一人で彷徨う放浪者であり続けることができた。それなのに君は、この誰もいない焼け野原から私を連れ出し、私に夢を与えた。


 天国に移る影が少しずつ伸びていく――影の面積がゆっくりと広くなってゆく。


 楽しいことが一つもない世界に隕石を降らした結果、私の人生は焼け野原になった。そして、その焼け野原から私を連れ出したのが君だった。それなのに君はどこか遠くへ行ってしまった。


 髪が風に煽られて乱れ、野次馬が騒ぎ、空は青い顔をして私を見下ろす。


 君のいない世界で大人になっても意味がない。君のいる世界にこそ、私の存在意義があり、私という一人の人間が生きていける世界なのだ。だから今、私は君を追いかけて、君がいると思われる場所へ向かっている。


 クレーターに水を入れて、水遊びしてみたかった。引力で君と離れることのない生活をしてみたかった。


 君のせいだ。君のせいで私は幸せを知り、幸せがないと生きていけない体になってしまった。君のせいで私はこうなってしまったのだ。今度会った時は、黙って抱いてくれなきゃ許さないんだから......。


 私は強い衝撃と共に空へ溶け去った。



【朽ちた恋】



 いつだって始まりは唐突で、無意識にコップへ水を注いでいたかのように、急な出来事であった。溢れんばかりの「好き」という感情が現れたのだ。それから半年経ち、私はその場面を目撃する。


 無知でいたかった。でも、無残にも事実を突きつけられる。過去の出来事の辻褄が合っていく。これを踏まえて証明完了と言わないのは、ただの夢見る愚か者だ。


 ちょっとした期待だって、初めは火薬の一粒に過ぎない。しかし、塵も積もれば山となる。そうして何かの拍子で爆発する。爆発は花火のように美しくて、一瞬だ。爆発の後には燃え切った火薬の匂いだけが残る。


 虚無感は心を食い散らかして穴を開ける。切なさは首を締めて食事を困難にさせる。悲しさは気持ちを黒く染めて感情を塗り潰す。後悔は脳内を支配して全身の機能を停止させる。


 自分が自分でいられなくなる。自分に対して辟易としてしまう。いや、正確には自分の運命に。その辺に投棄できるものでもない。生まれた時から貼り付いている。それが運命というもの。


 でも……。でも、私は抗おうと、抗えると、思ってしまった。前進に犠牲は付き物。進歩に伴う退化は宿命。もしもこの法則が崩れているのならば、ここは既に理想郷のはずだ。


 後悔は反省。そうはいっても、答えは分からないまま。いずれ分かるなんて悠長なことも言ってられない。それ以前に、答えは毎秒変わり続けている。そんな際限なき世界でどうやって答えを探し出せばいいのか。夏休みの宿題とは違うのだ。


 誰かが喜べば、誰かが悲しむ。今の世界は均衡が保たれている。誰かが生まれれば誰かが死ぬし、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。そんなのは嫌だ。でも、私と違って私の好きな人は幸せだから、間違いない。幸せかどうかは、彼の表情で分かる。


 それでも、諦めるなんて無理。必死にしがみついているが、私の体力が持つのも時間の問題である。首の皮一枚繋がっていても辛いだけだ。もう、いっそのこと自ら断ち切った方が楽になれる。


 同じ報われない恋ならば、「両想いだけど家の関係で恋を阻まれる」方がよかった。両想いになる「確率」があるとするのならば、私は「確率削り」なのだ。私を踏み台にして、周囲は両想いになる。


 実は確率を信用したくなかった。だから、必死に自分がダメな理由を考えた。そうすると、恐ろしいほどたくさんあることに気がついた。修正しようとしてできるほどの数でもない。まず、このことで絶望した。


 「恋をすると綺麗になる」と聞いた。科学的にも証明されている。それ以前に、好きな人に好かれたい一心で自分磨きに励むだろう。私に勝ち目など最初からなかったのかもしれない。


