夏珂(なつか)のしたこと
私たちはキスをした──。
リリー・マルレーンが流れている、夕陽の射し込むあの教室で。夏珂のくちびるは柔らかくて、頭がくらくらした。じっとりと身体は上気し、汗ばむくらいに熱くて。時間がゆっくりゆっくりと流れていると思った。
***
帰り道、川沿いの道を歩く。茉莉花はひとりで歩いている。
『夏珂はどうしてあんなこと、を……。』
くちびるが熱い。感触が残っているからだ、触れられたときの。何とは無しにくちびるに指をそっと当てた。夏珂が自分にしたように。
これまでも、ふざけて頬にされたことは何度かあった。だが、今回はくちびるだ。お互いのくちびる同士が触れ合ったのだ。
「明日から、どうしよう。……あ。」
思わず漏れた言葉。それが茉莉花をあの強烈でふわふわした、なんとも言えない出来事から「今」に引き戻す。明日からは、夏休みだ。しばらくは、夏珂と顔をあわせることも無いだろう。茉莉花はそんなこと。さえも忘れていた。それだけ虜になっていた。それは、キスをしたこと?それとも、夏珂自身に?──わからない。
そろそろ陽が落ちる夕暮れ時が、まだ残る暑さとともに茉莉花をゆるりと包み込んでいった。長い影だけが彼女と一緒でまるで守っているようだった。
***
そして夏休みが始まった。
よく晴れた暑い午後、茉莉花は庭に水撒きをしていた。夏の、晴れた日の水撒きは、好き。虹がみえるもの。茉莉花が手にしたホースの先端には、水がシャワーのように散るアタッチメントがついているから、水飛沫がとてもキレイな虹を放っている。空に湧く入道雲。
「郵便です。」
郵便配達人はポストに投函せず、庭先に立っていた茉莉花に何通かの封筒を渡し、それだけを言って赤いバイクで去っていく。封筒の束を見た茉莉花は、そのまま固まった。
“ 田所茉莉花様 霧島夏珂 ”
鮮やかな花々が咲き乱れる紅い封筒。すべての音が遠くなる。この世には、茉莉花ただひとりだけが存在しているかのように。
散水ホースを放り出して、茉莉花は、手紙の束を持ったまま玄関へと。そのまま階段を駆け上がり自分の部屋へ。
部屋に鍵をかけ、急いで夏珂から。の赤い手紙を抜き出すともどかしげに手で封を破った。
中には一枚だけ。好い香りのする便箋だけ。それに、ただひとこと
あいたい。
とだけひとこと。だけ、かいてあった。夏珂の字。間違いがないくらい、夏珂からの、ことば。
その場にへたり込んだ茉莉花は、ゆっくりと天を仰ぎ、便箋に顔を埋める。便箋からの好い香りと、窓から吹き込む真夏の風。だけが、茉莉花を二重にも三重にも包み、絡め取る。