 確かに、前々からかっこいいなとは思っていた。彼が恋をした、あるいは恋が実ったから余計に魅力的になったのかもしれない。


 絶望は見えている。苦しいのは見えている。抑えられない気持ちをどうすればいいのだろうか。私は……どうすることもできない。手放すことに怯えて立ち止まる。


 変わらない風景と気持ち。私は世界に置いていかれた。寂しさに吹かれ、錆びてしまいそう。心の底から世界を恨んだ。


 私の好きな人は、赤らめた顔で華奢な少女の手を握っていた。




 翼を折り畳んだのは傷つくことを恐れて飛ぶことを諦めたから。暗い瞳は未来に光がないから。緩むことのない口元は絶望しているから。


 でも、手は愛を綴っていた。貧弱な言葉を並べて紙を汚して。世界を変えようと必死だった。震えが文字を乱しても、言葉が尽きても、書き続けた。伝える勇気なんてないから叫ぶだけ。負け犬の遠吠えってやつがノートを埋め尽くすだけだ。




 拝啓 愛しのあなたへ


 気がつけば視界にあなたがいて、恥ずかしくなって急いで目を逸らすの。あなたが歩けば私の目も一緒になって動いて、なんだか不思議な気分。それに、あなたが私以外の異性と話しているのを見ると苦しくて、吐きたくて、話し相手がものすごく憎い存在になる。


 あなたのことで知らないことがあれば無知の自分を呪ったし、私だけが知る秘密があればどれだけ有頂天になれたと思う?


 あなたの素直なところや気遣いのできるところ、整った容姿に透き通るような声、眩しいほど輝く笑顔、困難にも覚悟と勇気を持って立ち向かう姿勢とその真摯な瞳。どこを見ても国宝より美しい。


 この世の唯一神にも思えるほど完璧で、非の打ち所がない。犬も歩けば棒に当たるというが、その犬はきっとあなたのことを考えていたに違いない。馬が念仏に興味がなくとも、あなたの話を始めたら忽ち目を見開いて興味を示すはず。


 残念なことに、あなたの良さは誰もが知っている。私はあなたを嫌いになろうと、あなたの穢れを探したけど、逆効果だった。あなたはどこまでも純粋で、余計に煩悩が増殖した。


 もういっそのこと、想いを打ち明けようと何度思ったことか。打ち明けられたならどれだけ楽だったか。生き地獄にいるような気もした。なのに、あなたを見るたびに何故か救われた気持ちになれた。


 そして、今までの負の感情を全部洗い落とされて、世界が変わるのだ。自分の中で革命が起こり、夢から覚めたような――おそらく、この世界が夢なのだろうが――爽やかで心地よい快感に襲われる。もちろん、その別の世界に居られる時間は限られていて、元の世界に戻ればあの世界が恋しくなる。あなたは麻薬だ。見ただけで影響を及ぼすタチの悪い麻薬だ。


 私を餌付けして飼い慣らすつもりなのだろうか。いや、そんなつもりはおそらく一切なくて、無意識でやっていることだろう。あなたは罪深き罪人。思わせぶりな言動で私の心を揺らし、麻薬のような中毒性で魅了する。その上、私への興味は皆無ときた。許せるわけがない。


 あなたのような人がいたら世界が滅亡する。だから、どうにかしなければならない。手遅れになってしまう前に。一番悪いのはあなたに自由があるからで、自分勝手に動いて誤解をばら撒いていることが大きな原因なのだろう。


 束縛、監禁、骨折、刺突、殺人、爆破……。どれも意味を持たない。しかし、一つだけ方法はある。


 この手紙を君に渡せるといいな。渡せた時はお世辞でもいいから、棒読みでもいいから、褒めてほしいの。違う、そんなことは後からでもいいね。それに、物事には順序ってものがあるから……初めにあなたに頼みたいことがあるの。


 ――私のモノになってよ




 溢れるままに愛を綴れば、渡せないほどに汚い気持ちまでも出てきたので、書いたページはすぐに破り捨てた。それでも足りない。告白しなければ昇華できない気持ちがあり、それがなくならない限り、私は苦しみ続ける。だから、私は自殺するつもりで告白した。




***




 別に、近づきたいとは思っていなかった。嘘じゃない。『となりのクラスのあいつ』でよかった。……嘘だ。何も知らないままがよかった。


 いつの日か貰ったビターチョコの味を今でも覚えている。手と手が触れた時だって気付いていないフリをしただけ。本当は気付いていた。気付いてほしかった。


 友達の友達って言葉がよく似合うと思う。あだ名を知っているだけで、本名は一切知らない。その上、喋ったのも両手で数えられるほど。そういう関係だった。


「そういうのいいよね。可愛いい」


 そんな世俗的な一言が、私自身に言われている気がした。勘違いも甚だしい。身につけていた赤色のヘアピンに対して可愛いと言っているに決まっている。それでも私は、あいつのことが好きになってしまった。


 あいつはいつも私の教室で弁当を食べるものだから、昼休みは楽しみだった。月曜二限の移動教室の時、高確率ですれ違った。もちろん挨拶はしない。


「この本、めちゃくちゃ好きなんだ!」


 友達との会話を偶然耳にした。その瞬間から、私もその本が好きになった。そして、彼に認められたいという気持ちで拙い文章を綴り始めた。


 私はあいつを見るだけで幸せになれた。幸せの理由なんていらない。勝手に満たされているだけで十分だった。


 だから、卒業式もあいつが背景に映り込んでいるくらいがいいと思っていた。あいつの進学先も知る気はなかった。そうすれば、淡い初恋として思い出に刻まれ、何もなかったかのようにいられると思ったからだ。


 そう信じていた。


 それなのに、隣の女性に嫉妬したせいで苦しくなって、勝手に傷ついて。ほんと馬鹿だよね……。


 赤色のヘアピンを取り、その辺に落とした。そしてベッドの中に潜った。


 私は失恋したのだ。


 ベッドで眠れない夜を過ごし、朝には涙で溺れて、昼過ぎにようやく立ち上がった。カップ麺にお湯を入れ、三分もしないうちに食べ始める。冷えたコーヒーを片手に熱いラーメンを口に運ぶ。今は食事の相性さえどうでもよく感じる。




 恋は、愛は、枯れ果てて、コーヒーの苦さを忘れる。ミルクの甘さが恋しく、ふと思い出すのはあの人の肌。冷たくも温かく、無限の可能性を孕んでいた。私の手は空を切り、力無く地におちる。空のカップ麺がお箸に引っ張られて倒れているように、私の心も君に奪われていた。そのバランスが崩れた今、世界は常識を放り投げ、私を殺す。


 恋って何。愛って何。


 原稿やプリントで散乱した机に広がる私の日常。本棚には未読の本と、あの人が愛していた本が並んでいる。実質、あの人の写真が飾られていた。でも、もう意味はない。意味を持たせることもできそうにない。歯磨き粉のミントだって不快なものの一つになった。


 生きて、生きて……。


 肉のないミートソースをダンボールにかけるってことなのかもしれない。炊飯器の中に眠るご飯たちがそう呟く。新聞紙だって濡れてふやけて破れた。紙コップがひとりでに落ちて私を嘲笑う。その残響がとても耳には毒で、思わず息を止める。それでも毒は私の心を蝕む。私は腐ったジャムが乗った焦げパン。


 落ちる。堕ちた。


 あの人からもらったお菓子の包装紙だって飾っていた。今では単なる塵でしかない。燃えるべきもの、燃やしたいものである。それなのに、どうしても塵として見ることができない。私は最低だ。忘れただなんて嘘だ。もう会えないなんて無理だ。でも、この気持ちはとっくに干からびている。次の潤いを求めている。


 そんな自分の首に手を当ててみたり。


 事実を反芻するよりも、幻想を追いかけたい。暑いからクーラーをつけ、寒くなるから布団を被るみたいなことができるほど、私は器用ではなかった。うどんとラーメンの違いを知らないほどに無知でいたかった。吐き出すのはそばつゆ。食べるのはパスタ。


 お腹が空いた。


 食事だって喉を通らなかったのに、想いの言葉は呑み込めた。強がらずに呑み込み続ければよかった。そんなことを考えたって何も始まらないし、むしろ終わったのだ。心に銃身を突きつけられていたのはあの人を好きになった時からで、とうとう撃たれたのだ。


 心に穴が空いた。


 ゲームのようにAかBで決めることができるのならば、二分の一なのに、人生はそこまで上手くはいかない。気楽に決めたとして、私に用意された電気回路は同じ場所へ繋がっているので、何の変化もない。


 運命は非情。選択肢は選ばされるもの。


 私は……弱い。だからずっと立ち止まり、怒りをぶつける先もないから一人で憔悴するしかない。せめて、今ここに、あの人がいたら――そんなことがあれば、私はすぐにでも逃げ去るだろう。地獄へでも。


 生きていたって何もできない。


 五時半の鐘が鳴り、改めて実感する。


 ――きのう、失恋したのだ


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